13 王の子たち
一方その頃、魔界の王宮ではフォルトナ王城が魔王軍によって攻撃されている噂が早くも広まっていた。
「精鋭部隊だけで城を乗っ取ってるらしいわ」
「そんなことができるなら、もっと早くやっておけばよかったのに」
「人間の協力者ってやつが今まではいなかったんでしょ」
「そういえば、タリア姫のところの人間はフォルトナの王子なんだって!」
「でも今朝、いなくなったって探し回ってたよ」
「つまり……」
翼棟の廊下で盛り上がっている会話を、メルメナが陰で盗み聞きしていた。
髪はいつも通り結い上げてはいるが少々崩れ気味で、顔には不機嫌さが人相としてこびりついてしまっている。以前は堂々としていた姿勢も悪くなり、完全に精彩を欠いていた。
「またタリア。どいつもこいつもタリアタリアってぇ……!」
ぶつぶつ唸っている脇をどこかの家門の侍女たちが通り過ぎる。彼女たちのクスクス笑いはメルメナの耳に入り、劣等感を爆発させた。
「一体何がおかしいのよッ!」
金切り声を上げた後、メルメナは自分の部屋に駆け込んだ。
目に見えるもの全てが煩わしくてしばらく暴れる。
しかしベッド脇のテーブルに置いてある小瓶が視界に入った途端、頭にある案がひらめいた。
「そうだわ。わたくしが人間の城を乗っ取ればいいのよ」
メルメナは小瓶を掴んで蓋を取ると、中身の赤黒い液体を一気に飲み干した。残量は満杯時の三分の二ほどあった。
すると、一日の適量を飲んだ時とは比べ物にならないほど強烈な力が急激に湧き上がってきた。
「おぉぉっ、いい気分だわっ! これは……これは……!」
苺色の瞳が煌々とすると、呼応して部屋の小物から家具まで何もかもが浮き上がる。
メルメナの体もそうなると、ほつれ気味の髪を留めていた髪飾りや皺のついたドレスが白く光って閃光を放った。
「夢みたいだわぁっ!」
高揚感の頂点に達して両腕を広げる。
光が収まると、髪飾りは美しくなびく髪を軽く止めるティアラに、メルメナのドレスは真っ白なノースリーブのものに変わっていた。ドレスの背中は大きく開いており、肩甲骨のあたりから白鳥のような一対の巨大な翼が生えている。
そばに浮いている手鏡に気づき、メルメナは演技じみた仕草を映した。
「まぁ! 女神様? いいえ、わたくしよ!」
それから首を仰け反らせて高らかに笑う。その声は魔法でどんどん大きくなり、部屋の窓を震わせて割った。
ひとしきり声を出し切って顔を正面に戻すと、メルメナは弾かれたように割れた窓から外へ飛んでいった。
無数の物が落下して騒音を立てたきり、部屋は静まり返った。
フォルトナの王都に、不意に太陽光が大きな影を落とす。
その実体が影を縮めながら空の高みから降下してくると、王城で魔王兵との攻防を続けていた王国軍は新手に怯えた。
「魔族の増兵だ!」
それは人と鳥を合わせた姿をしていた。真っ黒な翼はカラスのようだ。
大砲が急いで角度を変え始める。一方、魔王兵たちは不思議がった。
「援軍は来ないはずだが」
鳥型魔人は地上の混乱を飛び越えて王城のバルコニーに近づいた。すると、魔人に取り付いていたらしいもう一人がバルコニーへ飛び移る。
その人物が外套を脱いだ。頭に角がある。魔王兵たちはやはり首をひねった。
「女?」
ブラウスとスカートを着ており、戦える体格ではない者が窓から中へ入っていく。用を済ませた魔人はすぐに城から飛び去った。
増援ではないと分かると、王国軍は再び魔王兵たちに立ち向かった。
ヨーゼフ王が玉座の間に王冠を置き去りにしようとしたその時、場に駆け込んできた者がいた。
シフォン生地のシャツと柄物のベストという格好に緊張感を乱されそうになる。うんざりするような人物――
「兄上、いらしたんですか」
「フローリス! ここで何をしてるんだ!?」
エメレンスは心底驚いていた。剣を持っているが、誰がここにいるのか知っていて来たのではないらしい。
驚いたのはヨーゼフもだった。
「おまえこそ何をしている! 逃げろと言っただろう、エメレンス!」
「で、ですけど、城は皆で帰ってくる場所です。僕も父上と一緒にここを守らないと……」
エメレンスは王冠が玉座に置かれていることに気付いた。
「え? 父上、まさか……国を見捨てるんですか?」
「身も蓋もない言い方だな。魔王軍の腕利きが目の前まで迫ったら、もう選択肢などありはしないのだよ」
「…………でもそれって、『そっち』を選んだ言い訳ですよね?」
エメレンスは泣き出しそうな顔になった。
「やっぱり父上は何も分からないんですね」
「……エメレンス?」
「だったら……もっと反省してください。僕が王になる前にッ!」
抜いた剣を意外なほど洗練された構えで突き出す。
ヨーゼフは逃げ遅れたが、しかし切っ先はもう一本の刀身によって狙いから逸らされた。
フローリスが二人の間に体を割り込ませてエメレンスと対峙する。
「退くんだ、裏切り者! この角無し魔族!」
「どうせ貴方は王になれない」
その一言がエメレンスの感情を掻き立てた。
父譲りの瞳が暗く燃え、母に似た美しい顔が激しく歪む。
「黙れ! 王の息子は僕だけなんだぁッ!」
刀身同士が火花を散らす。
均衡を破ったのはフローリスだった。雄叫びを上げて渾身の力を引き出して押し込み、剣の打ち合いに持ち込んだ。
格の違う太刀筋を前に、エメレンスは防ぐことに手一杯になる。体力を削られた末、絡め取られるように剣を弾かれた。その勢いに耐えられず、自身も床に倒れ込む。
「ぐぅ……!」
フローリスの剣の切っ先が兄へ向いた。ヨーゼフが叫ぶ。
「もう十分だ!」
しかし息子たちは互いを睨み合うばかりだ。ヨーゼフは自分の足元に転がっているエメレンスの剣を見下ろす。
フローリスは暗澹と語りかけた。
「兄上。この国はもう王を必要としなくなるんです。だから兄上は自由になったらどうですか」
「なんだよそれは……力比べで勝ったからって、僕を無視して勝手に決めるな!」
「大事なのは何ができるかであって、誰であるかは関係ないんです」
「それが嫌なんだよぉッ!」
怒り、憎しみ、悲しみ。様々な鋭い感情が心を突き刺してくる。
こんなに壮大なものを、どうして今まで隠しておけたのだろうか。
兄に同情心を抱いたのは初めてだ。
「兄上……あなたをやっと分かりました」
フローリスは彼へ歩み寄り、剣を逆手持ちに握り変えた。
――十七年前、フォルトナ王妃には不貞の噂があった。エメレンスを生んだ二年後のことだ。
恋愛結婚をしたつもりのヨーゼフ王は、怒りに駆られて王妃を責めた。慣れない王城暮らしで疲れ切っていた王妃を追い詰めることになるとも思わず。
ある日、王妃は長い階段から身を投げた。
命は拾ったものの、脚が二度と動かなくなった。
同年、フローリスが生まれると、王妃が階段から落ちた理由が分からなくなった。
本当に不貞をしていたことへの償いだったのか。身の潔白を信じてもらうためだったのか。あるいは……。
どうにせよ無事に生まれた二人目の王子は、幼くしてあらゆる才能を発揮して、国中の注目の的になった。
しかし一方、兄のエメレンスは。
不貞疑惑の騒ぎが起こると、父は近寄りがたい存在となり、母は精神不安定になった。両親に代わって側仕えたちが甲斐甲斐しく世話したが、愛情が貰えなくなったことをなんとなく理解して毎日泣きわめいた。
弟が生まれると、父と母の仲はまるで他人になった。
側仕えたちの仕事が二倍に増えて、兄弟は一緒に育てられた。二人は順調に家族として成長していった、ように見られていた。
フローリスは何もかもがエメレンスより『優れていた』。立ち上がった日も、喋った日もエメレンスより早かったし、勉強や芸術、運動など、何をやらせてもエメレンスより上手くできた。
その差を兄が取り戻す方法はない。
フローリスが大きくなるにつれて父と母の間の氷は解けていったが、そんな都合の良い展開が本当は気に入らなかった。
世界がフローリスを中心に回ることに決まったからだ。
だからエメレンスは自分の世界を作って、それへ没頭していった。誰もが怯み、呆れ、しかし無視できない、極彩色の排他的な表現世界へ――
振り上げた手は下ろされなかった。横から飛び込んできた誰かに体を吹き飛ばされたからだ。しかも、床に転がったところを馬乗りされる。
真っ先に目についたのはブラウスのリボンを持ち上げるふっくらと豊かな胸元だった。それから顔へ目線が上がる。
「……なんでここに?」
「こっちの台詞なんだけど!」
タリアは目尻を釣り上げてフローリスの鎧の胸部を叩く。
「駄目でしょ! 駄目っ!」
「おい、やめろ」
気勢を削がれたフローリスの眉間が狭まる。なおもタリアが続けるので、もう一度口を開こうとしたところへ、雫がこぼれ落ちた。
「あなたはそんなことしちゃ駄目なんだよ」
朱色の瞳が潤んでいる。涙はまぶたに溜まらずに溢れては降ってくる。
フローリスはしばらく呆然と見上げた。
殺気はすっかり霧散した。ヨーゼフは両手で自分の顔を覆う。エメレンスは、乱入してきた魔族から床を這いずって遠ざかろうとした。
「ちょっと……分かったの!?」
涙声でタリアが怒鳴る。フローリスは素直に首を縦に動かした。
「分かった」
「ならいいけど! じゃあもう……次は何するの!?」
「用事はほぼ済んだ。後は――」
突然、地響きが城を揺らした。
さらに甲高い哄笑のようなものが遠くから響いてくる。窓がない玉座の間にすら聞こえるのだからかなりの音量だ。
「こ、こらフローリス、魔界から何を連れてきたんだ!」
先程までの様子はどこへやら、エメレンスは怯えている。
「僕は知りません」
「無責任!」
「……メルメナ姉様の声じゃない?」
タリアが目元を拭って呟いた。
哄笑していた声の主は今は何か喋っているようで、抑揚のある節が聞こえる。注意して聞いてみたフローリスも、言われてみればそうだと思った、が。
「意味が分からないんだが」
突き上げるような衝撃が床から再び伝わってくる。
「行った方がいいかなぁ」
「僕は行かないと。クッキーみたいに城を粉々にされると困る」
「じゃあ私も行く」
二人は渋々立ち上がった。フローリスは王冠と剣を拾い上げて、王冠の方はタリアに渡した。
「預かっててくれ。魔王に渡すまで」
「……フローリスがもらっちゃえば?」
様子を見ていたエメレンスとヨーゼフは、その発言に目を丸くした。さらに、フローリスが不敵に口の端を上げたことにも。
「魔王を裏切れば消し炭にされるだろ。……今は」
タリアは首を傾げたが、フローリスはそれ以上は言わずに進み始めた。
その背中にヨーゼフの声がかかる。
「フローリス、おまえは……」
疑問や心配など、色々なものを混ぜた複雑な表情が、言葉に代わって多くを尋ねる。それに対して、フローリスは先祖譲りと言われた力強い碧眼を向けた。
「平気です。もし死ぬ運命なら、ずっと前にそうなってるはずですから」
そう言い置いて、二人は走っていった。
残されたヨーゼフは、まだ床で腰を抜かしているエメレンスに遠慮がちに手を差し出す。
エメレンスは恐る恐るそれを借りて立ち上がった。だが逃げる手段も、道ももう残されていなかったので、二人は玉座が載っている小さな段に、微妙な距離を開けて腰を下ろす。
「少し話そう」
父が呼びかけて、息子は不安そうな沈黙を返した。
ライム、ガル、セルタの三人の魔人たちは、王城の屋根に降り立つと地上を恐々として見下ろした。
抉れた地面ごと王国軍の隊列がひっくり返される。放たれた砲弾が急に空へ舞い上がり、大砲へ自由落下して来る。城の前の戦いはいつの間にやらそんな調子でめちゃくちゃになっていた。
魔法の主は、突然乱入してきた白いドレスの女だ。女は美しいだけで飛ぶ機能はなさそうな白い翼の代わりに重力を操って浮いているらしい。小回りをきかせて自由自在に動き回る様子はまるで水中のダンスだ。
「誰?」
「恐らく、メルメナ様だ」
「あんな感じだったっけ?」
メルメナは劇的に腕を振るっては魔法をしかけ、攻撃が成功する度に狂喜の高笑いを上げている。
そこへ、城の中からタリアとフローリスが駆け出してきた。
二人は戦場と言うよりは惨状と言った方が似合う現場に絶句する。そこへ、ぼろぼろだが全員揃っている魔王軍精鋭部隊がやってきた。
「おい王子サマ! あんな隠し玉があるなら先に言え!」
「貴様らの差し金じゃないのか?」
「馬鹿言え、我々も攻撃されているんだぞ!」
言うが早いか、魔王兵たちの体が高く浮き上がり、タリアとフローリスの頭上へ移動する。フローリスは咄嗟にタリアの体を引き寄せて脚に力を込めた。
「危ねぇーっ!」
重力のくびきに再び繋がれた魔王兵たちが誰もいない場所に激しく落下する。
タリアはフローリスに抱き寄せられたまま少し地面を転がった。鎧と大地の間で何度か苦しい思いをしたが、王冠は手放さなかった。
「あら、タリアまだいたの。それと、人間」
メルメナの嫌味が降ってくる。フローリスは素早く、タリアは慌てて立ち上がる。
「メルメナ姉様、ここで何してるの?」
「精鋭部隊の手柄を奪いに来たのよ。わたくしが陛下にお褒めの言葉をもらうために」
「火事場泥棒とは、いい根性だな」
輝く目が一際ギラっとする。その瞬間、魔族の本能がタリアに魔法を使わせた。
直後、数倍になった重力がフローリスに伸し掛かる。
「な……!?」
今にも膝から崩れ落ちそうだが、よく見るとフローリスの体の周りに淡い光の粒子がまとわりついている。それはそばにいるタリアから流れてきていた。
「ふーん、それが魔王陛下からもらったマジカね……」
重力が元に戻る。フローリスは片膝を突いて呼吸を整える。
タリアは一歩前へ出た。
「姉様、どうしちゃったの? そんな力があるなら、こんなことする必要ないと思うけど」
「先に結論を出しておいて事情を尋ねるなんて、一体何がしたいのよ」
「確かにおかしいかも。でも、姉様のこと苦手なんだよね」
「……態度が悪いわよ、タリア。あんたは偉くないんだから、大人しく見下されてろ!」
急にメルメナの翼が無数の羽を成長させて、何倍にも大きくなった。周囲の重力が変わり、地面の瓦礫や取り落とされた武具が無差別に浮き上がる。
「あぁ、これよこれ。わたくしの潜在能力が開放されていく! このまま世界の中心に、嵐の目に……!」
言葉が途切れた。目の輝きが点滅し、メルメナの周囲に不穏な赤黒い光の筋が走る。
その光の筋は見る間に稲妻のように激しくなると、メルメナの体を貫き始めた。稲妻が当たったところから羽毛が生えてくる。
「ちょっと! なにこれ! いや……」
もうメルメナが制御できる状態ではないらしい。羽毛はどんどん広がって、顔すら侵食していく。
「こんなの違うぅゥゥッ!」
稲光の中から人の域を外れた絶叫が上がる。
光が収まると、そこには何もいない。空中には。
地面に目を凝らすと、落ちた瓦礫や武具の合間に真っ白な何かが埋もれている。
「メルメナ姉様……?」
タリアが恐る恐る呼びかけてみると、その真っ白なものが蠢いた。
「グワ……」
「ね、姉様?」
タリアは瓦礫の中へ走っていって、真っ白の生き物を胸に抱き上げた。
どう見てもアヒルだ。
「意味が分からないんだが……」
脱力するフローリスへ、よろよろ起き上がった魔王兵たちの中から副隊長が言う。
「マジカの暴走だ。マジカ増強薬を飲みすぎた奴の末路さ。こんな肩透かしを食らったのは初めてだがな」
「……元に戻るのか?」
フローリスは魔界の詳しい事情は置いておくことにして、元魔族のアヒルに目を移す。
副隊長はきっぱり言った。
「無理だ。もうただの鳥だよ」
フローリスもタリアも、ただ哀れみの目をアヒルへ向けるしかなかった。
すると、まだ意思があるかのように、アヒルは首をぷるぷると振ってグワグワ鳴く。
「大声でうるさいのは相変わらずだな」
アヒルは悪口を気に留めなかった。




