覚悟
ある種の儀式のようなものだが、シャワーは最後必ず冷水で締める。
法国の人間なぞは終始冷水らしいが、さすがにそこまで自分に厳しくはなれない。ただでさえ迷宮潜りともなれば、長い間ゆったり湯に浸かる事もできなくなるのだから。
湯船に浸かっている暇はない。手早く蛇口を閉め、乾かし、服を着込みながらついでに持ち物の最終点検も始める。
足りないだろうと予想される、かつすぐ補充が見込める物は、部屋に帰ってくる途中寄り道をして仕入れてきた。万全かと言われると断言はできないが、少なくとも常の冒険に対して何か不足しているという状態ではない。
今回は過不足や後悔を絶対に残したくない。
文字通り鞄をひっくり返して、中身は全部並べた。
道具はどれも手に馴染む使い慣れたそれだ。
特級冒険者ともなれば、与えられている鞄も特級品、重さも容量もほとんど気にせずに済む。けれどそれは、逆に不必要な物まで詰め込んでしまうということにもつながりかねない。後で取り出す事も考え、慎重に一つずつ詰めていく。
不意に探り当てた物を顔の前に持ってきて、停止した。
それは白い笛だ。見慣れなければ通常の冒険者の装備している救命笛と何ら変わりないが、竜の鱗から作られている。
彼は片手をそのままに、逆の手で胸元をあさった。
襟元から取り出したのは、別の笛だ。晴れた日の青空のような、澄んだ青色をしている。
二つの竜の笛を並べてから、青い笛を胸元に提げ直し、白い方を荷物の中に詰め込む。
まだ手元にある、彼女の一部。それはこれから挑む最奥への道しるべであり、一筋の希望でもあるように思えた。
一方で、青い笛を得てからもずっと、冒険に持参し続けている昔の笛。
鎧を得てからは全く使う機会がなかった。まして今は、シュナの逆鱗があるのだ。
それでもなぜか、このお守りを手放す気にはなれなかった。
再びの――そして、最後になるかもしれない大冒険ともなれば、なおさら。
持ち物チェックしていた手が今度持ち上げたのは、小さな手帳だ。
パラパラとめくると、日付のページにぐるぐる大きな丸が書いてある。
思わず笑ったが、妙に切ない気分がこみ上げた。
最初に拾ったのは嵐の夜、森だった。
……いや、迷宮の奥深く、見知らぬ揺り籠から生まれ落ちるのを見た。
真っ黒な目には、いつもきらきら光が輝き、それは竜であろうが人であろうが――ああ、思い返してみれば、何も変わらなかった、いつだって全く同じだったのに。
――あんなん見れば普通じゃないってすぐわかるじゃん? でもまあ、これ全部つながるなって確証は、リボンだなあ。あれでわかったよ――。
トゥラは。
前に、リボンを渡してきたことがある。
飾りのついた、丈の長いピンク色のリボンだ。
彼女にではない。シュナにあげた。トゥラには白い髪飾りを贈った。
思い返してみれば、あれは「シュナは自分だ」と訴えていたのだ。
それなのに自分ときたら……。
(人は竜になれない。竜は人になれない)
この断絶を埋める術はない。
ただ一つ例外があり得るとしたら、それは女神イシュリタスその人であろう。
彼女はかつて、一人の男に愛を乞われ、与えた。
すなわち、竜が人となった。
(だとしても、迷宮の生き物は、何であれ外に出ることはできない)
この掟は女神すら超えることはできない。
これもまた百年前に例外を持つが、契約を破った彼女は重たい代償を背負い、今では全盛期の力を失っているとされる。
(いくつもの常識に縛られて、見落とした)
ではなぜ例外が生じたのか。なぜ代償を背負わねばならなかったのか。
単純な話だ。一つの例外が、もう一つの例外を生み出した。
(違う。ただ、気がつきたくなかったんだ)
女神が生み出す願望の実現器を、宝器と称す。
故に、全ての願望の頂点に君臨するそれは――。
(この例外は、あまりにも重すぎる)
――迷宮の至宝、と称さねばなるまい。
(仮にもし、あの時真実に気がついていたら)
それを手にした者は、誇張でなく世界を統べる事となる。
(それこそ俺は、あの場で彼女と別れる決断をしなければならなかったのかもしれない……)
旧き世界の終焉を導き、新しき時代の女神を賜る。
……だが果たして、娘を託すに足る、と女神に納得させることの出来る人物が、この世に実在しているのだろうか?
思考の中に閉ざされかけた意識が、落ちる前に取り戻された。
自失している場合ではない。悔恨に打ちひしがれている時間もない。
硬く握りしめた拳が、小さな装丁を崩しかけていることに気がつく。
慌てて盛り直しそっとなぞれば、ひとまずは元に戻ったようだ。
そっと息を吐き出した後、手帳は机のすぐ下の棚の中にしまい込む。
(これは地上で必要になる物、だ)
残されている物が存在しないことを確認して、鞄の蓋を閉じる。
ひときわ美しいナイフの輝きを確かめてから鞘に収め、足にくくりつける。
ベルトを締め、ボタンを留め、手袋を嵌め、鏡をのぞき込んで両頬を叩く。
「――よし」
思い残す事はない。いつもと全く同じだ。
ただ、今回の冒険は、少し長くなる予定。それだけのこと。
大きく深呼吸した後、特級冒険者は自室から足を踏み出した。




