第五幕 月夜のピアノと束の間の日々
~あらすじ~
あの日の夜、僕とロリヰタファッションに身を包んだ少女は街を捨てた。
そして辿り着いた場所で数少ない友人の家に転がり込む。
僕たちと同じ様に友人もまたこの世に上手く馴染む事ができない。
それでも僕たちは不思議と心地良く束の間の時間を楽しむことにしたんだ。
「ごめん 最近少し寝不足でさ、ちょっと疲れていたんだよ。だから忘れてくれ。」
葵は苦笑しながらそう言い、僕もまた苦笑しながら わかったよ と答えた。
僕は葵の涙の理由を、なんとなくわかったような気がした。
僕らは常識を嫌い、世間で一般的とされる考え方をすることができない。
それは青春時代に多大に影響された作品による所が大きいとは思うのだが、おかげで僕らは周囲との摩擦を起こさずにはいられなかった。
そんな中で、僕と葵との最大の違いは、僕は自分にも他人にも平然と嘘をつくことが出来て、葵はそれができないことだろう。
僕らの考え方や物事に対する姿勢は周囲の反感を買ったり、たびたび嘲笑の的となった。
そんな中で自分をごまかすことができない葵にとっては、この社会を生きることが死ぬほどの苦痛であり、ただ過ぎる日々の中でよほど神経をすり減らしてきたのだろう。
僕がフライパンから顔をあげると、葵は僕の前で涙を流したのがよほど恥ずかしかったのか、少し照れくさそうにうつむき、落ち着かないのか手を組んだり話したりしてなんだかソワソワしていた。
どことなく可愛らしい仕草を見て、僕は何だか笑いが込み上げた。
「取り敢えず早く食べたいのなら僕の手伝いをしてくれるとうれしいけど?」
僕がそう言うと葵は嬉しそうにうなずいて、僕の代わりにフライパンを手に取った。
僕は料理の合間に窮屈なコートを脱ぎ、葵からできるだけ身軽な格好になるよう服を借りた。
葵の服は僕よりも少し小さかったものの、それに着替えてしまうと気が抜けたのか楽になった気がした。
どうにか料理は完成し、それを盛り付けリビングへ持っていくと、紗耶香は退屈そうに腕を組みながら積み上げられた本のページをめくっていた。
「飯できたけど食べるか?」
僕がそういうと沙耶香は 食べる と一言言った後、本を元の場所に戻してテーブルの前にちょこんと座った。
僕らが調理している間にいつの間にか着替えたのか、紗耶香もまたジーパンに不自然なまでに長い袖の服と、ラフな格好に着替えていた。
そしてその長い髪を後ろで一つにまとめており、まるで別人みたいだなと思う。
「あれ? いつの間に着替えたの? さっきのロリヰタファッションも良かったけどそれもすごく可愛いね」
葵は明るい声で基本的な日本人である僕には、決して言うことのできないであろうセリフを易々と言ってのけた。
紗耶香はその言葉に対して少し照れくさそうにうつむき ありがとう と言った。
食卓にはさっき作ったパスタとリゾットと共にサンマやイワシ、焼き鳥の缶詰が並べられており極めて異色なコンビネーションを発揮している。
「なんというか、食べ合わせが悪そうね」
その食卓を見ながら紗耶香は少し目を丸くした後に少し可笑しそうに言った。
「まぁ 酒とつまみと本しか存在しないこの部屋で料理にありつくことができたんだから、それだけでも奇跡だと考えないと」
僕がそう言うと葵は待ち切れなかったのかパスタを両頬に頬張りながら 失礼だな と僕を非難した。
「これってあんた達が作ったの?」
「正確には彼一人がだけどね」
葵はサンマを突き刺したままのフォークで僕を指した。
「なんだかこれだけ料理が出来る男ってのも悲しいもんだね」
紗耶香はリゾットを自分のさらに取り分けながら、からかうように僕にそういい、
それに便乗するかのように、そうだそうだ と笑いながら言った。
「うるさいヤツらだな。 毒でも仕込むべきだったよ」
僕が彼らに対してささやかながら非難を浴びせると二人は声をあげて笑った。
僕もまた楽しそうな二人を見て自然を笑ってしまう。
僕はこの日、ここ何年か味わったことのないほどの賑やかな食事を味わうことができた
バイト先の友人や学生同士では騒がしいだけで、楽しいどころかむしろ居心地が悪い位だったのに、気を使わない友人と食事をするだけでこんなにも違うのかと僕は何だか驚いてしまっていた。
紗耶香はさすがにアルコールはダメなようで、僕らが葵の部屋にあったビールやワインをまるで水のようにがぶがぶと飲む姿を、不思議そうに眺めていた。
「そんなの飲んでおいしいの?」
そう尋ねる沙耶香に僕らは酒の美味しさについて必死に説明をしたのだが、紗耶香は一向に理解することはなく、僕らはそのうち説明することを諦めた。
床には浴び正しいほどのビールの空き缶や空になったワインの瓶が並び、あまりお酒に強い方ではない葵はまるで猫のように丸まりながら、床の上でかわいらしい寝息を立て始めた。
今後の葵のために作りためておいたはずの料理は、いつの間にか底をつき積み重なった缶詰もそれはすごい量になっていた。
男であるはずの僕らはともかく紗耶香もまたよく食べた。
「昼食の時も言ったけれども君を見ていると、女の子が少食だということがまるで都市伝説のように思えてくるよ」
僕がそう言うと紗耶香は
「みんな人前では食べないだけよ」
ときっぱりと言いきった。
葵が寝息を立て始めてからこの部屋には僕と沙耶香、二人きりになってしまい、いつしか会話もなくなってしまっていた。
紗耶香はまた積み重なった本から一冊引き抜いてページをめくりだし、僕は辺りに散乱しているいろいろなごみの片づけを退屈しのぎにやっていた。
その沈黙がしばらく続いた後、本格的に退屈になったのか、読みかけの本を床に置き、帆頬を手で支えながら紗耶香が口を開いた
「ねぇ 葵さんはホモセクシャルなんだよね?」
紗耶香の突拍子もないセリフに、僕は持っていた皿を思わず床に落としてしまいそうになった。
「なんで・・・わかったの?」
「なんとなくよ。 それに今のあんたのセリフで確信したわ」
そう言うと沙耶香は悪戯っぽい表情で舌をチロっとだした。そして沙耶香は続けて
「そんなことは問題じゃないんだけど、それよりも気になるのが、アンタと葵さんが恋人同士かそうじゃないのかなんだよね」
そう言った沙耶香はさっきの退屈そうな表情から一変して今度は目を輝かせていた。
僕はそんな紗耶香を呆れつつ眺めながら、どうして世の大多数の女性がこんなにも人の恋愛に興味をいだくのか?という疑問を抱かずにはいられなかった。
「残念ながら僕は純然たるヘテロセクシャルだからね。それをあいつも理解しているし、そう言う関係にはならないと思うよ」
「そっか・・・つまらないな」
紗耶香は本当につまらなそうに口を尖らせながらそう言った。
「もし僕らが付き合っていたとしたら君はどうするつもりだったんだい?」
僕が興味本位で尋ねてみると沙耶香はいたってまともな表情で
「もちろん今すぐにでも出ていくつもりだった。 だって恋人同士の再会を邪魔する気にはなれないもの」
そう紗耶香はきっぱりと言ってのけた。
なんともまぁ変なところで気を使うやつだと僕は思わず苦笑してしまった。
「まぁ なんというか葵の前ではそんな遠慮とかはしないようにな」
「どうして?」
紗耶香は首をかしげた。
「わかるとは思うけど、あいつは同情とか気を使われるのをものすごく嫌がるからね」
「わかったわ」
紗耶香はそう言って一度うなずいた。
その後僕らは取り留めのない世間話をしていたが、僕にも酔いが回ってきたのか段々と瞼がどうしようもなく重くなってきた。
「悪いけどもう僕は寝るよ。沙耶香はどうする?」
僕はあまりの眠気なのか紗耶香を呼び捨てで読んでいたが、紗耶香はそんなのを気にすることなく、
「そう 私はまだ起きておくわ。 おやすみ」
紗耶香はいかにも眠そうにしている僕がおかしいのか、クスクス笑いながら手をヒラヒラと振りながらそう言った。
「おやすみ」
僕はかろうじてその一言だけ言い、その後ぷっつりと意識を失ってしまった。
その時に感じたのはいつだったか覚えていないほど昔に味わった、妙な温かさと心地よさだったことを僕はよく覚えている。
その日の夜中、僕はどこからか流れるピアノの音で目を覚ました。
静かに部屋の中を流れるその音は、まるでこれが夢の中だと思えるほど幻想的で、そして不思議な幸福を感じさせた。
僕が目をこすりながら時計を見てみると、まださっき眠りについた時から二時間ほどしかたっていないことに驚いた。
電車の中で眠っていたからか不思議とさっきまで感じていた強い眠気は不思議と消えてなくなっていた。
薄い青色をした月の部屋に部屋は包まれており、それは今が深夜だとは思えないほどに部屋の中をやさしく照らしている。
僕は起き上がって誰がピアノを弾いているのか確認するため部屋の隅を向くと、そこには黒く大きいピアノの前に座る紗耶香の姿があった。
青白い光に包まれながら、まるで音の羅列に身を任せるかのように体を揺らしながら曲を奏でる沙耶香の姿は、まるでどこかの絵画から抜け出してきたかのように美しく、思わず僕は言葉を失ってしまった。
奏でられる音が徐々に高く早くなり、そして今度は逆に坂を下るかのような速度で徐々に小さくゆっくりになっていく。
紗耶香は最後の一音を何かの思いを込めるかのように悲しげに鳴らしたところでゆっくりと腕をおろした。
その動作があまりに自然であったため僕は魅入ってしまい、次の瞬間には拍手が体の中から浮き上がってきていた。
「すごいな、 演奏もだけど沙耶香がピアノを弾けたことに驚いたよ」
僕がそう声をかけると、紗耶香は驚いたのか一瞬ビクッと体を揺らした後に僕を見た。
「起きてたんだ。起きたのに気がついてたらピアノなんか弾かなかったのに」
紗耶香は髪を直しながら、なんだか照れくさそうな表情で笑いながらそう言った。
「いや、こんなにも上手に弾けるとわかっていたのなら無理にでもお願いしたよ。ちなみにそれはなんて曲なんだい?」
「ドビュッシーのアラベスクって曲よ。なかなかステキな曲でしょ?」
紗耶香はそう言うと少し得意気に曲の最初をなでるように軽やかに弾いて見せた。
「この曲は流れるように曲が進んでいて、ひとつひとつの曲がきれいなのよ。そして何よりバロックでもソナタでもなく決まった形がないところが素敵なの」
紗耶香はまたさっきのように音の羅列に身をまかせながら、まるでダンスを踊るかのように気持ちよさそうに弾きながらそう言った。
僕は、白と黒で統一された鍵盤の上を紗耶香の長く細い指が、それこそダンスを踊るかのように駆け回っていくのに目を奪われていた。
「確かに素敵な曲だね。良くは分からないんだけど、なんだか今夜みたいな月夜にはうってつけの曲だと思う。
「ありがとう」
紗耶香は一言僕にお礼を言うといったん指を鍵盤から離し、指を膝の上に揃えてのせた。
そして少し目を細めて窓の外に視線を移し、僕もまた沙耶香と肩を並べて窓の外へと視線をうつした。
不思議な夜だった。
僕らの住んでいた街とは違い、葵の住むこの街は真夜中だというのに眠ることなく、吐き気がするほどの原色のネオンによって照らされている。
しかし、それに負けじと空には大きな三日月が自分の存在を皆に認めさせたいかの様に輝いていた。
他の星々の光を犠牲にしてまで輝くそれに、なんだか僕は言いようのない力強さのようなものを感じてしまい、涙を流してしまいそうになった。
「ねぇ ベランダに出てみない?」
紗耶香は窓の外を見つめたまま僕にそう言った。その時僕も全く同じことを考え紗耶香を誘ってみようと考えていたところだったため少し驚いてしまった。
「良い考えだけれど外は寒いかもよ?」
「なら温かい飲み物を作っていきましょう。 ここで待ってて」
紗耶香はそう言うと、椅子から立ち上がりまるでピクニックをする子供のように楽しげに軽くスキップをしながらキッチンへと向かった。
「やれやれ」
半分強引な紗耶香の提案に僕は苦笑しつつも決して悪い気分ではなかったし、むしろずっと興味あった紗耶香のことについて色々と知るちょうど良い機会ではないかと思った。
僕が窓の外を引き続き眺めていると、思ったよりも早く紗耶香は湯気の立つコーヒーカップを二つ持ってきた。
「勝手にコーヒー入れちゃったけど別にいいよね?」
そう言うと沙耶香は少し申し訳なさそうな表情をしながら僕に片方のコーヒーカップを手渡した。
「葵はそこまでコーヒーに対して執着心はないと思うよ。もし何か言われたら奴は確実にコロンビア出身だな」
「コロンビアの人にひどい偏見を持っているのね」
そいって紗耶香は肩をすくめてクスクスと笑いだした。
その笑顔を眺めながら最初駅で出会った時の紗耶香と、今ここで肩をすくめながら少女の様に笑う紗耶香とでは印象が全然違うことを僕は改めて感じていた。
そこにあるのは、自分の周りすべてに刃を突き付けその刃が自分すらも傷つけていて、に気がついていない限りなく不安定な少女ではなく、まるで天使のように無邪気に微笑む少女の姿であった。
いったい今まで紗耶香に何があったのかは分からないが、少なくとも僕と葵の存在が紗耶香の傷を少しでも癒せたことに僕は少なからず喜びを感じていた。
ベランダに出てみると、僕らの予想に反してそこまで寒いわけでもなく、むしろ風さえ吹いていない今日の天気は僕らにとって心地良いくらいであった。
僕はベランダから少し身を乗り出して地面を見下ろしてみると地上まで途方もない距離があり、きっとここから飛び降りたのなら容易く死ぬことができるのだろう。
ふと振り返ると、紗耶香はベランダの下に座り込んで立てた膝を両手で抱え込んでいた。
「汚れるぞ?」
僕がそう言うと沙耶香は 平気よ と一言だけ言うとコーヒーをすすった。
「高いところは苦手なのよ」
そうポツリと漏らした紗耶香の恥ずかしそうにする素振りを見て僕は思わず吹き出してしまった。
僕が腹を抱えて笑っているのを見て、紗耶香は うるさい と頬を膨らませて見せたが、それは苛立っているのではなく、むしろそういったやり取りを楽しんでいるかのように見えた。
僕はそう言う紗耶香に少し緊張しながら気になっていた疑問をぶつけてみた。
「沙耶香はなぜ家出をしようと思ったんだい? 話したくないのなら無視してくれてもかまわないが・・・」
紗耶香は何かを考えるかのようにゆっくりとマグカップに口を付け、とゆっくりと一言一言かみしめるかのようにゆっくりと話し始めた。
「私はね、 小さいことから周りに馴染めなくて本ばかり読んでたの。それでもたまには気の合う友人と遊ぶことはあったのに、それでも教師や親は満足できなかったみたいでね 小さな子にしては活発ではない とアホみたいな理由で何度も精神科に連れていかれてカウンセリングを何回も受けさせられて・・・ いつの間にかそれがみんなに知れ渡って、少なかった友人も私から離れて行って私は本当に独りになってしまったの。いつしか言葉すらもまともに出なくなっていつしか周りの人どころか実の両親すらも私が頭のおかしい子みたいな扱いをし出したわ」
そこまで一気に話し終わると沙耶香はもう一度コーヒーをすすった。
僕はその話を聞いて沙耶香もまた僕や葵なんかと同じで、上手く社会に順応することのできない人間だということを改めて痛感した。
しかも沙耶香の場合は小さな頃にそれに気がつき、世間一般から外れた孤独な世界を生きる羽目になってしまったのだ。
僕は紗耶香に何も言うことが出来ずにただただ、まるでコーヒーカップのそこに何かを落としてしまったかのように、視線を落としている紗耶香を見つめることしかできなかった。
しばらくして紗耶香はさっきと同じようにゆっくりと続きを話し始めた。
「だから私はみんなとは離れた高校に入ってからは必死に周りに合わせるように努めたわ。心にもない社交辞令を言って、周りの下らない会話にも付き合って、彼氏も何度か作ってみたわ。 それでも全然ダメだった。 何もかもが楽しくないの。それでも私は世間一般的な普通の少女を演じ続けたの。すると今度はどう? 周りは私のことを顔だけが良くて八方美人な嫌な女。 教師は学校に私の両親を呼び出して、私のことを「無個性で周りに流されることしかできない。どうにかしないと彼女はただ流されるだけの人間になって幸せになれません」って評価し出すの、それに対して両親は私に あなたはもっと自分をもちなさいって説教し出してね、もうそれを聞いた時に私は可笑しくて可笑しくて、思わず笑い声をあげてしまったわ。 だってそうでしょう? 私の自分らしさをずっと前に全否定したくせにね。だから急に笑い出した私に目を丸くしている教師と両親の目の前で、鞄からカッターを取り出して手首を掻っ切ってやったの」
そう言うと沙耶香はコーヒーカップを下に置き、自分の人差し指をカッターに見立てて自分の手首を頭の上にあげて掻っ切る仕草を見せた。
その時に袖が下がり、紗耶香の左手に刻まれた深い傷趾から僕は目を逸らすことができず、魅入ってしまっていた。
そして僕は紗耶香の隣にゆっくりと腰を下ろし、その手首にある傷跡をそっと撫でる。
紗耶香は一瞬驚いて手を引っ込めようとしたものの、すぐに抵抗することをやめ僕に腕を差し出した。
完全にふさがっていない傷痕は赤くそまり、僕はそこからは紗耶香らしい細く小さいな拍動を感じた。
「きれいな腕なのにもったいないな」
僕がそう言うと紗耶香は目を丸くした
「変わったことを言うのね。てっきり月並みなセリフを吐くと思ったわ」
僕は思わず苦笑して
「たとえば 親からもらった体を傷つけてはだめだ とか 命を粗末にするんじゃない とかかな?」
僕がやけに芝居のかかった言い回しのせいか、紗耶香はクスクスと笑いだして そうそう と頷いた。
「結局は相手に対してのこんなセリフは、命を食い止めたところで更なる痛みを与えることを考えない自殺を止める側のエゴだろう? まぁ戒めようとしない僕の意見はエゴがない代わりに無責任ではあるけどね」
僕がそう言うと沙耶香は微笑みながら
「私にとってはアナタのセリフの方が良いわ。何より自分を否定されている気分にはならないもの」
そう言った。
僕はその微笑みに対して少し照れくさくなってしまったが頷いて見せた。
きっと、紗耶香の両親も教師も自分の言葉が原因で沙耶香が手首を切ったとは思わないであろう。
もしそれが自分のせいだと分かったとしてもそれを肯定することをせず紗耶香に責任を押し付ける、僕はなんとなくそう思った。
大体、他人そのものを肯定せずに、人に自分の考える人の進むべき道を押し付ける行動自体が傲慢で愚かなのだ。
「沙耶香は僕が思っていた以上に素敵な人だったよ。 もし僕がその立場だったら何もできないだろうからね。でもその後はまた呼び出されたりしたんじゃないか?」
紗耶香は僕にコクリと頷いて見せた。
「早速次の日にまた学校から呼び出されたの。 だから教師が望むとおり流行に流されない個性的な格好で登校してやったわ」
「もしかしてあのロリータファッションかな?」
紗耶香はまたクスクス笑いながらうなずいてみせる。
「まぁ もともと好きだったしね。 でもそれを見た教師は案の定激昂してね。お前は狂っていると吐き捨てて私を停学処分にしたわ。私的にはそれで清々としたんだけど両親にとっては屈辱だったみたいでね。停学処分の大義名分をつけようとしたのか、私をまた精神科に送ろうとしたの。だから逃げてきたやったんだ。これは私の主観だし、きっと両親や教師なりの考えはあったんでしょうけど私にとってはただの拷問だった・・・」
紗耶香が話し終わったとき、その大きな瞳からは涙のしずくが溢れ出しゆっくりと頬を伝いあごのさきから地面に向かって落下した。
僕はそれを見ないふりをして、すっかり冷えてしまったコーヒーを一口飲んだ。
きっと沙耶香が自分で話した以外にも様々な屈辱を味わってきたに違いない。
紗耶香が家出をしたのは理解者も相談する人もいない、独りぼっちの世界の中から抜け出すためのある意味前向きな行動だったのだ。
幸運にも僕は葵という理解者に出会うことができた。
葵と一緒にいる時間は短かったものの、自分と同じ人間がこの世にも存在するということを知ることができ少しは楽になれたのだが、もし出会うことがなかったのなら紗耶香と同じように独りの世界を生きることとなっただろう。
「なぁ ここに三人で住まないか?」
僕の言葉を聞いて沙耶香は目を丸くして僕を見た。そして僕もまた自分自身の言葉に驚いてた。
なによりも自分の考えていたことをそのまま言葉にしてしまうなんて初めての経験だった。
「ずいぶん急な話なのね」
紗耶香の言うとおり我ながら随分と急な話だと思う。
しかしきっと僕らは一緒にいた方が良い。紗耶香の話を聞いているうちに、そういう言葉にはならない確信が僕の中に浮かび上がってきた。
「だよな。自分でもそう思う。葵はたぶん喜んでくれると思うから後は沙耶香次第だよ」
そうね・・・ と紗耶香は腕を組んで考え始めた。
もともと僕のわがままなのだから断られてもしょうがない。もし断られてもこのまま紗耶香の旅に同行すればいい話なのだが、正直、この心地よい空間をずっと続けていたかったし、何より紗耶香の話を聞く限りこのまま無事紗耶香の旅が成功したとしても結局は連れ戻されてしまう。そんな気がしたのだ。
しかし、意外にも沙耶香の決断は早かった。
「いいわ それなら私もしばらくここにいることにするわ。 なんとなくだけどその方が良い気がする」
紗耶香はいたって真面目な表情でそう言い、僕はほっと胸をなでおろした。
「てっきり断られるのかと思っていたよ」
僕がそう言うと紗耶香はもう一度微笑んで
「なぜだかアナタや葵さんは他人の様な気がしないの。昔の口説き文句のようで嫌なんだけど本当だよ?今日初めて出会ったのに不思議だよね」
僕も紗耶香と同じことを考えていた。
よく考えると沙耶香と出会って、まだ一日しかたっていないのだ。
それなのに僕らは子供のころからずっと一緒であるかのようにお互いに対して不思議な安心感を抱いていた。
それは葵と紗耶香を除くすべての人より、両親よりも僕らの持つ絆は深くそして複雑に絡み合っているかのように感じる。
僕は先ほどから心の中に浮かんでいる、ある種の確信ともいえる考えを紗耶香に伝えてみたくなった。
なんとなく沙耶香なら少しは理解してくれるような気がしたからだ。
「たぶん僕らがお互いを他人と感じないのは、僕らが同じ異邦人だからだよ」
「異邦人? カミュの?」
我ながらおかしな発言だと思った。だけども紗耶香は頬杖をつきながら首を傾げる。
「作品のことじゃなくてあくまで僕らのことだよ。僕の主観で悪いんだけど、僕らの生きる世界はすべて多数派が正しいとされているんだ。これは民主主義じゃ当たり前だし、社会がスムーズに進むためにも必要だ。しかし、問題は少数派が常に見下されて悪とされていることだと思う。紗耶香と僕が最初の駅で出会った少女のような、周りに意見を合わせている限り自分の安全が保障され常に正しいと考えてしまい露ほどにも疑問は抱かず、それに当てはまらない考えのものはすべて見下す対象であり悪になってしまうんだ。そいつらはそれを個性であると考えているし、その上、その考えの温床となっているのは学校や大多数の教師、そして社会人であるのだから尚更性質が悪い。ほとんどの人がそれらの影響で多数派となり、ついには立派な社会適合者となるんだよ。そこで取り残されてしまった僕や沙耶香と言った少数派であり社会不適合者は、何をしようと社会的な迫害の対象となってしまうんだ。 それでも僕らはあきらめて多数派になろうとせず自己を守ろうとするから、結果的に社会的な異邦人となってしまうんだ。 だから僕らは他人に思えないと思うよ」
僕の考えがこんな纏まりきっていない言葉で上手く紗耶香に伝えられるかどうか不安だった。
そもそもこんなことを言っていたのなら周りからは甘えだとか、かなりの批判を浴びてしまうだろう。それは沙耶香とて例外ではないのかもしれない。
しかし学校、教師、両親の考えが理解できず、ほとんどが独りの世界で過ごしてきた事で感じたこの思いを、なんとなくだが紗耶香もわかってくれるような気がした。
僕が話し終わっても、紗耶香は口を開かずに自分の額を人差し指で規則正しく叩き続けた。
僕はもう一度紗耶香の入れたコーヒーを口に含む。
今ゆっくりと味わってみて初めて気がついたのだが、これには砂糖やミルクが致死量ほど入っていて、やたらと甘かった。
僕がそのコーヒーをどうしようか口の中で弄んでいるときにやっと紗耶香が口を開いた。
「そうね あなたの言うことはなんとなく理解できるわ。 異邦人が社会の中で生きていくには諦めて周りに染まるように努力するか、首をくくるかしないといけない様ね」
紗耶香はここで言葉を区切り、続きの言葉を出すのを少しためらうかのように遠くを見つめていた。
「もしかしたら・・・私達は長生きできない人種なのかもね。たぶん私は社会に馴染む事は出来ないし、失礼だけどアナタも葵さんも社会に馴染めるタイプだとは思えないわ」
そう言うと紗耶香はその二つの大きな眼でまっすぐと僕を見た。
それは話を逸らす事も、返答しないという選択肢をとらせないほどの力強い瞳であり、僕が返答するのをじっと待っていた。
「そうかもな、 ならせめて、いつか首をくくるまでは楽しもうじゃないか。 周りから変な眼で見られても罵られてもいつか死のうと考えてさえおけばそれさえ輝いて見えるはずさ」
「ずいぶん大袈裟なセリフね」
僕のこの気休めにしか思えないセリフに紗耶香は微笑んで見せた。
「でも何か楽になったわ。 ありがとう」
今日何度も紗耶香の笑顔を見ることができたのだが、この笑顔はそのどれとも違う、作られた要素が一ミリもない心からの笑顔であり、僕もまた幸せな気分にさせられた。
その後僕らは空になったコーヒーカップを持って部屋へと戻った。
部屋の中では相変わらず葵が床に丸まり、可愛らしい寝息を立てており、それに合わせるかのように部屋自体が寝息を立てているように感じた。
しかし、そんな中でピアノだけが青白い月の光に照らされて、まるで生きているかのような不思議な存在感を辺り一面に発揮していた。
それはまるでピアノが自分の存在は僕らに認めさせようとしているかのような、不思議な迫力があった。
そのため自分から引くのを恥ずかしがっていた沙耶香が、誰に頼まれるでもなく自然とピアノの椅子に座ったのは全く不思議ではないと思う。
そして紗耶香はゆっくりとピアノを弾き始めた。
僕には何の曲かは分からなかったがクラシックやジャズ、そして現代の音楽とも違う、不思議でどこか悲しげな旋律だった。
月夜の晩に私は唄う
この世を呪い世界を嫌う
一人の少女の悲しいアリア
きっとこの世も少女を呪い
世界は私を嫌うのでしょう
手首を切って眠りについても
朝はきちんと訪れて
醜く卑しい少女にむけて
悪意に満ちた光を放つ
すべてを照らし暖かい
人を思うやさしい言葉が
刃になるとは気がつくことなく
光はいつでも少女を照らす
その分、夜は優しくて
手首の傷も流した涙も
すべてに対して無関心
何も言わずにすべてを隠す
慈愛に満ちた無言の闇が
心地よくて愛おしい
朝が嫌いで 夜が好き
晴れが嫌いで 雨が好き
すべての人を憎悪する
私はきっと反社会的少女
誰から好かれることもなく
誰も好きになることはない
きっといつかは殺されて
消えてなくなることでしょう
滴る血だけが真実で
私の命を認めてくれる
そして今日も朝が来た
神様どうか私を殺して
しかし神は答えない
なぜなら私は反社会的少女
神様すらも興味を持たない
その曲を聴き終わったときは、不思議と僕の瞳からは涙が溢れていた。
きっとこれは紗耶香の歌なんだ、紗耶香の想いがこの歌を、曲を作り出したんだ。
この悲しい旋律に歌詞、透き通るような紗耶香の歌声、そして何よりもこの月夜とピアノがこの歌を絶対的なものとしていた。
月の明かりに照らせれて、紗耶香がピアノを奏で唄う。
僕はその歌を聴きながら不思議な安堵感からかいつしか眠りについてしまっていた。
それは不思議で、そして悲しみに満ちた夜の終わりだった。
次の日の朝、僕らが昨日の葵の家にとどまる考えを伝えると葵は案の定その考えを歓迎してくれた。
「すごく嬉しい考えだよ。 は君らをどうやって帰さないようにするかをずっと考えてたんだ」
葵はそう言うと、僕らをいっぺんに抱きしめた。僕はやれやれと首を振り、紗耶香は驚きのあまり体を硬直させ、横目で僕に助けを求めるかのように横目で僕を見た。
そして葵が寝たあとの出来事を僕らは葵に話した。
しかし葵は紗耶香の身の上話にはほとんど何のリアクションも示さず、ただ紗耶香の髪をゆっくりと撫でただけであったが、そこにはすべての感情が含まれているような気がした。
それよりも、葵は紗耶香のピアノが聞けなかったことをとても後悔して、なぜ起こさなかったの? と悔しそうに何度も僕に言った。
「しかし、オレもいろいろ話したかったなぁ。 あっ二人きりを良いことにコイツ何か変なことをしようとしなかったか?」
「危うく襲われるところだったけど、顔をボコボコに殴ってやったらおとなしくなったわ」
紗耶香は悪戯っぽい表情で僕を見て舌を少し出して見せた。
僕はこの二人の会話に呆れ果てて言葉もでず、葵はというと大きな口を開けて腹を抱えて笑っていた。
そして沙耶香をまっすぐと見て
「何か沙耶香ちゃん変わったね。 すごく良い雰囲気だ。 うん すごくいい」
そう言って満足気な表情でうなづいて見せた。
葵に率直にほめられて照れくさくなってしまったのか、紗耶香はうつむきながら ありがとう とポツリというと人差し指で首筋をかいていた。
僕らはそのあまりに可愛らしいリアクションに思わず笑みを浮かべてしまった。
その後、僕らは朝食を軽いインスタントとコーヒーで済ませ、早速紗耶香にピアノを弾いてもらうことにした。
「緊張するわね」
そう言いながらも紗耶香はまんざらでもない表情でピアノの前に立った。
「何かリクエストはある?」
鍵盤を開けながら紗耶香は僕らの方を向きながら言った。
クラシックに全く詳しくはない僕は葵に まかせるよ と言うと葵は う~ん と首をひねった後
「じゃぁ ショパン弾いてよ。子犬のワルツとか」
「わかった」
そう言うと紗耶香はまるで すぅ っと息を吸い込むと一気に速いテンポで引き始めた。
その曲は僕も知っている曲だった。
何と言うかうまくは表現できないのだが、それこそまるで子犬が楽しげに転げまわっているかのような印象を受ける曲だった・
それは何と言うか昨日弾いた曲とは少し違う印象で、なんとなく沙耶香のイメージとは合わなかった。
といって詳しく説明しろと言われたら僕の語彙力では表現しきれないんだが・・・
「すごいね。 ここまでとは思わなかった。」
演奏が終わり最初に口を開いたのは葵だった。
その表情からは社交辞令何かではなく、心から驚いているようで、大げさに驚くその姿に紗耶香は赤面し俯いた。
その後、葵はいろんな曲をリクエストし紗耶香はそれを難なく弾いて見せ、僕と葵を心底驚かせた。
その三人で過ごす時間は僕にとって心地良く、紗耶香も葵もまたきっと同じ気持ちだろう。
そこには僕らを傷つけるものは何もなく、ただただ至福な世界のみが広がっていた。
この幸せな時がずっと続けば良い僕はそう願ったが、きっといつか終わってしまう。そんな予感もしていた。
これは僕の勝手なネガティブな想像かもしれない。
しかし今この瞬間はいつ消え去ってもおかしくないほど、とても脆くそして悲しい時間だと思えた。
「よくそんなに弾けるものだな、 君はピアニストになるべきだったよ」
僕がそう言うと沙耶香は、 誰でも弾けるわ とそっけないって僕から視線を逸らした。
正直なところ、僕は紗耶香の唄ったあの歌を聴きたかったが、結局僕は最後まで紗耶香にその歌のことについては何も言わなかった。
たぶん、あの歌はあの夜でしか歌うことを許されないような気がしたからだった。
その日、紗耶香は僕らの前でピアノを弾き続けた。
まるでこの世には僕と沙耶香と葵しか存在しないかのように、延々とその時間は流れ続けた。
僕らが葵に家に住むようになってニ週間が過ぎた。
その間に僕はこのマンションの近くにある本屋でアルバイトを始めた。
そこは本屋と言っても大型のチェーン店の支店であり、僕の望むような白髪の老人が住む古びた本屋とは程遠かったが、贅沢は言えなかった。
昼間はそこでこき使われ、夜は料理を作るという概念そのものが存在しない二人のために僕は料理を作るはめになった。
紗耶香はというと、すっかり葵と意気投合し二人はまるで本当の姉妹のようになってしまっていた。 二人は僕を置いて良く一緒に買い物へ出かけ、よくしゃべり、そして食事のときには度々僕をからかって二人で笑い合っていた。
何と言うか良くしゃべるものだ。
僕は呆れながら二人を見つめていたが、紗耶香と葵が心地よさそうに笑い合っている姿を眺めているのは悪い気はしなかった。
まるでそれは、よく晴れた日の午後の陽だまりのような不思議な倦怠感と幸福に満ちた心地よい日々であった。
僕らはその日々の中で笑いあい、そして紗耶香のピアノが部屋の中を満たす。
そんな日々がいつまでも続くと思っていたし、僕だけではなくきっと沙耶香も葵もそう思っていただろう。
しかし そんな日々は長くは続くかなかった。
ある日突然、紗耶香がいなくなってしまったのだ。