第十八話『無限の螺旋に讃美を捧げよ』
拡散する光。裏返っていく世界は万華鏡のごとく輪転し、シュウの視界をぐるぐる、ぐるぐると入れ替えていく。目に映るものの何が真実で、何が錯覚なのかさえも分からない、不思議な空間の中を、ただ茫然と揺蕩うばかり。
どのくらいそうしていただろうか。ほんの一瞬だったかもしれないし、あるいは数時間、もしかしたら何日もそうしていたのかもしれない。曖昧になった時間感覚が元に戻っていくのにつれて、空間の乱反射も終息した。
空も、大地も、白。雪のそれとも、雲のそれとも違う、ナニモノでもない白。
淡くぼやける地平線だけが唯一黒い。にじんでいる、というべきかもしれない。懐紙に墨を垂らしたような、境界の分かりづらい黒い線。
その景色を、何とはなしにぼんやり見つめ続ける。不思議なものだ。夏にみんなで船に乗ったときも思ったが、地平線や水平線というのはどうして、ああもうっすらと白んで、どこか空間と時間の歪んだような景色を見せるのだろう。いまはもう懐かしい。あのときは彼方に極東大陸の島嶼部が見えて、いつかマイヤを故郷へ連れて行くと――
――そうだ、二人はどこだ!?
はっと我に返る。
「マイ、エリナ、いるか!?」
素早く周囲を見渡しながら、若干焦り気味に叫んでしまう。あんな奇怪な転移の仕方をしたのだ。もしかしたらどこかへはぐれてしまっているかもしれない。その場合一体どうやって彼女たちの所在を探し当てればいいのだろう。そもそもこの空間、果たしてどこまで、どういう形で広がっているのだろうか?
とにかく、じっとしていては始まらない。シュウは二人の姿を探して、白い大地へ一歩を踏み出した。
と、ほぼ同時に。
「先輩!」
「こ、ここですわお兄様!」
視界右側からマイヤ、左側からエリナがそれぞれ姿を見せた。どうやら、心配は無用だったらしい。とくにおかしなところはない様子。取りあえずのところ、ほっと一安心。直前まで姿が見えなかった、ということは、やはり何か、空間に異常があるのだろう。もしくはこの場所が、認識するまで相手の姿を見つけられないような……そういう、特殊な場所なのかもしれないが。
二人ともこの、のっぺりとした、それでいて温かさと奥行きのある、ただただ白いだけの空間が珍しいのだろうか。きょろきょろとあたりを見渡しながら、思い思いの感想を述べていく。
「どこですの、ここ……なんにもなくてちょっと不気味ですわ」
「私は逆に、少し落ち着く気分ですね……先輩のベッドと、同じような……」
そこまで言いかけて、マイヤは急に口をつぐむ。淡く頬を朱色に染めてそっぽを向くその様子、随分久しぶりに見たような気がする。昔は怒っているのかと勘違いしたそれは、彼女がものすごく照れている時の表情。あんまりにも不意打ちだったものだから、こっちまで恥ずかしくなってしまう。
「……今のは忘れてください」
「あ、ああ……」
「この息を吸うようないちゃいちゃにいい加減慣れて来てしまった自分を殴りたい気持ちでいっぱいですわ」
エリナの、呆れたような目線が飛んでくる。シュウに、というよりは、自分自身に対して注いでいるようだ。恋敵と想い人の交わす睦言に慣れてくるというのは、暗に二人の関係性を肯定していると言えよう。それが彼女としては微妙に悔しいらしい。
そんな義妹の髪の先が、薄く向こう側の景色を透過していた。見れば自分の手も、マイヤの法衣の裾も、まるで幽霊の身体であるかのようにほんの少しだけ半透明。
それで気付いた。いいや、実際にはシロナとの会話の流れから、なんとなく推測してはいたのだが……所詮推測だったそれが、確信に変わったのだ。
この場所はやっぱり『あそこ』だ。そして、そうなのだとすれば――。
「マイの感想はあながち間違いじゃないかもしれないぞ」
「……?」
ちょっと意地悪な表情をベースに、二人に笑いかけてみる……うん、イスラーフィールの真似をしたつもりだったのだが、やはり自分には似合わないような気がする。こんなことが前にもあったような無かったような。
でもそういう、似合わない物まねもできるようになったのだ、と、『彼女』に報告したかった。
ここに直接来るのは、これが二度目だ。夢の中で訪れたことが、何度かある様な気がするけれど……
シュウは虚空に向けて、この空間の主に問いかける。
「いるのだろう、ズルワーン……いや」
きっとこう呼んだ方がいい。そう思って、シュウは『彼女』への呼称を改めた。
「母さん」
その言葉が、トリガーとなった。もしこの場所……『時空の玉座』が、先ほど推察した通りに『見ようと思わなければ見られない空間』なのであれば、今この瞬間、シュウが彼女の姿を探したことで、二人の間に縁ができたのだ。
空間が歪む。
白と黒、モノクロームの極光が奔る。
目を白黒とさせる少女たちとは対照的に、シュウは存外に落ち着いていた。既にこの光景を一度見ていたからだ。ゆえに、姿を現す存在が誰なのかも、よく分かっている。
白いワンピースを身に纏った、ともすれば幼女ともとれる小柄な女性。
まばらに黒いメッシュの入った、雪のように真っ白な髪。シミ一つない滑らかな肌。小さな唇は淡い桃色で、こちらを見つめる瞳は、鏡面のようなリフレクトの奥に、モノトーンの輝きを秘めた不思議な色。
背負う後光は翼の如し。淡くまき散らす闇の欠片が、彼女が善でも悪でもない、完全なる『中立』の存在であることを指し示していた。
ズルワーン。善と悪、二つの世界を外側から管理する、世界の意志そのもの。多くがこの地を離れた今、唯一にして最後の神核種。
そして……かつて、シュウ・フェリドゥーンの母、ラジア・フェリドゥーンであった者。いまでも、シュウの母親として、彼を見守り続ける者。
『シュウ』
「母さん」
『あなたを待っていた。こうして、神と人としてではなく、母と子として、言葉を交わせるのを、ずっと待っていた』
優しい声。前に会話をしたときとは、雰囲気が少し異なる気がする。呼んだ名前が正解だったのだろうか。神としてのズルワーンよりも、人間としてのラジアの側面が強く出ているように思う。
彼女が自分と同じように人の身だったのならよかったのに。そう思って涙を呑んだ、伝えたいことが沢山ある。けれどシュウの喉は不思議と閉じてしまっていて、中々うまく言葉を紡げない。
「すまない母さん、俺……」
『大丈夫よ。あなたの言いたいこと、経験してきたこと……いっぱい、伝わったから』
そんな不安を包み込むように、母はそっと、シュウの言葉を遮った。
その瞬間、シュウはどうして、マイヤが傍にいると何もかもが楽になるのかを理解した。ラジアの言葉を聞いた瞬間、すっと肩から力が抜けたのだ。安息感、充足感、見守っていてくれる人が近くにいる安心感――きっとこれは、『家族』の温かさなのだ。だからマイヤと、今のシュウにとって一番の家族と一緒にいると、心にわだかまった辛い気持ちや疲れの類が、全部ふわりとなくなってしまう。
「この方が、時空神ズルワーン……」
「先輩の、お母様……」
『あなたたちとも、会うのを楽しみにしていた。シュウを愛してくれてありがとう。どうかここで、お礼を言わせてほしい』
ラジアはそっと、二人の少女に頭を下げる。彼女たちが僅かに頬を赤らめ恥ずかしがっているのを見ると、何故だろう、シュウの方まで恥ずかしくなって来てしまう。
ふと以前、師匠から聞いた若い頃の話を思い出す。奥方と互いに両親を紹介しあったときのことだが、自分の配偶者、新しい家族になる人を、これまでの家族と会話させるのは、ものすごく緊張することであるらしい。恐らく今のこれこそがそれなのだ。なるほどこれは恥ずかしい……!
同じ思いを、きっとマイヤとエリナもしているに違いない。振る舞いの端々に緊張が見え隠れする。
「わ、わ、私、え、えええエリナ・キュリオスハートと申しますっ! あの、お兄様の……シュウ様のことが、そのっ、そのっ……!」
『そんなに改まらなくていいのよ。どうか私のことも、お母様、と読んで欲しい』
「ひ、ひゃいっ!?」
ガチガチに硬直してしまったエリナは、どこか口調もいつもと比べて随分変だった。シュウ様、なんて呼ばれるのは初めてだ。凄く新鮮。何故かこちらまで余計に緊張してきてしまう。
そんな彼女にラジアが優しく微笑むと、ちょっと悪戯っぽい表情で細い肩がびくりと跳ねて、エリナは完全にフリーズしてしまった。よほど肩に力が張っていたらしい。
くすくすくす、とおかしそうに笑うと、ラジアは続けて、マイヤへと視線を動かす。
彼女の、大海原を思わす青い。空の青より深い、紺碧の瞳をじっと見つめて、ラジアは懐かしそうに頬を緩めた。
『似ている。とても……うん、やっぱり、メロヴィアにそっくり』
「メロヴィア……?」
『……あなたは知らなくてもいい。知らないのなら、そのままで構わない。伝えて上げられないことが、きっといっぱい増えてしまうから』
そう告げる声色は、ちょっと寂し気。でも同時に、マイヤの未来を想うような……そんな慈愛に満ちた声だった。
『代わりに私があなたに言えることは一つだけ――ずっと、シュウを愛してあげてね』
「それは、もちろん。先輩が愛し続けてくれる限り、ずっと」
『そう。よかった、安心したわ』
しっかりと首肯を返すマイヤに、ラジアもほっと胸を撫でおろす。ストレートなマイヤの宣言に、何故かシュウの方がドキドキしてきてしまう。なんだかさっきからどぎまぎしっぱなしだ。ここらで仕返しをしたくなってきてしまうあたり、自分も随分と人間味……パルス的な意味ではなく……が増したな、と思わないでもない。
朗らかな空気に、エリナがぷうと頬を膨らませる。どうやら自分だけ、ちゃんとした応対が出来なかったのが悔しいと見えた。
「むう。ずるいですわよ、マイヤだけお母様からお墨付きをもらうだなんて……」
「これは勝敗が決したも同然ですね。まぁ、大分前から分かり切っていた結末ですけど」
「きぃぃい~! 言わせておけばこの女ぁ~っ!!」
「ふ、二人とも、喧嘩はやめてくれ」
「お、お兄様まで……ふ、ふんですわ! 私だってお母様と呼ぶ権利は頂きましたもの。ええ、どういう意味で、かまでは決められていませんから。ええ!」
強がるようにそっぽを向く、小さな金色の頭。豊かな髪がベールと一緒に揺れる様子が、なんだかおかしくて笑ってしまう。
ふと、玉座の間に響く笑い声が、自分のものだけではないことに気が付いた。
「母さん……?」
『いいえ……いいえ。良かった、と思っただけ』
ラジアは白い睫毛を震わせながら、そっとモノクロの瞳を伏せる。シュウとそっくりな目元。輝く目の色は青色ではなくなってしまったが……でも、宿っている光は、記憶の中に在る彼女と、何ら変わっていないように思う。
『ずっと不安だった。人としての命を捨てて、この玉座に座ると決めたとき……唯一の心残りだったのは、あなたのことだった。あなたに背負わせてしまう過酷の全てを思えば、いっそのこと、世界の命運さえも投げ出してしまおうかと考えてしまったくらい』
「……それは」
『でもあなたは、その過酷を乗り越えた。こうして大切な人をつくって、あなた自身の人生を、しっかり歩いてここまで来た』
ラジアの口元が綻ぶ。どうしてか、これまでの空白の時間が、急速に埋まっていくような……そんな気がした。きっと今の言葉は、彼女がまだ人間であったのなら、シュウにかけていたであろう心配の言葉や、シュウを褒めるために駆使していたであろう、激励の数々だったのだ。
だからこの瞬間に、親子の喪われた時間が、取り戻されたような、そんな感覚に陥るのだ。
『大切にしてあげてね。せっかく、あなたのことを選んでくれたひとたちなんだもの』
「ああ。これから先の一生を全部使って返していくつもりだ。俺が二人からもらった幸せの、何倍もの幸せを」
それがシュウにできる、最大の恩返しだと思っているから。自分のことを好きでいてくれるマイヤやエリナにとっても、これまで自分を育てて来てくれた、師匠や先生たち、勿論、母ラジアに対しても。
それに。それから。
シュウはぎゅっ、と、拳を握りしめる。そうだ、そのための力を授かるために、自分たちはここを訪ねたのではなかったか。そのための力が必要だから、シロナはラジアと自分たちを、引き合わせてくれたのではないか。
「だから俺は……取り戻さなければならない。もう一人、ここに立っているはずだった『大切』を。それで彼女にも、返して上げなくちゃならない」
『ええ……ええ、分かってる。だから私は――あなたたちに、私の力を授けます』
空気が変わる。ラジアの瞳の奥、宿された光が、切り替わったような気がした。彼女の顔が、先ほどまでの穏やかなそれから、どこか超然とした無表情へと変化したことで、シュウはそれが気のせいではないことを判断した。ラジアから、ズルワーンへ。超常の力を行使するため、彼女は己の在り方を切り替えたのだ。
少し寂しいが、そうも言っていられない。シュウはじっと、白黒の女神が取る次の行動を見守る。
すっ、と、ズルワーンの小さな右手が、虚空に向けて掲げられた。
瞬間、空間が強烈な揺光を放った。オーロラのようなその光の中から、やがて一振りの、長大な槍が姿を見せる。
身の丈、なんとシュウの全身よりも高い。ところどころに黄金の装飾が施されているものの、全体を構築する素材は、太陽や月、星の輝きを思わせる、水晶めいた透明な物質だ。内側に煌くのは法力や魔力の輝きだろうか。雄牛の角を思わす湾曲した穂先は、とても見覚えのある拵えだ。
「――これは」
「スラエオータナ……でしょうか?」
「でもなんというか、こう……ちょっとデザインが違うような気もしますわ」
首をかしげるシュウたちに向かって、ズルワーンは大きく頷いてみせる。
『あなたたちが、三人で使うモノです。世界を導き、望む未来へ走らせていく、そういう力を持った槍』
「そ、そんなものを私たちに……!?」
「責任重大なのですわ……!?」
『だから三人で、と言ったのです。あなたたち三人ならば、互いを想い合う三人ならば、この力、正しく使いこなすことができる、と判断しました』
ああ。
シロナの言葉の意味、ようやく理解できた気がする。彼女がシュウの言葉を聞いて、笑った理由も、同時に。
きっと彼女はズルワーンが、こう言うことを分かっていたのだ。そして彼女が今のような言葉を紡ぐとき、それは相手が、神の、世界の眼鏡にかなう人物だと、シロナは考えていたに違いない。そうでもなければ、ラジアはきっと、己を死ぬ気で表層化させてでも、ズルワーンの行いを止めていただろう、と。逆に彼女が認める人物が救世主なのであれば、自らもまた、ズルワーンの選択を後押しするであろう、と。
その予想に違わぬ、こちらを信頼しきった、優しい表情で。
ズルワーンは、ラジアと全く同じ笑顔を、にっこり、と浮かべた。
『さぁ、行きなさい。行って世界を……いいえ、あなたたちの大切なものを、救いなさい。無限の螺旋のその先を、天則に従うのではなく――あなたたちの、思うがままに』
その言葉を最後に、母は、ズルワーンは、姿を消した。モノクロの燐光を置き去りに、玉座の最奥へと帰っていった。
またいつか、会えるだろうか。ふと、そんな感傷的なことを思ってしまう。もしかしたら今のが最後の邂逅だったのではないだろうか。もしそうだったのなら、もっと色々、彼女と話したいことがあったのに。
けれどシュウは、すぐに首を振ってその考えを払いのけた。
大丈夫。きっとまた、彼女と言葉を交わす機会はある。家族の絆というのはきっと、そういうものなのだから。
シュウは虚空に浮く有角の槍を手に取ると、ぐっ、とその柄を握りしめる。なんだろう、しっくりくるような、しっくりこないような。やはり三人で握ることが前提なのだと、直感的に理解した。
マイヤとエリナの方を振り返ると、彼女たちもまた、寄り添うようにシュウの隣に移動してきた。左右から伸びた手が、シュウの右手を挟むように、透明な柄に指を絡める。
「――行こう」
「はい」
「お任せください!」
少女たちの返事に、シュウもまた、こくり、と頷く。
それを合図に、世界が再び捲れ始めた。今度は自分たちまで、一緒に分解され、溶けだし、別の何かに作り変えられていくようなおかしな感覚がする。
けれどこれがきっと、自分たちにとっての切り札。望む明日へ未来を導く、託された役目を果たすときだ。
さぁ、刃をとれ。己の信念を捻じ曲げるな。
自らが望む『救い』を、『正義』を、世界に刻め。
救世主は――ここにある。




