第九話『イグニス・リリース』
頬を撫でる暖かな光で、マイヤ・フィルドゥシーは目を覚ます。どうやら、資料の整理中に眠りの底へと落ちてしまったらしい。慌ててカーテンの隙間から窓の向こうを見れば、太陽は柔らかい光を放ちながら、天高く昇ろうとしているところだった。
やっちゃった、と、自分の顔をはたきたくなる。もういつもの朝食の時間はとっくに過ぎていた。今頃シュウはお腹を空かせていることだろう。すぐに台所に向かわないと。
慌てて立ち上がると、がたり、と音を立てて椅子がひっくりかえってしまう。けれどそんなことを気にしている場合ではない。部屋の隅にたてられたポールハンガーからエプロンをひったくるように下ろすと、そのまま身に着ける。焦りのせいか指先がもたついた。普段なら絶対にしないような寝過ごしだ。どうしてこんなことになってしまったのやら。何か大切な――すごく大切な夢を見ていたような気がするのだが、はっきりとそれを思い出すことができない。
ただ、今はそれどころではない。
「先輩、ごめんなさ――」
マイヤはドアを開けるのとほぼ同時に、大きな声で謝罪していた。シュウはマイヤが朝ごはんを作れなくても怒ったりなんてしない。だからどちらかというとマイヤ自身の気分の問題。シュウに対してしてやれること、彼を幸せにしてあげられるための要素が、機会が、一つでも減ると落ち着かないのだ。
「――あれ?」
けれどその言葉は、最後まで言い切ることができなかった。困惑に口が止まった、と言った方がいいかもしれない。目の前に広がっていた光景が、少々予想外のものだったのだ。
シュウがいつも通り席についていた。それはいい。いつもなら鍛錬にでも出ているような時間だから、まだ家の中にいる、というのはちょっと珍しいけれど、でも待っていてくれたのだ、と思えばむしろ嬉しくなる。
問題はそこではなく――テーブルの上に、既に料理が出来上がって、並べられていたことだ。
くるりとこちらに顔を向けたシュウが、にっこりと優しい顔を浮かべてくれる。
「おはよう、マイ。すまない、あんまり遅いものだから、先に食べ終えてしまったよ」
「え、ええ……こちらこそ、寝坊してしまってすみません……」
「大丈夫。マイも疲れていたんだろう? もっと寝ていても良かったんだぞ」
そうだろうか? そうだったかもしれない。昨晩は長く資料の整理をしていて……資料? 何の資料だったのだろうか……何故だか、思考にもやがかかったように、その詳細をよく思い出せなかった。まだ眠気が残っているのかもしれない。
こういう時は朝食を摂るのが一番だ。頭脳を活性化させてくれるから。
マイヤはシュウにお礼を言うと、自分の席にすとんと座る。
――何だろう。いつもと比べて、ちょっと料理の雰囲気が違うような気がする。細かいところの形というか……シュウの慣れていない手つきがたまに崩してしまう場所が、今日はビックリするくらい完璧だった。自分でもここまで綺麗に作れないかもしれない。
「……あの、先輩。これ、先輩が作ったんですか?」
「うん? ああ、そうだよ」
マイヤの疑問に、シュウは至極自然に答える。その瞳に嘘はない。エリナやアリアが手伝ったとか、そういうイベントが間に挟まったわけではないらしい。
「何かおかしかったか? それなりに自信はあったんだが……」
「い、いいえ。そういうわけでは……いただきます」
少し不安げに問うシュウ。マイヤは安心させるように慌てて首を振ると、並べられた箸を手に取る。この瞬間はいつまで経っても、少しだけ緊張する。フォークやナイフを使うより、箸での食事は力加減が難しいのだ、特に豆腐。今日のメニューにも、出汁をいっぱいにしみこませた凍り豆腐が含まれていた。いつものそれのように簡単に崩れてしまうタイプではないが、変に力を入れると出汁を全部抜いてしまう。
とはいえ、極東大陸の作法も、一年半近く繰り返していれば慣れたもの。最初は掴むのが難しかった食べ物も、今は自由に口まで運べる。
ここまではいつも通り。
でも、そこからがいつも通りではなかった。
「美味しい……」
思わず驚嘆の声が漏れる。
じゅわり、と口の中に広がる味は、マイヤにもできないほど緻密に作られた出汁のものだ。素材、火にかける時間、ブレンドの配分――どれを取っても完璧。
「凄いです、先輩! いつの間にこんなに上手になっていたんですか!?」
「本当か? ならよかった。たまには代わりに作れるようになろうと思って、一杯練習したんだ」
微笑む彼の表情が、その努力を物語っていた。
シュウの料理は下手ではない。マイヤはどちらかといえば知識をベースに、経験と勘で応用をしていくタイプだが、シュウの場合は知識だけで残りの二つを補っていく。結果として悪く言えば『レシピ通り』、よく言えばお手本のような一品が出来上がるのだ。まだまだ技術が足りなくて、時折失敗してしまうけれど、マイヤはそんな彼の料理が大好きだった。
今食べたものは、その窮極系にあるように思えた。料理を構成する要素、その全ての知識を総動員し、完璧な計算のもとに成立した作品――気が付けばマイヤは、豆腐以外の別のお皿にも箸を伸ばしていた。どうしよう、止まらない。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした……と答えるのが正解なんだったか」
あっという間に食べ終わってしまった。多分これまでの人生で一番早い完食だったと思う。
ふいに、シュウが立ち上がる。その表情が一瞬、翳りを帯びたような気がして。マイヤは、訝し気に首をかしげる。
「そろそろ迷宮探索の時間か……」
呟いた言葉も異質だった。時計台の音は聞こえなかった。あれは旧時代文明の遺産、極めて高価で高度な機械。個人が所有できるものではないため、シュウが一人で時刻を確認する方法はどこにもないのだ。
にも拘らず、彼はそれを言い当てて見せた。窓の外に視線を動かせば、太陽はまた少しずれて、確かにいつも通りの、迷宮探索に出る時間を示していた。
もしかしたらシュウは、マイヤが注意を逸らしている間に、窓の景色を確認していただけだったのかもそれない。おかしな想像をしてしまった自分に、思わず苦笑いがこみ上げてくる。
どうやら想像以上、本当に疲れているのかもしれない――
「そ、そうでした。じゃあ、準備をしてきますので……」
「いや、マイはここで待っていてくれ」
――いいや。そんな馬鹿な話はあるまい。
あり得ない。
今の言葉は、絶対にありえない。それも彼が向かおうとしている場所が、中央大陸中部最大の迷宮たる『樹海』ならば尚更だ。博識で直感も鋭く、自分の限界に合った行動のできるシュウだからこそ、今の言葉は絶対に発せられないはずなのだ。
「それは……危険です! いくら先輩でも、一人きりで迷宮に行くなんて」
「言っただろう、今の俺は一人で大丈夫だ、と。安心してくれ、もう君が戦場に出なくても、俺が一人で全部終わらせられる」
「な、何を言ってるんですか、先輩……それは、私の台詞です」
そんなことを言われた記憶はない。シュウが一人で迷宮を探索できるわけも、ない。別に彼の事を侮っているとか、信頼していないとか、そういう意味ではない。純粋に、事実として、呪術師が一人で樹海を抜けるのは極めて難しいのだ。
けれど今の彼の言葉は、冗談のようには聞こえなかった。
「それに迷宮探索は、二人以上での行動が学園長先生から義務付けられていたはずでは――」
「何を言っているんだ……? それは生徒だけの決まりだろう。俺も君も、とっくの昔に卒業してしまったんだし……もう一人でも大丈夫だと、ついこの間お墨付きをもらったばかりじゃないか」
「え」
それで、おかしいと気が付いた。
咄嗟に、視線を動かす。目的のものはすぐに見つかった。記憶の中の『家』と同じく、壁に掛かったカレンダー。位置を動かしていないのだから当たり前だが、今この場所で、自分の記憶はあてにならないともう気が付いていた。
そこに書かれていた日付は、予想通り、というべきか。
マイヤの記憶にある今日の日付と、大きく異なっていた。
ずっとずっと、進んでいるのだ。善悪大戦の終結した年、その一の月一年――即ち、初代ファザー・スピターマの即位を紀元とする善性存在の暦。刻まれた年数は、四百年と少しだったはず。
それが、明らかに二つか三つ、進んでいた。
では今自分は、未来の光景を見ている――?
「マイ、本当に大丈夫だ。俺は俺一人だけで君を護り切れる。樹海も一人で切り抜けられる」
安心させるように、というよりかは、自分自身に語り聞かせるように。シュウはゆっくり、そう告げた。
その表情は、なんてことのない、普段彼が浮かべているのと同じ微笑みだ。
けれどマイヤには、もっと別の色を読み取ることができた。
「安心してくれ、マイ。それだけの力が、今の俺にはある。善性存在も、悪性存在も、神殻種も、神核種も――全部なぎ倒して、君の下に帰るだけの、力が」
苦しんでいる。
決意に、押しつぶされそうになっている。
自分の戦いに、絶対にマイヤを巻き込まないと、たった一人だけで誓いを立てて戦っている。
「それでも、どうしても不安だというのなら」
違います、不安なのは先輩のほうのはずです――そう、言いかけた瞬間。
マイヤの視界が、ぐるり、と切り替わった。
そこはいつもの、二人の『家』ではなく、昏く蠢く『樹海』の中枢。
大量の屍鬼や、複数種類の追跡魔に囲まれて、巨大な影が鎌首をもたげている。
記憶の奥深く――昏く冷たい恐怖と、甘く熱い恋慕の両方が、その中枢を刺激する。
知っている。あの影を、知っている。
樹海の最奥に開いた『門』から顕現する魔物の中では、守護者を除けば最も強力な魔物。
分類こそ超大型ではなく中型、よくて大型に分類される程度のサイズだが、狡猾な知能、驚異的な攻撃速度、そして威力は、最強の名にふさわしい。加えて周囲の魔物をコントロールする司令塔としての素質もあるとなれば、その討伐難易度は、ある意味では守護者さえも上回るだろう。
追跡魔系カテゴリ最上位魔物の一種、『セマルグル』。
猿か獅子を思わせる頭部と、極めて鋭い鉤爪に、旧時代文明の度量衡にして二メートルはあるかという巨大な翼と、分厚い装甲に覆われた尾に、第二の顔を持つ。
この翼とセカンド・ヘッドは、普段は上述した鎧のような鱗に隠され、見えないようになっている。かつてマイヤはこの魔物と戦闘し、その唐突な形態変化に対応しきれず、危うく命を喪うところまでいった経験がある。
そのときに彼女を助けてくれたのが、パーティーを組んだばかりのシュウだった。創意工夫と、当時の彼にできる全力を駆使してセマルグルを撃滅してみせたシュウは、優しい笑顔で「よく頑張ったな」と褒めてくれた。今でも鮮明に思い出せるあの瞬間こそが、マイヤがシュウに恋をしたきっかけだ。
あの時と同じように、シュウは笑っていた。
でもそこに込められた意味は、全くと言っていいほど違っていて。
「証明するよ。来い、『スラエオータナ』」
突き出されたシュウの右腕に、淡い光が集約する。
一瞬の後、記憶の中のそれとは大きく形状を異ならせた、巨大な三叉槍が出現。
半透明の穂先に無数の光を込めたそれは、まるで何かと共鳴するかのように、リン、リン……と震え出す。
その響きに応えたのか。樹海のあらゆる場所から、ふわり、と小さな光が舞い上がり始めた。法力の光――シュウは『スラエオータナ』の力でいつでも可視化できるらしいが、マイヤにはその力がない。こんな風に、蛍を思わせる飛び方をしているのは、初めて見た。
光の粒は吸い寄せられるように、水晶槍の方へと集っていく。いいや、実際吸い寄せられているのだ。今のシュウを思えば、『食われている』と言った方が正しいかもしれない。
シュウはその喉から、絞り出すように祝詞を吐いた。
「我が正義に光をくべよ――アールマティ、アムルタート、同時発動。空想鏡面展開、陽光の光を持って邪悪を浄火せん――『煌輝女神の断罪』」
高く掲げられた『スラエオータナ』から、一筋の光が放たれる。天高く真っすぐ伸びたその光は、雲を貫き、バラバラに引き裂き、そして――空中で無数の光球へと爆発すると、直後、マイヤの『光輝女神の眼差し』とよく似た極細の光の剣に変貌した。
肉眼では数えきれないほどの光輝が、空を覆う。
その内のひとつが、水面に落ちる雫のように、静かに、しかし確かに、落下した。
それが皮切りとなったのか。堰を切ったように、光の剣は地上へ向けて雪崩れ込んだ。
『―――――!!』
魔物たちの、音にならない断末魔が響く。カテゴリ、サイズ、戦闘能力――その格差など全く想定に入れない、光の刃の抹消刑。マイヤの一撃では発生しないような引火現象まで引き起こされているのは、『混ぜた』と思しきアムルタートの認識操作効果だろうか。
これは夢だ。
その瞬間にマイヤは確信した。白昼夢、と言った方が良いのかもしれない。そうだ、ついさっきまで自分はどこか、どこかもっと大切な場所にいたはずだ。思い出そうとすると頭の奥がぴりぴりする。まるで太陽の光にずっと中てられていたかのように、そこから先が白く塗りつぶされている。先程思い出せなかった、『見ていた夢』。それはきっと、その場所での出来事。マイヤにとっての現実世界。
そこは戻らなくちゃいけないばしょで、この空間は偽りなのだ、という事実は理解できた。
そしてここにいるのは本当の自分と本当のシュウではなく、幻の二人だ、ということも。
だというのに。
「焼き払え、焼き尽くせ、骨も残らず」
シュウの放った火焔は、まるで本物のような質感を伴っていた。夢だと分かっていても、その熱から逃れることができない。法力が発生させる炎は熱波を発生させないというのに、偽りの熱さを、じりじりとその肌に感じてしまう。
悲鳴を上げながら焼き尽くされていく屍鬼たち。シュウが以前に苦手と称した、『命の焦げる匂い』が充満する。マイヤはそれほど気にするタイプではなかったのだが、しかし死した魔物の数がこれほど多いと、流石に違ってくる。
これではシュウは、もっと酷い思いをしているのではないか。心配になって、彼の方を仰ぎ見た。
仰ぎ見て、しまった。
「どうだろうか、マイ。これで分かってくれると、俺は嬉しい」
振り向いた、その顔。
ごうごうと燃え盛る、黄金色の炎に照らされて。
シュウは、笑っていた。
喪われた命への感情など、何一つ感じさせない――いいや、忘れてしまったかのような顔で、笑っていた。
今更かもしれないが、マイヤ・フィルドゥシーはシュウ・フェリドゥーンのことを本気で愛しているつもりだ。彼の事を誰よりも理解しようと努力し、そしてその努力の通りに理解してきたつもりでいる。
そんな自分だからこそ、その笑顔から読み取ってしまう。
シュウは命の重みを忘れてしまったのではなく。
この時間軸の彼は今、そうまでしてしまうほどに、誰かの命を奪い続ける立場にいるのだ、ということが、分かってしまう。
かつてたてた、二人で支えあい、どんな苦難も分かち合う――そんな誓いを、約束を、マイヤの願いを、絶対に裏切らない彼が破ってしまう。それだけの壮絶の内に、今の彼は立っているのだ、と。
「あ、ああ、あああ……」
ずん、と、心臓を一突きにされたような衝撃を、マイヤは錯覚した。そのあまりの重さに、知らぬ間に足がもつれて、崩れるように膝をつく。
喉から、無意識のうちに掠れた声が漏れていた。多分それは怯えとか、警戒心とか、そういうものからではなくて――悲しみから出でたものだったと思う。
「やめて……やめてやめてやめて、やめてください……! こんなこと、先輩にさせないで……先輩に、あんな顔をさせないで……! あんなの……あんなの、私の好きな先輩に、させていい表情じゃない……!」
気が付けば、悲痛の色を帯びた絶叫を上げていた。
こんな声が自分に出せたのかと驚くぐらいに、その声は『泣いていた』。
誰に向かって叫んだのかは、自分でも分からなかった。
それでも、叫ばなければ、もっと強い哀切で、胸が引き裂かれてしまいそうで。
「でも先輩は、いつか絶対にあの笑顔を浮かべなければいけなくなる」
「――!!」
その悲鳴に、答える者が、一人。
反射的に声のした方を振り返ったマイヤが見たのは、そこに佇む、青い――いや、海色の髪をした少女の姿。
「私……?」
「そう、私。私はあなたにあらず、あなたである者。あなた自身の祈りの反映であり、あなたに対しても祈る者」
頷く彼女のその仕草は、自分のものと全く同じだった。寸分たがわず一致する容姿と合わせて、彼女が自分自身なのだ、ということを、マイヤは驚くほどすんなり受け入れていた。
「今のまま力を付けていけば、先輩はいつか必ず、この領域まで到達する」
彼女の視線に導かれ、マイヤはまた、黄金色に燃え盛る『樹海』へと目を向けた。
すぐに、それを逸らしてしまいそうになる。凄惨極まる光景を、他の誰でもない、シュウが顕現させたのだ、という事実を、どうしても受け入れられなかった。
例え幻なのだとしても。仮定の上の存在なのだとしても。彼がシュウ・フェリドゥーンであることに変わりはなく、そして――
「先輩は『救世主』。この世界の造物主が手ずから指名した神殻種であり、この世の誰よりも『価値ある人』。いつかその価値を十全に発揮して、この世界の玉座につく人です」
「嘘です」
「嘘ではありません」
本当のシュウが、ああなってしまう可能性は、ゼロではないどころか、極めて高いのだ。
「あなたも私であるなら、本当は分かっているはず。先輩はいつか、何でも一人だけでできるようになってしまう。私のことなんていらなくなってしまう。先輩はいつか、私の手の届かない、どこか遠い場所に行ってしまうんだ、って……」
「嘘、です……」
嘘なものか。そうであるわけがない。もう一人のマイヤが告げたことは、紛れもなく全部真実だ。
ああ正に、今見せられた光景はある意味では未来の姿そのものなのだろう。
シュウはいつか本当に、あの透明な槍の力でありとあらゆる法術、魔術、呪術を自由自在に操れるようになるに違いない。今でこそ近くに触媒となる法術師や魔術師が必須だが、遠くない未来にそれらもすべて、自分だけで賄えるようになるはずだ。疑似魔術だって完璧に扱いこなして見せるだろう。第一、彼には魔族の血が流れているのだ。疑似どころか、本物の魔術だって駆れる可能性がある。
料理の方だってそうだ。シュウはとても生真面目な人だから、マイヤやエリナの作る食事からどんどん技術を学んでいく。最近では、いくつかの料理はもうマイヤと殆ど同じくらいの腕前になっているのだ。一年でこれ――もう数年もすれば、追い抜かれてしまうかもしれない。
そうしたときに。
果たして自分の居場所は、彼の隣にあるのだろうか?
誰よりも彼の事を愛しているから。
彼のことを、知ることができるように努力してきたから。分かってしまう。理解できてしまう。
シュウ・フェリドゥーンが、救世主として完成した暁には。
マイヤ・フィルドゥシーは、彼と支えあって生きていく資格を、無限に得られないほど二人の立場は違うものになってしまう、ということが。
「いや……」
信じられないほどか細い声が、自分の喉から漏れたことに、マイヤは暫く気が付けなかった。
「いや、いや、いや」
けれど二度、三度と繰り返して、よろりと足下がふらついたとき、その声は自分のもので、心の奥底から零れて落ちたものなのだと理解した。
そうしたら、もう、堰を切ったように、感情は次から次へと溢れ出てくる。止めようと思っても止められない。みっともないと思っていてもやめられない。
「いや……いやです、先輩……だって先輩は、私と一緒に、この先の道も、歩いてくれるって……」
「先輩がそう思っていても、果たして世界はどうでしょうか?」
ああ、もう一人の自分は、なんて冷酷なのだろう。自分自身なら、それを言ってほしくないことが、言葉に出したら真実になってしまいそうで、ずっと言わないでいたことが、気が付かないふりをしていたことが、分かるだろうに。
けれども彼女は冷酷に、その予測を、そしていつか真実になるであろう未来を告げる。
「救世主の力は絶対的です。彼が一人いるだけで、あらゆる外敵、あらゆる反逆、あらゆる『邪悪』を撲滅できる。先輩自身がどう思っているかなんて関係ない。『教会』につくのか、異境のリシたちにつくのか、それとも先輩だけの陣営が創り上げられるのかは、分かりません。けれどどんな道を辿るのであれ――いつか先輩は、救世と称した終わらぬ戦いに身を投げることになります」
つい、と、その自分と全く同じ形の指が掲げられる。
それを追いかければ、また視界がぐるりと変わる。
焔に沈む樹海ではなく、そっくりな黄金色の夕焼けの下、どこかへ連れていかれるシュウの姿。豪奢な法衣の上級法術師に挟まれて、彼はまるで、罪人を護送するかのように厳重警備の馬車へと、乗り込まされていく。
その様子を、どうやらマイヤは大分離れた場所から見ているらしかった。
「やめて――やめてください、先輩を、先輩を連れて行かないで!」
また、悲鳴のような叫び声。今度は目じりに、涙まで溜まってしまうのが分かった。マイヤは馬車に向けて走り出す。絶対にここで、あの車を止めなければならない。シュウを、連れて行かせてはならない。
だってこの光景が未来のそれなら。あるかもしれない可能性なら。
先輩は、先輩はきっと、二度と――。
「行ってくるよ、マイ。どうにもこれが――俺の、役割らしいから」
馬車の扉が閉まる瞬間。
シュウがあの、苦しみをこらえるような微笑みを、見せてきた。
その表情は、マイヤが現実のシュウからは、一回も見たことのなかったもの。
絶対に彼が、見せることのなかった感情。
――諦観た者の、笑顔だった。
多分それが、切っ掛けだったのだ。
それを見せられたせいで、マイヤに我慢をさせていた何かが、壊れた。
「いや……いやです、いやぁぁああッ! いかないで、いかないで先輩、シュウ先輩……! ずっとそばに居て、ずっと一緒にいて、ずっと、ずっと私の隣に居てください、先輩、先輩、先輩……!」
貯水槽の壁を破壊すれば、きっと濁流とはこう粗ぶる。
そんな様子を思わすごとく、マイヤは縋る様に、祈る様に、嘆く。歎く。泣き叫ぶ。
駄目だ、と、心のどこかで冷静な自分が声を荒げる。これらの言葉は、口にしてはいけない言葉。だって決めたはずだ。シュウのことを愛しているなら、彼が自分を必要としなくなったときに、悲しくても、泣きたくても、笑顔で送り出せるような女になろうと誓ったはずだ。彼の事を縛らない、そういう恋人になろうと決めたはずだ。
願いを、鎖にしてはいけないと。
想いを、重い鋼の拘束具にしてはいけないと。
そう、決めていたはずなのに。
「いかないで……先輩……」
どさり、と。
マイヤはその場に、膝をつく。
嗚咽と共に零れ落ちた雫が、夢とは思えぬほどリアルな育成学園の大地に、小さく確かな染みを作った。
そんな彼女を、憐れむように。
もう一人のマイヤは、薄く笑うのだった。
「ありますよ、一つだけ」
「……なに、が……」
ああ、問う必要なんて存在しない。彼女は自分。自分は彼女。同一の存在であるならば、たどり着く答えも当然同じ。
「先輩を、ずっと私の傍に置いておく方法が」
「――!」
伸ばされた手を、マイヤは咄嗟に振り払う。これを掴んでは駄目だと、直感的に理解したから。
「駄目……駄目です、それは」
「どうしてですか? 望んでいるのでしょう、先輩にどこにも行ってほしくないと。一生、自分の隣で生きていて欲しいと」
反論ができない。そう願ったことの、何と多い事か。シュウの生涯を自分が縛るわけにはいかないのだと、マイヤがずっと『我慢してきたこと』。
「ならばその欲望、解き放ってしまいなさい」
「駄目です! 先輩が……あれが先輩の決めた事なら、私は、私は先輩のことを、見送ってあげなくちゃ……先輩が幸せになれる道を、守ってあげなくちゃ……」
「無茶苦茶ですよ。ついさっき、あんなに必死になって叫んでいたではないですか。『いかないで』と」
反論しても無駄だとは、気付いていた。
その身勝手が自分の内から出てきたものだと、理解できていた。
「私は先輩を幸せにしたいのではありません。先輩を幸せにすることで、私自身が幸せになりたいだけ」
だってまだ、その感情は愛ではなく、『恋』だから。
誰かを幸せにしたいのではなくて、自分を幸せにするための想いだから。
「ねえ、もう自分に嘘を吐くのはやめましょう? あなたの欲望を、あなたの祈りを、解放しましょう? 先輩の翼をむしり取って、救世主の座から引きずり降ろして、永遠にあなたの傍に置いておきましょう? あなただけの先輩に、してしまいましょう?」
もう一人のマイヤが、伸ばした手を。
マイヤは、今度こそ振り払えなかった。
「――そう、これでいいのです、マイヤ。あなたの正義に、光をくべましょう」
直後、鏡写しの自分の姿はほどけて消えて、マイヤの手の中には銀色の直剣だけが握られていた。『武装型アールマティ』の触媒にするためのロングソード――マイヤはその刀身を、いつものように光の刃へ変換する。
否。いつも通りでは、ない。
自分の奥深くから湧き上がる衝動、今までこんなに大きかっただろうかと首を捻るほどの『怒り』と『嘆き』を、その光の内に込めていく。
まるで呼応するように。まるで鼓動するように。
光の剣は、どくん、どくんと脈打って、その感情を呑み込んでいく。その脈動の一回ごとに、刀身は太く、長く、限界を超えて膨らんでいった。
「……私の先輩を、返してください……!」
爆発しそうなほどに肥大化した、光の剣を抜き放つ。シュウの腕を掴んでいた上級法術師が、弾かれた様にこちらを向いた。
だが、もう遅い。
翼を開いたマイヤの体は、瞬きの暇すら与えずその目前へと接近し――振り上げた腕が、輝く刃による斬り上げを演出した。
直後。
真っ二つになった上級法術師、その断面から血の代わりに真っ白な光があふれだした。
涙に曇った視界が、その内へと呑み込まれるのとほぼ同時に。
マイヤの内に残った理性も、眩いばかりの光の中へ、溶けて、消えた。




