08 敵寄りの味方
魔人たちが出かけてから三日目。タリアの寝室のドアはまだ一度も内側から開けられていない。
「――タリア様、お昼をお持ちしました。お好きなものだけでもお召し上がりください」
レイドがドアの内側に食事を載せたトレーを置く。その時に隙間から見える寝室は薄暗く、陰鬱な雰囲気を感じる。
「まだ隅っこで膝を抱えて泣きべそかいてるのか?」
ドアを閉じて、レイドはうんざりした一瞥を向けてきた。
「一体何を知ってるつもりなのやら」
「子供っぽい奴の生態を。昼のメニューは?」
レイドはタリアの食事と同じ献立が載っているトレーをカートから取り出すと、配膳するためテーブルの前で膝を折る時にわざと辛そうな顔をする。
「よっこいしょ。あぁ、失礼しました。仕事が増えたせいで体のあちこちが痛くって」
「僕は今日もソファでよく寝られたよ。それがここに来て以来一番いい出来事だ」
この嫌味の応酬はフローリスにとってほとんど意味がない。そのことに気付いたレイドは無言で滑らかに立ち上がり、他の仕事をしに行った。
とはいえフローリスも、部屋の本来の主が引きこもって三日目ともなると、真っ当な勝利とリビングに居座る権利を手に入れた優越感に浸ってばかりではいられなくなっていた。なにせタリアが縮んでいく様子を目の当たりにしているのだ。自分の立場だけでなく姿までもが勝利と敗北の影響を受ける仕組みは、魔族の生態とはいえ衝撃的だった。
なので、昼下がり、部屋の主の代わりに棚の本を読みながらクッキーをつまもうとした時、見なくなって清々したはずの魔族の顔が頭によぎったので、フローリスは仕方なくソファを降りて寝室のドアの前に向かった。
「……いつまでそこに閉じこもっているつもりなんだ?」
耳を澄ませてみたが、物音は聞こえない。
「僕への用事が全て済んだなら、もう帰してくれてもいいんだが。お前も部屋を取り戻せるだろ?」
返事はない。寝ているのか、返事を遅らせることで『収穫物』を引き止めておく作戦なのかは分からない。しかし、後者だとしたらとんでもない俳優だ。
そこまで考えて、フローリスは自分の考えが馬鹿馬鹿しくなり、ソファに戻ろうとした。
突然、部屋の玄関ドアの向こうで笛の二重奏が始まる。
「……何だ?」
音は美しいが、旋律はでたらめだ。レイドがいれば何事なのか教えてもらうところだが、あいにく休憩時間で部屋にいない。
「――ないで」
微かな声に振り返ると、寝室のドアに隙間が出来ていた。
タリアが囁く。
「開けないで……」
「どうしてそんな小声で――」
暗がりから僅かに覗く姿が口元に指を一本立てる。居留守を使えということらしい。
フローリスは仕方なくソファに戻って外の相手が諦めるのを待った。
だが五分経っても、七分経っても緩急のない退屈な笛の演奏が止む気配はない。我慢の限界が来てもう一度立ち上がった。するとタリアが必死に囁いてくる。
「開けちゃ駄目……!」
「一体なんなんだ?」
答えはない。フローリスはこの意味不明な状況に苛立った。
「僕はお前のように閉じこもって逃げる気はないからな!」
背を向ける直前に見えた、部屋の明かりに照らされたタリアの悲しげな顔が妙に頭に残ったが、とにかくフローリスは玄関ドアを勢いよく開けて来訪者を睨みつけた。
「出てきてやったぞ。さあ要件を言え」
相手は黒髪を高く結い上げて華美な格好をした、同じ年頃に見える魔族の女だった。後ろに連れている二人の人間の横笛奏者は女の手振りでやっと演奏を止め、荒めの息をついている。
人間が出てくるとは思わなかったのか、女は苺のような濃い赤色の瞳を動揺させたが、高飛車そうな顔つきには少しもそれを滲ませなかった。
「あら、ここだったの! 妹の部屋をノックしようにもドアが掃除道具入れと見分けがつかないから、いつも迷ってしまうのよ。人間もたまには役に立つのね」
「記憶力が弱いのか? 僕は要件を言え、と言ったんだ」
女は自分が仕掛けた稚拙な嫌味へ言い返されると、思いっきり顔をしかめて顎を上げた。
「はぁ? 人間の分際で偉そうにしないで。このメルメナ様はあんたに用なんかないのよ。妹に会いに来たんだから、そこをどきなさい」
フローリスは緩慢に道を開けた。メルメナと名乗った王女はドアの前に人間たちを待たせて一人で入室した。
来訪者はリビングをざっと見渡す。ソファ、ベランダ、閉ざされた寝室のドア。どこにもタリアの姿はない。
「出迎えないなんて失礼ね。それにしても相変わらず地味~な部屋だこと。これじゃ男の一人もできたことがないのも当然ね。挙句の果てには人間に乗っ取られちゃうなんて、悲劇を通り越してもう喜劇だわ。ま、それでも人間が住むには贅沢すぎるけど。……で、タリアは一体どこよ?」
フローリスは曖昧に肩を竦めた。
すると、メルメナは突然手を叩いた。テーブルの上で小さくて軽いものがバキバキと一斉に割れる音が立つ。皿の上のクッキーが全て粉々になったのだ。
タリアが以前見せたような、マジカの活性化による現象、魔法だ。メルメナの瞳は輝きの名残で光を帯びていた。
「魔界ではね、人間が反抗したら誰の所有物でも罰していいのよ。タリアごときに勝ったからって調子に乗らないでよね」
「……口止めされている」
所有物、とはっきり侮辱してきたメルメナに嫌悪感を抱いたものの、些細なことで攻撃されるのも馬鹿馬鹿しいので仕方なく対応した。
メルメナは勝ち誇って鼻で笑う。
「偉そうにしてたくせに、都合よく『人間』に戻るのね。まあいいわ」
話を切り上げると、リビングを突っ切って寝室のドアレバーを回そうとした。だが、タリアが内側からつっかえをしたようで開かない。
「はっ、バカな子ね。タリア、開けなさいよ! ここに隠れてるんでしょ? まさか姉を無視するほど落ちぶれたわけ?」
呼びかけに屈したらしく、重いものが床を擦る音がした。メルメナは無遠慮にドアを開けて中へ突入していった。
聞こえてきたのは大笑いだ。
「――あっははははは! なんて……なんてちいちゃいの! それにひどい顔っ!」
少しばたばたと揉み合う気配の後、メルメナは足の生えたガウンの塊を引きずって出てきた。当然それはタリアなのだが、ガウンが剥ぎ取られると、フローリスも子どもにしか見えないその小柄な体格に改めて驚いた。部屋着のシャツとパンツが言うなれば十二分丈になっている。靴はもう、履いていない。
「家門が出来た四十年前より退化しちゃうなんてかわいそー! でも負けを認められなくて塞ぎ込む心の弱さはむしろ可愛いわ! 初めてあんたのこと妹として見てるわよ!」
タリアの泣きはらした痕跡が残る顔がわなわなと歪み始めた。悔しいが言い返す言葉がないようだ。メルメナの苛虐は止まらない。
「いいのよタリア、結婚相手なんて一生いなくていい。わたくしの家門に下りなさいよ、侍女にしてあげるから! 部下も一緒でいいわよ。ま、助けに来てくれない執事と一昨日出かけた魔人どもがまだあんたに愛想を尽かしてなかったら、だけど!」
やっと上げられたタリアの目は、恐怖と絶望に染まっていた。わななく唇がやっと言葉を紡ぐ。
「……か、帰ってくる、もん……」
自分でも信じていないことを言っていることが明らかだった。
すると有頂天だったメルメナの態度が急に冷える。
「あんた、そんなふうじゃ王宮を追い出されるわよ」
「え……?」
「なんにも分かってないのね。魔王様の立場になって考えてみなさいよ。あんたは王位から一番遠い『論外』なんだから、何の役にも立たないんだったら部屋を与えておく意味もないのよ」
タリアは体を刺されたように目を瞠る。
「王家から除名される、ってこともあるかもね」
「…………」
僅かに動いた唇から音は出てこなかった。膝が笑うせいでガウンに包まれた全身が震えている。
そんな小さな妹をまた見下して嘲笑するメルメナ。
状況を静観していたフローリスは、嫌な沈黙に口を挟んだ。
「まあ、下を見て自分の優位性を確認すると少しは自信が湧くものだよな」
声色に嫌味が滲んでいると気付いたメルメナは視線に敵意をこめる。
「なに? 人間風情が語っちゃって」
「分からないか。なら分かるように、より下品に言おう――『最底辺』を見下して上がる格はない。貴様はせいぜい一つ上の『底辺』だ」
「はぁ……?」
受け流しきれなかったらしく、苛立って瞳が爛々としている。フローリスはそれを鼻で笑った。
「また大道芸か? 次は何を割るんだ? 貴様の魔法は人の心を折る役には立たないのか?」
「……この、下等生物っ!」
メルメナが吠えた瞬間、タリアの瞳も光った。
突風がメルメナを開いた傘のように吹き飛ばして玄関ドアに叩きつける。ドアはその衝撃で壊れて倒れ、迷惑な客人を廊下へ排出した。
「うぐぅぅ……!」
メルメナはしたたかに打ち付けた背中の痛みにしばらく悶絶する。起き上がろうとするが、ドレスを膨らませるための骨組みが脚の邪魔になってうまくいかない。
「こ、の……ちょっと、何見てるのよ! 手を貸しなさいっ!」
外に控えていた人間たちは命じられてからやっと魔族の主に駆け寄った。メルメナは二人に抱え上げられて立ち上がると、はっとして周りを見回す。
廊下のドアというドアから覗く女たちの目が嘲笑している。
メルメナは凍ったような顔色で足早に立ち去っていった。
玄関から部屋の中に目を移すと、先程の突風に巻き込まれたのだろう、粉々のクッキーが床にぶちまけられている。この惨状を引き起こした犯人へ振り返ったフローリスは、僅かな希望に縋る濡れた目と目が合った。
「庇ってくれたんだよね……?」
良心が揺さぶられたと同時に苦言を呈さずにはいられなくなった。
「おまえにはれっきとした味方がいるだろう。部下を信じてやらないのは傲慢だぞ」
タリアは一旦言葉に詰まって俯く。
「……きっともう、私のことなんて……。それに話しかけてくれたレイドを無視しちゃったし……」
卑下は、希望に甘えているから生じるのだ、とフローリスは厳しく考えた。
「そこまで言うなら、あの三人は帰ってこない方がいいな。今頃は向こうで捕まって磔にでもされてるかもしれないが」
「なっ……ひどいよぉ!」
顔を上げたタリアを問い詰めて追い打ちをかける。
「だっておまえは部下のことなんか、もうどうでもいいんだろう?」
「よくない!」
朱色の瞳がやっと心の焦点を合わせて、フローリスに怒った。
フローリスの口の端がほんの僅かに上がる。
「だったら、まずは出迎える準備をしたらどうだ? 命を懸けてる部下に敬意を払うんだ。僕をあの女から助けたんだから、そのくらい簡単だろう?」
「い、言われなくても……!」
着替えるために寝室へ戻ろうとしたタリアの背中へもう一言。
「ありがとう」
やっと理解したタリアは赤い顔で振り向いた。
「あれはメルメナ姉様を追い出しただけだからっ!」
叫んだことで少しは元気が戻ったらしく、寝室に駆け込んでいく。
フローリスは静かに、おかしそうに微笑んだ。