第六話『君に名前を』
「——、——、——」
うっすらと聞こえる声と、顔に当たる朝日、それから部屋を通り抜けていく柔らかな風に、シュウの意識は引き上げられた。上体を起こして周囲を見れば、どうやら昨日、自分は椅子に座ったまま寝てしまったらしい、という事が分かった。肩には毛布が掛けられている。向かいの席で同じように眠っているマイヤが掛けてくれたのだろうか。
と同時に、聞こえる声がマイヤのそれではない、という事が確定する。イスラーフィールのそれでもない。もっと高い声。鈴の音の様な、という表現が似合う、そんな声だ。
ベッドの方を見れば、昨夜までそこで眠っていたはずの魔族の少女の姿がない。
——彼女の声か。
シュウは悟る。そういえば湖で、短い間だけ聴いたあの声と同じ音色だ。
声は、バルコニーの方から聞こえてきた。シュウはマイヤを起こさないように立ち上がると、うっすらと開いていた、バルコニーへと続く部屋が存在する場所へのドアを開ける。
そこを通ると、あまり調度品の多くない接続室へと出た。しかし不思議と地味さや貧相さは感じない。バルコニーと部屋をつなぐ場所は大きなガラス窓であり、部屋の中からは外の青空を眺めることが、そして部屋の外からは太陽の光を燦々と入れることが可能であるからだ。
そして何より——今は。
そこに、銀鱗に陽光を映し出す川の流れの様に美麗な髪をなびかせ、一人の少女がいる。
「——『वाताशिहाइमाइकितेइरु अनातानिकान्शाओ सेकाइनिकान्शाओ』」
彼女の桜色の小さな唇から、その不思議な言葉が紡ぎ出される。不思議と穏やかな気持ちになる旋律を成すそれは、きっと彼女の故郷の歌なのだろう、と直感的に感じた。
「『कोनोसेकाइनोइकितोशिइकेरुसुबेतेनोमोनोनिकान्शाओ दोउकाशुकुफ़ुकुतो योरोकोबिअरे』——」
何を言っているのか、残念ながらシュウには理解できない。彼女の言葉は恐らく『ダエーワ語』——悪性存在達が用いるといわれる、異郷の言葉だ。人間であるシュウには理解のしようがない。
ただ——何を言わんとしているのかは、何となく、分かる。
あれは感謝だ。祝福だ。賛歌なのだ。何の? もちろん、命の。
今生きていることへの感謝を。
この世界に生まれてきたことへの賛美を。
争う事、無意味に死する者たちへの哀しみを。
そして——生きとし生けるすべてのものへの祝福を。
ああ——それを悟ったからこそ、シュウはやはり強く、強く思う。
やはり善性存在と悪性存在に、『善悪』などという簡単なもので区切ることのできる差は存在しないのではないか、と。
善性存在であれ他者を傷つけ、争い合い、憎み合うのに、悪性存在たる魔族であるはずのこの少女は、この世界への感謝と賛美を歌っている。これでは、どちらがどちらなのか分からない。
ならば、やはり——両者に、違いなど存在しないのではないか。元は同じ『人類』なのだから、二つの種族が根源的には同一にして不可分であることに、疑う余地はないのではないか——
——これこそが、彼が法術師として一人前になることのできない理由——『天則』への不忠である。
シュウ・フェリドゥーンは、「悪性存在は、放置すればいずれ善性存在を滅亡させるであろう『絶対悪』、その眷族であり、『絶対悪』誕生を阻止するためには悪性存在を滅ぼしつくさなければならない」という『天則』の記述に逆らってきた。そしてこれからも、きっと逆らい続けるのだろう。
こうして、人類の魂の美しさを、知ったのだから。
「……っ!」
と、そこでシュウが部屋の入口にいることに気が付いたのか。魔族の少女が振り返る。驚いた、というか、むしろ一種恐怖を含んだような彼女の表情に、シュウは慌てて手を振る。
「ま、待ってくれ。俺は君に害をなそうとする存在じゃない」
向こうの言葉は理解できずとも、こちらの言葉が通じる、ということは、あの湖での一軒で何となくわかっていた。だから、この言葉も届くと思ったのだが。
「……नान्दा……अनातादातान्दा……」
果たして、彼女はほっとしたような表情へと、少しだけその美しい顔を変えて、後退りをするのをやめた。どうやら、無事に意思疎通ができたらしい。いや、相変わらずシュウの方からは向こうの言っていることを完全に理解はできないのだが。
銀色の髪が揺れる。その下から除く赤い瞳がこちらを捉え、嬉しそうに揺れた。今はイスラーフィールが提供した、黒のゆったりとした服を纏っているのだが、彼女の柔らかい、というか、優しそう、というか。そんな雰囲気と、非常に噛み合っていて、とても似合っていた。
はっ、とそこで我に返る。浮世離れした——実際、彼女は異世界である異郷からやってきたはずなので、ある意味ではこの世のものではない——彼女の姿を見ていると、どうにも、吸い込まれるというか、魂を奪われてしまうような錯覚に陥る。
シュウは頭を振って意識をクリアにさせると、できるだけ怖がらせないように、穏やかに声を出した。
「俺はシュウ。シュウ・フェリドゥーン。君の名前を教えてくれないか」
ここまで、シュウもマイヤも、イスラーフィールに至るまで、彼女の名前を一切把握していない。一応イスラーフィールからの情報では、彼女こそが特級法術師マグナス・ハーキュリーの追っている甲種指名手配魔族、『ザッハーク』である可能性があるのだが、しかし断定できたわけではない。それに恐らく、ザッハークというのは教会が付けた名前だ。経典に登場する悪龍の名前——
であれば、万が一この少女がザッハークであったとしても、それが本名である可能性は限りなく低い。
イスラーフィールは彼女をここで匿うつもりだと言っていたため、今後シュウとマイヤは長い間彼女と共に過ごす可能性がある。だからこそ、円滑なコミュニケーションのために、名前を聞いておきたかった。
の、だが。
「……नाम……?」
あろうことか、彼女は首を傾げてしまったのだ。
発音が酷似していたため、恐らく「名前」という単語を指していたのだろう、というのは理解できた。できたからこそ、驚くべき……同時に、戦慄すべき事態が明らかになった、と言っていい。
「……नाम、वाकारानाइ……」
——間違いない。
彼女は、名前、というモノを、持っていないのだ。
これは困ったぞ、と、シュウは内心で頭を抱える。この事態は予測していなかった。魔族というモノ、或いは悪性存在そのものが、全員名前の概念を持たないのか。それとも、彼女だけが名前を有していないのか——どちらなのかはこの時点では知りようもない。
しかし彼女には、その個体を識別するための名称が、存在しないということだけは確かであった。
このままでは、今後の会話にも支障をきたす可能性が出てくる。どうすれば良いだろうか——
シュウは何とかこの事態を解決しようと、知恵を振り絞るが、中々策は出てこない。
と、その時。
「せんぱい……? もう、起きてらしたんですか……?」
背後のドアが少し開いて、寝室からマイヤが顔を出した。眠たげに目を擦っているのが、普段のきりりと真面目な雰囲気の彼女とは違って妙に子供っぽくて可愛らしく、思わずドキリとしてしまったのは内緒である。
「ああ、マイ……丁度いいところに」
「丁度良い……?」
彼女はぼんやりとこちらを見ると、それからバルコニーで所在なさげに立つ、魔族の少女を見やった。
そして。
「えっ、ええええええっ!?」
叫んだ。どうやら、少女が起きていたことが衝撃的だったらしい。
***
「なるほど……彼女には名前が無く、意思疎通の際に問題になるのではないか、と……」
「ああ……どうしたらいいと思う? マイの知恵を貸してくれ」
マイヤ、魔族の少女の二人と共に部屋に戻ったシュウは、テーブルをはさんで向こう側に座るマイヤにそう頼んだ。彼女の隣の席に腰を下ろした銀色の娘は、自分の着ている服が物珍しいのか、裾を引っ張ったり、レースを弄んだりしていた。その様子に、16歳ほどと思われる外見とはかけ離れた幼さを感じ、可愛らしい、と思うと同時に、ある種の危うさをシュウは感じる。
名前がない、という事が、彼女の自己の確立を妨げているのでは——大昔にどこかで聞きかじった、アイデンティティーの形成にかかわる話を脳内で思い返しながら、そんな不安を抱いてしまっていたのだ。
そんなシュウの感情を読み取ってくれたのか、マイヤは真剣な表情で考え込む。顎に指をやり、「そうですね……」と考え込む彼女の姿からは、つい先ほど何事かを呟きながら落ち込んでいた人物と同一人物とはとても思えない。「うう……先輩との疑似夫婦生活……」等と言っていたような気がするが、恐らく聞き間違いだろう。マイヤが自分と夫婦関係になることを望むなど、あり得ないことなのだから。
可愛らしく、優しく、その上家事も万能で気立てもよい。そんな素晴らしい女性が、自分ごときを好くわけがない。逆に言えば、マイヤの様な少女を射止める男性は幸せ者だと思う。シュウはこれまで見てきた女性の中で彼女ほど人間のできた人物を知らないため、素直にそう感じるのだ。
兎も角も——そんなマイヤが、一時的にとはいえ力を貸してくれるのは本当にありがたい。この関係は自分たちがパーティーメンバーだからこそ起こり得たものなのだ、と思うと、イスラーフィールには感謝をしてもしきれない。今この場で頭を悩ませる原因の一つでもあるから、一概に手放しで感謝することはできないのだが。
さて、マイヤの中で考えがまとまったのか、彼女は視線を上げると、口を開いた。
「では、先輩が名前を付けるというのはどうでしょう」
「まて、どうしてそうなる」
意外にも意味の良く分からない回答が出てきて、シュウは思わず突っ込みを入れてしまった。
彼女の個体を識別する名前が、他の人間が付けたもの(という可能性のあるもの)しか存在しなかったが故に、彼女の本来の名前を知ろうとしたのに、そこで新たにシュウが名前を付けてしまっては本末転倒だ。
そのことを告げると、マイヤはしかし、首を振って「いいですか」と切り返した。
「先輩が気にしていたのは、彼女の呼び方が、それが彼女を本当に指す名前なのかもわからない上に、差別表現である『ザッハーク』しかない、という事ですよね?」
「あ、ああ……」
「なら簡単です。先輩がこの子に名前を付ければ、それは確実に彼女を識別する名前になりますし、 何より先輩の付ける名前なら差別表現になることはあり得ません」
——それは信頼だ。
マイヤ・フィルドゥシーという少女が、シュウ・フェリドゥーンという人間に対して寄せる、絶対の信頼の証。「この人なら必ずこうする」と考えられる、それだけの絆。
いつの間にかそこまでその信用を彼女から得られていたことに驚愕しつつも心の中で感謝する。本来ならば、あり得なかった絆だ。
だが——だが、それだからこそ、余計に思ってしまう。
「別に、俺ではなくともいいのではないか」、と。
「それだったら、別にマイヤや、それこそ学園長でも——」
シュウは唯、中立の立場にある……というより、人間と魔族を色眼鏡をかけて視ることのできない人間である、というだけで、別にこういう場面で信頼されるような人間ではない、と自分を捉えている。中立の思考をするだけならマイヤにも可能だし、イスラーフィールなどその最たる例だろう。
何故、自分でなくてはならないのか? それは悪感情からくるものではなく、ただただ純粋な疑問だった。
そして優しい後輩は、その些細な疑問にも、わかり易く答えてくれるのだった。
「先輩は完全に中立の目線を持った人です。私や学園長先生では、人間としての主観がどうしても入ってしまいますから」
中立。パルスとしての主観を持たない。
それは、ああ、シュウが法術を使えない理由そのものではないか。すべての人間が無条件に従う、教会の絶対原理『天則』を無視し、反逆する存在。
この世界に生きる人間として、あってはならないはずの生命——『落ちこぼれ』の烙印。
マイヤはそれさえ肯定してくれたのだ。
どこか、心が救われたような気がして。
「……ありがとう、マイ」
シュウはマイヤに、何度目かになるのかも分からない感謝をして、それから銀色の少女の方を見る。
「というわけで、どうにも君の名前を俺が付けることになりそうなのだが……君はどう思う? 俺が、君に名前を付けてもいいのか?」
ここでマイヤとシュウがどれだけ会話をしても、この少女がそれを受け入れなければ、それは勝手に人間側が付けた『ザッハーク』の名と同じではないか。ザッハークがこの少女と決まったわけではないのだが。
それでも──彼女の意思に沿わない名前が使われるのが嫌でこの状況に至っているというのに、本末転倒ではないか、と思ったのだ。
しかし、どうやらこちらの言葉はある程度理解できるらしい、銀髪の魔族の娘は。
ふわり、と柔らかく笑って、ひとつ、頷いた。了承のサインだ。元が同じなのだから当然といえば当然なのだが、人間と魔族であっても、そう言ったサインは共通するらしい。
そのことに妙な安心感を抱きながら、シュウは考える。
この銀色の少女にふさわしい名前──自分が勝手につけるのだから、責任重大だ。素敵な名前を考えなくては。
まるで子供の名前を考える親のようだ、と、ふと脳裏によぎる。そして自分とは一生関係がないことだろう、とそれを叩き出した。
この落ちこぼれを、誰が愛するというのか。そもそも──『愛情』というのが、どういうモノなのかさえ、理解していないのに。
──そして、シュウは再び口を開く。
「……では……」
実は、名前の案は割りとあっさり決まっていた。それで本当に良いかを考察していたのだ。結果として、これを提案するに相応しい、と判断し、今告げる。
「アリア、というのはどうだろうか。旧文明の言葉で、美しい旋律の歌を表す言葉だ」
理由も簡単だ。
「君の声はとても綺麗だからな。似合うと思うのだが……」
むしろ、ありきたり過ぎて問題なのではないか──と、考えたのだが。
「अरिअ……मम、नाम……अरिअ……!」
銀色の少女は、ぱぁぁっ、と表情を輝かせて、興奮気味にアリア、アリア、と何度も繰り返した。どうやら、喜んでもらえたらしい。
「良かったですね、先輩」
マイヤが嬉しそうに、しかしどこか複雑そうな表情で言う。提案してきたのはマイヤなのだが、今になって何か問題に気がついたのだろうか。「先輩に名前をつけてもらうとか、今考えたら何て羨ましい……!」などと呟いているように聞こえるのだが、空耳だろう。何を言っているのか理解できない。別に自分がつけた名前など、羨まれるようなことでも無いだろう。
兎も角──こうして、魔族の娘には、彼女を彼女足らしめる名が与えられた。
改めてシュウは、銀色の魔族に片手を差し出す。握手の文化は理解してもらえた様で、彼女もまた、その手を握った。柔らかいな、と思うと同時に、なんと細いのか、とも思う。最強の悪性存在などと言われていることが信じがたい。
なら彼女は──やはり、ザッハークなどではなく。
「よろしく、アリア」
今アリアと名付けられた、一人の人類なのだろう。
こんばんは。本当は明日投稿するつもりだったのですが、完成したので投稿しました。というわけで結局予約ではないという()
次回更新は早くとも来週、遅ければ来月になりそうです。PCが……戻ってこない……!!




