第八話『バルガス』
「む……」
イスラーフィールとアルケイデスが駆け寄ると、漁師の男性はピクリと眉を震わせた。年齢の読めない、皺の刻まれた、浅黒い海の男の顔。その色のせいか良く目立つ瞳が動く。学園長と『英雄』を見据えた彼は、渋い表情を一瞬取ると、すぐに緊張感を和らげた。表情は大きくは変わらず、口元は引き結ばれたままだが、警戒は解いたように見える。
彼は担いでいた、漁に使う道具だと思しき網や釣り竿といった荷物を置くとまた、あの海の底へと響くような声を出す。聞いているとぐらぐらと足下が揺れる様な錯覚さえ覚える声だ。
長い間海と触れ合ってきた者は、海をも思わせる声を持つのかと、酷く驚嘆してしまう。
学園長たちが、これまでシュウが見たことのないかたちで空気を緩めて話し出す。シュウはエリナのリュックを担いだまま、マイヤの待つソファへと戻った。
「お知り合い、でしょうか?」
「らしいな……」
一漁師と特級法術師(片方は『元』だが)が顔見知り、という状況が、今一どういう経緯を持つのか想像しづらいが。しかし三人の間の空気は、仕事付き合いとか、単なる知人という領域を超えているように見えた。
「もう着いていたか、イスラーフィール。それから、マグナス・ハーキュリー……否、お前はミュケーナイか。久しいな」
「ええ、とても」
どうやら、『マグナス』とも、そうなる前のアルケイデスとも面識があるらしい。マグナス・ハーキュリーは悪性存在殲滅のためにあらゆる場所で行動していたため、大陸はおろか世界中に知人が居ても不思議ではないが――アルケイデス・ミュケーナイという一個人との間に知見がある、というのは、かなり珍しい経歴だ。シュウの知る限り、それに該当する人物はこれまでイスラーフィールしかいなかった。
というより。アルケイデスは学園を卒業する直前、イスラーフィールに曰く「ちょっとしたいざこざ」が原因で、忠実な教会の剣になる道を選んだと聞く。そのため、彼が『マグナス』になったのは、学生時代の話だ、とも解釈できるのだ。
つまり彼は、アルケイデスと、それから恐らくはイスラーフィールの学生時代を知っている、ということになる。
そんな過去を想像させるように、イスラーフィールはふっと表情を変える。先程までの特級法術師のそれではなく、旧知の友人や、あるいは親戚の男性に話しかけるとき――いや、あの距離感は、どちらかと言うとシュウとイスラーフィールの間にあるそれに近い。
「随分見ない間にまた一段と漁師らしくなりましたね」
「それは儂が普通の漁師にも、普通の法術師にも見えぬ、という嫌味か?」
「とんでもない。板についてきたなと思っただけですよ、先生」
即ち――教え子と教師。
そういえば『先生』と口にしていることだし、もしかしたら彼は、今でこそ漁師をやっているが元は法術師だったのかもしれない。感覚を研ぎ澄ませてみれば、確かに、わずかだが男性から法力の気配を感じる。
「楽しくやれているようで何よりです」
「おかげでな。だが—―それも、暫くお預けのようだ」
アルケイデスが、珍しく破顔する。男性もふっ、と笑い、彼の挨拶に応えた。しかし続けて、彼は残念そうに呟く。お預け、というのは、漁の事だろうか。見た感じ海の風景はそこまで荒れているようには見えなかったが、彼が漁をしているエリアに起こっている異常とは、それほどまでに重大で、解決に時間がかかるものなのだろうか。
これは思ったよりも厄介な事案かもしれないぞ、とシュウが考え込んでいると、会話が一区切りついたのか、イスラーフィールがシュウたちの方を向く。彼女は若干弾んだような声で、漁師の男性を紹介してくれた。
「紹介しよう。彼はディン・バルガス。私の船を普段管理してもらっている漁師の方だ。今回の海洋調査は彼と彼の船、そして彼の漁業団の人々に協力してもらう。今のうちに挨拶をしておけ」
何と、大物であった。
イスラーフィールはこのシャローム・ビーチに一隻、大陸同士を渡るための船を所持している。主に極東大陸に調査へ赴く際に使っているもので、シュウ自身も乗った経験がある。どちらかと言うとただのプライベートシップに近いので、流石に対魔物戦闘まで想定した海洋調査に適した機体、とは言い難い。そのため、バルガス氏とその船を貸してもらう形のようだ。
漁師、ということは漁船だろうか。海洋性魔物のテリトリーに入ってしまった時のために、漁船には一人法術師が乗っている他、船体そのものもかなり頑丈にできている、という話は聞いたことがある。彼の船では、前者はバルガス自身であるようだ。
イスラーフィールが漁船を任せるほどの人材である。シュウが感じ取ったように法術師であるのは当然としても、相当に上位の法術師なのかもしれない。
それも――もしかした、文字通りイスラーフィールとアルケイデスの『先生』であったのではないだろうか?
その疑問に答えをくれたのは、隣に座る恋人だった。
イスラーフィールの口から漁師の名が告げられると、直後にマイヤは訝し気な表情と共に、
「……バルガス……?」
と小さく呟いた。
「あの、すみません」
彼女はイスラーフィールによる紹介が終わると、すっと手を挙げ彼に問う。我ながらフィルターを掛け過ぎではないかと思うが、手の掲げかたがこれまた美しい。ピンと伸びた指の先から、肘までの滑らかなライン。レースワンピースの袖口へと消えていく白い脇。何をどう意識すれば、そんなに絵になる姿勢がとれるのだろうか、と時々シュウは疑問に思ってしまう。
バルガスはマイヤの方を向くと、ふむ、と顎に手を当て、一つ問う。
「……イスラーフィールの教え子か?」
「はい、マイヤ・フィルドゥシーと申します」
「……!」
マイヤが己の名を告げると、バルガスは目を見開いて硬直する。わずかにだが、その口元が戦慄いた。気が付いたのは当事者であるマイヤの他には、すぐ隣に座っていたシュウだけであるらしい。どうしたのだろうか、と疑問に思う前に、老漁師は厳しい表情でマイヤに問い返した。その声には気迫が籠っており、彼にとっては恐らく、とても重要な問いなのだろう、と強く思わせる。
「青い髪のフィルドゥシー……娘、『メロヴィア』という名前に聞き覚えは」
「メロヴィア……?」
恋人から、困惑の声が上がる。シュウ自身も聞いた事の無い名前だ。
不思議な響きの名前だ。中央大陸でも、極東大陸でも聴いたことが無い。スプンタ語は地域ごとにかなり強い方言があるが、それにしても聞きなれない発音だ。
その認識はマイヤも同じであったらしく、しばし考え込む表情を取った後、申し訳なさそうに首を振る。
「いえ……申し訳ありません、寡聞にして……」
「いや、こちらこそすまない。話の腰を折らせた」
忘れてくれ、と、バルガスは続ける。
「して、儂に質問があるようだったが」
「はい。その……失礼ながら、もしやバルガスさんは、先代の育成学園学園長ではありませんか?」
さっ、と。
仲間たちの視線が、マイヤに集まった。シュウ自身も驚きを隠せない。マイヤがそれを知っていること自体は余り不思議ではない。勤勉な彼女の事だ、過去の学園の資料を見ているうちに、ディン・バルガスという名前を目にしていたのだろう。
問題は、そんな重要な人物が、なぜこんな中央大陸の辺境で漁師をやっているのか、ということだ。
エリア自体は彼の故郷であるらしいし、おかしな話とまでは言えないが――法術師としての技量が落ちた、という雰囲気ではなかった。そもそも船体警護の法術師も兼任しているようだし、恐らく未だ一流なのだろう。だからこそ、本業が漁師であるらしい、という点が衝撃的だった。
一流。
そう、一流だ。シュウの予測はある意味では当たっていて、ある意味では大きく外れていた。
法術師育成学園の学園長というのは、誰でもなれる階級ではない。非常に高い法術師としての実力と、次代の法術師達を育成するだけの知識と知見、そしていざという時に教え子たちを守れるだけの状況判断力と、先陣を切るであろう教師たちを纏めるカリスマ――それらすべてがあって、ようやく『後進育成の最前線を束ねる者』としての資格を得る。
特級法術師であれば、このうちの殆どは有していると言える。故にイスラーフィールが学園長を務めていることには、あまり衝撃を受けたことはなかった。
だがバルガスは違う。彼は特級法術師ではない。特級法術師の名前くらいなら、流石のシュウも知っている。特に最近はエリナの一件が終わった後、ハレルヤザグナルについて学園の資料庫で調べている間に、過去の特級法術師たちに纏わる情報も少し触った。その中に、ディン・バルガスという法術師の名前はなかったと記憶している。
故に彼は。
一般の法術師として、法術師育成学園の頂点に立つことを認められた、凄まじい人物だということになる。
特級法術師は、いうなれば『選ばれた人間』である。聖霊に愛された、天賦の才を与えられた超人たち。
しかしディン・バルガスは、『選ばれなかった人間』なのだ。
それでいて、『選ばれた人間』に並び立つだけの力を持った存在でもある。
それはもしかしたら、シュウ・フェリドゥーンという人間が目指すべき境地なのかもしれない、と、反射的に感じてしまう。いずれ『選ばれた人間』へと至るマイヤの隣に立っていたいのであれば、シュウは彼の様にならなくてはいけないのだ、と。
ここにきて漸く、彼、及びその声から感じていた奇妙な威圧感の正体が明らかになる。恐らくバルガス自身も意図していないところなのだろうが――法術師としての『格』のようなモノが、周囲に重圧をまき散らしているのだ。
魔族がそれ以外の悪性存在の活動を抑制するように、過剰に実力のある人間は、同じ人間に圧迫感を与える。人間は魔族と違い、実力差によってのみ優劣を決める、といったことがメジャーではない。よって「全く逆らえない」「よりつけない」という状況には中々ならないが――どちらにせよ、並大抵の実力ではない。
そんな、法術の使えぬ落ちこぼれとして生活していたシュウからすれば、マイヤやイスラーフィール、アルケイデスたちとはまた違った意味での『天上人』との邂逅。急に緊張感のようなものが沸き上がって来てしまい、指先が震え出す。自分自身の行動としても珍しい、と思う。あまりこういう時に動揺を感じない人間だからこそ、マイヤやアルケイデスといった超常の戦闘力を持つ人間と交際したり、魔族であるアリアと仲良くしたり――なにより、イスラーフィールと出会い、中央大陸へとのこのこついて来れたのだから。
しかし、当事者たちの間での驚きというのは、外から見ると意外にも気楽なに見えるもので。
バルガスがほう、と息を漏らす様は、単純な感心からくるものだった。
イスラーフィールはその悪戯っぽい顔に称賛と感謝の色を浮かべると、
「よく知っているな、フィルドゥシー。解説の手間が省けた」
といかにも『らしい』ことを口にする。
「彼は今でこそ漁師をしているが、昔は一流の法術師だった。私とアルケイデスが、育成学園の生徒だった時、学園長は彼だったんだ」
「お前達には手を焼いた。まさか三年間に二人も法術が使えん生徒が出るとは思わなかったぞ。全く、自分は生きている間に何度同じ指導をせねばならんのかと困惑したものだ」
どうやら、『先生』という言葉が示していたのは、文字通りの関係性だったらしい。
今でこそ法術の頂点に立つ顕現型を駆使するイスラーフィールと、武装型最強の法術を操るアルケイデス。だが、学生時代はどちらも『信じる心』が不足しており、法術を使えない法術師だったと聞く。シュウ自身がまさにその立場であるがゆえに、学園長であるイスラーフィールから、様々なサポートを受けて学園生活を送っていた。
法術師育成学園は、法術が使えないからといって学生を追い出す、ということはない。法術の発現時期、というもの自体は、確かに存在する。しかし前にも記したことがあるように、それは強い個人差を持つモノだ。第一、何かに対しての強い信頼や信仰の心が無ければ、法術は発現しない。最も手っ取り早いのは『天則』への恭順であり、この世界に生きる殆どの人間が、「そうなるだろうと信じている」、という、極めて強い求心力を持つ。
『天則』以外であれば、どういう内容が『信仰』に該当するかは今一個人差があるらしい、と最近分かってきた。例えばマイヤが自分を愛し、信頼してくれているのと同じくらい、シュウは彼女を愛しているし、信頼している、と信じている。実際の所、どこまで彼女に”お返し”できているのかは分からないが――それでも、決して後ろ指をさされるような惨状ではないと、それだけは確信できている。
しかし、シュウはマイヤがシュウに抱いたその感情から法術を得たように、「マイヤへの信頼」で法術を獲得する、と言ったようなことはなかった。
この話をしたとき、そういった差異を研究し、行くべき場所へと生徒を導くのも、学園長の役割だ、とイスラーフィールが言っていたのを覚えている。
あるいは法術が発現しても、法術師としてはとても活動できないような生徒だっているかもしれない。エリナや、これは例外的な存在だがアリアのような、特別な立場の入学者が、過去に一人もいなかった、とは聞いていない。
そういった場面に於いて、法術の発現を促したり、彼ら彼女らが学園生活を送ることができるように、学園長は強く教え子をバックアップする。
きっと当時の二人も、バルガス学園長へ、今のシュウがイスラーフィールに感じているような恩義に近い感情を持っていたのだろう。
——そういえば今、「生きている間に何度同じ指導を」と言っていたが、それは単純にアルケイデスとイスラーフィールの二人に、という話だったのだろうか?
文脈から推察したに過ぎないが。
——もっと前に、同じような人材がいたのではないか?
今一はっきりしない疑問ではある。第一シュウの推測自体、単純に穿った聞き方をし過ぎているだけ、という可能性も十分高い。
しかしその、雲のようにふわふわした疑問が、しっかり形を持つ前に。
「まぁ、あの時の教えがあったから、今フェリドゥーンがきちんと三年生をやれてるワケですから。先生には感謝していますよ、ええ」
話題に自分が昇ったことで、それは霧散してしまった。
イスラーフィールは苦笑いをしながら、シュウの方を指差す。バルガスの指導は厳しかったと見える。あまり当時を思い出したくなさそうな表情だ。反面教師、ということだろうか?
教え子の皮肉を感じ取ったのか、バルガスがふいと眉を上げる。
「お前がそれを言うと全く信頼できん—―」
と、そこで。
彼は目を見開き、僅かに息を飲んだ。
「——待て、今何と言った?」
見れば、彼の手は震えている。マイヤに『メロヴィア』という名前について問うた時よりも、ずっと、ずっと、強い衝撃を受けたようだった。
その様子には流石イスラーフィール、情報の女王である。確りと気づいていたようだったが――無敵に思える彼女の『顕現型スラオシャ』も、相手の考えている事を読むにはいくつかの制限があるらしい。
今回はそれに該当しなかったのか。彼女は単純に、シュウを紹介するにとどまった。
「そこのシュウ・フェリドゥーンは法術が使えない法術師です。まぁ、呪術極めてるので『呪術師』と言った方が正しいかもしれませんが……疑似的ながら魔術も使える。最初に拾った時はどうしたもんかと思いましたが、いやはや成長したものです。いろんな意味で」
そう言いながら、イスラーフィールはいつもの悪戯っぽい笑みを湛える。黒い瞳の視線の先は、今まさに話題に上っているシュウ自身と、それから隣に座り直したマイヤである。交互に二人を見やりながら、一拍置いてにたり、と嫌な笑顔。
マイヤと顔を見合わせたシュウは、「恋愛感情も知らなかったような青二才が、可愛い恋人を作ってあまつさえその裸体に興奮した」という、現状に至るまでを暗に揶揄われているのだ、と気づく。マイヤも同じ結論に至ったようで、ほぼ同時に互いの頬を桜色に染め上げる。マイヤに至っては恥ずかしそうに俯いてしまった。毎日の様にイスラーフィールやロザリアから揶揄われる日々だが、いまだに慣れないようだ。それはシュウも同じであるのだが。
「フェリドゥーン……そうか、フェリドゥーンか……」
そんなシュウたちの痴態には目もくれず、バルガスは何事かを思案するようにシュウの苗字を繰り返す。
極東大陸では珍しい名前だ。聖典に登場する英雄であり、シュウがズルワーンから貸し与えられた『世界を統べる呪術』——『スラエオータナ』の名前のモデルともなった人物。正しくは「スラエータオナ」と発音するらしいその人物の、中央大陸東部の方言における呼称がフェリドゥーンである。
同じ苗字を持っている人間に会ったことは、これまで一度もない。昔、自分の正体が知りたくて、戸籍のようなものを調べたことがあったが、その時もフェリドゥーン姓の人物を見つけることができずに日が暮れ、残念ながら諦めたことがある。
今は自分自身が何者なのかについて、そこまで強く気にはしていない。まぁそれは以前からそうだったのだが、マイヤやエリナといった、新しい『家族』との触れ合いを通して、「今の自分」を受け入れることができたからだろう、と推測する。
「少年、両親の顔は覚えているか? 片方だけでもいい。顔が分からぬなら声でも構わん」
「え?」
だから、バルガスの問いは、シュウの心の奥底に封じ込めたはずの、「自分は何者なのか」という問いを、少しだけ――今はまだ、ノックをする程度だけれども、一瞬、強く、揺さぶった。
アルケイデスの師なだけあり、その問いかけの仕方は、かつて学園長棟で『マグナス』にかけられたものと酷似していた。
返す回答は、その時のものと、そう大きくは変わらない。
「……いえ。俺の記憶は、六歳ごろ、極東大陸で目を覚ます場面から始まっているので……」
「……そう、か……」
だが、戻ってきた反応は大きく異なった。バルガスの顔が大きく歪む。それが示す感情は、複雑すぎてシュウには読み取れない。ただでさえ他人の内心を読むのが苦手だというのに。
「やはり、駄目だったか……」
けれど。
それがきっと、強い落胆からくるものなのだ、という事だけは、容易に想像ができた。
咄嗟に、謝ろうとしてしまう。期待通りの回答を用意できなかったことへの贖いの気持ちを込めたその言葉が、シュウの口から飛び出しかけた、その時。
「あの!」
するどい声が上がった。バルガスが振り向く。
エリナだ。リュックサックをシュウに預けた後、アリアが好奇心のままにどこかへ行かないか見張っていた彼女が、眉を吊り上げ目を細め、ディン・バルガスを糾弾する。
「先代学園長だかなんだか知りませんが、お兄様を傷つけるような事を言うなら容赦しませんわよ!」
「エリナ、まだ何も言われて――」
「いいえ、今確かにこの男は、お兄様を馬鹿にいたしましたわ!!」
制止するシュウの言葉を遮って、エリナは一歩、前に出る。毅然として胸を張って。金色の髪を靡かせる彼女。或いは迷い人を導く運命の天使。或いは運命の妨害者を打ち砕く導きの天使。
小さな体に一杯の反骨心を詰め込んで、エリナ・キュリオスハートは、体も実力も大きな、海の男に立ち向かう。
よもや気迫に押された、ということはあるまいが――しかし、バルガスはエリナの姿に感心したらしい。再び顎に手をやると、考え込むように数秒、沈黙。
「……娘、名前は」
「エリナ・キュリオスハートと申します。キュリオスハート孤児院の出でしたが、今はお兄様の妹。そして未来の正妻ですわ!」
「ちょっと待ちなさいこの金髪。その座は私のもののはずですが」
「うるさいですわねこの青髪! せっかく格好良くキメているのですから、邪魔しないでくださいまし!』
耳聡くエリナの宣言を聞きつけたマイヤ。素早く彼女の言葉尻に噛みつく。その反論にエリナもまた噛みつき返す。なんというか、しっぺがえしというか。
最早この光景も慣れてきたもので、最初の頃こそ止めに入っていたシュウだが、最近では放置安定、というのが分かってきた。素直に引き下がってくれて嬉しい気分になる時も多いが、向こうも向こうでシュウがどのくらい本気なのかが分かり始めたらしく、その度合いが低いと火に油を注いでしまい、「止めないでください先輩、ここでこの金髪を一度叩き潰し、身の程を知らしめます」「はん、受けて立ちますわ。見ていてくださいお兄様、この猪突猛進青髪を仕留めて妹の威厳を魅せますわ」「誰が猪ですかこの植物女!!」「言いましたわね!? ちょっと気にしていましてよ!!」などと大騒ぎになってしまうこともあるのだ。
藪からアジ・ダハーカ、というか。触らぬダエーワに祟り無し、というか。ところで全く関係ないが、猪というのは時には畑を荒らしていくが、基本的には森の秩序を守るために大切な存在だし、力強くて頼りになるし、うりぼうを見ればわかると思うのだが何だかんだでよく見ると可愛いので、良い意味でマイヤには合うような気がする。いや、マイヤはよく見なくても可愛いのだが。
徐々にシュウの思考が脇道に逸れ始めた頃。
「……」
ディン・バルガスは、安心したように、笑った。
「随分と数奇な運命のようだが――否、だからこそか」
彼はシュウとマイヤ、エリナの三人をじっ、と、優しい目つきで見つめる。それはどこか、父親のような――いや、それよりももっと優しい、もっともっと、自分よりも遠い血縁者を見る様な目つき。
『祖父の目』だ、と。そう思った。
もしかしたら彼は、シュウの両親について、何か知っているのではないか? その予感が強くなる。
「少年、大切にしろよ」
「……はい」
だが、それを問う暇は、与えてはもらえなかった。
視界の端で、イスラーフィールが顔つきを改める。いつもの悪い笑顔から、再び法術師の頂点に立つ者としての、威厳のある表情へ。何と言えばいいのか、影の入りでも違うのだろうか。同じ顔でも全くの別人にさえ見えてしまう。
そういう二面性があるからこそ、彼女は学園を統率する立場として、親しみやすさと頼り易さ、という二つのカリスマを有するのかもしれない。
「近況報告はこのくらいにして――本題に移りましょう。先生、一体何があったんです? 沖合で厄介事に遭遇したと聞きましたが」
「ああ、厄介事だ。実に、実に厄介な、な。最悪の場合、沖合はおろかシャロームのビーチ、それどころか、この世界の海そのものを封鎖することになる」
告げられた『現状』は、予想以上に衝撃的なものだった。
「……!?」
真っ先に反応を返したのは、本題が始まるとの事で近寄ってきたエリックだ。罅でも入ったように硬直すると、直後、バルガスへと食いつくように叫んだ。
「ま、待ってくれミスタ!! それはどういうことだ!? つまりこのままだと、僕は西方大陸に帰れなくなる、と……!?」
「そういうことになるな」
「ば、馬鹿な……」
エリックは普段、休暇の際、中央大陸西方にある、従姉夫婦の家で世話になっていると聞く。西方大陸の実家は遠く、家族仲もよろしくないようで、余り帰りたいとは思わないのだそうだ。
それでも、自分の生まれた場所であることに変わりはない。シュウにとっては極東大陸の邑、そして育成学園の『家』がそれであるように、自身のルーツとなる場所は、特別な意味を持つものだ。
それが、場合によっては、二度とたどり着くことが叶わなくなる――その衝撃は、いかなるものだろうか。
わなわなと震えるエリックを後目に、アルケイデスが問いかける。
「何か、凶悪な魔物――例えばスキュラやピュトーンと言った、母艦級の上級魔物でも出現しましたか?」
「いいや。儂らが見たのは竜なんぞではない——亀だよ」
「……亀……?」
スキュラもピュトーンも、蛇と竜の間を思わせる、ウミヘビ型の魔物だ。海洋性魔物どころか、全ての魔物の中でも相当強力な部類に入る、最上級の魔物。特にスキュラの方は、旧時代文明の言葉で「犬」と表すという説の通り、陸上性魔物の特徴も併せ持ち、基本的には海岸線へと上がってこない海洋性魔物にしては珍しく、陸上へと侵攻をしかけてくる。
南方都市に出現するタイプの陸海共通性魔物とは別種だが、同レベルの脅威として世界中が警戒する、危険な敵だ。
それが、『竜なんぞ』と言われてしまう。
そう言えるだけの実力を有するバルガスも末恐ろしいが、比較対象に竜型魔物を上げられてなお、遥かに上だと言われる『亀』。
一体どういうことなのだろうか、と、シュウが疑問に思っていると、アルケイデスが戦慄の表情で凍り付く。
「——まさか」
「ああ、そのまさかだ。儂らは先日、沖合で海上を進む巨大なウミガメを見た。甲羅ではなく、『島を背負った』、な」
びしり、と、空気が割れた音がした。
正確にはそんな気がしただけだが、知識のある者達は、その言葉で『亀』の正体に気付いたらしい。具体的には、先んじて推測を立てたアルケイデス。そしてイスラーフィールと、恐らくは孤児院時代になんらかの流れでその存在を知ったと思しき、エリナの三人。
「島を背負う、亀……」
口の中で、その言葉を反芻してみる。御伽噺に出てきそうな、随分とファンシーな形容だ。
周囲の反応を鑑みれば、どう見ても『御伽噺』のレベルではなさそうだが。
「あの、学園長先生。島を背負う亀、とは、どういうことでしょう?」
「なんだ、知らんのかお前ら――ああいや、奴の情報は上級隠匿事項か……だがこの際気にしている場合ではあるまい」
マイヤがイスラーフィールへと問いかけると、彼女は一瞬迷いに顔をしかめ、直後吹っ切れたのか語り出す。
「フェリドゥーン。お前、海洋性の魔物がやけに統率された動きをする理由、分かるか」
矛先は何故かシュウに向いたが。
「母艦級魔物、でしたか。先程アルケイデス先生も口にしていらした」
「そうだ。全ての海洋性魔物は、自身を『異境』からこちらへと転移させた『門』、それを格納した母艦の指示を受け、そのもとに統一性のある行動をとる。だが—―その母艦級は、誰の指示を受けて動く?」
「……!」
気づいた。
同時に理解した。アルケイデスが衝撃に凍り付いた理由も。厄介事の規模の大きさも。『海が使えなくなる』という意味も。
「母艦級の魔物は、てんでばらばらの指示を部下たちに出してもなんら不思議はない。だというのに、海洋性魔物は皆統一性のある行動をとる。そう、即ち、『自らのテリトリーより外には出ない』という」
最も典型的な例は、南方都市に定期的な襲撃を仕掛ける陸水両用型の魔物だ。魚人系の魔物の中でも特に軟体動物に似た外見をしたそのタイプは、海中と陸上のどちらにもテリトリーを持つ。
しかしそんな彼らでも、「出現するのは南方都市の付近だけ」なのである。世界中のどこにでも湧くわけではない。
この他にも、前述のスキュラが、普段は西方大陸にほど近い島に上陸したまま動かずにいる理由も、こういったテリトリー性によるものだと聞く。
全ての海洋性魔物は己のテリトリーを持つ。その外に攻撃を仕掛けてくることはないし、逆にテリトリー内では好き放題に暴れまわる。人間が海を渡ることができるのは、このテリトリーを正確に把握しているからだ。
テリトリーが乱れれば、海と海を繋ぐことも難しくなる。だからこそ、どれだけ小さなことだとしても、何らかの変化が起こっていないか、と、毎年海洋調査が行われるのだ。
「そういった、どの海洋性魔物——即ち、全ての母艦級を統率する個体が、『呪甲魔蛇』と呼ばれる超大型魔物だ。聞いたことはないか、海の全ての魔物を統一する『王』の噂を。その正体がこいつだ」
「へびがめさん、ってこと?」
名前の意味するところが分かったのか、いつの間にか会話の輪へと寄って来ていたアリアが問う。きょとん、と首を傾ける様子が愛らしいが、彼女の言葉は「魔物の名前の意味」から、シュウたちの脳裏に未知の魔王の姿をありありと浮かばせる、大事な役割を果たしていた。
アジ、というのは、聖典に使われているようなかなり古いスプンタ語で、『蛇』を表す言葉である。アリアの魔術を、イスラーフィールが便宜的に『展開型アジ・ダハーカ』と呼んでいたことがあるが、それは伝説においてフェリドゥーンと対決した、三首の蛇竜から取った名前だ。
対するクールマというのは、アリアに聞くところ『聖なる亀』を表すダエーワ語だという。
魔物たちにとっては聖なる存在。
そして、人間にとっては邪悪なる存在。
海を呪う甲羅にして、魔を司る蛇。アジ・クールマとは、悪性存在を従える、海上の移動要塞なのだ。
「普段は自分のテリトリーである、中央大陸南方の海に鎮座しているはずだが――そいつが、テリトリーを破った。これが何を意味するか、分かるか」
「全ての海洋性魔物が、テリトリーを守らなくなる……」
「そうだ。正しくは、その可能性が捨てきれなくなる、ということだ。まだ確定ではないし、全ての魔物がそうなるのかは分からないからな。アジ・クールマが一体だという保証もない。複数いるなら、そのうちの一体がおかしくなっても、他がどうにかするかもしれん。だが、楽観はできない――そういう存在だ」
そのアジ・クールマが沖合に出た。それも普段、人々が漁をしているエリア。巡り巡って陸地をテリトリーにするなどとでも決め、その法則をあらゆる海洋性悪性存在に徹底させたとしたら?
全ての海洋性魔物が陸に上がってきかねない。
そのときは、海の封鎖は愚か、地上での戦闘数も、単純計算で倍以上に跳ね上がるだろう。海洋性魔物の数や種類は、地上のそれに勝るとも劣らないとされるからだ。
問題は、何故そのような危険な存在が、正しいテリトリーとは一切関係のない、この東端の海へと姿をみせたのか、ということだ。それを解決できなければ、海の魔物たちの侵略を、未然に防ぐことも不可能になる。
「故に、儂がこの海洋調査で、お前たちに追加して行う依頼は一つ。この海に起こっている変化の正体を突き止め、アジ・クールマを南海へと帰したい。それに協力してくれんか、ということだ」
バルガスは、かつての学園長としての威厳を感じさせる、重々しい空気を纏う。その真剣極まる眼差しからは、一切の冗談も、侮りも、感じとれない。
彼は、きっと――自分達を、信頼してくれているのだ。
「危険な依頼だとは分かっている。集まった儂の船団員は、緊急時にも対応できる優秀なものだけを選出した。バックアップは全力でしよう――引き受けてはくれんか」
だからこそ、海の未来を託してくれた。
バルガス自身も法術師だ。繰り返しとなるが、学園長を経験したほどの男である。努力と執念だけで鍛えてきたその戦力は、所謂『天才』の部類であるマイヤと同等か、あるいは経験の差で上回るか、といったレベルであることに、疑いを持つことはできない。
それでも。
自分ではなく、教え子たちに、大海の命運を預けたのだ。
シュウには、法術師としての力はない。
扱えるのは呪術と、不十分な疑似魔術だけ。
それでも――大師の期待に応えたい、という気持ちは、確りと固まった。
回を増すごとに執筆スキルが低下してるのが目に見えて辛いですね




