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誠は机に俯いて、地下鉄マップを熱心にスクロールしていた。
隠すようにスマホを弄っているのは鉄道ファンだと勘違いされるからだ。実際、誠は鉄道ファンではない。電車のデザインも色も全く興味はない。
そうではなくて地下通路を含めて、東京の地下を無数のトンネルが巡っている事実が誠を魅了するのだ。
例えば銀座駅。
日比谷線、銀座線、丸ノ内線が互いに交差しながら複雑な地下迷路を作り上げている。
渋谷駅は銀座線に加えて、東急東横線に田園都市線。京王井の頭線に副都心線にみなとみらい線、半蔵門線などが混ざり合って、もっと複雑だ。
都市の下に、ダンジョンのように広大な空間が広がっていることを思うと、不思議に時間を忘れて路線図や構内図に見入ってしまう。そして自分の足で歩きたくなってくる。
だから誠にしてみれば、電車に乗っている時間はスマホでもしてやり過ごし、渋谷なら渋谷の地下に着いてからが本当の楽しみだった。
全ての地下通路を歩き倒し、全ての出口から出て、地上のどこと繋がっているのか確認したい。地上の街まで含めて、全てを頭に入れるのが誠には楽しかった。
休日には、小遣いの続く限り街を歩いたりしていた。知らなかった地味なビルが、実は地下鉄と直につながっていることを発見したりするのが、誠をワクワクさせた。
「小田切君?」
霧峰静香が声をかけて来たので、誠は驚いて、肩を浮かせてしまった。慌ててスマホを消して霧峰静香に顔を向けた。
「なに? 霧峰さん」
霧峰静香は地味な生徒だった。大人しく、友達は同じような地味な子たちばかりで数人のグループを作っている。部活には入っていないらしく、毎日グループで帰宅していた。
だが、誠が大人しい人間なのを見抜いたのか、最近、ポツポツと喋りかけてくる。
それ自体は誠にとっても嫌なわけはない。
よく見れば霧峰静香は顔も整っているし、小柄で可愛らしい。
ただ、誠は時々、独りになりたい性分で、ずっと仲間、友達と話し続けるのは気疲れした。
「小田切君、今朝のニュース見た?」
内心の動揺を隠し、誠は、朝、寝坊したんだ、と笑って見せた。
誠の経験上、笑顔を見せるのが、常に一番無難なコミニケーションだった。
「高円寺の駅の近くででね、人殺しがあったのよ」
静香は声を潜めた。
「へぇー」
言葉少なに誠は答える。
昨晩から、あの事件の対応をどうしようか、考え抜いていた。結局、自分の乏しい演技力を思えば、出来るだけ発言を控えて、微かな反応で乗り切るのが一番だと思った。
色々喋れば、ニュースや新聞に載っていない事実を洩らすことになるかもしれない。その場は切り抜けられても後々噂にでもなれば、まずい結果になる。
影と指切りしたら無事逃げられた、なんて自分でも信じられないことだ。
それは絶対に喋ってはいけない、と誠も思ったし、指切り以降、誠の心の底に残留している影も、喋るな、と言っているように感じた。
「怖いよねぇ」
静香の言葉に誠は、うん、と頷く。
「高円寺って、中野や阿佐ヶ谷に比べて、怖い感じの人が多いよね」
話をそらした。
だが静香は、頷いたうえで事件を説明しだした。
「犯人は首まで地面に埋まっていたんだって」
「えっ?」
言葉少なに驚くふりをする。
「犯人は麻薬の常習者だったらしいよ」
「ああ…」
心から良かったと思って、誠は大きく頷いた。
薬で狂っていたのなら異常行動も、それほど目立たないような気がした。本当に良かった。
初めて心からの笑顔を発した時、嫌な奴が顔を覗かせた。
三組の松崎颯太だ。
松崎は体の小柄で、別に運動神経がいいわけでも頭がいいわけでも無い。
だが一個上の学年に兄がいて、総合格闘技をやっているとかで、見るからに恐ろしげな風貌をしていた。そのため、誰も松崎には逆らわなかった。
裏では良いことを言う奴はいないが表立っては無難に付き合っている。際立って親しいやつはいないが仲間のフリはしていた。
前から松崎が、大人しい、弱々しい男子を選んで恐喝まがいのことをしているのは、学年で知らないものはいない。本当の屑だと誰もが思っていたが、学校側に言い立てるものは誰もいなかった。
その松崎も、兄が卒業した今年からは大人しくなるだろう、と誠は考えていたが、現実には違った。
松崎兄は、聞けば誰でも逃げ腰になるような不良校に進学し、同時に神を金髪に染め、都心では見かけないような特注の学生服を着て街を闊歩しだしたのだ。
松崎弟は増長した。
それにつれ、恐喝行動も増えたようだが、誠に因縁をつけてきたのは五月になってからだ。
誠が一人でトイレにいるのを見ると、松崎は金を貸してくれ、と言い出した。学校に財布は持って来ていないと断ると、明日持ってこいと言う。
その時はチャイムが鳴ったので、そのまま振り切って教室に入ったが、翌日、松崎は律義に教室に誠を呼びに来た。
溜息をついて、誠は松崎の後をついて、三階の階段を上がり、屋上に出る扉の前まで付き合った。
「財布は持って来たんだろうな?」
「何の事?」
誠がとぼけると、松崎は顔を真っ赤にして誠の襟首を掴んだ。
「金を出せと言っているんだ!」
「襟が苦しいよ。手を放してくれないか?」
「うるさい、もっと苦しくしてやる」
松崎は手を捩った。
「なんで、僕が君にお金を払わなくっちゃならないんだ?」
「うるさいって言ってるんだよ! 黙って金を出さないなら兄貴に言うぞ」
「僕を脅すのか?」
「うるさい! ただじゃ済まさないぞ!」
そこまで話して、誠は松崎の手首を掴み、力づくで腕を引き剥がした。
「さて、今までの会話は全て録音したからね」
ポケットを叩いた。
「君が僕を脅迫したことは、今、君が認めた。
君だって高校ぐらい行きたいんだろ? この録音が表に出たら、君、たぶんお兄さんの高校にも入れないよ。れっきとした犯罪だからね。
君が僕に付きまとわなければ、僕は君に何にもしない。今まで通り、お互い無関心でいればいい。
僕は正義の味方じゃないし、自分に危害さえ及ばなければ君が何をしようが気にしない。
今までだって僕は君に何もしていないだろ」
顔をますます赤くした松崎の肩を叩いて、誠は階段を下りた。
「僕が欲しいのは自分の平穏だけなんだ。お願いだから構わないでくれ」
「そんなもん、兄貴がすぐに取り上げて…」
「なら早くするんだね。今日中にパソコンにダウンロードして、コピーも何枚か作るよ。僕が怪我でもしたら、それこそ! 判るだろ」
行って誠は教室に帰った。
それから松崎は、表立っては誠に脅かしはかけてこなかった。
擦れ違いざまに肩をぶつけたり、たまに靴箱にゴミが入ったりはしていたが。
一度、クラスが体育の最中、松崎は誠の教室に入り込み、何かをしようとしたらしい。だが忘れ物を取りに来た女子に見つかり、悲鳴を上げられて、慌てて逃げだした。
悲鳴は教師も聞いていたので騒ぎとなり、松崎は職員室に呼び出された。それ以来、松崎は誠のクラスに顔を出さなかったのだが…。
「小田切君、ちょっと用があるんだ」
松崎らしくもない、浮ついた言葉遣いで誠は呼ばれた。
「小田切君、行くことは無いよ」
霧峰静香は囁いた。誠は溜息をついて席を立った。
「あいつは色々面倒だからね。逆らわない方が良いんだよ」
一瞬、松崎の顔に微かな笑みが浮かんだ。
誠は嫌な予感がしたが、今さら引き返すわけにもいかなかった。
ありがとう小田切君、などと空々しく言って、松崎は前と同じように屋上に向かう階段を上がる。
「ほっといてくれ、って言ったよね」
誠は松崎の背中に言う。が松崎は呟いた。
「お前に弱みを握られてんのが、ムカつくんだよ」
押し殺した声で言った。
同時に、松崎は誠の腕を引っ張った。
不意を打たれて、誠はつんのめった。
屋上のドアにぶつかる。
「あんまり音を立てない方がいいんじゃないの?」
誠は、自分でも驚くほど冷静だった。
前の時は、実のところ生まれて初めて足が震える経験をしたのだ。
松崎はポケットから何かを取り出し、誠の顔に近づけた。
小型のナイフだ。といっても十二、三センチの長さはある。とても工作用とは言えなかった。
「録音を消せ。コピーは全部持ってこい。
そうしたら、言う通りに、ほっといてやる!」
誠は思わず笑ってしまった。
「僕が、これで全部だよ、って言ったら君は信じるのか?」
松崎の目に驚きの色が広がった。それは考えていなかったらしい。
「てめぇ、ニタニタ笑ってんじゃねぇぞ! 刺されないと分からないのか!」
誠は合点がいって、噴き出した。
「この時期にむきになるって事は、推薦だね。どこかに推薦入学できるんだ。良かったじゃないか。君がそれで気が済むんなら、コピーを持ってくるよ」
松崎の顔色が、蒼黒くなっていた。ナイフを持つ手が小さく震えている。
「てめぇ、何かしやがったら…」
「しないって言ってる」
へらっ、と松崎は笑い。
「信用できるのか、ってお前は聞いたよなぁ。
考えてみたら、その通り。お前は頭がいいよ。信用できねぇ」
しまった、言い過ぎた。
誠は後悔した。松崎を追い詰めてしまったようだ。
「落ち着けよ。推薦が取れるんだろ? 今、騒ぎを起こしたら、全部終わりだぞ」
「ムカつくって言ってるだろ。お前のナメた態度が気に食わねぇんだよ。
泣けよ。泣いて謝れよ。助けてくださいって、泣いてお願いして見せろよ!」
口から涎がたれていた。
明らかにおかしくなっている。
推薦を取るまでに相当なプレッシャーを受けたのか、そもそも、ずっと兄貴頼りだったのが、ナイフを持ったのでハッタリではない自分の力が備わったとでも思ってしまったのか?
元々、誠に脅かしをかけてきたのも、自分より下だと見たからだろうし、それを簡単に跳ね返され、逆に脅かされてプライドが傷ついていたのが、凶器を手に入れたことで爆発してしまったのか?
ともかく、落ち着け、などと言っても、この逆上は止められそうになかった。
だが、泣けと言われても、すぐに泣けるような器用な涙腺を誠は持っていない。
松崎は、ついにナイフを振り上げた。
目が異常だ。
誠は、同じ目を、昨日、目撃していた。
突然、昨日の恐怖がよみがえった。
「泣け!」
松崎が叫んだ時、その姿は、誠の目の前から消えていた。
誠は、松崎が落ちたのが分かった。
ちいさな、どん、という音が聞こえた。
やはり…。
誠は、自分でも驚くほど冷静に考えた。
感覚を澄ますと、松崎が一階まで落ちたことが、なんとなく分かる。
そして、即死していた。
何の感慨も浮かばなかった。
むろん、喜びもなかったが、恐れもない。
ひと…、殺したんだよな?
思ったが、足が震えることもなければ、松崎が願ってたような涙も流れなかった。
僕ってこんな人間だっけ?
飼っていた犬が死んだときは大声で泣いた。
捕まえた虫が死んだときも悲しかった。
だが今、誠は、何の感情の動きも自分の中に見つけられなかった。
席に戻ると、霧峰静香が心配そうに声をかけた。
「大丈夫だった、小田切君」
誠は自然と笑顔を浮かべていた。
「ああ。世間話をしていただけだよ。嫌な奴だけど、別にいつもそう、ってわけじゃないよ。どこかの高校に推薦入学が出来るって、喜んでいたよ」
授業が始まり、しばらくは静かな時間が続いた。
やがて全ての授業の中止と、先生を職員室に呼ぶ校内放送がスピーカーから流れた。数学の谷川教諭は自習を宣言し、教室を後にした。
それでも受験を控えた三年の教室は静かだったが、やがて救急車とパトカーが尋常ではない台数、校庭に飛び込んでくると、さすがに生徒は窓に殺到した。
その時、隣のクラスの女子が飛び込んできて、後輩から聞いたという話をまくしたてた。
「松崎が変態に殺されたんだって!
体、ぐちゃぐちゃらしいよ! シャツとズボンがナイフで切れ裂かれて、まっぱだったって!」
ナイフを持ったまま落ちると、そんなことになるのか、と誠は変な納得をした。
教室では、まだ学校に変態殺人者がいるかもしれない、と大騒ぎになったが、担任の教師が飛び込んできて騒ぎを沈めた。
「警察が学校中を点検した。
犯人はもう逃げ去っている。昨日の事件といい、立て続けに変な事件が起こっているが君たちは受験生だ。心を乱さないで勉強に集中しなければいけない」
生徒は、列を作って下校することになった。
どこに変態殺人者がいるか分からないので、必ず複数で下校するように、と諭され、誠たちは校舎を後にした。
一階の廊下は青いビニールが一面敷き詰められ、黄色いテープがこれでもか、と言うように何重にも張り詰められていた。
中学生が、変な好奇心を出さないように、ということだろうが、それが判るほどに冷静だったのは、おそらく学校で誠だけだったろう。