プロローグ
三章、『善と悪の境界に』開始です
聖霊に率いられた善性存在たちと、魔霊に率いられた悪性存在達の戦争。それは善性存在の指導者だった初代ファザー・スピターマが、両者の暮らす世界を分割するという奇跡を成し遂げたことで終結した。
分割された二つの世界の内、善性存在達の暮らす世界は『アーシュローカ』、悪性存在の暮らす世界は『デーヴァローカ』、と正しくは呼称されるが。アーシュローカの民——即ち善性存在の支配者たる人間は、自らの世界に名を付けることはなく、デーヴァローカをのみ『異境』と呼んで区別する。
その様にして分けられた善性存在の世界には、全部で八つの大陸が存在する。その中で最も規模の大きいものは『中央大陸』と呼ばれ、文字通り八大陸の中心に位置する。全大陸を統治する機構『教会』の本部がおかれ、法術師たちや商人、貴族――あらゆる存在が集まる、この世界の枢軸。
その東端――隣の小大陸たる極東大陸との境界たる大海を望むそのエリアは、漁業や観光業が盛んな海の街が立ち並ぶ。
そんな沿海都市の一つ――特級法術師、ガブリエラ・イスラーフィールが拠点として活用することで知られる小規模な町から、数時間前、中型の船が一隻出た。今は沖にて漁を終え、帰港の最中にあるそれは、漁船だ。船上には、漁のための道具や生簀を始めとする様々な設備。
そして、枯れ枝のような、しかし年季の入った確かな屈強さを秘めた男性。仲間内からは「鰹節の様だ」と冗談交じりに称される硬く、堅い腕で、これまで沢山の豊作を町へと齎してきた、優秀な漁師だ。
彼は険しい表情で、空の彼方を見つめる。雲一つない青空が広がるその空に、唐突に……そう、本当に唐突に、何の前触れもなく暗雲が立ち込め始めたのだ。おかしい。今日の天気はどう予測しても良好だったはず――訝し気に首をかしげると、彼は船内へと戻る。
そこでは何人かの船員が、船を動かす作業や天候の確認、航海記録を付ける他、使い終わった漁業道具の点検をしていた。
男性――この船の船長であるディン・バルガスは、そのうちの一人――天候の確認をしている青年に近づく。四角い眼鏡をかけた彼は、どこか聖職者にも似た白く長いローブを纏っている。が、その裾は既に潮風でぼろぼろ。青年自身も、眉根を寄せる癖がある硬い表情のせいもあり、実年齢より二歳ほど老けて見える。モスグリーンの頭髪のセットは、何度かストレスでかきむしったか、既に崩れていた。
名をアローン・ルーズヴェルトという彼は、ただの天候予報士ではない。気流の流れや大気中の水分から『天気を読む』ことに過剰に特化した法術を操る、非常に優秀な法術師だ。元々は海の男ではなく騎士階級に成りたかったというが、しかしその力を誰かの役に立てたいと思い、気象予報士の道を志したという。
彼が天候予報士として職を探し始めたとき、大勢の漁師が彼と専属契約を結ぼうと押し掛けた。バルガスもその一人だ。正確に天候を予測する力は、単純に漁の成果を良くするだけでなく、船員の命を護ることにも繋がる。何よりも仲間たちの安全を重んじるバルガスにとって、彼の力は喉から手が出るほど欲しいものだった。
そんな競争率の高いアローンが、なぜ自分の船を搭乗先に選んだのか、というのは、バルガスの旧い付き合いとも関わってくる話なのだが――今は、それを思い起こしている場合ではない。
バルガスはアローンに向かい、一言、問う。それだけで彼は、船長が何を言わんとしているか理解し、答えた。
「おい、どうだ」
「駄目です。全く確認できません――今もまだ、観測上はあそこに雲は無いという結果になっています」
「うぅむ……」
バルガスは腕を組むと、低く唸る。
最初に異変に気付いたのは、船の窓から天候を確認していた別の乗員だった。空の彼方に暗雲が出ている、と。最初はアローンの法術にも引っかからないその現象は、船員の見間違いだろう、と笑い飛ばされたが、バルガスは自らの目でそれを確認するべく甲板へと上がった。するとどうだ。実際に彼方に黒い雲が見えるだけでなく、その規模が急速に拡大するところまで見えたではないか。
明らかな異常。しかし未だ、アローンの法術は暗雲を検知しないらしい。どうしたことか――と、バルガスが内心で首をひねっていると。
がすん、と、重い音。船体が激しく揺れる。船員たちに動揺。ざわめきが収まらぬままに、もう一度衝撃。
何だ、一体何が起きた――そう、バルガスが確認を取る前に。
その振動の正体は、姿を見せた。
べちゃり、と、窓の向こうに何かが張り付く。それは『手』だ。爬虫類のそれに近いが、指と指の間には両生類の水かき、あるいは魚のひれを思わせる膜がついている。身を乗り出して船上へと上がってきたそいつの骨格は、人間に極めて酷似していた。だが――その頭は、人のそれではなく、魚のもの。
「『魚人』……!?」
「海洋性の魔物がなぜ!? この海域には発生しないはずだろう!?」
船員たちが悲鳴を上げる。べちゃり、べちゃり、という音と、何か――いいや、最早推測は容易だ。他の魚人が船体にぶつかる衝撃は続き、気が付けば五体に昇る魚頭の魔物が甲板に上がったり、船の周りを回遊したりと、虎視眈々とバルガスたちを殺害する機会をうかがっていた。
何故、という疑問が真っ先に飛び出るが、バルガスは心の中で首を勢いよく振り、その疑問を振り払う。今は、この魚人たちを撃退する方が先だ。
彼は釣り道具の整備をしていた船員に向かって、右手を突き出す。
「『銛』を寄越せ」
「え……? で、でも船長、あれは使わないって――」
「良いから寄越せ!!」
語気を強めて、叫ぶように要求する。青年は「は、はい!」と切れの悪い返事を上げると、しかし迅速に、道具の中から一振りの長物を取り出し、手渡してくる。
それは、『銛』の名で呼ばれる。
しかし正確には、漁業に使う銛などではなく、槍の類だ。先が三つに分かれたタイプ――所謂『三叉槍』と呼ばれるもの。銀色の穂先から柄頭に至るまで、金属で構成された極めて重い槍。
そして、その二つともが正しい役割であると同時に。
そのどちらも、真の役割ではない。
バルガスは見るからに重量のある『銛』を軽々と構えると、低く腰を落とし、唸る様に唱える。
「——我が正義に光をくべよ」
直後。
船が、強く揺れた。しかし今度は、魚人が激突するときのそれではない。
波だ。船を取り巻く大海が、風もないのに一人手に波を起こしている。
その波濤はやがて自然法則に反した形で渦を巻き、船上に上がっていた者、船に取りついていたもの、回遊していたもの……状況を問わず、魚人たちを巻き込み、粉砕し、抹消していく。
渦潮。その現象は、或いはそう呼ばれる。
発生させているのは、他ならぬバルガスだ。彼の持つ『銛』が、発光している。光はまるで、海中に揺らめく陽光を映しているよう――
法術、『武装型ネレウス』。かつて法術師育成学園に於いて学長の立場にあった上級法術師、ディン・バルガスの扱うそれは、周囲に自在に『海』を展開する他、自然現象としての『波』を自在に操る。このように自らの意思で渦潮を引き起こすことができる。
「ぐぅうっ……」
しかしその力を十全に扱うことができたのは、最早過去の事だ。現在のバルガスでは、全盛期ほどの力を出すことはできない。年齢、信心、戦闘感覚の劣化――様々な理由があるが、何にせよ、長時間使っていられるものではない。バルガスは己の腕が悲鳴を上げるのを聞く。
渦潮が収まったころには、船を襲っていた魚人たちは全ていなくなっていた。この広い海だ。法術の力によって死んだ魔物が残す灰も、潮水に消えて霧散しただろう。後には、何もない。ただ、平穏な海と、不穏な空が広がるだけ。
「船長!」
アローンが駆け寄ってくる。バルガスはそれを腕で制すると、痛む体に鞭打ち、ゆっくりと立ち上がった。甚平の背が、じっとりと濡れているのが自分でもわかる。脂汗だ。また少し、力を使える時間が減ったらしい。
操船を担当する船員に向けて、絞り出すような声で命ずる。
「今のうちに港へ戻るぞ……それから、戻ったらすぐに漁業組合に連絡しろ。一週間後に定期の調査団が来るまで、この辺りの海域は封鎖だ」
「わ、分かりました」
漁船は、港へと大きく舵を取る。先程よりも速度が出ている。元よりそう言う造りだ。この船は本来漁船ではなく、海上の魔物を討伐するためのものだったから。
若かりし頃のバルガスは、この船と共に数々の海上悪性存在を討伐し名を挙げた。老いを理由に引退した今は、ただの魚釣りの船としているが――
——もしかしたらこいつにも、かつての役割を負わせることになるやもしれん。
バルガスは心の中で、そう感じるのであった。
できれば、そんな状況になって欲しくはないが――
そんなバルガスの感傷を、あるいはあざ笑うかのように。
「なんだ、あれは……」
「船……いや、島か……?」
船の窓から空の景色を観察していた船員とアローンが、各々掠れた声を上げる。
振り返れば、暗雲はまるで地上においては竜巻が起こる前兆の様に、水平線へと向けて降下しており。
その穂先には、何か巨大な、岩の塊のような――巻貝を背負うヤドカリのようなものが、一瞬、見えた。
老いた法術師の本能が叫ぶ。あれはまずい、と。
積み重ねた知識が、その正体を告げ、何度も何度も、激しく警鐘を鳴らす。
知っている。ディン・バルガスは知っている。
バルガスだけではあるまい。海に関わる法術師なら――いいや、噂程度であるならば、一般の人間だって知っているはずだ。
海洋の魔物を統治する王。
人間が海を渡る事を拒絶する、邪悪の砦。
海上悪性存在最大の個体――『絶対悪』の儀式台。
「『呪甲魔蛇』……!」
老海兵の口から、その名が重たく、紡がれた。




