第七話『焦燥と覚悟の境界に』
午後からは、この旅における本来の目的——即ち、シャローム・ビーチの海洋調査に向かう事になっていた。調査にはイスラーフィールの私物の船を使い、知り合いの、普段は漁師をしている法術師と共に赴くという。シュウ達は更衣室まで置いてきた荷物を回収しに行くと、一旦ホテルに戻った。
ついでに船上用に持ってきた服を水着の上から着る。女性陣は一行に割り当てられた宿泊部屋で着替えることにしたようだが、シュウたち男性陣は文字通り上から被るだけだ。特にシュウは着替えが単純なので、真っ先に切り上げてロビーで座っていた。
暫くすると、帰宿の直前になって帰ってきたアルケイデスが、普段とは別の改造法衣を纏った姿で現れた。サーファージャケットとでもいうのか、水を弾く材質で出来ている白いそれが、彼の褐色の肌に良く映える。映えるのだが、やはり見慣れぬ格好だからなのか、若干の違和感。
とはいえそれは自分もそうか、と、結局上にパーカーを羽織っただけのシュウもそう思う。裾から入ってくる風のせいか、一応きちんと吹いたはずだが、まだ微妙に残る水滴が冷えてスースーする。ずっとこの格好のままでいたら、その内お腹を壊してしまいそうだ。
「エリックは結構着込むんだな」
「ふっ、当然。万が一船の上から落ちでもしたら大変だろう? どんな状況にも対応できるようにするのが一流ってものさ」
ふと隣を見ると、エリックが腰を下ろしていたので話しかけてみる。
全身にぴっちり張り付くタイプのダイビングウェアを装着したエリックの姿は、海中遊泳を生業にする人々のようで凛々しい。顔用の装備はないようで、彼の整った顔立ちと茶色と金色の間のような、高級感のある色の髪は露出している。しかし緑色の両目は、これまた金色の縁取りに分厚いレンズをはめ込んだゴーグルで隠され、奥の瞳の表情をうかがい知ることはできない。
流石に警戒しすぎではないかと思わなくもないが、確かに船の上から落ちるのは危険だ。特にこれから行くエリアは、いつ海洋性の魔物が襲ってきてもおかしくはない。今まで海中で戦った経験の無い自分が、そんな目に会ったら、と思うとぞっとする。そうでなくとも、冷たい水の中で慣れない泳ぎをするのは厳しい。
「俺ももう少しちゃんとした格好をすれば良かったかもしれないな……」
「まぁ、最悪の場合は私が助けよう。最も、そうならない立ち振る舞いが大事だとは思うが――この機会に慣れておけ。『樹海』の方でも、水中の魔物と戦わないという保証はないからな」
薄く口角を上げ、頼もしく肩を叩いて来るアルケイデス。続く言葉にシュウは意識を改めた。なるほど、確かにそうだ。流石に、ここに来るまでの馬車でマイヤと一緒に読んだ図鑑、あそこに描かれたような海洋性の魔物は樹海にはいない。しかし、湖や川の中に、一切魔物が居ない、ということはないのだ。
例えばアリアと初めて出会った日に立ち寄った湖。あそこではマイヤが魔物の気配を一通り探っていたため、魔物が潜んでいた、という事態には遭遇しなかった。しかし似たような湖で、内部に魚型の魔物を擁している場所は少なくない。中には気配を隠すことが得意な魚類魔物もいる。加えて、湖の内部には何もいなくても、水浴びをしている間に魔物がやってくる、という可能性もゼロではないのだ。
現にあの時、マイヤとシュウ、どちらも、気絶したアリアの存在を感知することができなかった。流石に魔族レベルとなると、無意識的に気配を消すだけでも高い隠蔽性能があるため一般の魔物と比較することは難しい。この『見つけにくさ』が、御伽噺などで魔族が正体を現すシーン、それが大抵魔族の本能による何らかの事件に端を発することに由来するのだが――まぁそれは別の話である。
どちらにせよ、ああいった状況が、今後長期的に樹海を探索して、野宿をするから水浴びを――といった場面で起こらないという可能性はゼロではないのだ。
船上――水際での戦い。
海中——水中での戦い。
経験をしなければ、活かすことも、対処することもできない。
実際にそういう場面と遭遇するかは別として、一応は身構えておこう。そう、シュウは心に決める。
湖で水浴び、といえば。
アリアと出会ったあの日は、丁度マイヤが水浴びをしている場面とも遭遇してしまったのだった。
思えば遠いところまで来たものだ。あの時は、まさか彼女と将来を誓い合う仲になるとは、微塵も思っていなかったから。当時はマイヤの素肌を見ても、罪悪感と羞恥だけが出てきたものだが――今はまた、別の感情が次から次へと湧き上がってくる。
……そんなことを考えていたら、鮮明に思い出してしまった。一年前のマイヤの、白くつややかな肌と、つい先ほどの彼女の体の、やたらと柔らかく弾力を持った感触を。
同時に、半自動で想像してしまう。自室のベッドの上にマイヤを転がし、ランプの灯りを消す。月明りだけが照らす彼女の柔らかい体を抱きしめて、熱く甘い吐息を耳元に感じ取る。それからゆっくりと、味わう様に、その衣服を剥ぎ取って素肌を――
急いで、小さく、しかし素早く何度も首を振る。妄想を吹き飛ばす。危ない危ない。
「……やっぱり疲れているのかも知れない」
「……? どうしたんだいミスタ・シュウ。ホテルで休んでいるかい? 皆には僕が――」
「いや、大丈夫だ。ただ……」
どうにもこの海岸に来てから変だ。こういう不純な反応を、シュウの意思とは無関係に体が起こしたり、妙な映像や音が聴こえたり。
——もしかしたら、焦っているのかもしれない。
そう、何となく思う。
何故なのかは分からない。何か焦る要素があるわけでもない。けれど—―きっと、自分でもあずかり知らないところで、「もっとマイヤとの関係を進めたい」と躍起になっているのかも知れない。
現状に文句があるわけではない。これを言うのは何度目になるか、自分でも良く分からない。
でもそれは、「今のままでいい」わけでは、きっとないのだ。
それだから、マイヤの些細な変化で取り乱したり、これまでは自分の中に存在するのかすらも分からなかった感情が、暴走してしまうのだろう。
「おー、その格好してるの久しぶりに見たな」
「三年ぶり近くになるな、引っ張り出してきたのは。西方の海岸で獲物を捕り合った時以来か」
「嫌なこと思い出させるな馬鹿野郎」
旅館の奥の階段から、着替え終えた女性陣が下りてくる。一番乗りはイスラーフィールだ。胸元が大きく開いた、白いレースのサマードレス。白い絞り紐でバスト下や肩口を縛っており、全体的にふんわりしたシルエットになっている。ただしスカートの丈は短く、長い白磁の素足が堂々とさらけ出されていた。レース生地の色合いがやたらと薄いせいか、奥の黒い帯状の水着が殆ど隠せていない。
彼女はアルケイデスの格好に見覚えがあるのか、それについて言及した会話を交わす。アルケイデスの答えが気に入らなかったのか、顔をしかめるイスラーフィール。あの格好をした『マグナス』と戦闘でもしたのかもしれない。
「先輩、お待たせしました」
「マイ、お帰り――うん、その格好も似合うな」
「そうですか? ありがとうございます」
白色の麦藁帽子を被ったマイヤが、学園長に続いて姿を見せる。シュウが素直に彼女の服装を褒めると、戸惑ったような表情ののち、はにかみ笑いを浮かべてくれた。
纏っているのは、イスラーフィールのモノよりもより色の濃い白のレースを編んだ、刺繍入りのワンピース。その刺繍はカモメの柄だろうか。普段翼を生やして飛んでいる彼女のイメージに良く似合う。うっすらと透けた生地なため、スカート丈自体は膝下ほどまであるのに、白く眩しい太腿が、微妙にレースの奥から垣間見える。濃紺色のレースで編まれたガーターリングが巻きつけられ、そこには銀色の苦無が何本か装填されていた。戦闘時、『武装型アールマティ』の触媒になる剣だろう。
水着の上から羽織ることを前提としたサマードレスは、彼女の可憐な容姿とよく噛み合う。直接見るのとはまた違った趣が、清楚さと色っぽさの中央部分を的確に射抜いていた。
おまけにマイヤの海を思わせる青髪。今は結ばずにばらけているそれ。実は癖毛なマイヤの、ゆるく波打つ髪の先端。その光景に、まだ宿の中だというのに、もう船上から海を見渡しているような錯覚さえ覚える。
ふわり、と、蝶でもとまるかの様に、彼女はシュウの隣に腰を下ろす。ワンピースは肩を出すタイプの構造だ。彼女の肩口の、きめ細やかな肌と、潮とシャンプーの混じった甘い匂いが近づいて、やたらと動悸が早くなる。拙い、折角抑えていたのに—―
ふと、自分の右手の近くに置かれた、彼女の左手が目に入る。薬指にはめられた、銀色のリング――彼女の誕生日に渡した、ちょっと早めのエンゲージリングだ。海に行くときにも付けていたが、今は綺麗に乾かされ、磨かれている。錆びない様にしてくれているのだろうか。
その様子がいじらしくて、またひとつ、どくんと鼓動。
「マイ、その――」
「はい、何ですか、先輩」
「いや……」
何か喋っていないと、おかしくなってしまいそうだった。
だから、口を開いたのに。
何も出てこないせいで、余計におかしい。
「……綺麗な生地だな、と……装飾が愛らしいな」
「これですか? ふふ、実はエリナが選んでくれたんですよ。『癪ですがお兄様は確実にこういうのを着た貴女に好印象を抱くはずですわ』と言って」
それは意外だった。マイヤの事を恋敵として見ているエリナが、彼女の洋服選びに協力する、というのは、シュウとしてはぱっと思いつかない状況だ。
やはり女の子の行動パターンというのは時に想像がつかない。興味深いものだ、と思うと同時に、女心の難しさを再確認する。
そうしているうちに、なんとか動悸は収まってきた。
ついと視線を階段に戻す。丁度、リズベットとロザリアがセットで到着したところだった。
リズベットは先ほどとほとんど同じ格好だ。上に着ていたシャツが濡れたせいか、別のものに変わっている。中央に堂々とプリントされた、カットされていない食パンのイラスト。それが彼女の発育の良い胸元に押されて形を歪めている。その光景に一切頓着をしていない様子が、なんとも彼女らしいというべきか。
対するロザリアはシャープな紺色のラインが入った、薄い青色のパーカー姿。その上からビニール製のベルトを巻き、得物であるレイピアを吊っている。全体のシルエットがスリムなせいか、モスグリーンの髪とペールブルーのパーカーという色合いもあって、何となくスピード感のある佇まいだ。
シュウ達の方に近づいて来る二人。その最中でロザリアは、ロビーの鏡で己の格好を確認していたエリックを見つけると、呆れたような半目になって呟いた。
「相変わらず趣味が悪いなぁ……」
「趣味が悪いとはなんだ趣味が悪いとは。この僕が自らデザインしたんだぞ!」
「ええ……」
地獄耳、とでもいうのだろうか。比較的距離が離れていたはずなのに、耳ざとくロザリアの嘆息を聞きつけたエリックが、凄まじい速度で彼女を見る。眦を吊り上げ、ぷんすか怒るエリック。正直シュウをして装飾華美ではないかと若干思っていたあのダイブウェアであるが、まさかのオリジナルデザインであったらしい。流石は商業一家……と、シュウは変なところで感心してしまう。
ロザリアとリズベットの二人から遅れる事数刻、飛び出すように階段口を後にしたのはアリアだ。銀色の長い髪を、珍しくツインテールに纏めていて、彼女が快活に動く度にそれがぴょんぴょこ跳ねまわる。角を隠すアイテムは、普段と同じ黒のベールに戻っているが、よく見ると材質が違う事が分かった。
アリアはわき目もふらずに旅館のお土産コーナーへと足を向けると、陳列されたお菓子や特産の果物、伝統工芸を見ては目を輝かせる。
屈む姿勢それらをじっくり見つめれば、すぐに目を離して踊る様に次の商品へ。星屑色の尾、ふわりと揺れて—―黒のベールを夜空とすれば、それは煌く天の川か。
「えりな! えりな! これ、おいしいかな!?」
「ちょっ、まさかまだ食べますの!? 海の家でラーメン十杯近くお替りしていたのを見ましたわよ――ってああもうっ、貴女と話していたらお兄様にこの格好を魅せるタイミングを逸したではありませんか!!」
アリアが満面の笑みと共に背後を振り返り、大きく手を振る。どたどたとバランスの取りづらそうな足音と共に、半ば転びかけのエリナが顔を出す。赤と青のラインが入った、白地のシャツ。フレアスカートを思わせる水着の下部分と合わせて、そのまま街中に出ても不思議ではない雰囲気だ。ビーチにいたときと同じ華やかな髪型と相まって、派手ながらも愛らしい印象を受ける。
そんな彼女がよろめいている原因は、背負った大きなリュックサックにあるらしい。
旅館に来るとき持ってきた、彼女の荷物を纏めたトランクの中に入っていたものだ。小回りの利く鞄を別途用意したかったらしく、その中には救急キットや非常食が詰まっている事を知っている。ただ、小柄なエリナが背負うには少々背が高く、オレンジ色のそのリュックは彼女の身体、その二分の一程のサイズがあった。そのせいでバランスが上手く取れないのだろう。
シュウはマイヤと顔を見合わせると、二人で一つ、苦笑い。
立ち上がってエリナに近づく。姿勢を保とうと悪戦苦闘する彼女の背から、鞄をするりと抜き取り、今度は自分の背に背負う。油断していたせいか、意外とあっさりリュックを奪い取る事が出来た。
「お兄様……!? な、何をなさいますの、それは私が背負います! お兄様に負担をかけるわけには――」
エリナが慌てて振り返ると、リュックサックを取り替えそうとぴょんぴょん跳ねる。身長の低い彼女とシュウでは、肩口の高さが大分違う。ショルダーストラップに手をかけるだけでも大分難しい。だからシュウが少し身をひねるだけで、簡単に彼女の手から逃れることができた。
ぱんぱんになっている、という程中身が入っているわけではないようだが、ずっしりと重い。その重量が、そのまま自分たちへの彼女からの思いやりと考えると、じんわりと目元が熱くなるが――
「無理はしないでくれ」
それだけに、エリナにはこれだけの重さを背負って欲しくない。
物理的な意味とは違う。いや、勿論その意味もあるのだが――このリュックの重さ、詰まった思いやりの重さは、エリナが彼女自身に課している、『責任』の重さなのだ。
彼女は、養父であるハレルヤザグナル・キュリオスハートの策略下であったとはいえ、多数の人間たちを傷つけた。今はロザリアと、旅館の内装について話しながら笑顔を見せているリズベットも、かつてはエリナの手によって昏睡状態に陥り、生と死の境界を彷徨った。
当然だが、エリナの責任ではない。繰り返すが彼女は利用されていただけ。エリナ・キュリオスハートという少女自身に、あの惨劇を止める力も、その力を得るための選択をする自由も、どこにもなかったのだ。
けれど—―それでもきっと、エリナは日々、思ってしまうのだろう。
もしかしたら、自分の選択次第で、未来は変わっていたのではないか、と。
支配されるだけの存在という自己の『認識』を、もっと早く改められたのではないか、と。
「エリナが、一人で背負う必要はない。俺も一緒に背負おう。俺だけじゃない。皆で、一緒に」
それを、少しでも和らげてやりたい、と思うのだ。彼女が辛いなら。その小さな肩にかかる負担によろめくなら。
彼女を支えて。時にはその重荷を預かって。
マイヤと支え合って生きていくのとは、また違う形の『支え合い』で、エリナを助けたいと思うのだ。
彼女に応えてやれないシュウが、今できる精一杯で。
その思いが通じたのか、否か。
エリナは困ったような笑顔を浮かべると、リュックサックから手を離した。
「もう、お兄様ったら……私は大丈夫ですのに。でも――」
寄せた眉根を解き、にこり、と微笑むエリナ。どこか安心した様な声色で、彼女は静かに告げた。
「ありがとうございます。お願いできますか?」
「任せてくれ」
うん、と深く頷くシュウ。
アリアを呼び寄せると、皆が待つ、ロビー中央の大きなソファーの方面に向かおうとする。
その時だった。
「お袋、今帰った――なんだ、いないのか」
がらり、と旅館のドアが開き、重く、海の底まで轟くような、しわがれた声が響いた。
姿を現したのは、浅黒く日焼けした肌の男。身長だけを見れば決して大柄ではないが、随所に確りとついた筋肉と、堂々とした歩みが、不思議な威圧感を放っている。その肉体を甚兵衛で包んだ彼は、女将とよく似た顔立ちをしていた。
年のころは四十終わりから五十の半ばか。海の男特有の、潮風でしわがれた肌のせいで、外見から年齢が読みにくい。
お袋、という呼び方と、よく似た顔立ちから察するに、女将の息子なのだろうが――
「バルガス先生」
「お久しぶりです」
そんな彼の言葉に反応したのは、イスラーフィールとアルケイデスだった。イスラーフィールの表情は、これまでの冗談めかしたものから一転し、特級法術師の威厳を感じさせる、真面目なそれへ。アルケイデスの表情はそう変わらないが、彼の背筋はピンと伸び、どこか緊張感を持っているように見える。
その時に、シュウは理解した。
この人物こそが、此度の海洋調査のキーマン――即ち、シャローム海の沖合で、全海洋の異変を察知したという漁師なのだ、と。




