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誠は黙って玄関の扉を開けた。
両親は、ともに正社員として働いているので、昼間のこんな時間には誰もいなかった。
霧峰静香は、近所だからと、マンションの前まで来てくれた。涙が止まらなかったので恥ずかしかったが、独りで家に帰ってくるよりは気が休まった。
どうやら霧峰静香は、通りを挟んだ向かいに住んでいるらしい。たまたま逆の方向の小学校に通っていたのと、静香はいつも女友達と遠回りして帰るので、今まで気が付かなかった。静香も驚いていた。
誠はキッチンの椅子にドサリと座って、まだ止まらない涙を手で擦り取った。
何もするつもりにはなれなかった。
松崎さえ虚勢を張らなければ、全ては上手く落ち着いていたはずだ。
なんだって、今頃、松崎は僕を呼び出したりしたんだろう?
推薦が決まって、急に今までの自分の素行が気になりだしたのか?
それなら、なおのこと大人しくしていれば良かった。みんな受験で忙しいのだから、今さら松崎がどうとか言う奴がいるわけもなかった。
高校入学まで、長い春休みを取ったって悪くはないはずだ。
僕の録音だけが物的証拠だから心配になったのだろうか?
誠はスマホをポケットに出して、録音を消した。
それから大きな溜息をついて、家族で使っているリビングのパソコンに行き、自分のパスワードを入れて、録音を消した。
後は、部屋の机の引き出しに入っているDVDだけだ。これは消去できないから、破棄するしかない。
部屋まで行ってDVDを手に取ったが、考え直して机に戻した。
なんだか、これぐらいは持っていないと悪いような気がした。
決して好きな奴ではなかったが、今になって考えてみると、このDVDしかなかったんじゃないか、という気がする。
奴を本気で相手にする人間はいなかった。ガラの悪いやつでさえ兄の背中に隠れてコソコソ悪さをする松崎を馬鹿にしていた。むろん、女子も相手にしかなっただろう。
もしかして…。
本気で奴の相手をしたのは、会話を録音して奴に対抗した僕だけだったのかもしれない。
「本当に馬鹿だ…」
誠は録音を聞き直してみた。
根本的な失敗をしていた。
相手に名乗らせていなかったのだ。
一言、誠が、松崎君、と相手を呼び、相手が否定しなければ、録音は重要な意味を持ったかもしれないが、あれでは松崎が、この声は自分ではない、と反論すれば、誰も証人はいない。
二人っきりだったのだから。
だから、何も気にしなければ、松崎は来年の四月には、新しい制服に身を包み晴れやかに笑っていられたのだ。
新しい学校でも兄貴を嵩にきて悪さをしたのかもしれなかったが、もしかしたら少しは大人になったかもしれない。
好きな女の子でも出来たら、良い人間になろう思ったかもしれない。
そもそも奴に悪い兄さんなどいなかったら、あいつ自身では人から金を脅かしとるようなマネは出来なかったはずだ。そうしたら、少しはまともな奴だったのかも…。
誰も松崎を本気で相手にはしなかったから、誰も本当の松崎を知らない。
好きな女の子も、好きな漫画も、家で何をしていたのかも知らない。
唯一、生きている松崎がいるとしたら、このDVDだけではないか? 残された家族に聞かせられるような物ではとてもなかったが、ここには確かに、あの馬鹿で嫌な奴の松崎が生きたままで存在していた。
学生服を脱いで、裸のままベッドに寝、毛布にくるまった。
とても眠れないだろうが、起きていても胸で暴れる感情を止められない。
どうやら誠は、そのまま寝入ってしまったようだ。