迷宮 大木の間
見えない糸で、引っ張られた。
そんな感覚で、足を一歩踏み出す。
すると地面が消えた。
間違えて穴に落ちたというより、今まで立っていた場所がなくなったのだ。
咄嗟に鎧で体を庇うが、構えてもいつまで経っても衝撃が訪れない。
長く続く落下の中、手足を広げようとしたデュランは、鋭い叫び声を聞く。
「浮遊せよ!」
ふわりと柔らかいものに包まれるような緩衝を経て、落下は止まった。
姿勢をなんとか取り戻しつつ顔を上げると、ゆっくりと降ってきたユディス=レフォリア=カルディが杖を構え直している。
「言ったでしょう、貴方が望んだらその場に入り口が開くと」
「言ってたけど……ちょ、ちょっと予想外だったというか」
引きつった顔で答えた後、デュランは周りを見回す。しかしどこを向いても霧のような靄のようなものがかかっていて、居場所がはっきりしない。
「俺たちは今……浮いている、のか?」
「はい。そういう術をかけさせていただきました。あなたの鎧ならば高所から落ちた程度で死にはしないでしょうが、移動には不便ですし、グレードダウンしている面もあるようなので余計な傷は負わないに越したことはないでしょう」
相変わらず正論吐きの神官にいまいち返せる言葉がなく曖昧な相づちを打った竜騎士を余所に、彼女はどこか中空に濁った目の先をさまよわせ、少し経ってから「ああ」と何かに納得するように声を上げた。
「ここは第三階層――いえ、大木の間でしょうか」
「何かわかるのか? 俺には全体的に霞がかってて、全然遠くが見通せないんだ。一応上下はなんとなくわかるけど」
「なるほど、貴方の目ではそうなるのですね。どうやら大きな木……のようなものが、下に積み上がっているようです。外の世界では早々見られない……まるでどこかの遺跡の柱にも似た、枝はさほど多くない木です。」
視力を失いつつある術士だが、言動から察するに術で別の目を作り出しているのではないかと推察できる。そこから実際の視界とは異なった、辺りの情報を仕入れているのだろう。
彼女の言葉に頷いて、デュランは顎に手を当てる。
「確かにそれは、大木の間に生えている木の特徴と一致する。けど……下に積み上がっている、だって?」
「ですね。すべて枯れているように感じられます」
「枯れた、か……もしここが本当に大木の間なんだとすると、いきなり投げ出されたことといい、この霧といい……俺たちの知っていた時と、随分様変わりしているな」
「空間の位置関係も、中の状態もかなり悪化しているようですね。正規ルートの入宮でこうなるということは、第一階層、第二階層は消失しているやもしれません。第三階層もエリアCは怪しいですね」
再び神官の言葉に竜騎士が曖昧な反応になると、同じように考える仕草を取っていた彼女が気がつき、苦笑する。
「ああ、これは失礼。あなた方の言い方ですと、待機所、砂の間、大地の間の事です」
「えーと……つまり、初心者向けマップが軒並み消えていると?」
「臣の推測では。おそらく現在の迷宮では、ここが最も優しい階層なのでしょう」
「全体的に難易度が上昇している、普段のつもりで行くと思わぬ苦戦を強いられるってことだな。わかった、引き続き気を引き締めていこう」
そうと決まれば、と歩き出そうとした竜騎士だが、現状それが少々難しいことを思い出し、同行者に困り顔を向けた。
「それにしても、こう、入ってきた場所すらわからないとなると……どっちに向かえばいいと思う? ただでさえ、大木の間はだだっ広い場所にぽつぽつんと木だけあって、方向感覚がなくなりやすい場所なのに……」
「では笛を。それが常に貴方の道しるべとなるはず。臣よりもむしろ、貴方の方が終着点を知っているはずですよ。鎧を賜った御身ですから」
神官は彼女にしては柔らかな雰囲気で促した。
それはそれで、なんかやりにくいな……とこっそり内心思いつつも、竜騎士は素直に胸元の笛を再び手に取る。
すると今度は息を吹き込むまでもなく、手の中に収めた時点でふるりと笛が震えた。
「……下、だと思う」
「それではそちらに向かいましょう」
「あと、枢機卿。つかぬ事をお伺いしますが……え、宙を歩くって、どうやるの? 姿勢の保ち方はなんとなくわかるけど、うわわ、なんか、足踏みが空滑りする……!?」
「自分の立っている所を地面と定義するのです」
「ごめんもう一声」
「……歩きたい、立ちたいと思う所に、道があることをイメージしてください。あるいは飛んで着地したいと思う場所に、壁や地面があるとお考えください」
「竜がいなくても空を飛べるって便利だなって思ってたけど、癖があるな……」
この年にしては大分人生経験豊富な方と自負している男だが、竜に乗って空を飛ぶ事ならば呼吸のごとくできても、自分で宙を歩くのはどうにも感覚が慣れない。
しかし教官が同行していることと元々の勘の良さのおかげで、少々ぎこちなくはありつつもすぐ歩く形ならばできるようになった。
上下移動はまだ制御が難しいため、階段を降りるイメージで下を目指しつつ、根気よく付き合ってくれる女神官にちらりと目をよこす。
「カルディ、その……」
「なんです?」
「法国では、迷宮についての研究が盛んなの?」
「……質問の意図を量りかねますね」
「その、俺よりも詳しいように思えるっていうか。実際、ファフニルカの一族がこの地にやってきたのは百年前の事だし……」
「ああ……もしや臣の言葉ですか? あれは随分と心なかった。許せとは言えませんが、気にかけすぎる事でもありません」
デュランの知らない迷宮の事を知っているような風情だったり、神殿でやり合ったときに吐き捨てられた言葉だったりが、地味に心の中に残っていたのである。
なんとなく訪れた間を持たせがてら訪ねてみれば、彼女は苦笑して一度打ち切ろうとするも、少し考え込む。
「百年前、帝都の消失はあらゆる面に多大な損失をもたらしました。皇帝は帝都を至上としており、故に一極集中を求めた節もあり、断絶した知識と技術もあります」
ややあってから黙秘するより共有する方がいいと考え直したのだろうか、ふわふわと水の中をたゆたうように浮かびながら、ユディスは言葉を続ける。
「けれど星神教が興り、法国が立国する前から、臣の生まれ故郷には元々術士達が多く集まっていました。例えば本来帝都のみ保存されているとされる禁書――その写し、あるいは正典から不適切と削除された外伝、あるいは秘密裏に継承され続けてきた我々独自の伝承――そういったものが、帝国から離れていたおかげで災厄を免れることができた。臣が知り得ている迷宮の知識とは、そうしたものです」
「そっか……あのさ、ユディス。結局、迷宮って――」
更に続けようとしたデュランだが、言葉を打ち切り、足を止める。
大分下ってきたおかげか、霧の中にうっすらと終着点が見えていた。ユディスが言っていたとおり、かつて幾多の竜と共に飛び回った大木達の慣れ果てが力なく地面に散らばっている。
そしてその残骸の上、四つ足を踏ん張り、うなり声を上げている影があった。
大きな三つ首の犬は、獲物が自らのテリトリーに踏み入った気配を感知し、毒の息を吹き出して待ち構える。
「ケルベロスですね」
「それと次の階層への入り口、か」
霧のせいで相変わらず視界は悪いが、犬が踏ん張っている背後、折り重なって倒れている大木の中に更に下へと続く穴のような闇がぼんやり開いている。
しかし耳を澄ませてみれば、獣の声は一つきりではない。どうやら他にも魔物がいて、冒険者達を囲み、飛びかかる隙をうかがっているようだった。
「……慣れない空中戦で頑張ろうとすると事故の予感しかないので、降りて戦ってもいいですか?」
「ご自由に、合わせます。ただし援護はしますが、攻撃はさほど期待しないでください」
「了解。それじゃ、三、二、一……行くぞ!」
足下に地面を思い浮かべるのを止めた瞬間、がくりと体が落ちる。
着地の衝撃で煙が立ち上がるが、それよりもようやく実際の地面を得られた感触に気分が高揚する。
飛びかかってくる犬に、竜騎士は息を吸ってから、大剣を振り抜きざま切り下ろした。




