竜姫 母と出会う 後編
連続更新3話目
シュナは深呼吸をした。少しだけ、母にかけるべき言葉が分かってきた気がする。言いたかったことを一つずつ思い出す。とても勇気のいることだったけれど、彼女はゆっくりと息を吸って、今度は母を正面からじっと見上げた。
《でも……でもね、お母様。わたくし……ここにずっといてほしいというお願いは、聞けないかもしれない。お外に……》
凛と放つつもりだったのに、やはり場がそうさせるのだろうか、声が震えてしまう。
母は消え入る娘の言葉の余韻まで聞いてから返した。
《外に出たいの?》
存外優しく、穏やかな口調だった。駄目だと頭ごなしに否定される可能性も考えていたシュナだが、励まされるように再び声を上げる。相変わらず震えを伴っていたが、少し前よりはわずかに張りが出てきた気がする。
《そう……そうなの。だから、お母様と一緒に永遠にここで眠っていてと言われるのは……困るの。だってわたくし……いるの》
《いるって……誰が?》
《……会いたい人が》
母は黙り込んだ。シュナは緊張してごくりと唾を飲み込む。
母竜は――けれど迷宮内部で繰り返しシュナにしたような、一方的な暴力性は見せず、静かに、ただ静かに、娘に問いかけた。
《その人は人間? 外の世界の人? ……そうでしょうね。シュナ、それなら、あなたがわたしの娘とわかったら、別れなければいけない時が来るかもしれない。あなたはファリオンの血を引いている、だからわたしと違って、外の世界でも生きていける。わたしがそうできるように身を裂いて祝福した。だけど外の世界の人間はあなたを人間とは思えない。……ファリオンはそれで殺されたのよ。あなた自身もそうなるかもしれない。あなたの考えている人がそうなるかもしれない。死ぬよりもっと辛い目に遭うって想像できる? 目の前で愛しい人がむごたらしい目に遭わされても何もできない。それをあなたにさせろと言うの? ……わたしに?》
ぐらりとシュナは視界が揺れたのを感じる。
それは――ずっとシュナも考えていた可能性で、考えたくなかったことだった。
そして、目の前の人が口にすると、圧倒的に重さが違う。
実際に最愛の人を失った母の言葉は、何よりも痛みを与えた。
《……それでも外の世界に行きたい?》
《ええ》
けれど母が確認するかのように問うた言葉への返答は、短く素早かった。力強く、また震えていることもない。
ピンと背筋を伸ばし、小さな竜は言った。
《わたくし、世界を見たい。わたくしを呼んだ人と一緒に》
もし彼女の目覚めが母によるものだったら、大人しく母に従っていたかもしれない。
余計な事なんて考えず、大きな手に包まれて、安心の中に揺蕩っていられたかもしれない。
けれどシュナは自分で目覚めたのだ。
――あの人の呼び笛で、夢から覚めた。
呼ばれたから、応えた。呼んで、応えられた。
黒の鎧。赤い髪。金の瞳。屈託のない笑顔。
「置いていくわけないじゃないか。君は俺の竜だ」
一人はもう嫌だ。その叫びを聞き届けて、最初に手を差し伸べた人を忘れろなんて――できるわけがない。
たとえもし、その先に待っているのが別れだと知っていても。
《一緒に行こうって言われたの。だから……》
また声が震えた。鼻をすする音も添えられる。
母は黙っていた。じっと娘の顔がぐしゃぐしゃになる様子を見つめ――ふっと表情をほころばせた。
《シュナ。わたしがどう見える?》
思いもよらない反応に、シュナはぽかんとした。目を丸くして、困惑する。
《どうって……?》
《竜達からもう聞いているかもしれないわね。わたしね、あまり状態が良くないの。こうして落ち着いていられるのは、今ではもうとても珍しくなってしまった。きっとあなたが一緒にいるおかげね。だからあなたを守ると言ったけれど、本当はそれも難しいかもしれない。今のわたしは、わたしでいられる時間が少ない。わたしの記憶や人格は壊れかけている。女神のシステムと、あなたの母親としての意識が、かろうじてわたしを保っているだけなのよ》
母の言葉は静かだった。母の顔は穏やかだった。ただ、言葉だけが残酷だ。彼女がまともに話をしているように見える分、余計に。
《あなたの希望を受理するのは……正直相当抵抗がある。くどいようだけど、わたしはもう既にファリオンを失った経験がある。あなたまでそうしたくはない。だからまだわたしが冷静でいられる今のうちに、誰も来られないような深いところに隠してしまいたいの。それがわたしの一番の根源的欲求》
可憐な少女のような、それでいて妖艶な美女のような、なんとも蠱惑的な微笑みを浮かべ、母は歌うように囀る。
《でも。あなたが外を、人と共に在ることを望むなら。きっと止めるだけが母のすべきことではない。わたしは誰よりあなたの気持ちも知っている。星を夢見る気持ちは止められない……だからわたしはあの人を愛したし、別れも決断した。あなたに同じことをするなと言うのは、きっと女神だとしても傲慢すぎるのでしょう》
一回り大きな竜は首を下ろし、そっと娘の目元に舌を這わせる。ぺろりと涙を拭ってから、彼女は大きく身を引いた。
《次に会ったら、わたしはあなたを問答無用でわたしの一番奥に閉じ込めようとするかもしれない。あなたの声がわからず、問いに応じられないかもしれない。もう少し……いいえもっと、たくさん、いっぱい、してあげたいことがある……でも、わたしの時間は、理性は、長くは保たない。それならわたしはあなたに何ができる? きっと見送ること、だけなのでしょうね》
《――お母様》
《竜達を頼りなさい。迷宮の番人達。わたしであってわたしでないもの。危険からお前を守り、有益な助言も与えるでしょう。たとえ外の人間が――そしてわたし自身でさえもが。お前に牙を剥いたとても、彼らは最後までお前に尽くすでしょう。この迷宮でただ一人の姫。彼らの所に行きなさい。助けが必要なときは》
母に近づこうとする娘を鼻先で押しやり、母竜は翼を広げる。
彼女が羽ばたくと花畑に強い風が吹いた。母から娘を引き剥がすように。身体がどんどん後ろに引っ張られる中、シュナは母竜の吠える声を聞く。
《お母様――!》
《さあ、お行き。母が正気を失ってお前を飲み込む前に、出てお行き!》
ばたつかせるように広げた翼が風に乗った。散り惑う花びら達と一緒に舞い上げられ、シュナの身体は宙に浮く。翼に力を込めると身体はぐんと進み、上がっていく。
《わたしの姫。わたしの至宝。わたしをお母様と呼んでくれた優しい子――》
追い風がシュナを迷宮の中に、けれど母からはずっと遠いところに連れて行く。
歌うような声がずっと頭の中に響いていた。




