婚約破棄の現場で~伝説になったヒロイン~
「バターフィールド公爵令嬢シンシア。お前は俺の婚約者にふさわしくない。身分が低いからとチェルシーに嫌がらせをするとはその腐りきった性根、我慢ならん。よって、お前との婚約をここで破棄する」
王子は愛する女性が受けた仕打ちに我慢がならず、偶然、高位貴族が開いた格式のある夜会で見かけた婚約者に婚約破棄を言い出した。
男爵の庶子であるチェルシーはこの催しに招待されてはいなかったが、王子の連れとして参加していて、今もその後ろに隠れるように立っている。
「何をおっしゃいますの? わたくし、嫌がらせなどしておりません」
「忘れたと申すのか?! チェルシーはお前にドレスの色で悪口を言われたり、ドレスを破かれたり、お茶会に呼ばずに仲間はずれにしただろう」
「殿下。言わせていただければ、ドレスの色は主催の女主人や影響力の強い女性と同じ色を着ることは相手への侮辱になります。申し上げてもわからないようなので、その度に帰る口実を作ってあげました。それに――」
シンシアは王子に隠れるように立つチェルシーを見て勝ち誇ったように微笑む。
「お茶会は交流を深めたいからこそ招待するもので、殿下の親しいお友達をわたくしが呼びつけるなどそのような真似はできませんわ。殿下の親しいお友達なら、逆にお茶会を主宰なさるのが当然ですもの」
言われてみれば、すべて正論だった。ドレスの色かぶりは不興を買う為に、身分が低い者のほうが敢えて違う色に変えるのが当然だ。何しろ、デビュタントの色や喪服の色、半喪服の色など規定が色々あるだけに、避けなければいけない色の色味も多少違うだけで事足りるのだから、多少の譲歩は常識である。
現代的に言えば、クラスカーストトップの女の子と修学旅行で持っていった私服やパジャマが同じだった時と、それ以降の学校生活を当てはめて考えてみればわかるだろう。その時は非常に気まずいし、カーストトップの女の子の気持ち次第で学校生活は地獄に変わる。
それを恐ろしい女性たち本人に気付かれる前に追い返そうとするなら、その場では修復不能なまでに破壊したり、大きな汚れを付けるしかない。
だが、ドレスの色の調査など、どうやってやるのか?
それはお茶会で本人やその話を聞いた友人経由で入手するのだ。
チェルシーはシンシアのお茶会に呼ばれていないが、他の重要なお茶会にも呼ばれていない。シンシアの主催するお茶会はシンシア同様まだ未婚の令嬢を中心としたお友達感覚のお茶会で、ドレスの情報は既婚婦人の主催する重要なお茶会でなされる。
既婚婦人たちは取り巻きや人気のある人物など自分の利になる人物しか呼ばない為、母親に連れて行ってもらわなくてはシンシアも参加できないお茶会がある。たとえ公爵令嬢であるシンシアでも、個人的に気に入られでもしないと既婚婦人のお茶会の正式な招待を受けることはできないるのだ。
仕立屋経由で影響力のある女性のドレスの色の情報を手に入れて避けるという方法もあるが、チェルシーはドレスをもらうばかりで、仕立屋とも親しくはないので、避けられなかった。勿論、父親の妻である男爵夫人も愛人の娘であるチェルシーを嫌っている為にそんなことは教えない。
シンシアはチェルシーが王子と親しいからこそ、お茶会を主催して多くの者に参加したいと思わせて影響力を見せつけなければいけないことを匂わした。そうやって、取り巻きだけでなく、自分の敵や味方になる人物を見定め、相手を自分の味方として本人の気付かぬうちに動かす術が必要だった。
「!! ・・・」
それをどれもこれも怠っていることを突き付けてやれば、王子の非難が不当だと王子本人にもわかったのだろう。王子はバツの悪い顔をしている。
「殿下・・・!」
哀願するチェルシーに王子は渋い顔をした。シンシアの言うことが正しいのだから、それを曲げれば、自分のほうが常識を疑われる。
婚約破棄がうまくいかなかったチェルシーは意気消沈もせず、見苦しく喚き叫びもせず、狂ったように笑い始めた。思わず、王子たちの足がチェルシーから離れようと一歩だけ動く。
何事かと衆目を集めるチェルシーに王子を論破して返り討ちにしたシンシアが声をかける。
「何がおかしいのかしら?」
「馬鹿は何をやっても馬鹿だってことよ」
「馬鹿って、貴女。殿下たちは貴女を寵愛していたじゃない」
「自滅するようなことしかできないのに馬鹿じゃないって言うの?」
「それは・・・!」
「ホント、役立たずで、女にしか強く出られないって、クズね」
「貴女、自分が何を言っているのかわかっているの? 不敬罪に問われるわよ」
「わかっているわよ。不敬罪? 弱いものイジメしかできないクズな癖に身分だけはあるって、害悪でしかないわね」
「・・・」
突然のチェルシーの豹変に周囲で見守っていた者たちだけでなく、その場にいた全員が飲まれてしまう。
「いい? こいつらはこいつらが男で、貴女が女だからこんなことをしたの。貴女が男だったら、こんな舐めた真似なんかできない臆病者なの。現にあることないこと針小棒大にして、濡れ衣をかけて追放や処刑しようとしたじゃない。仕返しが怖いからって、ただのか弱い女の子にそんなことをするのが紳士的だって言えるの? 騎士道にかなってるとでも言うの? 違うでしょ」
チェルシーは王子たちに目を遣った。「好きだ」、「愛している」と言いながら、チェルシーの本当に大事な願いを何もかなえなかった役立たずたちを。
彼らと付き合っている間、チェルシーは金で自分を男に売っているような気分がした。そう思うほど我慢ができなかった。
自分ができないことをしてもらうことと引き換えに王子たちと付き合う。そうでも思わなければ、耐えられなかった。
はじめからわかっていたことでも、それはつらく長い日々だった。
「こいつらは自分たちのことしか考えていないから、わたしのことは何も聞こうとはしなかった。自分のことばかり話して、わたしのことはずっと無視。わたしがお願いしたことも金品でしか叶えてくれない。何が王子よ! わたしは娼婦みたいじゃない!!」
「何を言ってるんだ、チェルシー。俺たちはお前の為に――」
「笑わせないで! お金でしか何もできないあんたたちは、ホント役立たず、それだけじゃなくて、弱いものイジメしかできないなんて、クズ中のクズだわ。身分と権力があるからわたしは我慢していたっていうのに、それもわかってないんでしょ?!」
ひどい言葉に王子たちは殴られたようなショックを受けた。それもそのはず。自分たちが愛を捧げ、婚約者に濡れ衣をかけたのを、チェルシーはクズだの、役立たずだの、罵るのだから。
それどころか、愛している女性に娼婦扱いされているやら、我慢しているとまで言われたのだ。
ショックでないはずがない。
「それは言いすぎだわ」
「言いすぎなものですか! ――ねえ、シンシア様。貴女はご存知? 貴女のようにマシな娘がどれくらいいるかって?」
「貴女がいつも行くのは孤児院で、汚いことは何も知らないお姫様は、父親に死なれた娘がどんな目に遭うのか知らないでしょ? 貧窮院に行ってみて。父親が死んで家庭教師になるしかなかった娘が勤め先の家で乱暴され、飽きられたらふしだらだと紹介状もなく解雇されて路上で身を売った結果を見られるわ」
王侯貴族の女性がしている慈善活動といえば、孤児院の援助や訪問くらいだ。そこならば、身元が不確かな人間が出入りしておらず、安全面への配慮をする必要も少ない。
貧窮院は孤児院にいられない年齢の者が食うに困って食事や寝床を借りる場所である。利用者は孤児院のようにそこにいないといけないわけでもなく、身元を偽っている可能性もある。自立できるならと自立しろ、と突き放したところもあり、貧窮院に行くくらいなら路上生活したほうがいいと逃げ出す者すらいる劣悪な環境だった。それでも、貧窮院に頼る者はいる。
「病気に罹って働けなくて貧窮院に行っても、娼婦だからと追い返される未婚の女性たちなんか知らないでしょ? 軽蔑されて、ひどい言葉を投げかけられて、それでも生きる為に耐えて貧窮院を頼る彼女たちがいるの。追い出されなくて家庭教師や付き添い婦人になっていなくても、無給の使用人として扱き使われたりして、家長に嫁に出す義務を怠られている人間もいるわ。だけどね、それはまだマシなほう。わたしは男爵の庶子だけど、母親は両親が死んで男爵家に身を寄せていた親戚なの。立場の弱い女性を襲って愛人にして、わたしが生まれたのよ。それもこれもぜーんぶ、女性の地位が保証されてないから。未亡人になるか、行き遅れの年齢になるまで財産を所有できない、家を継げない、貴族は親戚の面倒ぐらいみるだろうと放置した結果がこれよ」
「そんなのわたくしのせいではないわ・・・」
「知らないからって許されるとでも思ってるの? 貴女、公爵令嬢でしょ? 王子サマと婚約するくらい偉い家が今まで放置しておいて知らなかったですむと思ってんの? それとも、貴女の家は貧しい親戚を扱き使ったり、弱い立場の親戚の女性を愛人にしたりするのが常識過ぎて、わたしの言ってることなんてわからないのかしら」
「っ・・・!」
「女性の話は聞かない王子サマと綺麗なところしか見ない公爵令嬢サマなんて、すっごく、お似合い!」
チェルシーはまた狂ったように笑う。
ようやく、夜会に参加している男たちが我に返る。
「貴様! 王子を侮辱するのか!」
男たちが呼んだ従僕に身柄を拘束して連れて行かれるにもかかわらず、チェルシーの甲高い笑い声は夜会の会場に響き続けた。自分がこれから迎える運命の冷酷さを既にわかっていて狂ってしまったかのように。
チェルシーは王子の命を狙った暗殺犯として処刑された。
そして、あの騒動でがきっかけととなり、すべての貴族の実地調査がおこなわれた。身寄りがなくなって親戚を頼っていた女性たちには王宮の仕事が紹介されて自立し、未成年者は未成年が通う寄宿学校が設立されてそちらに移った。
チェルシーの母親のような立場の女性たちが保護され、それであの騒動は有耶無耶にされた。
男爵の庶子だったチェルシーは母親を男爵から自由の身にすることだけは叶ったのだ。
何故、今、あの時のことを思い出したのだろうとシンシアは自問自答する。
「あんたのような奴が施しを受けられると本当に思っているの?! 他人の亭主を寝取る泥棒猫がそんな資格があるとでも思ってるの! ホント、これだから娼婦なんてやっている厚顔無恥な奴は嫌なのよ。あんたにあげたら、その分、善良な人たちの分が減るのよ? わかる? あんたは他人の亭主だけじゃなくて、貧窮院を頼ってきた善良な人たちの食事も横取りしているの!」
目の前で貧窮院で働く中年女性ががなり立てていた。
罵倒されようがシンシアは頭を下げる。王子に婚約破棄を突き付けられた時に論破した姿はもはや影も形も見えない。
「本当に申し訳ございません。それでも、もう三日も食べていないんです。お願いいたします」
騒動が収まり、女性たちが保護された後になってから、シンシアは親戚の家に預けられた。修道院に入れた事実も、領地の片隅に幽閉することも厭われた結果だった。
シンシアが父親から厭われた理由。それは婚約破棄されたことではなく、その場で論破して王子に恥をかかせたことにある。
あの時、シンシアが許されていた言動はショックを受けて泣き崩れることだった。衆目のある場所で王子への口答えをおこなうのは、王子に恥をかかせる行為なので不敬罪に問われる。
王子があまりにも馬鹿馬鹿しいことをしたから不敬罪には問われなかったが、シンシアは親戚預かりとなった。父親の保護下から外されたのだから、どこかに嫁に出されることもまずないだろう。
実の父親から厭われ、親戚に押し付けられたシンシアはチェルシーが語っていた父親を失って弱い立場になった女性そのもの人生が待っていた。厄介者だったシンシアを親戚は使用人として扱き使い、愛人にし、妻にバレると容赦なくその身一つで屋敷から追い出した。
シンシアは実家を頼ろうとしたが、門番すら取り合ってくれなかった。
チェルシーの母親たちを救った救いの手はあの一度きりで、シンシアが救われることはなかった。
公爵令嬢として生まれ、王子の婚約者として育ったシンシアは街の娼婦として生き、その過酷な生活で身体を壊して貧窮院に頼る羽目に陥っていた。
貧窮院の女性に頭を下げることすら、もう、慣れた。はじめは「好きでこんな身の上になったわけじゃない」と反論していたが、そんなことをしても何も変わらないことを身をもって知った。何を言われても頭を下げ続ければ、貧窮院の女性も少しは気が済んで施しをしてくれるかもしれないが、正論をいくら説いても施しはもらえない。
女性の社会進出や職業が限られている状態で、娼婦こそが女性に広く門戸の開かれている職業だった。時には庶民出身の娼婦が貴族と結婚する出世話もあるが、その社会的役割は男性のストレスを緩和し、治安を悪くしないようにする必要悪の職業でもある。
娼婦という職業に功罪はあるだろうが、一般的に女性たちからは夫や息子を誑かす職業だと思われている。
それをシンシアは身をもって知ることとなった。そして、娼婦になってしまった女性たちが普通の女性として生活できるように支援してくれる人々の支援があることも。
かつて、その国には女性の地位向上を叫んだ女性がいた。その女性は王子たちに女性の窮状を訴えて処刑された。
民衆はそう伝え、後世の学者は旧家の屋敷から見つかった日記や手紙からその女性が実在の人物であったことを裏付ける。
婚約破棄の現場には貴族たちだけでなく、貴族の付き添い婦人や付き添い婦人を兼ねた家庭教師、そこで働く従僕やメイドといった民衆に近い立場の者もいた。
貴族たちは王子の婚約破棄を日記に面白おかしく書いたり、男を馬鹿にしたチェルシーやシンシアへの憤りを書き記した。貴族夫人は自身や知人などを振り返り、チェルシーを支持する日記や手紙を書いた者もいた。
付き添い婦人と家庭教師たちは主人の愚痴を漏れ聞いた屋敷の使用人に聞かれて、この騒動のことを話して満足させ、知人とこの騒動について手紙のやり取りをした。
従僕やメイドは職場や友人知人との噂話でこの話をし、出入りの商人もこれを経由して知った。
そして民衆は、付き添い婦人と家庭教師、従僕やメイドの話を知人や商人経由で知ることとなった。
民衆の中には貴族からの乱暴狼藉を受けた者がおり、そんな家族や知人のいる者たちはチェルシーのしたことを忘れなかった。彼女は自分の階級のことしか言わなかったが、被害者はどの階級にもいる。
こうして、民衆の間で女性の地位向上を叫んだ女性がいたと伝えられることとなった。
女性が財産を管理するだけでなく選挙権を得た世の中となり、学者の裏付けがとれて以降、その国の教科書にはチェルシーの名前が女性の地位向上を唱えた第一人者として記され、彼女が処刑された刑場は整備され、銅像が建てられて人々の憩いの場となっている。
娼婦を保護し、社会復帰を支援する施設がチェルシーによって親戚から自由になった女性とその協賛者によって作られたことや、その施設にチェルシーの母親の遺産が寄付されたことは、その施設の記録にだけ残っている。
婚約破棄劇で悪役令嬢がハイスペックな第一王子や他国の王子とくっつくのが、男尊女卑な時代は一番、波風立たないざまあなんですよね・・・。