188.【トゥールース領】一先ず逃げることにします
村人Aの手の中にある鈍く光る鎌から、アンジュは目が離せなかった。
(怖い、怖すぎる。薬物中毒の村人Aって・・・・・。これは、どうしたらいいわけ?)
村人Aは何かから逃れるように、滅多矢鱈に鎌を振り回していた。
しかしこちらに対して殺意があるのか、ないのか良く解らない。今のところ殺意はアンジュたちに、向いているわけでは無さそうだった。
中毒患者には幻覚や幻聴が聞こえることがあるらしいので、多分今彼にはそれが見えたり聞こえたりしているのだと思う。
急に怒り出したり暴れ出す人もいるらしいので、いつこちらに標的が変わるか解らなかった。
今はトーイの背に隠されているが、いつまでもこのままではいられない。
逃げるにしてもアンジュはもう走るどころか、歩くことも儘ならなかった。
(ほんと役立たずな上に、体力なしでごめんなさい。だって私、か弱い貴族令嬢だし、ね。)
「トーイさん、これからどうしましょうか?」
「そうですね。いくら様子がおかしくても、相手は一般人ですからね。村人Aを勝手に、傷つけるわけにはいかないでしょう」
「確かに、そうですよね」
相手は中毒患者とはいえ、一般人なのだ。危険だからと言って、勝手に傷つけてよいはずがなかった。
出来ればアンジュも、流血沙汰は見たくはない。スプラッターは苦手だった。
「では、そう言うことなら、ここは一先ず逃げましょうか?」
「えっ!ちょっと?」
と言ったかと思うと、アンジュをひょいと抱き上げ、トーイは瞬時に走り出す。
細身のトーイのどこにそんな力を隠していたのかと言うほど、頼りになった。とても速い、本当に速い。
(本当にすごーく速いので、2回言ってみました。時速30キロくらいかな?さすが私の助手兼、お目付け役兼、護衛だものね。最初からこうしてくれていたら、私の足も無事でいられたのに・・・・・。)
などとアンジュは内心、勝手なことを思っていた。
どうせなら足の豆が潰れる前に、こうして欲しかったと思うのはアンジュの我儘だろうか?(だって、足がとっても痛いんだもん。)
まわりの景色が、飛ぶように変わって行く。前世で自転車に乗っているような爽快感だった。
(こんな必殺技を隠しているなんて、トーイっていったい何者?)
トーイのおかげなのか、不思議と怖いとは思わなかった。危機感や悲壮感は、感じていない。
普通の女の子だったら、泣いているところだと思う。
まぁ、こんなところで泣いても、何の役にも立たないけどね。
「この辺で、いいですかね」
トーイの口調ものーんびりしていて、差し迫った危機感は感じなかった。
村人Aが追って来ない距離まで走ると、トーイはあたりを見回し安全を確認するとアンジュを降ろす。
足が地面を感じると、アンジュはホッと詰めていた息を吐き出した。
まだ安心できる状況ではないが、とりあえず村人Aから離れられてよかったと思う。
トーイはアンジュを抱えて走っていたにも関わらず、息も切れていなかった。
「トーイさん、さすがです。鍛えていますねぇ」
「まぁ、これでも姫さんの助手兼、お目付け役兼、護衛ですからね」
などと胸を張り、トーイが何でもないことのように威張って言う。ほんと何者?って、感じだった。
(お父さまが私につけてくれた助手兼、お目付け役兼、護衛ですものね。)
つい見かけや言動に騙されてしまうが、ただ者であるはずがなかった。
それに今はトーイのことよりも、考えなくてはいけないことが沢山ある。
「あの村人Aを見る限り、この花からできる薬物の中毒症状だと思う」
前世で言う、麻薬中毒だと思う。
「この花の中毒症状ですか?」
「うん。この花って、本当は怖い花なのです」
「怖いと言うより、危ない花ですね」
「そうよね。しかもこの量でしょ。中毒症状を発症している人が、村人Aひとりだけとは、考えられないわよね」
これだけの花畑があって、中毒者が一人だけとは考えられなかった。
アンジュもあまり考えたくはないが、ハルワ村長の身にも何かが起こっていると考えられる。
好々爺然とした風貌のハルワ村長は、その見かけ同様、人の良い、気のいいお爺さんだった。曲がったことが嫌いで、身体に良い薬草にも詳しく、誇りをもって薬草作りに励んでいた。
そんなハルワ村長がこの村の薬草畑を、ハカマオニゲシで埋め尽くすとは考えられなかった。
「これって俺たちふたりだけでは、荷が重すぎるのでは?」
「確かに、ねぇ。さて、どうしましょうか?」
辺りを見回すが、やっぱりどこまでも花畑が続いている。
この状況は、大変なことだ。かなり大きな力が動いていると、考えて間違いなかった。
アンジュとトーイの二人だけでは、どうすることもできないと思う。
「姫さん、少し先に道具小屋があります。今はそこに身を潜めて、殿下たちの到着を待ちましょう」
トーイに言われ、アンジュも言われた方向を見るが、何も見えない。道具小屋など、どこにも見えなかった。
「トーイさん、道具小屋に身を隠すのに異論はありませんが、その小屋はいったいどこにあるのでしょうか?」
「姫さん、あれが見えないのですか?体力がない上に、目も悪いのですね」
ほんとに困った子だと言わんばかりに、トーイにふぅっと息を吐かれる。
「目は悪くはなかったはずなんですけど・・・・・・」
(えーっと、本当に見えないのですが・・・・・?トーイは何を見て、話しているわけ?)
「解りました。では連れて行きます」
どうせ姫さんは歩けないでしょうから・・・・・・と、ぽつりとつぶやいたと思うと、今度もいきなりひょいと抱き上げられた。
「うわぁ?」
「しっかり掴まっていてくださいね」
「はい。ご迷惑をおかけします」
体形的にアンジュはそんなに大きくないとはいえ、人ひとりを抱えて走るのは大変だと思う。
とりあえずしっかり掴まっているように言われたので、トーイの首に腕を回し、ギュッと彼の身体にしがみついた。
(きっと、重たいよね。)
申し訳なく見上げたトーイの表情は、たいして重さなど感じていないようで、とても楽し気に見える。苦し気な様子や、無理してアンジュを抱き上げ走っている様には見えなかった。
(なんでこの状況で、楽しそうなわけ?まぁトーイだし、ね。この際、頑張ってもらいましょう。)
楽できてラッキーとは思うが、お姫様抱っこはちょっと恥ずかし過ぎる。
これがテリュースならば、身体中が恥ずかしくて朱に染まっていることだろうが、今はそんなことで恥ずかしがっている場合ではなかった。
(今は逃げることが、先決だった。)
これからいったいどうしたらよいのか解らない。ハルワ村長の安否も気になるが、アンジュにはどうすることも出来ない。
今はトーイの言う通り、一先ずこの場から逃げて、安全なところでテリュースたちが迎えに来てくれるのを待つしかなかった。
読んで戴きありがとうございました。