今から数千年前、この地上に小さな文明が幾つも出来た頃だった。今では中国と呼ばれるこの場所にある小さな村に、ある少女が暮らしていた。
彼女は弓と呼ばれていた。弓は領主の娘で、とても大切に育てられていた。位はそう高くはなかったが、領主が彼女を可愛いがるのを見て、人々は姫と呼んでいた。
その村は争いが絶えなかった。男達は皆戦場に駆り出され、帰る者はそう多くはなかった。弓の許嫁の青年も相次ぐ争いの最中に亡くなった。
弓は、争いに向かった人々が少しでも帰って来るように、終わらないこの争いが終わるようにと、毎日祈っていた。
何故弓は祈っていたのか、それは争いの中で散った魂がこの世に留まり、悪さをするのを知っていたからだ。植物は生気を失って枯れ、動物達も元気を亡くして死ぬものも多かった。
それは村の作物や家畜にも影響した。それが原因で人々は貧しくなり、その結果争いは何時までも終わらない。弓は民にそれを伝えたが誰も聞いてはくれなかった。弓は一人で祈っていた。
そんな弓に会いたいという者が現れた。彼は敵地の兵長で、弓と引換に物資を与え、争いを終わらせようと提案した。
領主はそれを断ろうとした。だが、弓は自らを差し出せばこの争いは終わると考え、それに従った。弓はその兵長の妻になり、馬車に乗って故郷から旅立った。
馬車は敵地、ではない何処かへ向かっていた。弓は、てっきり自分は敵地の姫になるものだとばかり思っていた。ところが、兵長の思惑は別にあるらしい。
「魂が行く先を知りたくないか?」
「魂が行く先、ですか?」
「我も魂が視えるのだ。それで、同じ力を持つ君に出会えた。」
「ですが、生きたまま行ける場所なのでしょうか?」
「生きたままそこへ辿り着けないかもしれないが、二人でなら見つけられるかもしれない。そこへ行けたのならば、君が言う彷徨える魂を救う方法が分かるかもしれない。」
弓は、兵長月輪がそう確信を持って言うのを不思議に思った。死んだ魂が行く場所、この世ではない世界、実在するかは分からない。だが、それを信じていかなければ辿り着けないのだ。
二人は何年も旅を続けた。そしてようやくその場所へ繋がる狭間を見つけたのだ。この世界とは異なる世界。未知の草木や生物が暮らす手付かずの場所。川には魂が流れていた。
「ここに二人の国を造ろう。」
現世とは異なる世界、冥界。二人はそこで暮らすようになった。実は、元々神力を持っていた二人は冥界で更なる力に目覚めた。月輪は悪しき魂を裁き、無から有を生じる力を、弓姫は弱き魂を庇い、有を無に帰す力だ。二人はそれを使って流れてきた魂を在るべき場所へ送っていた。月輪は冥府神皇、弓姫は冥府神皇后と名乗るようになった。
二人は、最初は何故自分達にこのような力があるのかと不思議がったが、冥界に元々居た生物の妖や怪は二人の存在を歓迎しているようだった。
そして、産まれた子供達、紅姫、蒼姫、黄姫、緑姫、地姫、氷姫、そして一人息子の日輪。彼らは月輪の仕事を手伝いながら、冥界を現世のように発展させようとそれぞれ尽力していた。冥界と現世は繋がっていて、冥界が発展すれば現世も豊かになると信じていたからだ。
また、現世に赴き、魂を連れて来た。そして、子孫を残す為に月輪達同じ力、神にも干渉しうるという神力を持つ者を探したのだ。
冥界を見つけた二人の代償は、あまりにも大きかった。彼らは生きたまま人間とは異なる存在になり、子供達もそうなってしまった。彼らは冥界とは切り離せなくなり、魂の循環を支える死神として働き続けなければならなくなったのだ。神になったというのは世界の柱になったも同然だ。現世の人間のように自由には生きられない。姫達は子供を産んだが、その子供達も死神として働かなければならないのだ。
月輪に味方してくれたのは子孫達だけではなかった。月輪は、怪が産まれる世界鬼界を封印するととともに力が強い怪達を冥府神霊という部下として連れてきたのだ。彼らも月輪の力になった。
月輪と弓姫の子孫達は、現世の繋がりを持ちながら死神として働いていた。だが、ある時異変が訪れる。それは、今まで結婚していなかった長女の紅姫が神力を持たない陰陽師の風見王蓮と結婚したのだ。二人の間には双子の息子が産まれた。風見華玄と風見幽玄だ。二人は母親と同じように死神としての力を色濃く受け継いでいたが、特に華玄は凄まじい力を持っていた。
華玄はその力を制御出来なかった。暴走した華玄はまず父親の王蓮に手を掛けて死なせてしまった。現世の娘の初姫と結婚し、四人の息子が産まれたが、華玄の力は留まる事を知らなかった。
華玄は特例で現世に暮らしていた幽玄を冥界に堕とし、更には叔父である日輪を殺してしまった。それが月輪の怒りに触れてしまった。月輪は華玄を殺そうとしたが、彼は不死不滅の存在で、死ぬ事が出来なかったのだ。
母親の紅姫は最初は華玄を庇っていた。ところが、跡継ぎを殺された月輪の怒りは増すばかりで、仕方なく月輪に従った。そして、紅姫は華玄と戦ったが、その中で死んでしまった。
そして、華玄は自らの力で自らを封印したが、月輪や死神達が華玄を忌み嫌うのは変わらなかった。華玄を庇ったのは弓姫だけだった。誰もが華玄を大罪人と批判した。
「死神と人間は掛け離れた存在になってしまった。冥界が豊かになろうと、人間は変わらない。今後は許可なく現世に渡航するのを、生きたものと関わるのを禁ずる。特に人間と関わり、結ばれようとするなら重罪だ。もう二度と華玄のような忌子を産ませてはならない。」
死神達はそれに従った。だが、それに逆らった者も最初は少なくなかった。そういう者は追放され、二度と産まれ変われないようになっていた。
「死神は無慈悲で、寡欲でなければならない。」
死神達は長である月輪に逆らえなかった。ただ、弓姫は月輪の考えに疑問を抱いていた。弓姫は、現世に留まる魂を助け、現世を救うべく行動しているのだと思っていた。ところが、月輪は冥界、自分達の世界を守るのに必死になり、元々現世にある魂達を救おうとしたのを忘れてしまった。弓姫は月輪を愛していたが、華玄だけを悪人にするその考えだけはどうしても納得しなかった。
弓姫は、華玄が何故両親や叔父に手を出したのか知りたかった。そこで、弓姫は現世に居る初に会いに行った。冥府の法は弓姫にも通用する。月輪に知られてしまえば、弓姫も処罰されてしまう。だが、そういう危険を冒してでも、華玄の事を知りたかった。
弓姫が冥界に訪れてから、数千年が経っていた。故郷はすっかり変わり果てていた。弓姫は海を渡り、華玄が住んでいた町へ向かった。そこには華玄の妻である初姫が居た。初姫は子供を抱えて一人悲しんでいた。
「夫も親も死んでしまった。末息子は未だ幼いのに…」
弓姫は、冥界では虐げられている華玄の死を誰よりも悲しんでいた。忌子とは言えど、華玄も妻子を持つ一人の男である事に変わりないのだ。
「生きていて一番悲しい事は何でしょうか?」
初姫は答えられなかった。
「私は愛している者と心が通い合えない事だと思います。夫はすっかり変わってしまいました。生きていたとしても、心が通い合えないのは辛いものです。ですが、愛する気持ちは変わりません。」
初姫はしばらく考えてからこう答えた。
「私も、同じ事を思ってました。夫は、華玄は私と子供達を愛していた。人間じゃなかったとしても、その気持ちは偽りではないと信じています。」
初姫は、子供を抱えたまま弓姫を見つめていた。
弓姫は、初姫に華玄について色々と尋ねたが、初姫は何も知らなかった。だが、分かった事が一つだけある。それは、華玄もまた人を愛し愛された存在だったのだ。それだけで今までの罪が帳消しにはならない。だが、弓姫は初姫に華玄の話を聞けて良かったと思った。
しばらくしてから、月輪は華玄と血を分けた双子の弟幽玄の子孫達に、華玄の子孫を見張れと命令した。現世と冥界の行来は厳しく制限されていたが、特例で許可するという。風見と名乗っていた幽玄の子孫達は、剣崎という名を与えられ、現世に降り立った。
それからすぐの事だった。神になってから怪我や病気一つしなかった月輪が、突然体調を崩したのだ。弓姫や部下は変わる変わる看病したが、快方に向かう事はなかった。
「華玄は死んではいなかった…、日輪と同じように、今度は我を殺す気か…」
熱に魘されながら月輪はそう呟いた。弓姫は、そんな月輪の掴んでこう言った。
「月輪様、我々は充分生きました。生き過ぎたくらいです。月輪様があの時私を連れ出していなければ、ここには行けませんでした。」
「弓…、君の力でこの病を消せないか…」
弓姫は首を振った。
「私でもそれは出来ません。ですが、私はあなたと会えて、共に過ごせて幸せでした…。」
月輪は、弓姫が悲しそうに笑うのを見て、穏やかな表情を見せた。
その日の晩、月輪は息を引き取った。後を追うようにその翌日に弓姫も亡くなった。大勢の部下達がそれを悲しみ、二人の為に立派な霊廟が建てられた。冥府はしばらく王が不在になってしまうが、その間も二人を忘れる事はなかった。
弓姫の祈りは誰かに届いたのだろうか。だが、確かな事が一つだけある。それは、二人が冥界を見つけた事で、魂を導く存在が生まれ、以前のように現世のもの達が死んだ魂の影響を受ける事が少なくなったのだ。