178.奇跡
テリュース視点です。
「テリィ、飲まないで――――っ!」
切羽詰まった、アンジュの叫び声が響き渡る。
その声は彼女ものとは思えないほどに、擦れて聞き取りにくかった。
しかし時すでに遅し、とても喉が渇いていた私は、勢いよく果実水を飲み干した後だった。
「テリィ――――――っ!嫌―――――ぁ」
再びアンジュの悲痛な声が、響き渡る。
力の抜けた私の手から、空になったコップが、床に落ちて砕け散った。
ガシャ―――――ン!
――――――これは毒?
私は驚きに、目を見開く。
口の中が酷く苦く、喉が焼けるように熱かった。
身体は毒物を吐き出そうとするのか、嘔吐を繰り返す。
どこか傷ついたのかグフッ!と吐瀉物と一緒に血を吐き出した。内臓出血を起こしたのかもしれなかった。
果実水の味が強すぎて何の毒なのか解らなかったが、毒に耐性のあるはずの私にこれほどのダメージを与えるのだから、かなり強い毒のようだった。
息が苦しい。視界が朦朧とする。呼吸困難に意識障害と、毒を飲んだ時特有の症状が襲ってくる。
目の前に立つアンジュの血の気の失せた顔が、私を見つめる。
それが段々遠くなって行くのを、まるでスローモーションのように感じていた。
自分の身体がドサリ!と崩れ落ちる。まるで他人事のように感じた。
「テリィ!」
「どうした?何があった?」
焦ったアンリの問う声が、聞こえた。
「果実水に、・・・・・毒が」
アンジュの答える声は、酷く震えていた。
こんな時に抱きしめてやれないなんて、婚約者としては失格だなと、苦い思いが込み上げる。
震えているアンジュに、大丈夫だと言ってやりたかった。
「コンラット様、マヤアを捕まえて、アンリ兄様、リシャール殿下と、お父様にこのことを・・・・・」
「「解った!」」
震えながらもなんとかコンラットたちに指示を出すアンジュを、可愛いと思う。さすが私の選んだ妃候補だった。
私の方は、限界が近づいているようだった。
(ここで死ぬのか?)
体温が下がっているのか、酷く寒かった。呼吸するだけで胸が苦しく、息が上手くできない。
「殿下、ちょっと苦しいとは思いますが、ミルクを飲んでくださいね」
耳元で、トーイの声がした。
どうせならアンジュの優しい声のほうが、良かったなと思う。
最後に口にするのが、ミルクとは・・・・・・。
「本当はミルクを飲ませてから、飲んだものを吐かせた方がいいのだけど、取りあえずミルクを飲ませて。それから毒が身体中にまわらないように、魔法で止めて欲しいの」
「解りました。やってみます」
間を置かずして、口の中に冷たいミルクが流れ込んで来る。
これを飲めと言うことなのかと、かなりの無理をしてミルクを嚥下した。
次にトーイの手が私の胸に当てられ、魔力流れ込んできた。
毒が身体中に回らないように、魔力で止めているみたいだった。
もう意識を、保っていられない。私の意識は、ブラックアウトした。
(アンジュ、ごめん。悲しませて・・・・・・)
◇◆◇◆◇
―――――お願い、テリィ、解毒剤を飲んで。
どこか遠くで、アンジュの声が聞こえた。
柔らかな何かが、私の口を塞ぐ。
この柔らかなものは何だろう?と考える間もなく、液体のようなものが流れ込んできた。
(これを飲むのか?解毒剤?)
アンジュの声が、何度も飲んでと繰り返すので、私は動かない喉を動かして、なんとか液体を嚥下した。
「・・・・・・ゴクッ」
味などまるで、解らなかった。
ただ液体を飲んだ瞬間、暖かな光に包まれているような感じがした。
次の瞬間キタ――――――――っ!と言う感じに、身体に生気が戻って来るのが自分でも解った。
冷たかった身体に、体温が戻って来る。
「・・・・・テリィ、テリィ、お願い、目を覚まして!」
アンジュの祈るような声が、私の名を呼んでいた。
瞼がとても重くて、目を開けることができない。抵抗する瞼を何とかして目を開くと、視界がぼやけてはっきり見えなかった。
何度か瞬きを繰り返し彷徨っていた私の瞳が、心配そうに見つめる美しいアンジュの緑の瞳を捕える。
再びアンジュの元に戻って来れて、私は嬉しかった。自然と笑みが浮かんだ。
「・・・・・アンジュ」
声に出して呼ぶと、毒のせいか私の声は酷く擦れていた。
アンジュの目からすべらかな頬を伝って、つ――――ぅと綺麗な涙が零れ落ちた。
「・・・・・テリィ。よかった」
美しい涙だった。
アンジュの心からの声に、私も頷く。この場に戻って来れて、本当に良かったと思う。
「・・・・・姫さん。そろそろ、俺のことも思い出して欲しいのですが」
せっかく良いムードだったのに、トーイの情けない声がに割って入ってきた。
意識が途切れる前に、私の身体に毒が回らないように、トーイが魔法で止めてくれていたことをすっかり忘れていた。
すっかり二人の世界で、トーイがこの場にいることさえ忘れていた。
「わぁ、ごめんなさい。もう大丈夫です」
「よかったです。もう目の前で熱烈なキスを始められた時は、俺どうしょうかと思いましたよ」
「熱烈なキスって・・・・・」
(・・・・・・熱烈なキス?)
もしかして私の口を塞いでいたあの柔らかな何かが、アンジュの口唇だったのか?
あれはアンジュからの、キスだった?
ほとんど意識がなかったことが、とても残念だった。
(だって私とアンジュの、ファーストキスだよ。勿体ないよね。)
「いえいえ、とても色気満載で、独り身の俺には刺激が強すぎでした」
「い、色気満載って?」
色気満載とまで言われて、アンジュは羞恥で全身が真っ赤に染まっていた。
そんな色気満載で刺激的なアンジュを、私も見たかったと思う。
しかし今は、アンジュをこの状況から助け出すことの方が、先決だった。
「トーイ、私からも謝る。すまないがそれ以上、アンジュを虐めないでくれないか」
身体は、凄いスピードで回復していた。
すでに毒の影響はどこにも、残っていなかった。
(本当に凄い効果の、解毒剤だった。)
私は自力で身体を起こし、羞恥に染まるアンジュを隠すように抱きしめる。
腕の中でアンジュが、ほーっと安堵の息を吐き出すのが解った。
私はさらに力を込め、アンジュを抱きしめる。
今はこの腕の中の温もりを、感じていたかった。
――――――今、生きている。
しかし、二人だけの甘い時間は、長くは続かないようで・・・・・。
突然、薬草園の扉が開き、リシャール殿下とクロード、アンリが駆けこんで来た。
「殿下!アンジュ!」
「毒を飲まされたと、聞いたのだが?」
リシャール殿下が、テリュースの容態を確認する。
すでに私には毒の後遺症もなく、毒を飲まされたことを知らなければ、いつもと変わりなかった。
「はい。もう少しであの世行きでしたよ。アンジュが解毒剤を作って飲ませてくれなければどうなっていたことか」
「そうそう、それはもう熱烈でした」
「その、熱烈とは?」
本当にアンジュの解毒剤ができなければ、私の命はあの時点で終わっていた。
この奇跡を起こしてくれたアンジュには、感謝しかなかった。
トーイがいらぬことを言うので、アンジュはどう返事していいのか解らないようで、目が泳いでいた。
「大丈夫、なのだな」
「はい。アンジュのおかげで、毒は解毒されました」
「そうか。それでことの真相は解っているのか?」
「今、コンラット様に、私たちに果実水を用意した侍女のマヤアを追ってもらっています」
「侍女のマヤアだと?」
「お父様、侍女のマヤアを、ご存じですか?」
「私の記憶が確かなら、スザンナ様の腹違いの妹の名前が、マヤアだったはずだ」
「スザンナ様の・・・・・・」
どうやら今回も、第2夫人のスザンナが関わっているようだった。
マークといいスザンナと言い、本当にろくな事をしない。
実力で勝負するのでなく、相手を消そうとする。
そのせいで今回、アンジュは1年間領地に隠れなければいけないだと思うと、腹立たしかった。
「アンジュ!」
私の腕の中にいたアンジュの身体から、ガクリと力が抜ける。
どうやら意識を、失ってしまったようだった。
自分も少量とは言え毒を口にした上に、私の為に短時間で解毒剤を作ってくれたのだ。とても大変だったと思う。
(ありがとう、アンジュ。私を助けてくれて。奇跡を起こしてくれて。)
アンジュには、今はゆっくり休んで欲しかった。
読んで戴きありがとうございました。