第十三話『天に杯、水面の逆月』
「ふぅ……」
売店で購入したフルーツ牛乳を飲み干すと、シュウはぷはぁと一息つく。
幼少期、師匠の家族たちと一緒に街に降りて、そのまま温泉に浸かって帰る――というような小旅行をすると、風呂上りに決まって師匠はこの甘い牛乳を買ってくれた。シュウ自身は特に牛乳が好き、というワケではないが、このフルーツ牛乳だけは恐らくこれから先も欠かせない。癖である。
甘い飲み物は喉にべたりと貼り付くため、時には火照った体を冷やしてくれないことがあるが、品種の問題か、それとも製法か、フルーツ牛乳はそんなことはなかった。不思議な話だが、これもまた、習慣化したことで「慣れた」のかもしれない。
中身の無くなった牛乳瓶を、回収箱に捨てる。
ビール瓶のためのそれとよく似た青色のボックスは、内部で碁盤状に仕切られており、そのスペース一つにつき一本、空になった牛乳瓶が突き刺さっていた。たった今シュウ自身の行いでまた一つその空瓶は増えたわけだが、中空に向けて口を開けた美味の跡が無数に整列しているのを見ると、なんだか妙に混乱してくる。だまし絵をじっと見ているような感覚だ。
人間は得てして集団になり易いが、逆に集団を苦手とするとも聞く。案外数人で集まっているのが、一番良いのかもしれない。
そんなどうでもいいことを思いながら、仲間たちの待つ部屋へと向かう。
旅館というものは良く工夫が凝らされていて、風呂から上がったあと、女性陣が戻ってくるのを待つのにも退屈はしなかった。暇を潰すための設備がいくつもあるし、お土産を眺めているだけで既に楽しい。
夕方のシュウはと言えば、遊具の中に卓球台と言うものがあったので、エリックと二人で遊んでいた。
こういうものに関する経験がないためボロ負けするかなと思っていたところ、エリックがやたらと弱く、想定していたのとは真逆の結果でのワンサイドゲーム。本人曰く「天運が僕に味方しなかった、か……ガクッ」との事だが、普段の戦闘などを鑑みるに、もともとあまり体を動かすのが得意ではないのだろう。エリックは多分、固定砲台として法術を放つのが一番強いタイプの法術師だ。
館内を見渡すことでも楽しむことができた。
極東大陸でよく見る建築スタイルではあるが、ところどころ中央大陸風のアレンジが効いているというか、恐らくこういう事なのだろう、と推測して補ったと思しき箇所が見え隠れし、実際の極東大陸の風景を知る身としては、逆に故郷がどういうイメージで認識されているのかを垣間見ることができて興味深い。
若干解釈違いな木張りの廊下を進むこと数分。静かにドアを開けると、もう電気は消えていた。どうやら皆、早めに寝ることにしたらしい。というより単純にシュウが遅くまで起きていただけだろう。少々旅館探索に時間をかけ過ぎたのかも知れない。
楽しいことはあっという間に過ぎ去っていくというが本当だな……などと内心で呟きつつ、シュウは寝静まった仲間たちの頭の間をすり抜けていく。
畳張りの室内から何となく想像してはいたが、ベッドではなく敷布団様式だ。入口から見て向かって右から、アルケイデス、イスラーフィール、アリア、マイヤの順に。反対、向かって左、入り口側から順にリズベット、ロザリア、エリック、エリナ、シュウの布団が並んでいる。
こうやって頭を突き合わせる形で布団が並んでいる構図は、シュウにとって大層懐かしい風景だ。寝相が悪いと隣の布団の者に蹴飛ばされる――そんな、遠い日常の些事も、今は目の前で見ることができている。具体的にはエリナとアリアが大きく布団からずれた形で眠っており、突き出した足がエリックの胴と額を踏んずけている。青い顔でうんうんとうなされている彼の様子を見るに、どうやら夢の中でも酷い目にあっているらしい。視線を少し後ろに向けると、アルケイデスがイスラーフィールから抱き枕の様に締め上げられており、目を覚ましてはいないものの若干苦しそうな表情をしていた。
シュウは苦笑すると、アリアとエリナをエリックの上からどけ、元のように戻してやった。アリアに至っては寝間着として提供された浴衣が大きく開けていたので、心の中でひとつ「すまない」と謝り、それも元に戻しておく。アルケイデスと学園長は……まぁ、放っておこう。うん。あれを解決しようと間に入ったら、目を覚ましたイスラーフィールに暫く嫌味を言われる気がする。どこぞの呪術師よりも朴念仁な馬鹿を相手にすると大変なんだよと、変なため息をついていた学園長の横顔が脳裏に浮かんだからだ。
そそくさとエリックを跨ぎ、エリナの元へ。
「うぇへへへ……おにーさまぁ……」
金色の髪を乱した義妹を抱きかかえて布団に戻し、シーツをかけてやると、彼女は緩み切った寝顔でそんなことを口にした。また、記憶の奥が刺激される。師匠の子供たちもあまり寝相が良くなくて、幼いころのシュウは良く布団を占領されてしまったものだ。別にシュウ自身は他の場所で寝ても構わなかったのだが、彼らが風邪をひいてしまったら困ると、その都度元の場所に戻していたのだ。
そうしたとき、目を覚ましているわけでもないのに、彼らは決まってシュウの名前を呼んだものだ。どうして分かったのだろう、と、今も昔も不思議に思う。人間……パルス的な意味では無い存在としての人間とは、なんとも面白く、興味深い生態をしている。
シュウは苦笑して、エリナの頭を一撫でする。彼女はそれでまた頬を緩め、そのまま穏やかな寝顔を見せてくれた。
「……さて、俺も寝るとしよう」
シュウは座敷の最奥、ベランダへと続く障子張りの窓とほど近い、自分の布団へと歩を進める。折角寝かしつけたエリナの足を踏まないよう、そして、部屋の中の皆を起こさないよう、ゆっくりと、静かに――
——と、そこで。
布団のすぐ横、障子にわずかに隙間が空いていることに気付いた。若干だが、そこから風が吹き込んでくる。
ベランダを覆っている大きなガラス窓は、風呂に行く前にすべて閉めたはずだ。そう訝しみながら、シュウは引き戸をゆっくり開ける。
息を呑むことを、抑えられなかった。
それだけ、目に飛び込んできた風景を、「美しい」と思ってしまったからだ。
紺色の夜空に輝く、大きな丸い月。ダイアモンドのような白磁に煌く月光が、彼方に見える水平線まで、海面を優しく照らしていた。僅かな波しぶきに合わせてきこえる、ざばり、ざばり、という小さな快い音と、水面の白の揺らめきがリンクして、まるで時間が歩む速度を落としてしまったよう。
小さく開いた窓から、潮騒の音と海の匂い、それから、心地よく冷たい風が届く――そのベランダに、浴衣を纏った少女が、一人。
彼女は潮風にその海色の髪を靡かせて、青色の瞳で、自らの髪と同じ色、淡く揺らめく大海をじっと、静かに、見つめていた。
マイヤだ。
「マイ」
「あ……」
声をかけると、びくり、と肩を震わせた後、彼女はゆっくりこちらを向いた。体温と外気温の差のせいだろうか。彼女の頬は僅かに赤らみ、薄く潤んだ瞳と、浴衣の首元から見える白いうなじと相まって、得も言われぬ静謐な色気を纏っていた。
宵闇の中で月明りが照らす彼女は、海の妖精にさえ見える。今夜はいつものように結んでいない、揺れる髪の艶めきは、視線の先、海面の煌と酷似する。シュウの顔をその目に捉え、マイヤはふわり、と、笑顔、一つ。
「お帰りなさい、先輩」
「ああ、ただいま……隣、座ってもいいか?」
「はい、どうぞ」
ベランダ部分は木張りになっていて、マイヤは床に直接座っていた。シュウは彼女の左隣に腰を下ろすと、窓の方を見上げる。また違った風景が目に飛び込んできた。夜空をはっきり下から見ることができるため、海面の煌きが波しぶきだけでなく、星や月が写り込んでできたものだと分かるのだ。
よく山が近くにある湖へ行くと、晴れた日には湖面に山の姿が逆さに写る、という話を聞くが、それとよく似た現象だ。満月にほど近い今夜の月では、上下逆であることを判別しにくいが。
そういえば以前アリアに、魔族たちの伝承に登場する、月のダエーワの話を聞いたことがある。チャンドラというらしいが、どうやらお酒を司るダエーワでもあるらしい。何でも魔族たちの間では、月を杯に見立てる風習があるらしい。月食に纏わる、「勝手に酒を飲んだ悪鬼」の物語は中々興味深く、中央大陸南方にも似たような民話があることを思い出したその時のシュウは、やはり根本的なところで人間と魔族は繋がっているのだ、ということを改めて確信したものだ。
人と魔を繋ぐ架け橋。
水面に写るさかしまの月。
夜天に煌く、銀の杯——
ぽすん、と。
肩にかかった僅かな重みと、さらさらとした髪の感触。それから、人肌の温かさに、近づいた甘い香り。
意識を思考の海から引き揚げられたシュウは、寄り掛かってきた来たマイヤを支えるべく、少し姿勢を正す。繋いでほしいのか、マイヤの左手がもぞもぞと膝の上と床の上を行ったり来たり。思わずふふ、と笑い声が漏れる。彼女の手をぎゅっと握ると、重ねるように、今度は自分の膝の上へ。
そうして、視線をまた上げる。
流れる時間が、秒を刻むごとにどんどん遅くなっていく。
静かに、ただ静かに、シュウとマイヤは肩を寄せ合い、星屑と金剛晶の夜空を見上げていた。そのまま、ぽつり、ぽつりと、幾ばくかの言葉を交わす。夜空の星座の名前であるとか、後ろを見れば広がっているのだろう、シャローム市の街灯りの話であるとか。そういう他愛もない話題と共に、一日で増えた新しい想い出について振り返る。
視界の左の彼方を見れば、昼に遊んだビーチが見える。わずかだが、灯りがともっていた。夜の海で遊ぶのは、また昼とは違った魅力があるのだろう。一度行ってみたいな、などと思っていると。
「……月、綺麗ですね」
さざ波の音にかき消されてしまいそうなほど小さい声で、マイヤが呟くように伝えてくる。
ああ、と答えかけて、ふと疑問に思う。マイヤはこんなに、恥ずかしそうに語りかけてくる娘だっただろうか、と。元々シュウが鈍感だというのもあるが、付き合い出す前の彼女は、シュウと話すときにどちらかというと「憧れのひとと話すのに照れている」タイプの語り口ではなく、「情けの無い先輩を着付ける」タイプの語り口をしてきた。だから余り、マイヤがこんな風に、羞恥心で声が小さくなるような場面は、あまり、体験したこと、が――
「——!!」
待て。
今マイヤは、何語を使った? 正しくは、どこの方言を使った?
シュウは勢いよく恋人の方を向くと、頬を宵闇の中でも分かるほどの赤色に染め、目線を合わせないように俯いている彼女の肩をがしっと掴んだ。多分今、自分は相当呆気にとられた表情を取っているはずだ。流石に吃驚したのか、弾かれたように上がったマイヤの顔では、青い瞳が大きく見開かれていた。
「マイ、今の……極東大陸方言……」
「その、いつか驚かせようと思って、練習していたんですが……変でしたか?」
「そんなことない、完璧だ! 自然過ぎて気が付かなかったほどだ……!」
興奮で自分の目が輝いているのが分かる。
シュウ達が暮らすこの世界に於いて、人間は皆共通の言葉を話す。世界を分かつ善悪大戦の頃に使われていた統一言語が、後に人間たちのスプンタ語、魔族たちのダエーワ語に分かれていくわけだが、派生したその先の言語はそう大きく分化せず、時代の流れに伴い変化こそすれど、八大陸全てで同じスプンタ語がつかわれ、アリアによれば魔族たちの世界でも、ダエーワ語が共通して会話・筆記に用いられるという。
だが、どちらの世界も非常に広い。この世界は宇宙に散らばる星々の一つだ。シュウたちが一生かかっても歩き切れないほどの広さと、名前も知らない街、国、人々が無数にいるだろう。当然だが、同じスプンタ語であっても、発音や単語がちょくちょく異なってくる。言い回しや諺には特に旧時代文明のそれが混ざりやすく、地域差が出る。
有名なのは『r』と『l』だ。標準現代スプンタ語、即ち中央大陸方言では、これらの発音をかなり明確に区別する。一方、極東大陸方言は二者を殆ど区別しない。因みにこれは完全な余談だが、かなり特殊なのは中央大陸南方方言で、なんとこの二音をさらに三種類に区別して発音する。
極東大陸は他の大陸と大きく断絶した島国だ。そのスプンタ語は、中央大陸のそれとはかなり違う。極東大陸が北東大陸を始めとした別の大陸の一部ではない、と証明する理由の一つがこれで、方言が明確に違う旧時代文明の影響を受けるのだ。
故に、極東大陸方言はかなりなじみの薄いスプンタ語と言えた。別に意思疎通が難しいほどではないし、そもそもスプンタ語における『方言』とは、そこまで強いもののことを言うわけではない。疎外感を感じたことは一度もないし、二つを別言語だと思ったこともない。
けれど—―やはり、響きであるとか、言い回しであるとか、そういうものには何か、本能的に「違う」と思う時が、確かにあるわけで。その懐かしい響きを、紡げるとも思っていなかった恋人の口から聞くことになった今、シュウは余りの驚きにマイヤの肩を掴んだまま、ただ硬直するしかなかった。
それだけではない。
方言には言い回しも含む、と言ったが、それは即ち慣用表現も旧文明から継承するということだ。極東大陸方言はこの継承が非常に多い。詩的かつ比喩的で、全く違う意味を文章の内に滑り込ませる、そういう言葉が数えきれないほどあるのだ。
本当の出身地なのかまでは知らないが、何であれ育った地、故郷だ。己に母語ならぬ母方言があるとすればそれは間違いなく極東大陸方言だし、その意味も知っている。
だから、今、マイヤが紡いだ言葉に、隠された意味も分かってしまうのだ。
そんなことまで調べてくれたのか、という感動と、それを使おうと挑戦してくれた彼女に対する、感謝と、愛しさと、もう何が何だか分からない無数の感情がこみあげてきて。
「ひゃうっ……先輩?」
「マイ――俺も君が好きだ」
シュウは反射的に、マイヤの事を抱き締めていた。
――極東大陸方言において。
「月が綺麗ですね」は、「あなたが好きです」という裏の意味を持つ。
最初に彼女が伝えてくれた故郷の言葉が、古から伝わる愛の告白であることが、言い様の無いほど嬉しくて。
きゅっ、と、シュウの背を抱き締め返すマイヤに応えるように、また一段と強く、交差した両腕に力を込める。
「ありがとう、マイ、ありがとう……」
「それを……それを言うなら、私の方ですよ、先輩」
耳元に寄せられた彼女の桜色の唇が、優しく返しの言葉を紡いだ。
互いに絡めた腕を少し緩めて、マイヤの顔を正面から見つめる。緩くウェーブする長い青髪が、淡く上気した頬にかかり、潮風にしっとり濡れて首筋まで僅かに貼り付く。潤む紺碧の瞳と視線を交わせば、とくん、とくんと、一秒ごとに己の鼓動が加速していくのが手に取るように理解できる。
マイヤはシュウの手を執ると、首筋近くへ持ち上げて、掌へと優しく、一つ、口づけて。
「先輩と一緒に海を見る夢を、叶えてもらいました。先輩がここに一緒に来てくれなければ、それは叶いませんでしたから」
心底から嬉しそうに眼を細め、感謝の言葉を口にする。
ああ、きっと、それだけではないのだろう。一年以上の付き合いだ。交際を始めてからももうすぐ一年。シュウがどれだけ鈍感で、どれだけ感情の機微に疎くても。
マイヤが浮かべたその笑顔が、ただ今日という一日だけに向けられたものではないことなど、流石に理解できた。
「それに……矛盾してしまう、ようですけれども」
その笑顔は、文字通り、一年と四カ月の全てに。
「——先輩が、私と出逢ってくれたから、この夢を抱き、叶え、こうして一緒に夜の海も、星屑の空も、月明りも眺めていられるんです。新しい夢を、毎日、沢山、あなたからもらうことができているんです、先輩――」
月明りの角度が、変わった。
マイヤの姿を、金剛の月光が淡く、されど明るく、はっきりと照らす。
影の色さえ美しく。いっぱいの愛情を込めて、告げる言葉の形をも、現実へと映し出すかのように。
「ありがとう、愛しています、これまでも、これからも。叶うなら、聞き届けてもらえるなら、これから先の未来も、私と一緒に――」
「勿論だ……!」
もうその言葉が最後まで描かれ終るのを、待っていることができなかった。ぐるぐるに渦を巻く感情が導くままに、シュウはマイヤに思いっきり抱き着いた。
そのまま、軒の床へと倒れ込む。ふわりと青い髪が広がって、また一段と『海の様』という感想を強く、強く、抱かせる。
仰向けになった拍子に着崩れた浴衣から、マイヤの白い肩が露出する。滑らかな曲線を描く首筋と、小さく浮いた鎖骨。開けた浴衣の合わせの奥に、見える朧の谷間は深く。密着した感触は、いつもよりもずっとずっと柔らかく思えて――
暗闇の中でも分かる、うっすらと染まった桃色に、どくん、と、シュウの心臓が跳ね上がる。
鼓動の加速は止まらない。脈打つ速度とそのトーンが、一瞬を追うごとに速く、強くなっていく。視界の色さえ変わって見えた。さざ波の音は遠く、星の光も、月の輝きも遥か彼方へ。
シュウの視界に写るものが、マイヤ・フィルドゥシーという少女ただそれだけへと収束する。
ごくり、と、唾をのみ込む音がした。自分のものだと思ったが、もしかしたらそれは、組み敷かれたマイヤのモノだったのかもしれない。夜空を映した青の瞳が、次第に熱を帯びていく。見たこともない感情だ。また、新しいマイヤの側面を見つけてしまった。
恋しい。
愛しい。
マイヤの全てが、狂おしいほど。
ふいに上半身を起こすシュウ。気が付けば自分でも分からないうちに、右手が勝手に動いてマイヤの浴衣に手をかけていた。左手はマイヤの顔のすぐ傍に突く。跨る様に両足を開き、そのまま、彼女の衣装を、引っ張って――
「……せん、ぱい……?」
はっ、と。
消えてしまいそうな、マイヤの声で正気に戻る。今自分が何をしようとしたのか、その記憶が急速にフラッシュバック。内容もそうだが、無意識的に『先へ進もう』としたことに愕然とする。
「す、すまない……何か、酔っていたみたいだ……今退く」
慌てて謝ると、シュウはマイヤの浴衣から手を離す。何という醜態。婚前でそういうことをするのはいけないからと、自ら縛っていたはずではなかったか。
けれども言い訳をするのであれば、あのような衝動に襲われたのは、今が生まれて初めてだったのだ。対処手段も、自分に冷静さを取り戻させる方法も、シュウの中には一切ノウハウが無かったわけである。
正直、マイヤが声を……いいや、あれはきっと「怯え声」だ。その声を上げてくれなければ、きっと今、シュウはおかしくなったままだったに違いない。
こういう時に引き留めてくれるマイヤは、やっぱりいい子だ。
——そう、思っていたのに。
「ん……」
きゅっ、と。離れようとするシュウの腕を、引き留めて。
「……いい、ですよ……もっと、酔っても……」
マイヤはむしろ、自分の肌に触れるように、その手を導いたのだ。吃驚して目を見開くと、マイヤは真っ赤な顔でふい、と視線を逸らしてしまった。羞恥心と好奇心、それからちょっとの不安を隠したいのだろうか。目を瞑って、シュウの反応を待っていた。
肩口に接した掌が、灼熱のような温度を伝えてくる。それは天に浮かぶ杯から滴る神酒の如く、シュウの思考を甘く、白く、溶かしてゆく。
直感的に、己の理性が持たないことを確信した。
体の奥底に眠っていて、そして今日一日で少しずつその鱗片を見せていた正体不明の情動が、次から次へと湧いてきて止まらない。
灼熱から逃げるように。あるいは、もっと熱い場所を探すかのように――シュウの腕は、マイヤの肌の上を、ゆっくり、ゆっくりと滑って行く。違う場所へと掌が触れる度に、マイヤの肩がびくり、と跳ねて、悩まし気に彼女の眉根が寄せられる。
その様子が、また奈落から、爆発する感情を汲み上げて来て。
「マ、イ……」
「先輩……」
彼我の距離が、近づく。
マイヤの青い瞳が、もう目と鼻の先だ。というより、そもそも目と鼻が物理的にすぐ傍だ。
一度開いた瞳を、またマイヤが閉じてしまう。
その様子に、シュウは最後に残った理性を、ゆっくりと、手放して――――
——窓の向こう、ビーチでけたたましく鳴り始めたサイレンで、にわかに正気に戻った。
重苦しい警告の音。離れていてもはっきり届くそれは、ただのトラブルでは収まらない、もっと尋常を超えた出来事が、海岸線へと姿を見せたと知らせてくる。
マイヤと顔を見合わせる。既に二人ともその顔つきは、睦言を繰り合う日常の恋人同士ではなく、戦場で背中を預け合うパーティメンバー、呪術師と法術師のそれへと変わっていた。
乱れた浴衣を元に戻す。行為に移ろうとしていた、という事実が、未遂に終わったせいで余計に恥ずかしく感じられた。見ればマイヤの首筋も、シュウと同じく薄っすら赤に染まっている。
がらりと障子を開ければ、眠りについていた仲間たちも流石に目を覚まし始めていた。エリックとリズベット、アリアは眠たそうに眼をこすり、ロザリアは慌てて眼鏡を探す。イスラーフィールは異様に不機嫌そうな表情で抱き枕にしていたアルケイデスを突き飛ばし、そのアルケイデスは受け身を取って立ち上がると、何事もなかったかのように臨戦態勢に入った。なおエリナは騒ぎに気付いていないのか、ぐーすかと寝息を立てたままだったが。こんな状況だというのに微笑ましくなってしまう。
「ああやっと見つかった。先生、今のは……うん?」
桜色の眼鏡を掛け直したロザリア。
シュウとマイヤの方をじっと見つめた彼女は、「ほほう……」と小さく呟いて、エリナの事件の際にも見たような、いかにも悪い顔をした。嫌な予感がする。
「薄く上気した頬、僅かに浮いた汗、そして整えたつもりだけどよくよく見れば裾の乱れた衣服……ふーん、ほーん、へぇー……」
「これはこれは。お楽しみの邪魔をしてしまったかもしれないな」
彼女に便乗してか、イスラーフィールもにやにや笑いで加勢した。言い逃れできないのが辛い。
嫌な汗をかきながら、マイヤと一緒に揶揄い組から目を逸らす。「え、本当に?」「マジで?」と目を丸くする二人に対して、どう説明したものかと頭を抱えていると。
若干一名(その中身の事を思えば一名とは言えないかもしれないが)を除いて、宿泊客が臨戦態勢に移った座敷の入り口、その扉が、勢いよく開け放たれた。
「お前達、ビーチの方に、今すぐ集まれ……! 魚影が見えた……いや、この表現は正しくない、か……!!」
「バルガス先生?」
「どうしたんですノックもせずに。うら若い乙女が着替えてたらどうするんですか」
相当の距離を走ってきたのだろう。肩で息をしながら、なおも腹の底から絞り出すような声で叫んだのは、ディン・バルガスだった。イスラーフィールの冗談を完全に無視し、昼に見た余裕のある漁師の面持ちではなく、緊迫感に包まれた老海兵として、彼はサイレンの正体を告げる。
「見えたのは『島』だ。呪甲魔蛇がビーチから視認できる距離に出た……!」




