第十四話『聖霊の王』
エリナとアリアに連れられて、シュウとマイヤは聖堂の端に避難する。互いに肩を貸し合いながら。到着してからは、消耗した体力を補い合う様に、身を寄せ合って。比翼連理、ということわざの下になった故事を思い出す。パートナーと二人そろって、ようやく空を飛べる鳥。互いに相手のことをよく知っていないと、思わぬトラブルで墜落しかねない、『夫婦』という言葉を体現するような言葉。
「先輩、今治しますから……法術ですので、痛かったら言ってください」
「ああ、大丈夫……マイの術だったら、全然痛くないよ」
「本当ですか? 無理しちゃダメですからね」
「いや、本当に本当なんだ……マイの方こそ、回復量が足りなかったら言ってくれ。呪術全般の問題だけど、法術と比べて出力には自信がないんだ」
互いに回復術式をかけあう。どちらも本来ならば自己強化の一環である。互いに密着しあわないと効果が上手く出ないので、自然と抱き合うような姿勢になっていた。股の間にすとんと小さな体を納めたマイヤが、妙に胸の奥を刺激してきて、変な気分になってしまう。愛おしい……というのだろう、これを。すい、と伸ばした右手で、海色の髪をくしくししてしまう。マイヤは一瞬、驚きに目を見開いたが、すぐに気持ちよさそうにそれを細めた。ああ、ずっとこうしていたい。
なんてことを思っていたら、背後でエリナが裾を噛んでいる気配。こんなときに何をしているのか、と怒っているのだろうか。それとも、嫉妬、しているのだろうか。
こういうとき、皆の感情が目に見えればいいのになぁ、などと内心で呟いてみる。それはそれで色々と不都合があるのかもしれないが、少なくとも、察しが悪いと言われる方なシュウにとっては、わりと本気で欲しい能力なのだ。せめて似たような力を所持している人物からのアドバイスとか、そういうものを積極的に受け取れるようになりたい。
まぁ、その『持っている人物』は現在、自分の紡いだ絆を取り戻すのに、全力を注いでいる最中で、とてもではないがシュウの問いに答えている暇はないのだが。
「く、ら、え!!」
届いたのは、学園長が腹から絞り出す、堂々たる攻撃宣言。
見れば、振りかぶられた鉄拳が、彗星めいた眩い尾を引き疾駆していた。
存在感、と言えばいいのか。彼女の作る握りこぶし、それが持つ『重さ』が、尋常のそれから一瞬にして隔絶。一撃の威力は単純計算で数百倍。決して戦闘に特化した術式の運用や体の鍛え方をしているわけではないにも関わらず、イスラーフィールの一撃は、怪物めいた『英雄』を打ち据えるに至る。
「ぐふっ……!?」
疑似法術、『顕現型スラオシャ』の特殊技能、だったはずだ。物体や概念の持つ『情報圧』を極限まで強化し、一撃の持つ『意味』を増幅させる力。それが僅かな間イスラーフィールにもたらしたのは、マグナス・ハーキュリーの絶対防御を貫通しうる、圧倒的な攻撃力。褐色の巨躯が大きく吹き飛ぶ様は、最早圧巻の一言である。
「おのれ……ステュムパリデス・マージ――」
起動させる特殊技能を変更。鋼の鳥の加護を受け、英雄の身体性能、特に機動力が大きく上がる。
一歩踏み出せば歩調は神速。人間の耐えうる限界の速度で、マグナスはイスラーフィールとの戦闘を続行できるだろう。
だが、戦場はそれを許さない。英雄が、己を構成する『最強』を、十二分に解き放つことを許可しない。
「もう見た」
「がっ――」
イスラーフィールの冷たい声と、苦し気に呻くマグナス声。
逃げられない。褐色の巨漢は、そもそも一歩を踏み出すことができない。いつの間にかマグナスの手足を、結晶体に見えるほど凝縮した法力が、四方八方から拘束していた。結界法術――先ほどのパンチと同じ、情報圧のコントロールによるものだ。
以前マグナスと戦闘した折、イスラーフィールは「奴にも突破できない結界の一つや二つくらい、私にも張れるさ」、と言っていたような記憶がある。あのときマイヤは、彼女のその技を頼って、シュウとアリアを学園に置いて行ったわけだが……どうやら、本当にマグナスを拘束しうるだけの力が、この学園長には秘められていたらしい。
「ん、そっちの夫婦喧嘩も終わったか……んじゃ、私たちも終わりにしないとな」
呆気にとられる自分たちをしり目に、イスラーフィールはにやり、と笑う。かけた時間は相当のはずだ。すでに彼女のスーツはボロボロ、結わえた髪は解けて、存外に長い髪が背中にまでかかっている。
すすけ、切り傷と打撲のあざにまみれた特級法術師第四席は、しかしその満身創痍の姿からは想像もつかないほどの余裕をもって、最強の法術師へと近づいて行った。
「アトラス・マー――」
「だからもう見たっつってんだろうがこの石頭!!!」
また、情報圧変換。ボディブロー。今度は手足が固定されている都合上、全く力の逃げ場がない。
全身から、法力が生み出す純白のオーラが消えた。無効化完了、ということか。存外にあっさりした終幕。序盤の苦戦が嘘のようだ。
けれど肩で息をする彼女の様子が、言うほど簡単な戦いではなかったことを、如実に物語る。きっと今の幕引きも、『スラオシャ』の力を全力で駆使して、ようやくたどり着いた論理的帰結……所謂『嵌め殺し』の類に近かったのだろう。
「ノックアウトだ……お前は強い。本当に強い。でもその分、相性が悪い相手にはとことん弱い」
素直過ぎるんだよ、と、情報の女王は静かにぼやく。『ウルスラグナ』は決して正攻法だけを極めた法術ではないが、それでもなお。
私は、この時の為に。そのためだけに、特級法術師になったのだから、と。
「だと、すれば……」
その宣告に、かすれた声が答える。
痛覚からだろうか。それとも、自発的な思考を圧迫していた破壊衝動の奔流が、欠落したからだろうか。いずれにせよ、顔を上げた褐色の英雄、その瞳の奥に、かつて手放したはずの絶対正義、『天則』に対する心酔は見られなかった。法術停止に伴って、感情の増幅も終わったのだろう。
「私は、とても幸運だ……その相性が悪い相手が、こうして味方であるんだから、な……」
「ったく……今更デレられても遅いんだっつーの」
空色の瞳を細めて礼を言う、アルケイデス・ミュケーナイ。その反応に、イスラーフィールは少し怒ったように視線を逸らす。見れば年頃の乙女のように、その頬が薄っすら上気していた。なるほど、照れ隠しだな、あれは。本当に呆れているわけではないのだろう。
だから……というには、少々因果が足りないような気がするけれど。ともかく、学園長がかつての相棒と向き直るまでは、意外と早かった。
「お帰り、『アル先輩』」
「ただいま、『リエ』――」
倒れた英雄に、イスラーフィールは手を差し伸べる。それを固く握り返して、アルケイデスは立ち上がった。仲直り、だ。戦場にはいっそ似つかわしくないくらいに穏やかな空気が、二人の間に流れていた。
自分たちも仲直り出来てよかった、と、そう思う。ぶつかり合いを経ると、より一層相手の事が分かる気がした。マイヤと視線を交わし合う。ふんわり微笑む彼女に、シュウもまた、笑みを返す。
そんな、緩やかに流れる時間を、断ち切る様に。
「いやぁ、良いものを見せてもらった」
ぱん、ぱん、ぱん、と。
乾いた音が、崩れた聖堂に響き渡る。活性化した法力が生み出す、金色の霧の向こう。
三代目ファザー・スピターマ――白いローブで身を包んだ、法術師達の長が、拍手の姿勢をとっていた。
「ヒトの持つ愛、絆、ともに過ごしてきた時間――なんと美しく、価値の高いことだろう」
「はっ、それを弄んでおいてよく言えたもんだな。
「非礼は詫びよう。見定めたかったのさ。今の時代の、ヒトというモノの心の在り方をね」
イスラーフィールの糾弾にも、白き人間の王は動じない。口元に紅い弧を描きながら、大分距離が開いているのに、真っすぐ、シュウの瞳だけを見つめてくる。ぞくり、と背筋が泡立つ。塞がりかけの傷が熱く痛み、何か……あの視線の奥に隠された意志が『善くないもの』であると警告してくる。
マイヤを抱きしめる腕に、少しだけ力を籠める。彼女もまた、シュウを庇う様に両手を回す。海色の瞳が、ファザー・スピターマを鋭く見据える。次にどんな攻撃をしてきても、遅れは取らない、と言わんばかりに。
「善性存在と悪性存在。分かたれた存在ではあるが、善なる者にも悪の心が、悪なる者にも善の心がある。完璧な世界を創るには、その奇妙な異物がどこから出でて、どういう意味を持つのか……しっかりと理解しなければいけないからね」
そんな決意を、法術師の王はあざ笑う。彼はこちらに追撃を加える様子など見せず、愉快そうに、楽しむように、次から次へと新たな言葉を紡ぎ出す……ただ、それだけだったのだから。
「君たちのお蔭で良く分かった。僕が歩む新時代。どのように、ヒトを『善く』していけばいいのかが」
「新、時代……?」
零れた問いは、誰の声だっただろうか。この場に居る誰もが、スピターマの言葉の意味を、完全には理解しきれなかった。森羅万象を見通すはずのイスラーフィールですら、法術師の長、その真意を測りかねて眉根を寄せる。
その様子に、満足げに口角を上げ。
説法をするように。あるいは、物分かりの悪い子供を教え諭す教師のように。
「見るが良い――我が正義に光をくべよ」
ファザー・スピターマは、錫杖を握った右手を掲げた。その体から溢れる法力のオーラが、淡く発光する、八枚羽の巨人を形成する。スプンタマンユの現身が、救世の錫杖へと己の力を注ぎ込む。
ズン、と。
世界が揺れた、様な気がした。ファザー・スピターマが頭上を仰ぐ。
釣られるように、顔を上げる。金色、翼と角の組み合わさったような奇妙な杖頭が指し示したのは、戦闘の余波で崩れた、聖堂の高い天井、その一部。砕け散った白い壁から、中央大陸特有の、コバルトブルーの空が見えていた。ぽつり、ぽつりと浮かぶ雲。気持ちのいいくらいの晴模様。
その、向こうに。
何かが、『在った』。
「な、ん……」
「なんですの、あれ……」
最初は月だ、と認識した。周期の都合で夜を待たず、その美しい半顔を見せる昼の月。だが直後に、違う、と判断した。大きさが、違いすぎる。いくら月とこの星の距離が近づく季節であったとしても、あんなに巨大に映る月など、見たことも聞いたこともない。
それに、はっきりと見えるわけではないが――表面の模様、色、そのほかもろもろ、『月』と呼ぶにはあまりにも、『それ』を構成する要素は異なり過ぎている。あれはもっと、別の星なのだ。
そして、その表面が。
まるで湖面に写った虚像、あるいは、砂漠や海の彼方に見える蜃気楼のごとく、ゆらり、ゆらりとぼやけているのを目にしたとき。
シュウは、あれが何なのかを理解した。あり得べからざる現象を、現実のものだと受け入れた。
あれは。この星と、鏡合わせのように顕現した、あの世界は。
「異境……」
震える声で、その名を呼ぶ。
我が意を得たり、とばかりに、ファザー・スピターマは頷いた。
「君たちが愚かにも、古き善き絆を確かめ合っているその間に、僕は完全にこの力をものにした。最早この世界は僕の手中にあると言っても良い――で、あるならば。次に成すべきが何なのか、もう分かり切ったことだろう?」
鷹揚に両手を広げられた両手は、邪なる翼のごとし。
「そう……異境に住まう、悪しき異種族共を、この力で殲滅する。一匹残らず駆逐する。残った世界の骸は有効活用してやろう。この世界を一度ばらして再構成だ。善性存在だけの世界を創り上げ、新たな時代、新たな世界を、この地表に降臨させる」
仰々しい、演劇めいた口調で告げられる、その目的は。
「そうして僕は、善性存在の『救世主』になる! 『完善』なる新世界の創造主、その誕生の瞬間だ!!」
――ある種の、『威光』めいたものさえ秘めていて。
奪われた『スラエオータナ』が、滞留する法力の全てを操作する。眩い光となって解き放たれたそれは、シュウやアリア、魔族の血を継ぐ者だけではなく、この場にいる全員――教会の、スピターマの、自らを善性存在の王であるとうそぶく者に反抗する、全ての『叛逆者』を焼き尽くさんとする。
苦しい。痛い。世界が、重い。シュウの中、異界より訪れた父から受け継いだ、魔族と呼ばれる人たちの血が、光線に反応して激痛を訴えてくる。
仲間たちの悲鳴が遠ざかる。折角回復していたのに、また新たな傷が増えていく――
「ではさようなら。帰ってきたら、君たち混ざりものの魔族も殲滅しようかな――いくぞ、『スプンタマンユ』」
倒れ伏すシュウ達の姿が、お気に召したのか。ファザー・スピターマは、紅い口角を喜悦に歪めた。
そのままくるりと踵を返すと、聖堂、シュウ達が入って来た方とは、逆方向にいつの間にか現出していた、もう一つの扉へ歩み寄っていく。教祖専用の出入り口――あるいはあれは、何らかの『門』のような性質を持っていて、即座に異境へと到達できるのかもしれない。
待て、と引き留める声が、喉から出ない。焼けつくような痛みは、シュウから体の自由を、完全に奪い取っていた。既に呪術は起動しているが、ある程度の回復までには、あと十秒近くが必要だろう。
まずい。このままでは、全員死ぬ。
自分たちが、という話ではない。魔族が、だ。まだ顔も合わせたこともない、異世界の同胞たち。自分と同じ血を持った、『家族』がそこにはいるかもしれない。第一、ほかでもないアリアの故郷の人達が、殺されてしまうかもしれない。
何かもっと対策をしていれば。あるいは今からでも、それを捻り出すだけの力が、自分にあれば。そんな言葉が、体の奥からにじみ出てくる。目の前で起こっていることを何もできずにただ眺める。そのことの、なんと辛く、悔しい事だろうか――
「……『スプンタマンユ』?」
その悔恨を中断させたのは、確かな困惑を内に込めた、スピターマの問いかけだった。
つい先ほどまで背後に従っていたはずの、八枚羽の聖霊――法術、『顕現型スプンタマンユ』が、微動だにしていないのだ。
「おい、どうした。ついてこい」
しかし、揺蕩う聖霊王は応えない。その人とも鳥ともつかぬ、仮面を思わす顔。絵画めいた瞳で、じっと主を見つめるだけ。
痺れを切らしたスピターマが、チッ、と鋭く舌打ちをする。
「せめて返事をしろ! 君は僕の法術だろう――」
『ふ、ふふ、ふふふふ……!!』
返ってきたのは、予想されたような返事では、なかった。
凍り付く。スピターマだけではない。この場にいる全員が、状況のあまりの異質さに硬直する。
『あははは、あは、あぁぁあっはははははははは!!!』
笑っていた。
法術によって形作られた、翼ある巨人が、笑っていた。道化師めいた口を三日月上に開いて、おかしそうに、本当におかしそうに、なにもかもを馬鹿にするような声色で、笑っていた。
ぐりん、と。
その顔が、宿主を見つめる。
『ああ――このときを、待っていた』
瞬間、地表が霞んだ。それが驚くべき速さで振るわれた、スプンタマンユの右腕なのだと気づくのに、シュウは五秒を要求された。
「ごがっ……!?」
ならばその一撃を受けた当事者であるところのファザーは、跳びかける思考の中で、いったい何秒かけて、それを理解しきったのだろうか。信じられない、と言わんばかりに揺らぐミラーシルバーの瞳を覗き込んで、彼に付き従っていたはずの聖霊は笑う。哂う。嗤う。
巨腕に掴まれたスピターマの身体が、ごぽり、と粘液上の法力の奥に沈む。まるで実験室に飾ってある標本の様――そう思ったのは、きっとシュウだけではあるまい。聖霊王の目が。宿主を観る目が、そう直感させるからだ。
「どういうことだ……? 法術の暴走……いや、違う。これは……」
流石に状況を呑み込み切れないか。困惑の声を漏らすイスラーフィールの、その黒い瞳が金の渦を巻く。『スラオシャ』の力が世界を解析し、目の前の聖霊王、その正体を暴き出す。
「まさか貴様、最初から『憑いていた』のか!?」
『ヒントなしで辿りつくか。流石はミスラの神殻種を託された人間だ……だが、遅すぎたね』
今の、言葉。
どこかで既に、聞いたことであるような。
思考がまとまらない。ここに来て全身の傷が疼き出す。脳の奥、本能を司る部位が、全力で警鐘を鳴らしていることだけが、はっきりと理解できる唯一の事象。
『僕はスプンタマンユ。ティスティアがばらまいた虚影術式に投影された存在などではない。本物の神殻種さ。愚かしい君たち人類に、丁寧に説明してやるのなら……本物の『聖霊王』。そして、『天則』を以てこの世界を騙し、玉座への扉が開く瞬間を、ずっと待っていた者さ』
笑う聖霊の告白は、シュウ達を呻かせるのに十分過ぎた。
何せこれまで、従う・従わないは別にしても、ずっと生活のどこかにはあったその言葉が、持っているはずのアイデンティティを強く、強く揺らがされているのだから。
『天則』。
初代のファザー・スピターマがもたらし、二代目のファザー・スピターマが確立し、そして三代目のファザー・スピターマが世の絶対法則として確立させた預言にして予言。人間を滅ぼす悪性存在の最終兵器、 『絶対悪』の顕現を防ぐことを目的としたそれは、表向きは悪滅善護をうたい、しかし実態は魔族と人間の溝を深める、分断と惑乱の法規であると言えた。善を尊ぶ、と言いながらも、他者を蹴落とし、滅ぼし、自分だけが生き残りたいと欲求する、人類種の悪側面を強調するような原理。
それを世に解き放ったのは、この聖霊だというのか……!?
「ファザー・スピターマに魔族根絶を指示したのは、貴様か……!」
『いやだなぁ、こいつはただの実験動物さ。僕の力を授ければ、人間がどう動くのかを観察するための、ね。ああ実に愚かだったよ。代々、僕が自分たちと同じ方向を見ていると、信じて疑わない間抜けな一族……』
馬鹿だなぁ、ダエーワどもの眷族になんて、とっくの昔に興味がないのに。
スプンタマンユはそう吐き捨てると、愉快そうにこちらを向く。
『おおかた、既に聞いているんだろう? 娘に情が移ったウォフマナフからか、それともこそこそとこの世界について嗅ぎまわっていた梟モドキからかは知らないが――僕の目的ってやつをさぁ』
声色から察せられる、大きな歪み。この聖霊は、決して聖なる存在などではない。もしかしたらこの世界で、最も邪悪な――それこそ、『絶対悪』すら凌駕する悪だとさえ思えた。
そして、そう……そんな存在に関する話を、シュウは、既に聞いていたはずだ。夕暮れの孤児院、大切な義妹の育った場所で、彼女と縁深い、異界からの来訪者。あの白い聖女から、既に。
善悪大戦を引き起こし、神核種をこの世界から追い出した張本人。二つに分かたれた世界を、もう一度衝突させんと欲する者。聖霊たちの長は、やがては全ての聖霊と悪魔を超越し、両界の狭間から時空の玉座へ降り立って……そしてそこで、あの小さな、モノクロの女神を引き裂き――
「ズルワーンに代わって、新世界を創造すること……」
「なんだと……?」
漸く漏らせるようになった声を、イスラーフィールが耳ざとく拾う。
「二つの世界の物理的接触……概念上の存在である『狭間』を物質世界に顕現させるつもりか!」
『ご明察。ああ――今度こそ、失敗はしない』
かつて。
スプンタマンユは一度、己の計画を実行に移しかけた。ズルワーンを討滅し、世界の支配権を握るべく、本当に野望を実現させようとした。
だが――それは失敗した。失敗したのだ。
ズルワーンの握っていた、時と空間の玉座は守られた。シュウの両親がその身を犠牲にし、新たなる神としてその場所に座ったから。
諦めていなかった、ということだろう。
いいや、それで諦めるようならば――最初から、四百年もの時間を掛けようだなどと、思うはずがない。
『ふふふふ……あはははははは!!』
哄笑。聖堂に響き渡る不気味な笑い声。
その奥に聞こえる、何かがねじれ、砕け散るような音。それは体内に吸収されたファザー・スピターマが、分解され、解体され、法力の渦に融合していく音だろうか。
背筋を伝う冷たい汗。手足に、震えが走る。隣を伺えば、マイヤも青い顔をしていた。誰も彼も、声を上げることができない。この状況に対処する手段を持たない。
長きにわたり、この世界に君臨してきた法術師たちの長――その真実を目の当たりにして、どうして冷静なままでいられようか。
ぶわり、と。
強烈な衝撃波をまき散らしながら、『スプンタマンユ』の背中に翼が開いた。
六対十二枚。聖典に登場する、全ての聖霊を従える偉大な存在。今のシュウならズルワーンと同じ、かつてこの世界を見守っていた神核種の一柱なのだと理解できるそれと、極めてよく似た姿。
救世主の力と、自らを宿していた人間を楔に。揺蕩う無限の法力を糧に。
かつて善と悪の激突を扇動した、最強の聖霊が実体化する。
『ああ、この感覚、この感触、この感情……!! これだ。これが僕が、四百年間求めてきたモノ……!!』
天を仰いで震える姿は、その性質、その属性が、いかに世界から『善』であると認められているのだとしても、さらさらそうとは思えぬものだった。自己愛と利己欲、ただただ自分の在り方だけを追求する邪道の存在。
瞬間、シュウは理解した。何故善悪大戦などというものが起こったのか。なぜ善性存在と悪性存在は対立し、互いを潰し合い、分かり合うことを拒否し続けて来たのかを。
善性存在の長に、こんなものが居座っているのであれば――きっとどれだけ和解の芽が生まれても、潰され壊され、踏みにじられ続けるだけだったのだろう。
だから四百年の歴史の中で、魔族と手を執り合おうと思う人間は出てこなかったのだ。
だから魔族の側においても、『絶対悪』などとい存在で、人間たちを脅かさなければならなかったのだ。
『再び、名乗らせてもらおう――世界を統べる新たな玉座を得、改めし我が名はオフルミズド。君たち風に言うのなら、そうだな……こうしようか』
人のそれとも、鳥のそれとも、あるいはもっと別のもの――竜をも思わすその面構え。光零れる虚空の顎門を、ニタリ、と緩く歪ませてながら、十二枚羽の大聖霊は、己を表す名を告げる。嘲るように。あるいは、当てつけのように。
全てを超越する最強の『善』。二重螺旋の世界に住まう、遍く命を支配する王。
完善なる者。即ち――
『法術、『継承型オフルミズド』、とね』




