エピローグ 僅かに変わった世界と残された約束
「さぁ準備は出来たかい?」
葵はすらっと長いその背丈のままに腰に手を当て、僕に声を掛ける。
白いシャツと藍色のジーパン。
ラフな格好なのにも関わらず、こうスタイルが良くては様になるものだ。
眉目秀麗という言葉は彼のためにあるかのように整えられたその完璧な笑みは、
この世のものでは無いと思ってしまう。
さぞかし女性にモテるだろうな。と思うのだけど彼は女性が好きでは無い。
やはり世界は上手くは出来てはいないものだとため息が出る。
久しぶりに会ったのにも関わらず、彼だけ時間が止まっているかのようにも思えた。
「ちょっと待ってくれ、しかしまだここに住んでいたんだな。」
昨夜、東京から福岡へと到着した僕は彼の家に泊めてもらった。
10年前、僅かな時間三人で暮らしたその部屋に。
無機質で何の飾り気も無いだだっ広い部屋に大きなピアノが置かれている。
そしてその隅にあった彼女の荷物は何処かに片付けられていた。
それでも此処はあの日の空気を微塵も澱ませ無いままに存在している。
僕はやっとの事で身支度を終えて、彼と共に玄関のドアを開けた。
彼女の墓参りに行くために。
10年前に僕らの住む世界からはみ出してしまい姿形を消してしまった近江沙耶香の街に、あの夜へと逆行する旅に出るのだ。
週末を迎えた博多駅は随分と人が多い。
よくもまぁ普段はどこにいるんだろうか。
僕は人混みを避けながら辟易をして歩く。そんな姿を見て葵は薄く薄弱とした笑みを浮かべる。
「なんだか君は昔と全く変わら無いね。ほっとした」
「葵だってそうだろう。まぁお互い住む場所は随分と変わってしまったけれどな。」
だね。と葵は答える。
この10年、僕らを取り巻く世界は随分と変わってしまった。
排他されていた同性愛者である葵は、沙耶香との日々をキッカケにそれを隠すのを辞めた。
最初の頃は風当たりは強かったらしい。
だけどもそれは葵だけではなく、世界はいつかその事に寛容となり、今やファッション界の気鋭のデザイナーであるから可笑しいものだ。
御都合主義の世界は何とも狂っている。それはきっと今も昔も同じだ。
彼の作る世界はゴシック調のロリヰタファッションであるのもきっとあの日々の性なのだろう。
そして僕は今では文章を書いている。小説家とはとてもじゃないが名乗れない。
だけども何とか食いつなげる程の仕事は出来ていた。
自分の描きたい世界では無いのだけれど。
それでもまだ僕たちはこの世界を生きている。
あの頃には考えられなかった、僅かに寛容に変わってしまった世界の中で生きていた。
何とか新幹線に乗り込むとすぐに僕らは座席に着いた。
今やあの街まで2時間と経たずに着いてしまう。
あの時間も距離も、その間の物語も全てが収束していつかは無くなってしまうのでは無いかとも思う。
「綺麗な車内だねぇ。グリーン車みたいだ。」
「確かにそうだな。足が伸ばせるのは良いものだ。」
子供のようにはしゃぐ葵を横目に僕は大きく伸びをする。
そして視線の端には真っ黒の夜を切り取ったかの様な、ロリヰタファッションに身を包む沙耶香の姿がぼんやりと浮かぶ。
何も知ら無い僕らは何時間も電車に揺られて、街から逃げ出した。
今ではもっと上手に逃げ出せられるのだけど。
そう考えて見て、きっと僕だけあの夜の中に取り残されているのだと感じずには居られなかった。
「こうやって沙耶香ちゃんともウチまで来たんだね。」
葵がそう口を開き僕の顔を見ている。真っ直ぐと見られていると同性の僕でも目を逸らしてしまう。
「そうだよ。なんとも間抜けな逃避行だったけど。それでも必死だったな。」
あの夜、お互いを閉じ込める街から逃げ出すために、半ば勢いではあったのだけれど、それだけ僕らは必死だった。
自分を肯定するのは自分しか居ないから、他者を遠ざける事でしか身を守る事が出来ない。
大人と子供の丁度中間で、僕らは漂いそして生きていた。
かといって今も自分が大人になってしまったとは思わない。
ちょっとだけ世界が好きになったくらいだ。
それほど僕らを包む世界はゆっくりと変わっている。残酷な程にゆっくりと。
葵と他愛もない近況報告を行いながら、新幹線はこの世界と同じくらいの速度で彼女の街へと向かう。
そして僕らは新幹線から在来線へと乗り換えて、あの夜の駅へと辿り着く。
「なんにも変わってないな。多少は綺麗になってはいるが」
「見た目はいい街だね。だけどもやっぱり俺は好きにはなれないな。」
「先入観の性だな。」
「そりゃそうだろう。それを認められるほど俺はまだ大人じゃない。」
僕もだよ。とそう返す。あの夜、煙草の煙を中空へと只々霧散させていた場所にはもう灰皿が無い。
そしてそこに立ってみると自分がまだ微塵も成長していない。そんな気分にもなる。
目の前に広がる巨大なロータリーは僅かばかりに綺麗になっている。
だけどもこの街を包む空気は何も変わっていない。
それを眺める僕らの気持ちもだ。
だからこそ僕らは今日ここに来たのかもしれない。
僕らを取り巻く世界と打って変わって、情けないほどに僕らの世界はこれっぽっちも変わっていない。
この街の墓地は小高い丘の上にある。
まぁ墓地というものは元来そんなものだから、場所の検討はついていた。
僕らはタクシーで近くまで行き、そこからは歩く事にした。
空は驚くほど住んでいて、その本来の蒼さまで透けている。
彼女が命を絶った朝もこんな感じだったのかな。
青空を見る度に思考はそこに戻っていく。
人は人の死をそんなに容易く受け入れられない。
その為に人を埋葬するには葬儀という壮大な手順が必要な程だ。
しかし死という事実を確認するだけで、それを容易く容認は出来ない。
思い出があるからだ。
「ねぇ。沙耶香ちゃんと買い物に行くとね。いつも君の話をしてたんだよ。」
葵は坂を登りながら額に浮かぶ汗をシャツの端で拭いながらそう言った。
「それは初耳だな。というかいつも何を話してたんだ?人が必死に働いている時に」
「お金だったら幾らでもあるから、気にしなくて良いって言ったじゃん」
「親友と言えど他人のお金を使い続けらる程、無神経では無い。」
「そういう所が頑固なんだよねぇ。良い所ではあるんだけど」
葵は振り向きながらそう答える。その柔らかい瞳はきっと沙耶香の死をずっと前に乗り越えたのだろう。僕よりもずっと前に。過去に囚われているのはきっと今も尚僕だけなのだろう。
「それで何の話してたんだ?」
「君が好きな作品とか、君と出会った夜の事、他にも色々」
「そんなに話した気はしないけれどなぁ。そうなんだな。」
この後に及んで、彼女の知らない姿が見えてくるのは何だか可笑しかった。
そう言えば彼女の成り立ちは聞いたけれど、彼女の事は余り知らなかったように思える。
それが疑問に思えないほど僕らは同じように物事を考えていたからかもしれない。
唯一の違いは彼女は彼女らしく最後の最期までしっかりと生きた。
僕だけはずっと生きもせず、死にもせずにこの世界を漂っている。
「本当に君は変わらないねぇ。それが君の良い所でもあるけれど」
「それは葵のいう通りかもな。結局僕はあの夜をグルグルと堂々巡りの儘に生きているよ」
「そんな事だったら、沙耶香ちゃんは笑っちゃうね」
「笑い声が聞けるならそれで良いよ」
その言葉に葵は目を伏せて悲しそうに唇を歪ませる。多分今の掃いて捨てた言葉が本心なんだろうとは思う。
もう手に入らない失った物をずっと欲している。
どんな形であろうと。欲している。
「ねぇ。俺たち付き合おうか」
葵は虚像のような笑顔の儘にそう口走る。呆気にとられて僕は目を広げ太陽に光に目が眩む。
「嬉しい申し出だけど、僕はヘテロセクシャルなんだ」
「それ昔も聞いたなぁ。やっぱダメか。まぁでも沙耶香ちゃんにはこれで言い訳が立つかな?どうしようもなくコテンパンに振られてしまったから仕様が無いって」
「どういう事だ?」
「前に沙耶香ちゃんと約束したんだよ。というかお願いかな?いつか私が居なくなったらあの人はダメになるから付き合って上げてって。葵さんに告白されて振るような人類は居ないって」
「それは随分と彼女らしい申し出だけど、それって僕が随分と悪い風にはならないか?」
随分と悪い!と葵は何か吹っ切れたかのように大きく手を広げた。その背にうっすらと逆光線に照らされた黄金にも見える白い羽が見えて、彼が僅かに浮かんで見えた。
「ともかく約束は果たしたけど、やっぱり腑に落ちないなぁ。これでも俺は異性や同性に関わらずモテるんだけどなぁ。そのままじゃ君は一生独り身だよ?」
「そりゃ結構な事で。」
楽しげに笑みを浮かべたまま葵は僕にそう語る。全く、と僕はポケットから形を崩したタバコを取り出し火を点ける。約束か、僕も彼女との約束は一つ有るな。
僕にはもう夢も目標なんてものは無い。きっと僕を生かしているのはその約束なんだろう。
今更ながらそんな事に気が着いた。そして思考はいつもの様に昔のあの部屋へと引き摺られていく。
「ねぇ 大人に成ったら私達どうなっていると思う?」
沙耶香がそんな事を口に出したのは、ある昼下がりの事だった。
遅めのランチを作るためにキッチンでトマトを刻んでいた僕に彼女はそう尋ねた。
「どうもこうも年齢的にはもう大人だよ。」
そう答える僕に彼女は目を細め、至極下らないものを見る様な眼差しのまま腕を組む。
「あなたってそう言う所があるわね。真面目に答えてよ。分かってるでしょ?」
温めたフライパンに刻んだトマトを入れ、煮詰めている僕は一度ため息をつく。
「年齢ではなく、大人になるっている事柄・・・というかこれからの事だろう?」
「ちゃんと分かっているじゃない。あなたはちっとも変わらないのね。」
「君は随分と変わったよなぁ。そうだな。僕の性格からすると何もかも諦めて、社会に揉まれているかもしれないな。」
「あら。随分と下らない未来を描いているのね。もうちょっと楽しい未来は無いの?」
そうだなぁ。と僕は煮詰まるトマトに茹で上がったパスタを絡めながら、空想を巡らせてみた。
「僕らは三人で本屋を開く。それも普通の本屋ではない。自費出版の作品を沢山取り扱うんだ。そこにはきっと僕らの様な人も多く訪れるだろうね。」
「あら?どうして?」
「そう言う人ほど自分の物語を書きたがるものだよ。なら本ではなくて自費の楽曲なんかも取り扱おうか。自分の言葉に出せない事を何かに任せる。そういうもんさ」
「ふふ。面白そうね。ならそこでは私は何をしているのかしら?」
「そうだな。君は接客は苦手そうだけど、経理や経営には向いていそうだ。マネージメントをやってもらおう。そして葵はまぁ見た目は良いからレジ打ちでもやってもらおうか。」
酷い言い様ね。と沙耶香は可笑しそうにクスクスと指を口に当てて笑っている。さらに食事を盛り付けながらどうしようもなく幸せな気分だと思った。
「それで貴方はどうするの?」
「そうだなぁ。なら僕は君らの苦手な営業をしつつ、細々と自分の作品を書いて並べるかな。」
「それならまず私の、いえ・・・私達のお話を書いてよ。旅立つ所なんて随分と詩的だし、そしてこれから起こる楽しい日々の話も」
「それは良いね。しかし僕に書けるかな」
きっと書けるわ。沙耶香はそう言うと、
「楽しみね。ちゃんと私が活躍するお話を書いてよ?」
「それはこれからの君次第だね。さぁ食事にしよう。」
はーい!と沙耶香は一足早く食卓に着く。そして、葵はどこに行ったんだ?なんてどうでも良い会話をしながらその日は夜へと近付いていった。
そしてしばらくして沙耶香は姿を消した。楽しい話の続きは、とんだ悲劇として幕を降ろす事に成るだなんて、その時の僕らは微塵も感じていなかったのだ。
そんな何気ない、吹いては飛んでしようもない約束が、きっと僕をまだこの世界に繋ぎ止めている。
その結末は随分と早く訪れてしまったけれど、まだ僕は彼女の話を書けてはいない。
吸う事もなく灰になったタバコは照らされて熱を持った地面へと落ちた。
「どうしたの?また随分と深く考え込んで」
「いや。悪い。そして墓参りはやっぱりまた次の機会にしようか」
僕がそう言うと葵は大きな目を更に大きく丸めたものの、すぐに柔らかい笑みを作った。
「何か約束を思い出したの?」
「思い出したんじゃなくて、果たそうと決めただけだよ」
ふーん。と葵は腕を組んで笑みを崩さずに、戯けながら肩を落として見せた。
「しっかし俺は散々な日になったなー。振られるわ、目的を果たさずに帰路につく事になって」
「まぁそれに関しては弁明の余地は無いなぁ。なにか夕食を奢るよ。」
「それだけじゃ足りないなー。直ぐに良い作品を書いてもらわないと」
その言葉を聞いて僕はギクリと肩を震わせる。
「知ってたのか?」
「言ったでしょ?君の事は何でも話してたって。どんな作品になるのかしら?って楽しみにしてたよ。」
いつになっても彼女の手の平の上だな、と僕は苦笑する。
「なら取材がてらこの街を見て行こうか。美味しいものも多少はあるはずだからさ」
「もちろんそれも奢りだね。」
と楽し気に歩き出した葵の後ろに僕は続く。
決して大人には成れた気はしないが、それでも過去に目を向ける事くらいは出来そうだ。
そしてそれが書き終わった時に自分は何か変わる事が出来るのだろうか。
それは書き終わらなければ分からない。
「ねぇ!書く内容は決まったの?」
葵は振り向けながらそう僕に叫ぶ。僕は一度首を振り、
「題名ならば決まっているよ。多分ずっと昔から」
「それを教えてくれたら今回の事はチャラにしてあげるよ」
僕は一度首を振り、そしてこう答える。
「このお話の題名は・・・『反社会的少女』だよ」
どうだろう?と問う僕に葵は良いねと答えた。
僕は空を見上げる。あの夜とは違い青空が何処まででも続いている。
その先が何処まで有るのかは分からない。
だけどもその先のお話はずっとその先にあるのだ。
ゆったりと続く坂道を下りながら、墓参りはその後だな。
彼女と僕の話が終わってから来よう。
僕は旅の終わりに、そんな事を考えた。
『反社会的少女 完』