カーテンコール
もしくは、未来という名のいつかの明日。
今度こそ正真正銘の完結です。約二年間、ありがとうございました!
ぐるり、と体が中空で回転する、あり得べからざる浮遊感。
微睡みの中から無理矢理引きずり出され、レグナ・フェリドゥーンは目を白黒させる。一体何が起こっているのか、まるで理解できなかった。取りあえず落下の気配があるのでなんとか受け身を取りたいのだが、寝起きの手足がさっぱり言うことを聞いてくれず、どうにも失敗の未来しか見えない。
着陸姿勢は運悪く、ベッドから上半身だけをだらりと投げ出す格好になってしまった。ゴツン、という嫌な音がして、後頭部に鈍い痛みが広がっていく。思わず、カエルの潰れたような変な声が出た。これは酷い。ここ一週間でトップクラスに悪い目覚めのような気がする。
これはどういう状況だ……などと内心でぶつぶつ呟きながら、レグナはその上体をベッドに戻す。
するとすぐ横に、線の細い少女の姿があることに気付いた。
絹糸を思わす青い髪。瞳の色は空の色。きめ細やかな肌は触れば柔らかそうだが、表情は極めて固く強張っている。どうやらお怒りのご様子。
「……トゥレハか……おはよう……」
「おはようございます、兄さん」
耳心地の良いメゾソプラノ。朝の訪れを告げるのは、二つ年下の実妹、トゥレハ・フェリドゥーンだった。もうすぐ十六にもなろうというのに朝に弱い、だらしのない兄の世話を焼いてくれる良い妹である。
首筋あたりで二つに分けられ、纏められた髪が、長く腰辺りまで伸びているのが特徴的。昔レグナが結んでやったところ、妙に気に入ったらしく愛用している。正直シンプル過ぎるというか、可愛らしい髪型にしてやれなかったのがレグナとしては黒歴史なのだが……女の子の感性と言うのは不思議なものだ。
そんな彼女の右手には、自分がつい先ほどまで被っていたと思しき毛布と掛布団が、両方一緒くたにされて握られていた。ああうん、理解した。おそらく自分はあれにくるまって、アスパラガスのハムロールみたいなことになっていたのだろう。それで彼女が、端っこを勢いよく引っ張った。すると自分の身体はくるくると回転しながら宙を舞い、そのまま間抜けにもベッドの上に墜落した、と……。
「いつまでベッドと仲良くしているんです。そのままヤドカリにでもなってしまうおつもりですか?」
仁王立ちを続けるトゥレハは、レグナをじっと見つめたまま、その視線で何かを問いかけてくる。内約は間違いなく、「何か反省することは?」だ。流石に分かる。ごめんなさい。
でもなんとなく彼女の推測がツボにはまってしまって、レグナは脳裏でその様子を妄想してしまった。巻貝上に重ねた布団の殻で、ぬくぬく朝を過ごすヤドカリみたいな自分……なんとゆったりした時間だろうか。
「あぁ……それも、良いかもな……」
「駄目です。兄さんは人間です。ヤドカリではありません。さ、いい加減に起きてください。お着換えは手伝いますから」
「う~ん……」
まだちょっと眠い。正直右手の掛布団を返してもらって、そのまま再びハムロール続行としたいのだが。
「……いや待て。何でトゥレハはいそいそと俺の服を脱がしているんだ?」
「お寝坊さんな旦那様のお召し物をかえるのも妻の役割だからですがなにか? 常識ですよ」
「そうなのか? トゥレハは俺の妹であって奥さんではないから、気にしなくていいと思うんだが」
言っている意味がよく分からず首をかしげると、トゥレハはそんなことは気にするな、と言わんばかりに飛びついてきた。そのままレグナのパジャマ、そのズボンに手を掛けると、瞬く間にずりずりと下ろしていく。
「そう仰らないでください、私が好きでやってることですので。ああもう兄さん、また古い下着を履きましたね? 今新しいものに取り換えてさしあげますから――」
「待ってくれトゥレハ。流石にそのくらいは自分でできる。できるから……」
「ちょ~~~~っと待ったぁぁぁああああッ!!!」
金糸雀の鳴くような、可愛らしい声がした。勢いはまるで可愛くなかったが。鉱山をそのまま破壊してしまいそうな勢いさえ感じる。
ぴしゃぁん! と鋭い音を立てて、部屋の窓が勢いよく開く。そこからごろごろと転がり込むように、小柄な少女が突入してきた。目の覚めるような金色の髪。ふわりとなびくそれは豊かで、顔を埋めたらよく眠れそう。
彼女は赤と青の混ざったような、綺麗な色の瞳に警戒の炎を燃やして、トゥレハのことをキッと睨みつける。
「おはよう、ルーシェ」
「うぇっ!? 起きてたのおに……お兄様……おにい……お兄ちゃん」
「うん」
今日も朝から元気がいい。レグナは二人目の少女の様子に、思わずにこにこ笑ってしまう。中々呼び方が安定してくれないのは、彼女自身の性分だ。昔からレグナと対面すると、色々な行動を一つに絞れない。レグナとしてはそこが可愛いところだと思っているのだが、本人は結構気にしているらしく、指摘されると怒りだす。なので極力触らないようにしたのは、もう四年くらい前のこと。
ルーシェ・フェリドゥーン。これまたレグナにとっては二歳年下の妹であり、そしてトゥレハにとっては同い年の妹にあたる。
年が同じせいなのか、なにかと張り合うことの多い二人。今朝はどうやら、レグナの朝の処遇についての対立とみえて……。
「……って思い出した! トゥレハ! あんた! 何してるのよ!!」
「あなたまで同じことを聞きますか。兄さんのお着換えを手伝っているだけですよ」
「んなわけ! ないで! しょうが!! どう考えてもそれ以上の行為に及ぼうとしてたでしょ今! 大体お兄様嫌がってるじゃない、今すぐやめなさい!!」
「二年間総計で百二十四回に及ぶ注意を受けてなお窓から入室する、不届き者のあなたから咎められる筋合いはないはずですが。土足での入室は兄さんが嫌がるのでやめろと言ったはずですよね?」
「うぐっ……そ、それは……こっちの方が部屋から近いし……」
「はぁ、これだから配慮に欠けるオコサマは……」
「その言葉、そっくりそのまま返してやるわ!!」
ぎゃいぎゃい騒ぎながら、トゥレハとルーシェは取っ組み合いの喧嘩を始めてしまった。昔は大分心配したものだが、今ではこれも、彼女たちにとって一種のスキンシップみたいなものなのだと理解した。「そのわりには所かまわず暴れてね? 建物の一個か二個くらい倒壊しそうじゃね?」というのは友人の言なのだが、二人が本気で潰し合うと街が一つ潰れる可能性があるので、まだまだ可愛いものだと思う。
しかし……そうか。ルーシェが訪ねてきた、ということは、今日は『あの日』だ。昨日眠る前に随分楽しみにしていたのだが、トゥレハにたたき起こされたときにすっかり抜け落ちていたらしい。今更ながらにワクワク感が湧き上がってきた。
クローゼットの横、丁度真正面に置かれた衣装鏡には、半裸になった自分の姿がはっきりと映っている。
ぼうっ、とその光景を観察。体つきは細い。呪術師としてある程度鍛えているので、全く筋肉がついていないわけではないが……格闘型の法術師や魔術師たちと比べれば、所謂『もやし』の部類だろう。
背もあまり高くはない。顔立ちは整っているほうだ、と言われるが、瞳の碧色が綺麗なこと以外は、さして自信のある顔でもない。
ああ、なにか誇れることがあるとしたら、それは髪の毛だろう。切ったのが一か月前なのでぼさぼさになり始めているが、光の当たる内容次第で色の調子を変える髪は、今は深い青色をしていた。同じ髪色を持つ母は、それを「海の色」なのだと表現していた。毎年夏になると見に行く、あの美しい景色を、自分の髪を見る度に思い出せるのは、レグナにとっては数少ない自慢のひとつだった。
……髪の色、と言えば。
「ところでトゥレハ」
「はい? なんでしょう」
きょとんと首をかしげる妹の、まばらに下の色が露出し出した髪の毛を指差す。
「髪の毛、金色に戻り始めているぞ」
「えっ!?」
びくり、とその方が跳ねた。彼女は慌てて姿見の前に身を躍らせると、僅かに見返りながら長い髪の『色落ち』を視認した。
「やだ、染め直さないと……! ああ、最悪ですっ! よりにもよって兄さんに見られるなんて……」
「何回も染色し直すと、髪の毛が傷んでしまうと聞くが」
「それでも嫌なんです! 兄さんとお揃いではなくなるのが……!」
ふむ、そういうものなのか……レグナは心のメモに、新しい知見を書き込んでいく。
トゥレハの青色とレグナの青色は、まるで違う色といっても良い。確かに、部屋の明かりに照らされているときのレグナの髪は、今のトゥレハのそれと似たような青色をしている気がするが……そもそもレグナの髪は髪質の問題なのか、当たる光の種類はおろか、角度でも細かく色を変えていくのだ。ヘアカラーで再現するのはほぼ不可能。
にもかかわらずこの妹は、健気にも「兄さんと一緒が良い」と、極限まで近い色を探して染め上げているのである。
レグナとしては彼女本来の、淡い金色をした髪の毛が大好きなのだが……大切なのはトゥレハ自身がどう思っているか、というところだ。レグナの好み一つでどうにかできるところではあるまい。
そんなことを思っていると、小馬鹿にしたような表情で、ルーシェがトゥレハを煽り立てた。
「ふん、髪の毛の色一つでひびが入る繋がりだなんて……随分と脆いのね!」
「なんですってこの万華鏡女」
「……っ! 人が気にしてることを……!」
また喧嘩が始まってしまう。今度は殺気もより激しい。二人の闘気の上昇に反応して、大気中の法力が活性化。僅かに空気が光を放ち始めてしまった。
あ、まずい、と、直感的に察した。法力はまずい。圧力が変動した瞬間に、下の階にすぐバレる気がする。なんせ相手は史上最年少の『特級法術師』にして、大気法力全てを掌握することも可能と謳われる『女神』である。
そしてその予想は、階下から放たれた怒号によって、真実であることが証明されてしまった。
『いつまで騒いでいるんですか。朝ごはんの時間ですよ、いい加減に下りてきなさい!!』
雷が落ちた。
いや、当然比喩なのだが。実際に雷を落とすのは『お母様』のほうである。しかし怖さは段違いだ。優しい時が極端に優しい都合上、どうしても彼女が怒っているととんでもなく恐ろしい。
ぎ、ぎ、ぎ、と、油の切れた人形みたいになってしまったトゥレハとルーシェ。レグナは苦笑すると、二人の手をついと引いた。
「いこう、トゥレハも、ルーシェも。喧嘩はまた今度、な」
「……はい……」
「お兄ちゃんがそういうなら……」
うん、それでいい。
レグナは二人を引き連れて、とん、とん、と階段を降りていく。
リビングまで顔を出すと、丁度一人の女性が、テーブルの上に五人分の朝食を並べ始めたところだった。
高く結われた、腰上まで届くポニーテールは、自分と同じ海の色。
聖霊の削った調度品かと見まがうほどに美しい顔立ちや、所作に見られる細かい癖は、トゥレハと驚くほどそっくりだ。瓜二つ、というのは、多分こういうことを言う。
厳密には、自分たちの方が彼女に似ているのだ。
なにせ、女性――マイヤ・F・フェリドゥーンは、自分とトゥレハの実の母親なのだから。
頭脳明晰、容姿端麗、史上最年少で異能者たちのトップ、『特級法術師』の座に就いた、正真正銘、最強の法術師、『天則の光輝女神』。レグナの自慢の母である。
中央大陸東部のビーチで会った、ライオンみたいな顔をしたおじいさんが、「やはり似るものなのですなぁ……」といたく感激していたのをよく覚えている。どういうことなのか問うたときにははぐらかされてしまったが、聞けば父とその両親もよく似ていたそうなのだ。多分親とよく似た見た目になるのは、抗えない血の性なのだろう、と。
その分、実力の方でも、母や父に並ぶ偉業を打ち立てることが、レグナとトゥレハには少しだけ、期待されているような気がしていた。父も母も、他の家族たちも、みんな「そんなことは気にしなくていい」と言ってくれる。レグナ自身、自分は彼らと同じようにはなれないと知っているので、特に気にしていない。
でも……凝り性なトゥレハは、ちょっと違う。
トゥレハが髪を蒼く染めるのは、多分レグナとお揃いが良いから、という理由以外にも、この完璧すぎる母に少しでも迫りたい、行く行くは超えたい、という、向上心の表れだろう。
「おはよう、母さん」
「おはよう、レグナ。降りてきたところで悪いけれど、イルヴィを起こしてきてください。まだ眠っているみたいで」
「分かった」
微笑みと共に与えられた依頼に頷くと、レグナは来た道を戻って二階へ上がる。ぴくりとも音がしなかったのでとっくに起きていると思っていたのだが……というか、母さんのあの怒声でも起きないとは、我が妹のことならが相当の胆力である。
『Ilwestra』と書かれた木の札が下げられた、子供部屋の前までくる。何度かノックをしてみるものの、ちっとも応答が返ってこない。
「イルヴィ、入るよ」
ドアノブを回すと鍵は掛かっていなかったので、心の中で一つ謝りながら、少女の部屋のドアを開ける。
途端に、桜色の壁紙に所狭しとメルヘンな飾り付けがされた、ファンシーな内装が視界一杯に広がってきた。白いレース付きのカーテンが、うっすらと開いた窓から吹き込む風にはたはた揺らめいていた。
床の上には開きっぱなしの絵本や、てのひらサイズの小さなピアノ、西方大陸を中心に活躍する玩具メーカー、『エリックシール・トイズ・インダストリー』のマスコットキャラクターのぬいぐるみが転がっている。
そんな部屋の中央には、強烈に目を引く天蓋付きの巨大ベッドが一つ。
ゆっくりと上下する、こんもりと盛り上がった掛布団を見て、レグナは小さく苦笑した。どうやら、お姫様はまだお休みのご様子だ。
「イルヴィ、起きろ、イルヴィ」
「んぅ……」
上下する山をゆさゆさゆする。甘い吐息が尾を引くものの、そのまま何の反応も帰ってこない。意を決して、布団をばさりと剥ぎ取ってみる。
中からごろりと、可憐な少女が転がり出てきた。
天の川を思わせる、豊かで艶やかな銀色の髪。
閉じられた瞼を縁取る、長い睫毛の色も銀。今は見えないが、その下の瞳は右が目の覚めるような真紅、左が吸い込まれそうな碧だ。
陶器を思わす滑らかな肌は淡く桃色に上気していた。どうやら、昨夜は少し暑かったらしい。パジャマの胸元が大きくはだけて、十二歳という年の割には随分育った豊かな胸元がちらちら見え隠れ。薄っすらと開かれた桜色の唇も相まって、瑞々しい印象を与えてくる。
何よりも特徴的なのは、その側頭部。銀の髪の間から伸びる、緩く湾曲した黒曜色の角――魔力結晶角だ。体内の魔力量:法力量の比重が、魔力に傾いている体質をあらわすこの特徴は、十数年前まで『魔族』と呼ばれていた人たちの証。
こんなに愛らしい寝顔を見せてくれるのに、昔は邪悪の化身だなんだと恐れられていたというのだから驚きだ。
「ほらイルヴィ、朝だぞ。いつまで寝ているつもりなんだ」
「うぁ……にぃ……もうたべられない、よぉ……」
少女はぷにぷにと柔らかそうな頬を緩めて、そんな寝言を口にする。その様子に、レグナは思わず吹き出してしまった。
ついさっきまで自分も似たような状況であったことを完全に棚に上げ、仕方ない子だなぁ、と呟くなどする。眠り姫の睡魔は、中々払うことができないのだ。
と、いうわけで、彼女に一番効きそうな脅し文句を口にしてみる。
「朝ごはんを食べる時間がなくなってしまうぞ」
「いや!!」
カッ! と両目が開かれて、勢いよく起こされる上体。危うく額と額がぶつかりそうになってしまう。大きくレグナが飛びのくと、少女はゆっくりこちらを向いて、それからぱちぱち、短く瞬き。
「……あれ……にぃ……?」
「おはよう、イルヴィ。よく眠れたか?」
イルヴェスタ・フェリドゥーン……愛称はイルヴィ。レグナにとっては三歳年下、三番目の妹にあたる彼女は、今朝も随分とお寝坊さんだ。
幼い顔を柔らかく緩ませ、彼女はこくりと頷いた。
「ん……おはよ……にぃ……にぃのゆめ、みてた……おかげでぐっすり……」
「そっか、ならよかった」
彼女と話をしていると、こっちまで優しい気分になってくる。
「取りあえず、まずはご飯を食べよう。それから、母さんかトゥレハに頼んで、めいっぱいおめかししてもらおうな」
「……おめかし……?」
「ああ」
首をかしげる彼女に、今日が『あの日』であることを告げる。それは未知の世界との邂逅を告げる冒険の合図。同時に、自分たちにとっては優しい『再会』の印でもある。
「今日は待ちに待った旅行の日だぞ」
***
朝食を終えると、同時に、レグナたちは各々、リュックサックやトランクに荷物を詰め込み始める。ある程度皆準備は終わっていたようで、三十分もする頃には迎えの馬車に乗り込むことができていた。
舗装された道路を進む高速馬車は、瞬く間……正確には二時間と二十五分後……に目的地、中央大陸の中心たる通称『央都』へたどり着く。昔はたどり着くまでに何日もかかっていたと聞くから驚きだ。
「凄い人の数だな……」
長期休暇が始まったばかり、というのもあるだろうが、央都の『駅』周辺は大勢の人でごった返していた。妹たちにアイスクリームでも買ってやろうと思っていたのだが、先を行く母の姿を追うので精一杯だ。
ふと、隣に並んだルーシェが、おずおずと問うてくる。なんだろう? 随分と恥ずかしそうだが……。
「あの、おに……おにいさ……お兄ちゃん、はぐれないように、手を繋ぎたいんだけど……」
「ん? 構わないぞ」
「あ゛っ、抜け駆けは禁止ですよルーシェ」
「ふーんだ! 早い者勝ちだもん!」
こんな街中だというのに、姉妹は言い争いを始めてしまった。そのまま結局手をつなぐことはなく、ルーシェとトゥレハは並んで口論しながらずんずん先へと行ってしまう。
あとにはレグナがぽつんと残された。ふと、とことこと隣まで近づいてきたイルヴィが、開いた右手をこっちに向けて差し出しながら、顔を真っ赤にしているのに気が付く。どうやら、競争に乗り遅れた者が一等賞のようである。
「……繋ぐか?」
「……うん……!」
嬉しそうに笑うイルヴィ。彼女の小さな手をぎゅっと握ると、彼女はぴくり、と肩を震わせて、恥ずかしそうに俯いた。そのまま反対の手で、銀色の髪を隠すように被った、黒いベールの裾をつまんでしまう。照れている時の癖だ。
そのまま暫く歩いて行くと、目的地……『南方都市行き』の札が下がった、改札口へと到着した。
その入り口で、きょろきょろとあたりを見渡す女性が二人。
一人は、イルヴィと同じように黒いベールを被った、銀髪赤目の女性。
もう一人は左右で色の違う瞳を持った、豊かな金髪の女性だ。
「アリアちゃん、エリナ」
「まいや! あっ、みんなも!」
「全く、遅いですわよ!」
似たようなデザインのトランクを脇に置いていた彼女たちは、やはり同じデザインのトランクを引いた母が近づいて行くと、目ざとくこちらに気付いてきた。
「ママ!」
「お母様!」
同時にイルヴィとルーシェが走り出すと、各々、自分と外見がよく似た方の女性の胸に飛び込んでいく。
銀髪の女性は、名前をアリア・T・フェリドゥーン。金髪の方はエリナ・C・フェリドゥーンといった。
レグナや妹たちと同じ苗字を持ちながら、マイヤと同じく旧姓を挟む名前。そして妹たちから、自分がマイヤを呼ぶように、母と呼称される二人は、レグナにとっては『二人目、三人目の母親』とでも言うべき存在だった。
そう、レグナの妹たちは、三人とも同じ父親を持ちながら、別の母親から生まれた所謂『異母姉妹』なのである。トゥレハはレグナと同じくマイヤを母とするが、ルーシェの母親はエリナ、イルヴィの母親はアリアだ。イルヴィがレグナと似ても似つかない見た目に、魔力結晶角を持つのは、母親が純血魔族と呼ばれる、非常に地位のあるトゥランの女性だから。
そのアリアは家柄を感じさせな人懐っこい笑顔を浮かべながら、愛娘と戯れていた。普段は表情の薄いイルヴィも、今ばかりは満面の笑顔。
「げんきだった?」
「……うん……!」
今や有角であってもそれを隠さない時代にあって、イルヴィが角を隠そうとするのは、きっと彼女の影響だろう。子供っぽい無邪気なところをいまだに残す彼女は、どうやら昔からの習慣が抜けないらしく、それを実娘にも教え込んでしまったらしい。二人して癖が治らないタイプだったのが災いして、余計に彼女たちを個性的にしていた。
「ル~シェ~! まーたトゥレハと喧嘩しましたわね!! お仕置きですわよ!!」
「ぎゃぁ~っ! やだっやだやだ許してお母様!!」
一方のエリナ、ルーシェ母娘と言えば、騒々しさ全開でトゥレハ対ルーシェの喧嘩にも勝るとも劣らない取っ組み合い。エリナは背が高い――昔は幼女と見まがうほど小柄だったというのだから驚きである――ので、体格差的に母の圧勝であったが。
「良かった、丁度ぴったりの時間だったみたいだな」
後ろから、声を掛けられた。自分の全身が湧き立つのを感じた。この瞬間を楽しみに待っていたのだ。クラスメイトたちが言うところの、「憧れのヒーローと会う」感覚。レグナにとってそれは、今の声の持ち主だ。誰よりも格好良く、誰よりも優しい、レグナの自慢の『救世主』。
最後に会ったのは去年の聖ミトラ祭の時だ。デーヴァローカ大陸の暗黒領域、その探索が難航しているらしく、呪術師として最前線を切り拓く彼は中々帰ってこれなかったのだ。
だから母の友人一家に会うため、南方都市行きの旅行が計画された際、彼も同行すると聞いてから、ずっとワクワクしていた。
振り向けば、自分とよく似た見た目の男性が、丁度こちらに近づいて来るところだった。頭一つ分ほど背が高いので、どうしても見上げる格好になってしまうが、それが自分が、彼に追いつくために必要な距離と時間のように見えて、なんだかやる気が湧いてくる。
トゥレハの本来のそれと似た、金色の髪が風に揺れる。
アーシェローカの『救世主』と呼ばれた男。
マイヤ、エリナ、アリアの三人にとっては、深い愛慕を捧げた夫。
そしてレグナたち兄妹にとっては、父親たる人物。
シュウ・フェリドゥーンが、電車の切符片手に、そこにいた。
「おはよう、レグナ。元気そうだな」
「父さんもおはよう。……元気というのは、見てわかるものなのか?」
「そういうものらしいぞ。俺も学生時代の先生から聞いただけだから良く分かっていないが」
交わした会話の数は少ない。色々と話したかったのだが、言葉が喉につっかえてしまって、中々出てこないのだ。
……けど、大丈夫。旅行の日取りは長い。まだまだ、彼と言葉を交わす機会はある。
一方のシュウはというと、マイヤに近づいてぺこりと謝罪。
「マイ、待たせてごめん」
「もう……遅いですよ、先輩」
「悪かったって……切符売り場が込んでいたんだ。流石に開通してすぐは乗りたがる人が多いな。当日引き換えの事前予約にしておいて正解だった……荷物持つよ。疲れただろう」
「このくらい大丈夫ですよ。でも……折角だから、甘えさせてください」
「お安い御用だ」
そのままトランクとリュックサックを全部受け取って、自分のそれと合わせて運んで行ってしまう。「あ、ちょっと、先輩! 流石に全部は危ないですよ!」などと叫びながら、マイヤがそのあとをついて行ってしまう。
なんというか……父と並んでいると、母はいつまでも年若い少女のように見える。二人とももうすぐ三十代の半ばになるはずなのだが、まだまだ反応が初々しいカップルのそれ。
その一方で、つかず離れず、程よい距離を保ちながら、ゆったりと睦言を交わし合う様子は熟年夫婦のそれだ。時々レグナは、両親の事がよく分からなくなってくる。
ちょっと離れたところからその様子を見守るエリナとアリアも不思議な存在だと、今更になって思う。友人に曰く、一夫多妻、あるいは一妻多夫の家庭というのは、色々と奥さんや旦那さん同士の関係が難しいと聞くが……彼女たちは皆、凄く仲がよいというか、互いの立ち位置を把握しきっているような印象がある。
出会ったのは学生の頃だったと聞くが……この旅行の間に、なにか教えてもらえるのではないだろうかと、ちょっと楽しみにしていたり。
「むぅ……私には兄さんと節度ある距離を保て、とか言うくせに……」
「仕方ないさ。母さんと父さんが会える時間は限られてるんだから」
隣でむくれるトゥレハをなだめる。母は特級法術師として、父はデーヴァローカ大陸の探索者として、日々家を空けることの多い生活だ。心は常に共にある、なんて格好つけたことをよく言っているけど、でもやっぱり、触れ合える時には目一杯愛し合いたいのだろう。
「行こう、そろそろ汽車が出発してしまうぞ」
「はい、先輩」
「了解ですわ、お兄様!」
「は~い」
父の呼びかけに答え、ぞろぞろとゲートをくぐっていく母親たち。慣れた歩幅は彼らの過去、現在、未来……紡ぎ、重なり、繋いできた道を、うっすらとだが、次の時代に向けて伝えてきているようだった。
「……俺たちも行こうか」
「では私は兄さんの隣の席でお願いします」
「あっ、ちょっ……ずるいわよトゥレハ!」
「……ん……わたしも、にぃのとなりが、いい……」
レグナもまた、妹たちに呼びかける。まだ父たちのように、仲良く歩いて行くことは難しそうな気がするけど……もしかしたら、この騒がしい距離感が、自分たちの道を創っていくのかもしれない、と、なんとなくそう思う。
かくて英雄譚の幕は下りる。有角の槍を携えた救世主の物語は、ここに今度こそ完結を見せた。
かくて英雄譚の幕は上がる。なにせ時代はこれからも続く。流れていく時間は遠くどこまでも未来へ繋がる。
そこに待っているのがどんな明日なのかは、また別の物語。
駅のホームの狭間から見えた、どこまでも続く線路の道と、その上を蓋う青い空。
それはきっと、この先に待っている新たな世界を指し示している――
「うん、それだったら、俺は嬉しい」
レグナは一つ、呟いて。
家族を追いかけ、汽車のタラップを駆けあがるのだった。




