第二幕 とある日常の終焉と旅の始まり
~これまでのあらすじ~
日常は容易くその姿を変えてしまう。僕にとってのその切っ掛けは、真夜中の駅で出会った少女だった。夜よりも暗いロリヰタファッションに身を包む彼女はこの街から逃げ出そうとしていた。しかし真夜中の駅から出る電車なんてのは無い。
彼女は駅を去った。残されたのは一枚の紙切れ。それを拾って僕は、またあの少女に会おう。
そう思ったのだ。
その夜、僕は結局眠ることができなかった。
そして僕は有り余る退屈な時間をどうにかして潰すために、たまたま図書館から借りてきていた、カミュの異邦人を手に取った。
この数え切れないくらい読んだこの作品を、僕は飽きることもなくページを捲る。
この作品を僕が始めて読んだ時は確か中学生のころだった。
その時の読書感想文でこの本を選んだのが始まりである。
本来、普通のごくごく一般の中学生なら、主人公であるムルソーの生き方に批判的な視点を持ち、社会に順々するような感想を持つのだろう。
作者のカミュがそうであったようにニヒリズムを否定しコミュニズムを掲げ、見事社会の一員になるように歩み出していくのだ。
しかし、残念ながら僕はそういう人間とは違ったようで、逆にムルソーの生き方に深い共感と憧れを抱いてしまった。
そして僕は感想文にムルソーの生き方は僕にとっては憧れで、たとえ親が死んでしまおうとも僕はバカンスに出かけるような人間になりたい。そう書いて提出した。
今思うと何とも世間知らずな、いや、まだ世間を信用していたのだと思う。困ったものだ。
当然僕は親の死んだ次の日にバカンスに出かけたい訳ではなく、ただの比喩的表現でそう書いたのだが、残念ながら教師はそうは思ってくれなかった。
当たり前だ。今の僕ならきっとそう書かないだろう。
今考えると、そこでまともな、世間一般的な感想を書き自分自身の抱いた感想は胸に抱いておけば良かったのだが、今よりも世間を知らずで周りの人間を信頼していた僕は、馬鹿正直にも思うがままの感想を書いてしまった。
提出した次の日、HRで教師は僕の作文を取り上げ、みんなの前でそれをまるで自分が面白いジョークでも行っているかのように読み上げた。
当然、僕のクラスメートは次第にくすくす笑いを始め、それはエスカレートしクラスは笑いの渦に包まれた。
最後に教師はこういった。
「カミュとか何とか訳の分らない人の書いた本に感化されて、親が死んだ後にバカンスに行くような最低な人間にならないように」
そこで僕以外の生徒は大きく笑い声をあげた。そしてその教師はまるで自分が超一流のコメディアンであるかのように、恍惚とした表情を浮かべた。
僕はその時に、恥ずかしさや怒り悲しみを通り過ぎてもはや呆れかえってしまっていた。
ただ比喩的表現や僕の書いた感想はまだ良いとして、まるで僕はカミュという作家まで馬鹿にされたような気がしてしまい、ただそれだけに怒りを感じただけで、ほかにはなぜだか空虚な気持に包まれていたのをよく覚えている。
そこからだ、教師が吐き気を覚える程の憎悪の対象となり、自分以外の人間がまるで水面下から太陽を眺めているかのような、現実感を抱かない対象となってしまったのは。
そして僕は他人にはできるだけ社交辞令で会話するようにし、誰にでも距離をとるように生きている。そうしていれば自分がいくら一人であろうとも苦痛ではなかったからだ。
僕は本を置き部屋を見渡す。
キッチンと六畳ほどのリビングしかないこの小さなアパートに住んでもう一年になる。
そのくらい住んでしまえば、ここはいつしか自分自身の実家よりも心安らぐ場所となってしまっていた。
いつの間にか日の出を迎えたのか、窓から差し込む日の光が僕は無性に煩わしく思った。
僕は腰を上げて部屋の中に差し込む清々しい日の光を分厚いカーテンを閉めて遮り、登校中なのだろうか、何やら騒がしい小学生の声と朝を告げる雀の声を遮るために僕はラジカセの電源を入れた。
スピーカーから騒々しいほどのパンクロックが流れ始めて、僕はようやく落ち着くことができた。
テーブルの上には灰皿に押しこめられたタバコはまるで小さな山のように膨れ上がり、溢れそうなほど積み重なっている。
昨日吸った僕の煙草の量はきっと僕の胸にある二つの灰を真っ黒に染め上げ、今はきっと吐きだす息ですらまるで排気ガスのような色をしているだろう。
ふと時計を見ると、二つの針は朝の六時を指していた。
僕はこの煙草の煙が充満しているこの部屋で、唯一タバコ臭くないであろう、クローゼットの奥底にあるコートを着込んだ。
そして財布とケータイと昨日彼女が落して行ったメモ用紙を忘れないように、注意深くポケットにしまいながら、僕は何だか今から行おうとしていることが急にバカバカしく思えてきた。
きっと彼女は昨日のうちにメモ用紙を無くしたことに気が着いて、また新しいメモ用紙に計画を書き直していることだろう。
しかもそれは列車の時刻も十分に計算されて書き込まれた完全無欠に理論武装されたメモ用紙に。
考えてもしょうがないか・・・・
僕は自らの思考を強制終了させた。
ラジカセから流れるアーティストが、鼻にかかるすこし高めの声で
「世界が君を嫌いなら手首を切って、窓の外へと飛び降りろ」
そう叫ぶようにして唄っている。
そりゃそうだ。
僕は別に誰に見せるわけでもないのに頷いてみる。
僕はラジカセの電源を落とし、部屋の外に出ると毒々しいほどのさわやかな朝日が僕を包み、そして元気にさえずる雀の声に僕は嫌悪感を覚えた。
駅に着くと、時間が時間であるためか、電車を待つ人はまだまだ疎であった。
そこには部活の朝練でもあるのか、制服姿の女子高生が3人とくたびれたベージュのスーツを着込み、荷物を抱えてうつむく中年の男がいるだけであった。
そこには当然夜中に出会ったロリヰタファッションの少女の姿はなく、僕を含めてごくごく日常的な朝の光景が広がっていた。
今は早朝だというのにまだまだ輪郭すらでき上っていないような、母乳の香りさえする少女の群れは何が楽しいのか、まるで小鳥が喚き散らすように騒ぎ合っていた。
僕は何気なくその光景を眺めていた。
その視線は我ながら決して好意的なものではなかったと思うが、それ以外にすることがなかったのだからしょうがない。
しばらくそのの光景を眺めていると、その集団は急に声をひそめて何やら小言でひそひそと話しだし、中年の男もその小さな目をいっぱいに開いて僕の後ろの方を見ている。
その中年の口をあんぐりとあけて驚いている姿がまるで眼鏡をかけたトドのようで、僕はそれが可笑しくて仕方なく声をあげて笑いたいほどであった。
しかしいらぬトラブルを避けるために僕はそれを必死でこらえる羽目になった。
「あんた、そんなにこの駅が好きなの?」
僕は心より待ち望んでいた声をかけられ、少し緊張しながら声の方を振り向く
するとそこには、僕の予想通りロリヰタファッションに身を包んだ彼女が、足もとに少し大きめの旅行カバンを立て懸けて、腕を組みながら立っていた。
「おはよう」
僕がそう挨拶すると彼女もまた少しそっけなくおはようと僕に返した。
彼女は夜中とは違い、白主体のテーマであるらしく、服を彩るレースの数が増えているような気がした。
その姿は夜中の彼女よりも少し幼く僕には見える。
「大学か会社なの?」
「いや、残念ながらそうではなくて、君は昨日これをここに忘れただろう?」
僕はポケットから四つに折ったメモ用紙を取り出し彼女に渡した。
「これ・・・わざわざ?」
彼女は驚きを隠そうともせずにその大きな眼を更に大きくして、僕とそのメモ用紙を何度も見比べていた。
そして、溜息をつき僕を少し呆れたような表情で見つめて苦笑した。
「あんたってよっぽどのお人好しかただの暇人ね」
「まぁ僕としては前者でありたいところであるのだけど、残念ながら後者の方でね。
今は学校どころかバイトすらしていないんだよ」
僕は出来るだけ滑稽に見えるように手を広げながらうつむきそういってみた。
そして、そんな僕を見て彼女が何らかのリアクションを得られると考えていたのだが、彼女はただ そう と一言これ以上ない位にそっけなく言っただけであった。
それどころかそこで会話が止まってしまい、僕は拡げた手のやり場に困りはててしまった。
彼女はというと腕を組んだまま人差し指で狭いおでこをコツコツと何度もたたき、何やら考え事をしているようであった。
あくまで僕の想像ではあるが、彼女もまた僕のようにこの空気をどうにかしようと考えているに違いない。
「あんた・・・今暇っていったよね」
僕がこの空気を何とかしようと必死に悩んでいると、幸運なことに彼女の方から口を開いてくれた。
「もちろん。 今どころか、これから先忙しくなる予定は当分無いよ」
そう僕が答えると彼女はまたさっきのように腕を組んで、もう一度人差し指で額を叩き出した。
それはどうやら考え込む時の癖であるらしいが、その姿があまりにも様になっていて僕はしばらくその姿を眺めていた。
すると急に彼女は僕の方をまっすぐと見つめ、その視線以上にまっすぐ伸ばした人差し指を僕に向かって突きつけた。
「あんた 私と一緒に来なさいよ どうせ暇でしょう?」
「ん?」
僕は彼女の思わぬ申出に、思わず聞き返してしまった。
僕が彼女のその問に対しどう返答しようか悩んでいると、さっきから隅っこの方でなにやらひそひそと話していた高校生らしき女の子のグループが、彼女の方に駆け寄ってきた。
「あのぉ すみません。 もしかしてぇ 近江沙耶香先輩ですかぁ?」
彼女に声をかけたそのグループのリーダーらしき女の子は、年に似合わぬ厚い化粧をしており、不格好な唇にたっぷりと塗られた口紅はまるで血が滴っているかの様だった。
それに極めつけは、わざとらしく舌足らずに話す頭の悪そうな言葉遣いに僕は思わず身震いしそうになったほどだ。
おそらく コイツは僕がこの世で一番嫌悪とするタイプの女であった。
しかし、そんな女でも彼女の名前を口に出してくれただけでもかなりの収穫であった。
近江沙耶香・・・ 僕は忘れないように頭の中に深く刻みつけた。
僕がその子に対してアレルギー反応を示している横で、沙耶香は明らかに困惑しきっているのが傍目にもわかるような表情で、助けを求めるような表情で僕を見ていた。
「ねぇ 紗耶香せんぱいですよねぇ ね?」
その頭の悪そうな女の子は、ニヤニヤと何の気品も感じられない程の、下卑た笑い顔でわざとらしい上目遣いで紗耶香に更に近付いて行った。
僕はその女の子の行動に嫌悪感を通り越して、少なからず苛立ちを感じていた。
こんな自分より年下の女の子に腹を立てるのは、我ながら大人気ないとは思うがきっとそれは仕方のないことだろう。
沙耶香の方を見てみると整っているはずの顔が唇をゆがめ、心なしか少し怒りすら感じているようにも思えた。
「そうだけど あなたは誰?」
沙耶香がやっとのことで唇を開き、腕を組んだままつっかかるようにして少女にそういった。
「ほらねぇ 言ったとおりでしょう?」
少女は質問に答えたはずの紗耶香をそっちのけにして、仲間内できゃぁ きゃぁ という、まるで小鳥が餌を求めて囀るような声で騒いでいた。
そして少女達を今にも絞め殺してしまいそうに思えるほどの、鋭い瞳で激しくにらにつけていた。
「もういい・・・」
沙耶香はぽつりと一言そういうと、荷物を引きずりながら券売機へと一人で向かっていった。
ヒールが折れそうなくらいの音を立てて歩く紗耶香の後姿が、怒りに満ちているのは僕以外の目にも明らかであった。
近くで見ている僕ですらこんなにも腹が立っているのだ、直接こんなやつらに絡まれていた沙耶香の怒りたるや相当なものだろう。
さらに少女たちは彼女の後姿を見ながらまたもや下品な笑い声をあげた。
その中のリーダーなのだろうか、最初彼女に直接話しかけた女の子はおもむろに紗耶香を指す。
何やら冗談でも言っているのかその女の子が何か言葉を発するたびに周りの連中が笑い声をあげている。
その姿は僕から理性を取り上げるのには十分であった。
「ねぇ 君たちは彼女と一緒の高校かな?」
少女たちは急に話しかけられて一瞬ビクッとしたものの、すぐに下卑た笑みを浮かべながら僕に近寄ってきた。
「あのぉ もしかしてあのヒトの彼氏さんですかぁ?」
またあのわざとらしい間延びした舌足らずな声だ。
「だったらどうする? うらやましいのか? まぁ お前たちには一生縁がなさそうだもんな」
「えっ」
少女は眼を大きく見開き息をのんだ。
僕は必死に、そして冷静に少女たちの非礼をたしなめようと考えていたのだが、僕は自分の感情を抑えることはできず、その考えは失敗に終わってしまった。
まさか僕からそんなことを言われるとは夢にも思っていなかったのか、さっきまではしゃいでいた少女達の表情が強張り、あたりは一転して静まり返っていた。
「まぁ 君らはいかにも頭が悪そうな顔だし、実際に頭が悪いときては生きていてもしょうがないもんな。」
どうせろくな人生を送れないんだからさ」
「いや・・・そんな・・・」
少女たちは一転して今にも泣き出しそうになっている。
「なぁ 次笑ったら許さないよ? わかったら頷いて」
少女がゆっくりと頷くのを確認してから僕は荒くなった息を整えようとこれまたゆっくりと深呼吸をする。
そして周りを見渡すとその光景というものは散々たるやものだった。
少女たちは腰を抜かし声もあげられず涙だけをぼろぼろと流しており、やり取りを見ていた中年の男は何をしていた良いのかが分からないのか、オロオロとその場を行ったり来たりとしていた。
そんな中で駅員から警察に通報されていないのかが不幸中の幸いか、僕は紗耶香と同じ切符を買い、ちょうどホームに来ていた電車に飛び乗った。
扉が閉まると同時に僕はその場にへたり込んでしまった。
まだ十七にも満たないであろう少女にむごい言葉を浴びせた上にその場から逃げ出した。
燦々たる有様だ。我ながら悲しくなる。
僕は必死で息を整え、吹き出る汗をぬぐった
しかし僕はそれでも不思議なことに何だか自由に成れた気がした。