10 一生に一度の一つ
『ジュデコレ』発行の熱も冷めやらぬうちに、とある伯爵夫人が主催したダンスパーティが開かれた。伯爵夫人はタリアの既に結婚した何番目かの姉で、参加を希望すると快く許諾してくれたので、タリア家門はこの二、三週間、出席の準備に大忙しだった。
時間はあったが、衣装の最終調整が終わったのは当日の昼下がりだった。出発前にタリアは自分のドレス姿を今一度、鏡に映した。
「大丈夫。……多分」
一級品の布を使った、冴えた朱色の膝下丈のワンピースドレスだ。
袖や切替部分のリボンに宝石のような白いガラス玉が散りばめられているのが可愛らしい。アクセントはそれだけではない。パニエで膨らませて重力に抗わせたスカートのひだに、黒地に白色の水玉模様を刺繍した布がバランスよく挟まれているのが目を引く。
足元は朱色のストラップパンプス、レース柄が描かれた薄いタイツ。手首まで隠れる赤い手袋と、黒いチョーカー、そして頭には金色の星型のチャームが揺れる角飾りを付けている。
縫製が良いこともあり、一見すると、作戦通り低価格ながらそうと見えない品質を実現させている。
成功の種は魔界のタブーであった。赤色は魔界では人気色で、特にパーティなどの前になると需要が高まり価格も高騰する。なので上質な赤色の布を確保するのは難しい。
そこでタリアは裏ルートを使って人間界から輸入した。多くの魔族は人間を見下しているが、中には秘密の取引をしている商人もいる。今まで様々な王族や貴族に仕えてきたレイドはそういう商人とのツテがあった。
お陰で大量に必要な布に割く予算を抑えることができ、その分、デザインに凝ったり、仕立て屋に無理を言ったりすることができたのである。
一方、衣装の飾りやアクセサリーは最初から安く済ませるつもりでいた。ドレスのガラス玉はタリアが集めていたビーズだし、チョーカーは元々持っていたものを調整しただけ。そして角飾りは手作りだ。最後に腕に『毒ぶどう』ことフローリスが作ってくれたブレスレットを通すと衣装は完成する。
自分の支度が終わったので、タリアはドア越しにリビングの方に呼びかけた。
「できたー?」
ややあって、向こうからドアがノックされた。寝室を出たタリアは衣装を着たフローリスに目を奪われた。
タリアに付き添うフローリスには敢えて人間っぽい衣装を着てもらった。魔族が好まないレースやフリル、薄い布地などの『軟弱そうな』素材をふんだんに使用した袖が大きいブラウスと、表が藍色で裏地が色とりどりの花模様であるコートの組み合わせだ。本人は着心地が悪そうにしているが、線が細いためよく似合っている。
「うわー……お人形みたい」
「こっちの台詞だ。それに思いっきり毒々しいな」
「これ、作った人の言うことじゃないよ」
ブレスレットをはめる腕を上げる。大きいので、袖の絞りに重ねるくらいが丁度いい。
するとフローリスもフリルたっぷりの袖をめくって、タリアが作ってあげたブレスレットを見せた。まるで合言葉を返すように。
「弱気になってないよな?」
「えっ? そんなことないよ」
とは言いつつも動揺している。それはフローリスの冷静な目にも明らかだった。
「魔界の常識に真っ向から反することをやるんだ。緊張するのも当たり前だろう」
「うん……」
「でも忘れないでほしいんだが、もしおまえのやり方が魔族たちの反感を買ったら、真っ先に八つ裂きにされかねないのは僕なんだ。だから有事の際はおまえが僕を死ぬ気で守れよ」
「ん? ……分かった」
微妙な顔で頷いた後、タリアはとぼけた調子で言ってみた。
「励ましてくれるのかと思ったのになー……なんて」
意外にも彼は微笑んだ。
「根性と決断力は評価してる。いや……信用してるぞ、僕の『友達』のタリア」
「……!」
胸が熱くなり、タリアは今の言葉の信憑性を確かめようとフローリスを必死に見上げる。その様子が、彼の目にはまるで懐いた子犬のように見えるとも知らず。
なのでフローリスが笑ったことがタリアには衝撃だった。
「えーっ、なんで笑うの!?」
「いや、別に」
「さっきの言葉、冗談なの!?」
「そうじゃない」
レイドが部屋に戻ってきた時、タリアはフローリスに詰め寄っているところだった。兄と妹のじゃれ合いに似ている二人の様子には目を瞠ったが、一呼吸して普段の様子へ戻った。
「タリア様、馬車の準備ができております」
「あ、分かった。っていうか、もうそんな時間!?」
戸棚の置き時計は午後四時に差し掛かっている。パーティの開始時刻まで二時間あるが、主催の姉妹として遅刻はしたくない。
「行こう、フローリス!」
小さな鞄を取って忙しなく部屋を出ていくタリアを、フローリスは慣れない踵の高い靴に気をつけながら追いかけようとする。だが、レイドの脇を通り過ぎようとした時に咳払いが聞こえた。
「おほん。あー、これは独り言なのですが、タリア様に悪い虫が付いてはいけないので、人間にはしっかり気をつけていただきたいですね。まあ独り言であって頼み事ではないのですが」
「ご苦労なことだな」
レイドは全然目を合わせようとしないが、フローリスは少し労りを込めて返答し、部屋を後にした。
パーティ会場は伯爵領の屋敷だ。二人は脚が幽体の馬が引く揺れない馬車で二時間弱かけて到着した。
既に玄関前は参加者の列が出来ている。二人が列の最後尾についたのと、扉が開かれたのはほぼ同時だった。
黄金色の光が雲間から差し込む太陽光のように皆を照らし、迎え入れていく。
中は豪華絢爛で、しかし下品ではない。水晶が分厚く天井を覆っているダンスホールは、壁から飛び出している魔界神話の神々を表現した彫刻も含めて、黄金で出来た洞窟といった趣だ。タリアもフローリスも思わず感嘆した。
「本物の水晶なのか?」
「あんまりきょろきょろしてると世間知らずって笑われちゃうよ」
「そう言っておまえも前を向いてないだろ」
二人は互いを牽制し合いながら列の動きに合わせて進んでいった。
やがて挨拶の順番が来て、伯爵夫人と対面する。タリアの姉のハーミアは先端が前向きに巻いている大きな角を持っており、フローリスの基準では四十代に見えた。
「お久しぶりです、お姉様」
「元気ではあるようね、タリア。ドレスも決まってるわ。そして……」
目を向けられたフローリスは、事前に教えられた魔族式の礼をした。
「フォルトナのヨーゼフ王の二番目の息子、フローリスと申します」
ハーミアは角のない頭と自己紹介に驚いたのも束の間、おかしそうに笑い出した。
「なるほどね。出不精なあなたが珍しくうちに来たかと思ったら、何かをしでかすつもりだったのね」
おそらく見た目年齢以上に生きているはずの女魔族の目が二人を順番に射抜く。全てを見透かすような眼光だ。
結果、ハーミアは頷いた。
「いいわ。可愛い妹のことですもの、大目に見てあげましょう。それと、フローリスさん?」
ハーミアは軽く礼を返した。
「ご挨拶をありがとう。どうぞ楽しんでいってね」
「ご厚意、痛み入ります」
挨拶が無事に終わった二人はホールへ捌けた。
十分に姉から離れたところへ来ると、タリアは詰めていた息を盛大についた。
「あー、緊張した。ハーミア姉様、結婚六十周年の時より角が大きくなってるんだもの」
「追い出されなくて済み、僕は個人でいることを許された。許可制なのは気に食わないが、ここは我慢してやるさ」
「声大きいよっ!」
タリアがささやき声で叫ぶ。そのおかしな様子が目を引いたのか、ホールで歓談していた男女二組が近づいてくる。
「もしかしてタリア?」
「へっ? に、兄様……!」
タリアはそれぞれ女性を連れている男性二人に会釈した。
四人とも人間で言うと二、三十代だが、女性たちの方はタリアへドレスの裾をつまんでお辞儀をした。
「驚いたな。人間を連れてきて姉上に許されるなんてどんな大魔法使いかと思ったら、我らが妹だったとは」
「さっきちょうど噂話を聞いたところだったんだ。でも元気にやっているようだね」
「噂?」
「人間に負けたとか、メルメナと魔法の応酬になったとか、雑多なことさ」
「あ、はい。色々ありました」
タリアは愛想笑いを浮かべ、長くなるであろう説明を省いた。
すると魔王子たちは声を落とす。
「メルメナは今日は来ていないよ。タリアが懲らしめたお陰だな」
「そうなんですか……?」
「正直、メルメナは嫌われ者だ。野心が強いのはいいが、身の程を知らない。これを機に気づいてくれるといいんだが」
兄たちの本心を初めて聞いたタリアは、メルメナのことを哀れに思うと同時に、自分もこの調子で批評されていたのだろうと察して少し嫌になった。
「ところで全然物怖じしないんだね、この角無し君は」
高貴な魔族たちの興味が唯一の人間へ移る。フローリスは揶揄されても動じず、自ら答えた。
「パーティは初めてではありませんので」
かれらは驚いた。
「へぇ、そういう感じか。道理で姉上が面白がっていたわけだ」
「タリアが力比べで負けた人間ってコレかい? しかしこれじゃ、どっちが躾られているのか分からないぞ?」
「えっと、兄様。躾はしてません。この人は――友達です」
数拍、沈黙の帳が降りた。
フローリスが四人へ魔族式の礼を執る。
「フォルトナのヨーゼフ王の二番目の息子、フローリスと申します。どうぞお見知りおきください」
「……人間の王子だと!? タリア、いつの間にこんな……これは素晴らしい成果だぞ!」
途端に兄たちは手放しに小さな妹を褒めた。様子を見守っていた周囲の魔族たちも新しい話題を得て盛り上がる。
一方でタリアは兄たちが『友達』という説明を都合の悪いものとして無視したことを残念だと感じていた。注目を集め、評価されれば当初の目的通りマジカの回復はできるだろう。だが何かが物足りない。
「皆さん、我が妹タリアが大きな功績を上げました。人間の王子を『収穫』したのです! ぜひ、彼女に賛辞を!」
一体感のある拍手がホールを満たす。その中心となったタリアのもとへ、男性たちが次々とやってきた。
「タリア殿下、ぜひ私と踊ってくれませんか? そのご高名にあやかりたいのです」
「私と踊ってください。私はここから西に領地を持つ者です」
「いえいえ、ぜひ私と一曲を。王族の方のおめでたい夕べを、不祥私、ささやかながらお祝いいたします」
「わぁ~……皆さん、ありがとうございます」
引く手あまたなのは嬉しかったが、差し出された手のどれも取りたくない。
そんな自分が不思議だ。名声に便乗されたり、おもねられたりすることは魔族にとっては名誉なことなのに、なぜか居心地の悪さを感じる。
「タリア、皆に応えなければ」
後ろから兄が促してくる。その間にもダンスの申し込みが後を絶たない。王女として選択を迫られているのだ。
逃げられない場面、のはずだった。目の前に彼の背中が割り込んでくるまでは。
「皆さん、ご遠慮ください。タリアは僕と踊りますから」
魔族たちは我が目、我が耳を疑い、数瞬ぽかんとした。
「なっ……なんだお前? お前が、王女様と……何?」
「僕こそがフォルトナの王子フローリス、タリアの友達です。よしんば王女様が今夜あなたと踊ってくれるとしても、王族である僕を差し置いて一番目の相手に選ぶわけがありません。控えてください」
魔族たちの目が一斉に怒りで光る恐るべき光景を、タリアは今までに一度も見たことがない。慌ててフローリスの腕に組み付く。
「あ、あはは! 皆さんごめんなさい! 友達……友達は! 多分はしゃいじゃってるんです、良い夜ですから!」
下がらせようと引っ張ったが、体格差で敵わない。そもそもフローリスに動くつもりがないようだ。すると、体を翻してタリアと向かい合い、空いている方の手を差し出してきた。
「踊ろう」
「……!」
音楽もないのに、なんて指摘は意味がない。
怒る魔族に囲まれて、フローリスは命を懸けた。ならタリアは名声を懸けて、一世一代の勝負に出るべきだろう。
フローリスの手を取り、もう片方の手は腰に添える。目線の高さがかなり違うので、フローリスの片手はタリアの肩に置かれた。
二人が基本的なステップを踏み始める。動く範囲が広がると、魔族たちは押しのけられたように包囲網を緩めていく。
その皆の二人を見る目が、段々と別の意味へと変わる。
身軽なタリアと、リズム感のいいフローリスの踊りがさまになっていたからだ。皆はいつの間にか二人の軽やかな動きに魅了されていった。
一連の様子を離れて窺っていたハーミアが楽団に手振りで合図を送る。
二人のための爽やかな音楽がホールを包む。他の参加者も感化されて踊り始めると、タリアとフローリスの包囲網は完全に散り散りになった。
「ね、次で跳ぶから上げてね!」
「分かったよ」
タリアがスタッカートでジャンプすると、フローリスはその体を誰よりも高く持ち上げた。一瞬、視界が皆の頭上を望む。
「わぁっ! あはは!」
幸せな笑い声だった。フローリスの手を握っていると、タリアは不思議と宙を飛んだり、跳ねたり、回ったりできるのだ。
「フローリス、これ魔法みたい! あははっ! あは……」
突然、足を止めた。
「どうした?」
「なんか……きつくなってきた」
青い顔でお腹を押さえる。
「酔ったのか? 調子に乗ったな」
「そうじゃなくてぇ……」
フローリスは目が回ったのだと思ったようだ。実際は体を締め付けられるせいで気分が悪いのだ。
二人でバルコニーへ出る。そこでタリアはチョーカーを外して靴を脱ぎ捨て、しかもドレスの胴体を絞る背中の編み上げを解き始めた。
「そこまでするのか……?」
「ちょっと手伝って」
「あ、ああ……」
フローリスは困惑しながらも背中へ回る。編み上げが緩んで、やっと深く呼吸できるようになった。
自分のやり方を貫いて見せたお陰だろう。僅かだが、タリアの身体は成長していたのだった。角も少し大きくなっており、片方の角飾りはいつの間にか千切れたらしく消えていた。




