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シャドーダンス  作者: 六青ゆーせー
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思わぬ時間がいてしまい、今週は2話目です

そのビルは汐留の外れに立っていた。

七十二階建ての高層ビルだ。

総合商社として、世界的に有名な会社の自社ビルであり、世界七十五ヶ国に支社を持つ世界企業の本社ビルだ。

このビルが建設された当時、会社の支社は七十二ヶ国であり、だから七十二階建てになった、というのはニュースでも盛んに取り上げられた、数年前に出来たばかりの最新鋭ビルだった。


誠が小指を落とした夜、このビルの七十二階、招かれないで入室できるのはこの世に四人、社長当人と第一秘書、警備主任とその夜のチーフ警備員だけという豪奢な社長室の扉が、音もなく開いた。


社長、長沼勇作は窓に顔を向け、東京湾が望める地上三百二十七メートルの夜景に目を向けながら怒鳴っていた。


「振り込まれていないってどういうことだ? 相手は国家だぞ! もう二十年の付き合いだ。振り込まれないわけがないだろう!」


黒い霧のような物が部屋の中を薄く漂っている。

長沼は見ていなかったが、部屋の扉が開いたのも、扉の隙間から侵入した霧がドアノブを包み込み、カチリ、と回したためだった。


「製品に間違いは無いんだろうな? マグロが三百本、腹子二千発、アメリカ産の最新式で間違いないんだろうな? 連中、臍を曲げたら何をするか分からんのだぞ。それでなくともラマダーンで気が立っているんだからな」


長沼が不意に黙った。

全面の窓ガラスに中途半端に開いた自室のドアが映っていることに気が付いたからだ。


「誰だっ!」


清掃員が、チーフ警備員に伴われて来るのは早朝で、今の時間、鍵を持っているのは自分か秘書か警備員だけのはずだ。だが長沼は、当然、人払いを命じている。

秘書でさえ知らない極秘の商談だ。

最新鋭ステルス無人戦闘機マグロを二千発のミサイル弾と共に係争中の国家に密輸するプロジェクトなのだ。

それがアメリカ製の最新鋭正規品であれば、地域紛争は米国を巻き込んだ大規模な国際問題に発展する。

それ自体は世の中にとっては好ましからざる事態のはずだ。

が事前に知っているなら話が違う。

世界中の株から金融市場、物の流れがすべて変わり、それを自分だけが知っているのである。


莫大な利益を生み、独り勝ちに近いアドバンテージを会社にもたらしてくれるはずだ。

そのタイミングで動く事業も一つや二つでは無い。

関係会社を含めれば膨大な数の新企画が、紛争の拡大と同時に動く段取りだった。

世界がもたつく間に、自社だけが大きく伸びる。

その最初の一手なのだ。躓くわけにはいかない。


「残念ながら、お金は入らないわよ」


半ば開いたドアから漏れる、黒い霧の中から少女の声がした。


「マグロは海に帰ったわ。商談は決裂よ」


長沼は、いつの間にか部屋が薄暗くなっていることに気付くべきだったかもしれない。

だが、数十分をかけて、少しづつ影が満ちてきた部屋の明るさに気が付くのは、どんなに鋭敏な感覚を持つ人間でも難しい。


「お前、一体誰だ?」


姿の見えない少女に向かって、慎重な声で問い質したのは、長沼も、腐っても世界企業の社長として、そこそこに肝が据わっているからだろうか?

子供の声に、御しやすさを感じたのかもしれないが…。


「影よ…」


少女の声に長沼の顔色が変わった。


「ば…馬鹿を言え! このプロジェクトが成功すれば、日本は再び浮上するんだぞ! 中国もアメリカも問題にならないほどの利益が出るんだぞ!」


「あなたも影を知っているなら、どこがNOと言っているのか分かっているはずよ」


長沼は呻いた。


「内調…」


「重大な国際犯罪なのは分かっているはず。

そして、もし、あなたの会社が立件されれば、日本の国際的な信用はボロボロになるわ。

この会社も潰れるかもしれないわね。それを避けるには、あなたがここで死ぬしかないのよ。

CIAが嗅ぎつける前にね」


長沼は声のする方角を睨みつけていた。

握っている受話器をゆっくりと下す。

内線ボタンを押せば、自動的に警備室に通じる。

世界七十五か国に支社を持つ、この会社の警備部門は、腑抜けた日本の警備員とは訳が違う。

今日のチーフ警備員もグリーンベレーに十年在籍したつわものだった。


危ない瞬間ほど腹が据わる。

それが、長沼が社長まで上り詰めた重要な資質の一つだ。

只のエリートなど、この会社には捨てるほどいる。

事実、毎年、無数の元エリートを会社は事もなく捨て去っていた。

くだらない学歴などでは、一国家にも等しい、いやそれ以上ともいえる国際企業を運営することなどできないのだ。


長沼は、受話器を持つ薬指を微かに伸ばした。

ゆっくりと指をボタンに近づけていく。

引き金を絞るようにゆっくりと…。


危うい状況ほど、ゆっくりとした呼吸を行う。

若い頃に自然と覚えた精神安定法だったが、長ずるにつれ、禅を学び、その呼吸法を身に着けていた。


鼻から吸って口から吐く。


ゆっくりと、ゆっくりと。


無論、相手に呼吸を悟られるのも、化け物ぞろいの実業界では禁物だ。外から分らぬように、一息を何十秒もかけて行う禅の呼吸を意識する。


長年の参禅の結果、長沼は数回の呼吸で、いつも静謐な禅堂に座っているのと同じ精神状態に心を落ち着かせることが出来るようになっていた。


だが…。


長沼の鼻腔が突然に塞がった。

息は口から吐ききっている。


慌てて口を開こうとしたが、ぴったり塞がった口は全く動かない。


「がっ…」


長沼は喘いだ。


いつの間にか、部屋の中には無数の漆黒の蝶が飛んでいた。


ふふふっ、と少女は笑い、無駄よ、と告げた。


「あたしの影は黒い蝶。

蝶で、この部屋の防犯カメラも、集音マイクも熱感知センサーも塞いでいるの。

あなたの顔もね。

あなたは誰にも気づかれることなく、ここで息を引き取り、この国は何事もなかったように明日を迎えるのよ」


長沼はブラックアウトした。

盛大な音を立てて、頭を高級クルミ材の一枚板を使った机にぶつけ、昏倒した。


「ふふふ」


笑いながら、黒い霧の中から少女が姿を現す。


黒い大きな帽子に包まれた、小さな、幼い顔が、無邪気に微笑んでいた。

黒いブラウスに黒いスェットを合わせ、手にも黒いスエード地の手袋をつけている。

細い指先が長沼の耳の下に当てられ、脈拍が無いのを確認した指が、汚いものを掴んだように空中で二回振られる。


「さて…。

家に帰るまでが遠足ね。それにしても七十二階を降りると思うと、溜息しか出ないわ…」


呟き、影の中に消えた。

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