第三話『朝日照らす道行き』
『——ウ、シュウ、気付いて――』
「ん……」
耳朶を打つ柔らかな声で、シュウは微睡みの内より目を覚ます。
体の感覚が薄い。全身に力が入らないというか、何かしら行動を起こした際に、その出力が三分の一くらいに下がってしまうというか……。
平衡感覚まで失ってしまったように思う。どこが上で、どこが下なのか。自分が今立っているのか、寝そべっているのかもわからない。おまけにその状況が一定なのか、それとも僅かずつ、あるいは一気に変化しているのかすら察知が難しい。
五感そのものが性能を落とし、視界には殆ど何も――ああいや、たった今映像が結ばれ始めた。シュウは瞬きを何度かすると、世界と己のピントを合わせていく。それこそ、カメラの被写体を捉えていくように。
やがてその視界が鮮明となり、五感の全てが十全に発揮されるようになったとき、シュウはあっ、と声を上げそうになった。
掲げた己の手。寝る前はマイヤの右手を握っていたはずの左手が、半透明に透けている。それは表面が透過して、中身が見えている、という意味では無い。あえて言うならば、その中身ごと透過して、左手を通して世界の向こう側が見える。
ばっ、と視線を落とせば、シュウの全身はズボンの裾に至るまで、一律で不透明度が下がっていた。加えて足下には地面らしい地面がなく、大地を踏みしめている、と思っていた自分の足は、いっそわずかに浮いている様にさえ見えた。
そう――掌を通して向こう側が見えたとしても、そこには何の意味もない。
何故ならばこの世界には何もない。光とも闇とも、白とも黒ともつかない、ただの『空隙』が広がっているだけ。
知っている。
この場所を知っている。忘れるものか。シュウ・フェリドゥーンにとって、この場所こそ己の運命を加速させた始まりの場所だ。あの日、イスラーフィールの導きによってこの『聖堂』へとたどり着くことが無ければ、シュウはマイヤの命を救うことも、エリナの心を救うことも、そして中央大陸沿岸のシャローム市を守ることもできなかったはずなのだから。
それだけではない。
今のシュウにとって、この場所が持つ『出発点』という意味は、一つのモノに対しての言葉ではなくなっている。
視線の先、つい先ほどまで何もなかったはずの場所に、入り混じる光と闇、白と黒――いいや、そのどちらも表現としては正しくない。
縦糸と横糸を紡ぐが如く、『時間』と『空間』が像を結ぶ。
光輝、あるいは溢れ出る闇を思わす『輪』を背負い、モノクロの少女が姿を顕わした。
その体躯は、どう高く見積もってもシュウの胸程までしかない。
瞳の色は白と黒。何も映さず、しかし全てを映す、『神』の瞳。
さらさらとした瞳と同じ色の髪は、残念ながらシュウには受け継がれなかったらしい。見た目は父親に似ている、とナラシンハも言っていたし、シュウ自身、記憶の中の姿を思えば確かにそうだと頷ける。
けれども目元は、本当にそっくりだ。鏡に映した、あるいはマイヤの瞳に写り込んだ自分の顔と、この少女の瞳を青くしたものを比べれば、気が付けない方がおかしいくらい。
少女の名は、ズルワーン。善と悪の世界が分かたれるより前、旧時代文明を生き残った、この世界最後の『神核種』——即ち聖霊でも悪魔でもない、真正の『神』。
あるいは、ラジア・フェリドゥーンと呼ぶ者もいるかもしれない。やがて神の器となるべく生れ落ち、その宿命の故にこの空隙の間に座する、十八年前に死んだはずの人間。そして他ならないシュウ・フェリドゥーンの実の母親である。
『——ウ、気を――けて、あの――はあなたの――を……』
静謐な空気を震わせながら、ズルワーンが何事かを語り掛けようと口を開く。
だがその声は、この空間に於いて感覚の遠のいたシュウにはよく聞き取れない。
瞬間、シュウは理解した。
ああ、これは夢だ、と。
シュウは今、最初に出会ったときのように、この空間に直接魂あるいは意識を飛ばしているのではなく、ズルワーンが息子に向けて何かを訴えようとしている場面を、彼女の目線のすぐ前に立って見聞きしているだけ。
『私も――を受けて、十全――――――をサ――トでき――。だから—―――にしか伝えられ――の』
しかもその声は、二人の間に透明な分厚い板があると錯覚してしまうほど、遠く、小さく、断続的。まるで誰かが、親子を引き離そうと画策しているかのように思えるほどで。
『あなたは今のままでは、大切な人を、世界を救いきれない』
だから、突如として克明な声が届いた時に。
それだけは伝えなければならないと、最後の神が確信を持っていたのだということが、痛いほどよく分かってしまった。
「な――」
告げられた言葉の衝撃に、シュウの幻影の身体がきしむ。
力不足なのは承知している。最近はこれでも、呪術に秀でている、と言えるだけの領域まで強くなった自信があるが、それでもマイヤやエリナには遠く及ばないし、アルケイデスやズカルナインとの直接戦闘などもってのほかだろう。
だが、『スラエオータナ』を呼び出した後なら違う。
他でもないズルワーンから託されたあの槍は、まさに呪術の本懐、世界を束ね、改変し、新たなる選択肢をもたらすその力を以て、あらゆる法力と魔力をコントロールできる。それは即ち、スラエオータナを召喚したシュウには一切の法術と魔術が通用しない、ということを示す。当然、法術や魔術による障壁も破壊が可能だ。
魔物のブレスのような魔力に寄らない攻撃は別だが、シュウは攻撃面・防御面共に、こと人間と魔族を相手取った場合においては無敵の力を発揮できる。
それを以てしても、なお。
対応できない場面が、もうすぐやってくる――ズルワーンは、息子に向かってそう告げているのだ。
彼女の機械的な表情を浮かべた顔が、初めて、悔しそうに歪む。
血の色の薄い唇を歪ませて、小さな女神は呟いた。
『もう、ここに残していける言葉も、あと少し――』
「待ってくれ、教えてくれズルワーン、俺が遭遇する事態とは何だ、俺は一体、どうすればいいんだ!?」
だが母は応えない。当然だ。シュウは彼女と交信しているわけではない。善と悪の境界に取り残された彼女では、この世界に直接干渉することはできないのだと、イスラーフィールが言っていた。ズルワーンに会いに行くには、シュウが彼女の存在に近づく必要がある。『スラエオータナ』を授かった時のような、特別な状況と何らかの条件が必要になるのだ。
これは彼女が必死の思いで届けてくれた記録映像であって、こちらから問いかけても無駄——そのことが、シュウの心を悲しい気持ちと、得も言われぬ焦りで満たしていく。
もう、記憶はある。
本当の両親と共に過ごした、短いけれど幸せな五年間の記憶が、今のシュウにはある。
だから昔よりもずっと、ズルワーンと語り合えない今が、ひどく苦しい。
彼女と心を通わせることができず、その言葉の意味を理解しきれない現状が悩ましい。
『シュウ、もしも――――なったときは、必ずあなたの――――ひとたちを――――して。そうすれば――――、あなたに力を……』
ズルワーンの記録は、シュウに向かって必死に語り掛ける。
その姿は徐々に徐々に、薄く、遠く、消えていく。シュウの意識と彼女の遺した言葉の接続が切れ始めているのだ。いかな神、いかな親子とはいえ、向こうからの直接干渉が不可能である以上、こうやってメッセージを届けられる時間も限られているし、断続的なのだろう。
シュウはそのとき、これまでにマイヤが何度か繰り返していた、「夜な夜な見ている悪夢」というのが、きっとこの夢のことなのだと理解した。確かにこれはうなされるかも知れない。
もうこの世にはいないはずの実の家族との邂逅と、届かぬ言葉の応酬――そんな夢が、いいものであるはずがないだろう。
『そのとき――唱えてほ――、』
表情の薄い顔に、それでも精一杯の必死さを込めて。ズルワーンは狼狽するシュウへと、何か長い、祝詞のようなモノを告げてくる。即座に、それが何らかの術式の起動句なのだと判断した。だがそれは法術のものでも、魔術のものでもない。呪術の起動句の中にも、同様のものを見聞きしたことは一度たりともない。
それだけなら、きっとただの、もう失われた古の呪術、あるいは『スラエオータナ』と同じ世界呪術の類なのだろうと思ったはずだ。
「待ってくれズルワーン、それは、それはどういうことなんだ、何を意味しているんだ!?」
にもかかわらず、シュウはこれ以上ないほどの戦慄と共に、母に向かって問うていた。
何故ならば、彼女の託した祝詞は、『全く意味を理解することができなかった』から。
文字通りの意味である。
ズルワーンが紡いだ言葉は、スプンタ語でも、ましてや最近分かるようになり始めたダエーワ語でもない、聞いたことのない言語で紡がれていたのだから。
『どうかあなたをこそ――この橋の、こちら側へ』
結局、ズルワーンがシュウの必死の問いかけに答えることは、ついぞなかった。
彼女は不思議な、なにか合言葉のようなフレーズを告げると、その姿をすぅ、と透過させてしまったのだ。メッセージが途切れたのだと、瞬時に理解する。
同時に、ごうっ、と、シュウを姿の見えない竜巻が襲った。それは驚くべき膂力で彼の身体を引っ張ると、世界の『空隙』から、小さな救世主を引きずり弾き出していく。
もう、この世界が持たないのだ。
「教えてくれ……いかないでくれ……!」
もがき、叫び、消えゆくズルワーンの影へと手を伸ばす。届くはずがないと分かっていても、シュウはモノクロの女神へと呼びかけ続ける。
そんな彼をあざ笑うかのように、荒れ狂う疾風はシュウを現実世界へと弾き飛ばしていく。
シュウの思考は、空想の身体は、夢と現実の狭間、ズルワーンの座とは異なる『空隙』へと埋没する。
幾重ものゲートを潜り抜け、その思考が朝の世界へと戻り始める瞬間に。
「——母さん――」
小さく、シュウの口が、ズルワーンへと呼びかけた。
もう彼方にうっすらとしか見えない女神のデータ。その表情が、くしゃり、と悲し気に歪んだような気がした。
***
「……んぱい、先輩、——あなた!!」
「——はッ……!!」
がたり、と全身をこわばらせて、シュウの意識は現実世界へと帰還する。
央都行きの馬車、その客席右端。窓側に座った己の身体が、じっとりと嫌な汗をかいているのが分かる。窓の外を見れば明るい陽光がさんさんと降り注いでいて、丁寧に植えられた街路樹を照らしていた。どうやらもう、朝が来たらしい。
昨晩眠りについてから、時間経過の自覚がなかった。何か大事な—―とても大事な夢を見ていたような気がするのだが、内容が上手く思い出せないのだ。マイヤが言っていた『シュウが毎晩見ている悪夢』とはこれのことだったのだろうか。
マイヤ、と言えば。
今、彼女が叫んでくれなければ、自分の意識はこちら側へ帰ってこれなかったような気がしている。
シュウはすぐ隣に座る恋人へと頭を下げた。
「マイ、すまなかった。大きな声を出させてしまったな」
「こちらこそごめんなさい。びっくり、しましたよね……でも、先輩が、凄く苦しそうで……」
伏し目がちになってしまう彼女を何とかしてやりたくて、シュウは咄嗟に、マイヤの海色の頭を撫でてしまう。朝日に反射してきらきら輝くその髪が、シュウの手が作る影のせいでより鮮やかに煌いた。いっそ卑怯にさえ思える。どんな動作をしても美しいとは、この子は一体どういう生体をしているのだろうか。
カメラは荷物の中に入れてしまっているため、現在手元にはない。代わりに心のフィルムに、その色合いを記録しておこう。そんなことを思いながら、シュウはマイヤの手を握り返す。どうやらうなされるシュウを見て繋いでくれたらしく、既に長いこと重なっていた跡があった。
――そう認識すると、急に恥ずかしくなってくるのだから不思議だ。
苦笑しつつも、シュウはマイヤにもう一度感謝を述べる。
「ありがとう、もう大丈夫だよ。マイが手を握っていてくれたからかな」
「そんな……これまでなら、悪夢もそれだけで防げましたから、きっと違います」
首を振る彼女はやるせなさそう。確かに普段のマイヤから聞くところによれば、手を握ったり抱き締めたり、そいういう行動をとるとすぐにシュウの夢は途切れる、というが……今日は、最後まで見終えた上でなお、夢から覚められなくてもがいていたような。そんな何の根拠もない、おかしな実感がある。
なんにせよ、マイヤのお蔭でこちらに帰ってこれたのは確かだ。
彼女の暗い表情を、明るく変える手段はないだろうか。
……そうだ。
「なら、『あなた』、と呼んでくれたのが決め手だな、きっと」
「ひうっ……!」
ちょっと悪戯っぽい表情を取りながら――イスラーフィールやロザリアのそれの見様見真似なので、実際にできているのかどうかは知らないが――マイヤをわずかにからかってみる。うん、絶望的に似合わないなこのテンションは、などと思いながらも、わたわたと慌てるマイヤの姿がちょっと面白くて、思わず続けてしまいそうになった。なるほど、これが彼女たちが、自分たちをからかって楽しむのを、中々やめてくれない理由だろうか。
「あ、あれはその、なんと言いますか……つい反射的に、ですね……」
「む、冗談だったのか?」
「うぅ……先輩のばか……」
マイヤは顔を真っ赤にすると、むすっとした表情で俯いてしまった。何だろう、別に持病の発作とか突発性の麻痺とかそういうのでもないのに心臓を抑えてうずくまりそうになってしまう。その昔読んだ小説に「尊さで死ぬ」という表現があったが、今まさにその局面に自分はいるのではないだろうか? それはまずい。マイヤをずっと『尊い』ままでいさせるためにも、ここで死ぬわけにはいかない。
取りあえずその場しのぎをするべく、シュウは恋人から目を逸らす。残念ながらというべきかなんというべきか症状は全く改善せず、むしろ脳内で自動再生される分だけ酷くなっているのだが、話題を変えるための心の余裕はできたと思う。そうだ、まずは朝の挨拶から始めよう。
「すっかり朝だな。おはよう、マイ」
「おはようございます、先輩——あなた」
うん、正直逆効果だったかもしれない。
仕返しだ、と言わんばかりに、楽しそうな笑顔を浮かべるマイヤ。その姿に苦笑しながら、シュウはそっと彼女を抱き寄せた。
昇った朝日に照らされた、二人の影が重なる。
甘い唇の感触に酔いしれながら、もっと、もっとと互いを求めあう。
シュウがマイヤの後頭部に手を伸ばし、押し込むように彼女を抱き寄せると、マイヤもまた、シュウの首筋に腕を絡ませ、互いの距離をゼロより小さく導いていく。
八の月に色々あって以来、マイヤは随分積極的になったと思う。
何というか、シュウの存在を刻み付けるように、そしてシュウ自身にも己の存在を刻み付けるかのように、二人の間に強い絆を紡ごうとしてくる。
若干恥ずかしくはあるが、それだけ心配させてしまったのだろう、と反省するところもある。彼女が満足するまで付き合ってあげたい。そもそもシュウ自身悪い想いをしているわけではない。マイヤのことは大好きだし、彼女ともっと恋人らしいことができるのなら、それはシュウにとっても嬉しいことだ。
重ねた唇へと、もう一度意識を向け直す。
まだこの先へと進むことはできないが、いつかそうなったらきっと、自分たちは止まれなくなってしまうのだろう。
そんなことを思いながら。
早朝の、誰もまだ起きていない車内であることを良いことに、二人はいつまでも、いつまでも口づけを交わし――
「お二人とも……起き抜けからいちゃいちゃするのは構いませんが、少しは周囲に注意を向けてはいかがですか?」
むくれた調子のエリナの声で、しゅばっ、と勢いよく居住まいを正した。
それはもう迅速に。がたっ、と馬車が揺れるくらい。
「え、エリナ……起きていたんですか?」
「当然ですわッ!! 大体なんだというのですかこの青髪ときたら、お兄様に夢中になる余り全く周囲を鑑みないとか……そもそも私の目の前でお兄様と口づけを交わすとは何事です!! 慎みなさい!」
「そ、そこまでにしておいてやってくれ……俺も気が付かなくてすまなかった」
「むぅ、お兄様が言うなら切り上げておいてやりますわ……」
さっきのは少々自分の方でも夢中になりすぎた気がする。家でならともかく、外では勿論人が寝ているところでも控えるべきだな――とシュウは改めて反省した。
素直に頭を下げると、エリナの方も恥ずかしそうにそっぽを向く。この素直さは彼女の良い所だなぁ、と、シュウは常々感心している。キュリオスハート翁の『疑わない人間』を生み出す教育方針を引きずっているのか、それとも、単純に彼女自身の性格なのか。エリナは、『自分が信じるものを信じる』という系統の思考回路の担い手として、一種の極致にいるような気がする。
もっとも――そうでもなければ、『認識』を操る法術師など、やっていられないのかもしれないが。
「それはともかく、おはようございますお兄様!!」
「ああ、おはよう」
「ふふん、やはり朝の始まりとはこのようにつつましやかでなくては」
彼女の『認識』を聞いていると、不思議とそれが常識であるかのように思えてくるのだから興味深い。
そして今日からしばらくの間、シュウはきっと、その『認識』に大層世話になるに違いない。何せエリナの主観こそが、シュウの行動に最も大きな影響を与える、『シュウにとっての価値観』の代わりを果たしてくれるのだから。
——見えてきた。
窓の向こうに、大きな白い城壁が。
この速度でもまだ数十分はかかるだろうと目される距離なのに、もう既にそのサイズが手に取るようにわかる。恐るべき巨大さだ。おまけにその表面に掘られた細かい装飾がくっきりと見える。傷も、風化も、それどころか汚れすらも見当たらない、完璧に過ぎる白亜の長城。
そのさらに奥に、うっすらとだが、細長い、尖塔のようなモノが見える。実物を見るのは初めてだが、その姿に該当する建造物など、シュウの知る限りこの世界には一つしかない。
『聖火の塔』。この世界の唯一最大の統率機関、『教会』が、聖霊より授かった無限の炎を管理しているという、この世界の基軸そのもの。シュウたちの扱う器の中へと込められた聖なる種火も、あの炎から分けられたものだ。
そんな特徴的な構造物を二つも保有する都市など、二つとあるまい。あるはずがない。
陽光を反射し煌くその威容こそが、この旅の目的地。
シュウにとってはほぼゼロに近い知見を、エリナの主観とマイヤの記憶にたよって構築していくことになる、この世界の中心地。
中央都市『バルフ・ジャムシード』。
通称、『央都』である。




