第十九話『闇より出でよ』
その夜は、一段と空気が澄んでいた。空に雲はなく、月だけでなく星々も見える。
シュウは、育成学園の広い校庭――その中でも、家と女子寮エリアを繋ぐ場所に立っていた。隣にはマイヤ。とロザリア。マイヤは既に光翼を広げ、いつでも戦闘に入れる体勢になっている。ロザリアの方は、シュウが依頼したある目的のために、現在法術を発動している。
普段ならもう、ベッドに入って就寝している時間だ。昨日はロザリアがいたことと、なし崩し的に眠りに落ちてしまったことから無かったが、最近ときたま、マイヤが所謂「おやすみのキス」をくれることがある。なんだかんだ恥ずかしいのだが、あれがあると非常によく眠れるのでシュウ個人としては気に入っていた。——が、マイヤの方がもっと恥ずかしいようで、本当に稀にしかくれない。
そんな平和な夜を、一刻も早く取り戻そう――緊張の面持ちで構えるマイヤを見て、シュウは強く決意する。
予測が正しければ――今晩が決着である。イスラーフィールが調査に駆り出された央都の特級法術師暗殺事件に始まり、リズベットとエリックの殺害未遂。その一連の事件の終幕は近い。
昨日、『エリナ』は言った。「救世主も纏めて始末してしまいましょう」と。
またこうも言った。「目的は達成できた」と。
即ち――彼女次に攻撃する対象は、恐らく。
彼女が救世主と呼称した人物。シュウ・フェリドゥーンである。
「──来ました」
ぴくり、と一瞬肩を震わせて、ロザリアが目付きを険しくする。シュウが彼女に頼んでいたのは、『意思』の探知。これにエリナ、あるいは『エリナ』が引っ掛かれば、シュウの予想が外れてはいなかったことが証明される。
その瞬間は、すぐに訪れた。
まるで幻影か、御伽噺に出てくるような姿隠しのカーテンか、あるいは極東大陸に伝わるニンジャなる集団のカクレミノジュツとやらか――兎も角、何らかの手段で姿を隠していたのだろう。突如、シュウ達から、旧時代文明の距離法則に乗っ取るなら五十メートルほど離れた場所に、黒のベールを被った小柄な人影が出現する。既に十字架は装備されていた。
やがてその人物が近づいてくると、その深紅の瞳の輝きがはっきりとわかる。『エリナ』だ。闇夜でも、黒いベールに覆われていても、その金色の髪は良く目立つ。濃密な『魔』の気配――彼女が、人間ではなく魔族であることを強く認識させて来る。
「あら? あらあらまぁまぁ、うふふふふ……っ!」
彼女はシュウ達を見つけると、上機嫌に笑い始めた。
「手間が省けましたわ。まさか獲物がそちらから現れて下さるだなんて」
「それはこちらの台詞です、エリナさん」
すかさずマイヤが言い返す。『エリナ』は一つ、眉を顰めると、しかしすぐに不気味な笑みへと表情を戻した。
「まぁ構いません。全員纏めて蹴散らして差し上げますわ。私の――」
黒銀の十字架が、天高く掲げられる。銀月の空を赤く染め上げるが如く。
「——『武装型アムルタート』で!! 闇より出でよ、我が罪業!!」
その穂先が、深紅の雷電を纏った。切断の暴威を以て、赤き十字斧が一閃。その動作に呼応して、鋭い雷が地を這った。以前は見せなかった技だ。最も、マイヤと戦果を競った際に、エリナは広範囲を焼き尽くす電撃の攻撃を見せたというから、元々可能だったのであろう。
一撃を避けながら、シュウはエリナの術の名が変わっていることに気付く。
彼女の武装型法術は、『ハルワタート』の名を冠していたはずだ。季節の巡りの規則を司る聖霊たちの一柱で、スプンタ語の旧いものでは『完全』を意味すると聞く。
しかし今彼女が告げたのは、『アムルタート』という別の名だ。こちらもまた季節を司る聖霊だ。名前は『不滅』の意を持つとされ、ハルワタートが水や潤いを司るのに対し、アムルタートは萌えいづる植物たちの成長を助ける。
この二柱の聖霊は、善悪大戦の頃の降臨記録に曰く、どうやら双子であるらしい。同時に密接不可分、表裏一体――『同一にして別個の存在』。
もっと早くその情報を知っていたならば、今回の事件の解決の糸口は、もしかしたらもう少し早く見つかっていたかもしれない。あるいは、シュウがリズベットの傷の変化に気付いていたなら。
だがそれを今悔いている暇はない。
何故なら答えは、もう出ているのだから。
地を這う雷撃には軽いホーミング性能でもあるのか、非常に小さい範囲ではあるがシュウを追随した。それゆえに少しだけ過剰な回避が必要となる。
その隙を狙った『エリナ』が、下段から十字斧を大きく振り上げる形で追撃。赤い目が宵闇の中で良く目立つ。襲撃の嗜虐に歪んだそれは、彼女が本当にエリナと同一人物なのか、という疑念を復活させる。それほどまでに無容赦かつ無遠慮。ルビーを思わせる瞳に写るシュウの姿は、今の彼女にとっては『獲物』でしかない。
——否。
——俺は獲物では、ない。
心の中で、小さく呟く。
アルケイデスとの戦闘を思い出す。彼の、必要最小限の動作で最大の結果を齎す戦闘をトレースする。昨晩の戦闘では、それと近いことができた。あれは攻撃だったが、今度は回避にそれを使う。
足場を固定する。振り上げられた暴威の刃先、それが辿るであろう軌跡を予測。上半身を僅かに後方に傾けると、すぐ目と鼻の先を、斬撃が巻き起こした小さな風が通過する。
わずかに、『エリナ』が目を剥いた。昨夜の言動からするに、彼女はシュウの戦闘力をある程度把握しているのだろう。まさか紙一重、と形容すべき回避行動を、シュウが取れるとは思っていなかったらしい。いや――違う。今の動揺は。
驚愕ではなく、一種の感嘆。そして――その程度か、という、落胆。
「甘いですわよ!!」
エリナの魔斧に、紅電が奔る。それは光の刀身を、凄まじい速度で三倍ほどのリーチに拡張した。命刈り取る死神の鎌、あるいは罪人を裁く断頭台の刃が如く、伸びた刀身が上空からシュウを両断せんと迫る。
こと時間のみに限定すれば、シュウが左右真っ二つに分かれて鮮血を吹き出すまで、二秒とかかるまい。
その二秒の間に――シュウは、『信じた』。
己の予測が真実であることを。
この状況は切り抜けることが可能であるということを。
そして――エリナの刃は拡張してなどおらず、そもそもあの十字架には光の刃など伸びていない、ということを。
——瞬間。
延長したはずの刃は、根本である紅電の斧もろとも、消滅した。
十字架の振り下ろしを、避ける。それだけで、『エリナ』の攻撃は無為と化した。
彼女の表情が、今度こそ驚愕のそれへと変わる。
「馬鹿な……!?」
その驚愕は、隙だ。シュウは全身に身体強化の呪術を貼り付ける。大きく左側に上体をひねると、元の姿勢に戻る動作を利用した、豪速の正拳突きを放つ。
しかしそこは、流石の『エリナ』である。反射的に十字架を掲げると、シュウの一撃を受け止める。かけた強化の中には肉体の硬化も入っているために反動を受けることはないが、『エリナ』を吹き飛ばすこともできずじまい。
——それでいい。
「虚ろなる者に導き在れ……!!」
『エリナ』の体が、シュウから見て右側へと大きく吹き飛ばされる。高速で上空から飛来したマイヤ。彼女の構えた光剣が大地に突き刺さると、閃光と共に衝撃波をまき散らしたのだ。体の浮いた『エリナ』を、マイヤの背面に口を開けた砲門が、光の剣を吐き出し追撃する。十字架をシュウの拳ではなくそちらを防ぐために動かす『エリナ』だが、単純な肉体攻撃に過ぎないシュウの一撃と異なり、法術の攻撃は殺しきれない。対人間同士の戦闘に於いて、法術の殺傷能力は大きく落ちる。それでもなお、マイヤの『武装型アールマティ』は、赤目の宿敵を吹き飛ばすに足りる威力を持っていた。
「せぇぇぇッ!!」
姿勢を大きく崩しながら滑空する『エリナ』を狙い、今度は揺らめく刀身のレイピアを携え、ロザリアが疾駆する。
十字架が再び深紅の刃を灯し、同時に紅い稲妻を大地に落とす。夜の校庭を穿つその落雷を、しかしロザリアは、まるでミュージカルかオペラのダンサーであるかのように、ひらり、ひらりと華麗に躱す。まるで落ちる場所が分かっているかのようなその回避は、恐らく『展開型ランスロット』によるものだ。「意思を読む力」で、『エリナ』の敵意を感じ取ることで着弾地点を予想し、被害を未然に防いでいるのである。
それだけではない。避けきれない、と判断した一撃については、周囲の水分をコントロールして絶縁体を作り出し、盾として扱い防いでいく。ロザリア・ルーズヴェルトの戦い方は、なるほど、マイヤが「上手い」と称した通り、自分の法術の特性を極めてよく理解したものだと言える。
「ちぃッ……!!」
『エリナ』が舌打ちをする。彼女が着陸するのと、疾風を纏う一刺しをロザリアが放つのはほぼ同時だった。
避けきれない、あるいは、防御姿勢を取れない、と判断したのか。エリナは、十字架を引き寄せることなく、例の世界がぶれる様な感覚を、まき散らした。
直前とは若干ずれた位置に、エリナの肉体が移動する。そのまま彼女は、常軌を逸した速度でロザリアのリーチ内から離脱し――
その直前に、背面に斬撃を受けて姿勢を崩した。
彼女が振り返れば、あらぬ方向に剣を振り払うロザリアの姿が。同時に、『エリナ』の姿は溶けて消え、ロザリアが切りつけた場所にこそ、シスター服に切り傷を負ったその姿を現す。
「やっぱりね。からくりさえ分かってしまえば、あとは『意思』を読んでしまえばいいだけだ」
「貴様……ッ!」
『エリナ』が憤怒に表情を歪ませ、直後、凍り付くように動きを止めた。
どうやら、気づいたらしい。
最早己の魔術――否、魔術だと認識させた法術は、以前の様に十全に力を発揮することはできないのだ、と。
「エリナ――エリナ・キュリオスハート」
シュウは『エリナ』に一歩近づくと、その名を告げる。『エリナ』の背が、びくん、と跳ねた。
「俺たちは勘違いしていた。マイと競い合って魔物討伐をしたあの時、君の見せた奥義から、俺たちは君の法術は、雷を操り、広範囲を殲滅することに特化したものなのだと思っていた」
法術の多くは、自然現象を操る場合が多い。内容こそ、法力によって源を自ら創れるものや、ロザリアの様に自然そのものをコントロールするもの、マイヤのようにどちらもを兼ね備えたもの、と多岐に渡るが、大抵の場合何らかの自然現象に関連した効果を齎す可能性が高い。
故にエリナもその類だと推測された。雷を能動的に起こし、操る力なのだと。実際、彼女の法術に名を与えた聖霊は、前述の通り水を司る。自然発生する雷は、雲の中に含まれる氷の粒がこすれ合ってできる、という説がある程であるから、あるいは直接雷を操ることはなくとも、間接的に電気を支配する力なのかもしれないと。
だが、真実は違ったのだ。
エリナの法術は、電気を司ってなどいない。
彼女はハレルヤザグナル・キュリオスハートが、後継者として育てていた法術師なのだ。即ち――
「エリナ……君が操るのは雷撃などではなく、人の思考だ。正確には、『認識』を操ること――それこそが、君の法術の力の、正体だ」
世界というのは、何にせよ主観を通して見るものだ。シュウはこの数日で何度も体験した。自分の認識、意識が少しでも変わるだけで、見える風景、それが持つ意味というのは絶大、と形容していいほどに様変わりする。
マイヤが、昔言っていた。シュウと出逢うまで、自分の世界には色が無かった、と。それは本当に色が無い、モノトーンの景色が見えていたわけではない。色がついていることを認識し、楽しむ余裕もない――という形容だ。
エリナの法術は、その形容を真実に変える。簡単に言ってしまえば、『強烈な思い込み』の植え付けによって相手の意識を操作しているのだ。
病は気から、とか、幻痛、と言った言葉がある。自分は病気かもしれない、傷を負っているかもしれない、という思い込みが、実際に肉体を苛んでいくという現象。その究極形――「私にはこう見える」という認識を操り、それによって実際の世界がさもその偽りの認識通りであるかのように誤認させる。それが、エリナ・キュリオスハートの法術、『武装型ハルワタート』、そして『武装型アムルタート』の、本当の力。
十字架に刃がある、と思い込ませることで、本当に切り付けられたような痛みと切り傷を作り出す。
自分は魔術の毒によって苦しめられている、と認識させることで、魔力焼けを引き起こす。
その場所にエリナはいない、と認識させることで、実際よりも早く動いているように見せる。
巨大な刃の斬撃によって、武器を手放してしまった、と認識させることで、相手の武器を弾き落とす。
自分の姿が、誰かに似ていると誤認させることで、顔すらも変えてしまう。
そして――『自分は死んだ』と認識させることで、相手を殺す。
これまでの戦いと事件の真相は、それだ。
恐らく死んだ人間と死ななかった人間に分かれるのは、『エリナ』から受けた襲撃を、被害者がどのように受け止めたか、という部分に基因する。彼女の法術は認識を操るが、恐らくはその効果は一律ではない。書き替えられた認識によって受ける幻想のダメージを、「致命的」と思うか「重症」にとどめることができるかは、被害者本人の思考に左右されるのだ。
そしてシュウ達がとった対策は、それを利用したものである。目に見える認識を疑う。自分自身の認識する世界を、取り戻す。常時的に行うことは非常に難しい。何せ、常に自分の見ている世界を疑っていては、人間は動けない。よって、エリナの全ての攻撃を無効化できるわけではないが――致命的な一撃を防ぎ、そして戦いを有利に進めることはできる。
恐るべき法術だ。
法術には固有のパラメーターのようなものは存在しないが、もしも『干渉力』などという項目が在れば、エリナの法術は世界一と言っていいレベルの数値を叩き出すだろう。何せ、魔族、魔物だけでなく、法術が効きにくい筈の人間、さらには「意思が無い」はずの無機物や植物ですら、認識干渉によって実際に状態を変えてみせるのだから。
「その力は君自身にも働く。エリナ、俺の事を『お兄様』と呼ぶ君も、今俺たちと戦っている君も――君が、君自身をどう認識するか選んだ結果だ」
二重人格、というものがある。旧時代文明の言葉で言えば、解離性多重人格障害、と言ったらしいが、エリナのそれは、その症状に極めて近い、されど全く別のものだ。
彼女は、状況に応じて自他の己への認識を『貼り替える』ことができるのだ。恐らくは、使い捨てなのだろう。ある程度記憶や言動は保持できるのだろうが――碧い目のエリナが『認識』した「自分の過去」に矛盾があったこと。シュウ達が女子寮を操作しているときに会ったエリナに違和感があったこと。そして、彼女ほどの戦闘者であれば把握できていたはずの、現在のシュウの戦闘力や戦闘スタイルが、事前情報と異なるという事実。
先ほどの『エリナ』の対応は、昨日の戦闘でシュウが「最低限の行動で最大の戦果を得る戦闘スタイル」を身に着けつつあることを、まるで覚えていないかのようだった。その原因は、この『貼り替え』にこそあるのだろう。もしかしたら保持できる情報量にも限界があるのかもしれない。
同じように、ロザリアが『意思が見えない』と感じたことは、その時点では既に「その場に意思を以て存在していたエリナ、という人物はこの世にはいない」からであり、イスラーフィールの情報閲覧が機能しなかったのもそのためだ。
何故、彼女がそのように、自分自身への認識を変えるのかは、分からない。
けれどそこには、何か理由があって――きっとそれは、彼女を救う鍵に等しい。
「だったら――何だというのです」
「君自身が背負う、その偽りの咎を剥ぎ取る。それができる、というわけだ」
ぴくり、と、エリナの眉が動く。
「……お黙りなさい、救世主。これは私の――」
「違う。君は、ハレルヤザグナル・キュリオスハートを殺した。だがそれを含めて、これまでの全ては――恐ろしい事だが、あの特級法術師の仕組んだことであるらしい。最も俺自身は彼に関する知識をそう多くは持たないから、アルケイデス先生の言葉だが」
借り受けた知識を語るのは、少し申し訳ない気もするが。
アルケイデス・ミュケーナイ――マグナス・ハーキュリーは、ハレルヤザグナルが兼ねてより、法術師や魔族の魂を生贄に捧げて、何らかの変革を引き起こすつもりであったことを知っていた。曰く、海上の魔物を殲滅するための一大作戦を執り行うためのものだったらしい。アルケイデス自身、マグナスとしてそのプロジェクトにまつわる暗殺を引き受けた事があったという。
『エリナ』が殺した、あるいは殺害しかけた17人は、そのために必要なものだったのだ。昨夜の戦闘では恐らく、「誰かを殺害する、あるいは重傷を負わせる」ことによって得られる『何か』を、シュウ達との戦闘で十分に得たのだろう。だから、「これ以上は必要ない」として撤退したのだ。
ハレルヤザグナル・キュリオスハートは、人間の思考を操る。
そしてエリナは、複数の思考を己に貼り付ける。
であるならば。そのうちの一つがハレルヤザグナルによって乗っ取られており――幼少期より彼に育てられたエリナが、その思考操作によって『操られた己の認識』を優先的に装備するように仕向けられていたとしたら?
それが真実であるならば、これまでの罪、彼女自身の問題を、解消することが可能である。
『エリナ』を倒し――ハレルヤザグナルの支配を、打ち消すことで。
もしかしたら、エリナは進んで『展開型ウォフマナフ』の支配下にあるのかもしれない。その予測は〇ではないし、可能性を打ち払うことはできない。
けれどもシュウは、それは違うと信じた。認識した。
エリナが、自分を『貼り替える』のは。
ハレルヤザグナルの支配下にある自分から、変わりたいからではないか?
「俺たちは、君を救う。もしもそれが間違った行動だったとしても――傲慢かもしれないが、それが俺の『正義』だと信じ、認識する」
「——ふ、ふふ、ふふふふ……!!」
シュウは確りとした意思と、決意を込めて、エリナを見据える。
信じることは、時に傲慢だ。『誰か』あるいは『何か』に肩入れし、中立性を喪うことの発露であるかもしれない。それはもしかしたら、時には悪であるのかもしれない。
けれどきっと――これは、「善い事」なのだとも、思う。世界に疑問だけを抱き続け、何の使い物にもならなかった自分が、確固たる正義を以てこの世界を認識する、きっかけなのだと。
エリナが、肩を震わせ笑う。その声には、どういう感情を込めたのか――
「流石は救世主、流石は、『私』の選んだお兄様! 私の、『私』の――」
――期待、通りに。
彼女の口が、そう動いたように見えた。
エリナの長い金色の前髪。碧い目のエリナは右目を。紅い目のエリナは左目を隠すように分けたその前髪。今の彼女――『エリナ』は後者だ。
その隠れた左目から、一筋、涙が零れたように見えて。
「ならば打ち破って見せなさい、この私を! 救って見せなさい、この私を! そうして証明しなさい、貴方が救世主なのだということを!! ——我が正義に光をくべよ!!」
かくて禁忌十字に仕える娘は、救世主に『完成』を促す。
今のような不十分な救世主ではなく、誰かを救う意思、己の思考を確固たるものとし、自らの正義を担う覚悟を決めよと。
「邪悪なる祈り、靂天の黒斧、万神天魔打ち倒せし暴嵐の禁忌十字――!」
クロムシルバーの十字架。その交差点を中心に、深紅の雷が集っていく。その姿は、あるいは茨。あるいは蕾。あるいは舞い散る花弁の様にさえ見える。
エリナと共に見た、あの幻想の花畑。まるで、その景色を歪めたような、光景。
かくて、クリムゾンレッドの薔薇は、花開く。
「崩せ、『黒銀の鍵、万聖滅潰すは紅の薔薇』!!」
それは錫杖だ。それは破神の魔斧だ。それは、雷神の大剣だ。
死をまき散らす破壊の稲妻。強烈な認識操作が、シュウたちに「今、自分の命は脅かされている」と誤認させる。それは恐らく避けがたい致命傷となって、先ほどの様に認識操作の破壊を不可能なものとする。
エリナの武装型法術が持つ、最大の奥義。恐らくエリナと『エリナ』で法術の名前が違うのは、その性質すらも認識の仕方によって変わる、ということなのだろう。
詳しいことは、まだシュウには分からないが――
——それを知りたければ、ここで彼女を『救い出す』しかない。
あるいは罪となるかもしれない。『エリナ』を倒すことは、己の正義のために誰かを『悪』と断ずることに近い。きっとそれは、一人の人間に赦されていい行いでは無いからだ。
けれども。もしそうなのだとすれば、これは二回目だ。
シュウは既に、マイヤを救うため、マグナス・ハーキュリーの『正義』を「悪だ」と断じた過去があるのだから。
救世主は、中立ではない。
救世主は、自分の正義で、それとは反する者も救う――そういう人物のことだ。きっと。
だからこそ。
「その罪も、背負って見せる……!!」
シュウは、制服の上着。その裾を、大きく開いた。
同時に、腰のベルトに新たに装着されたホルスターから、この局面において最も必要となるものを抜き放つ。
それは、短剣だった。黒い短剣。表面に、この世界のそれとは別の文字――即ちブラフマナ文字によって、何事かが刻まれた、魔力の結晶。
シュウがアリアと共に開発していた、「人間が、魔法ではなく魔術を使うための装備」。かつてのシュウ
が使いこなすことのできなかった、それ。
それが、二本。表面に彫り込まれた文字は、それぞれ違う。
手触りや、内部に蓄積された魔力の量は、シュウの作ったそれとは比較にならないほど良質だ。特に魔力量はすさまじい。片方だけで、以前の試作品の三倍以上はある。強度も数倍以上。魔術を使った反動で壊れることも、ない。
当然だ。
この短剣の材質になっているのは――ほかでもない、製作者であるアリア自身の角だ。
『しゅうにわたすものがあってきたの』
今朝、医務室でシュウ達を待っていた彼女は、本当の目的としてこの双短剣を渡すことを挙げた。
アリアが以前、部屋から出ようとしなかったのは、この短剣を作っていることをシュウ達に知られたくなかったからであったらしい。自分を傷つける行為だ。シュウもマイヤも、全力で止めようとしただろう。そして実際、そうしたに違いない。
恐らくはアルケイデスが学園長棟にいる間は、何かあったら気配を感じ取られてしまう。そのため、彼が棟を離れ、そして医務室から移動できない状況になってから作業を始めたのだ。
実際の所、魔族の角は生体器官の一部ではなく、外付けのモノだ。砕いてもしばらくすれば、体内の魔力や、空気中にわずかに混じった、魔物たちが消滅したことによって放出される魔力を吸収して、再度結晶化する。砕く際にもさした痛みはないそうで、シュウたちが心配するほどのものではなかったのだろう。
アリアはそれを、数日かけて、シュウの作業を見て覚えた工程通りに――それどころか、独自のアレンジまで加えて完成させてきた。
上級魔物のそれではなく。最強の悪性存在たる魔族の角。それから完成した魔力結晶短剣は、恐らくこの世界で最強の魔術触媒だ。
両の腕を、顔の前で交差させるように。短剣を、構える。
口から、その祝詞は自然にこぼれ出た。
内に込める激情は――大切な人たちへの、感情。仲間たちを傷つけるモノを滅ぼすという、決意。
「——闇より出でよ、我が罪業」
ずん、と。両腕が、一気に重くなる。
右腕に構えた短剣が、『灼毒たるは汝が魔刃』の加護、即ちは万物を腐食させる焔を宿し、揺らめく。
左腕に構えた短剣が、『褪毒たるは汝が滅刃』の加護、即ちは万物から吸い取った命を結晶化し、凍り付く。
思い出す。
アリアの生み出した闇を吸収した時。マイヤの法力の光を受け取ったとき。マグナスの一撃を『捕食』したとき――
『スラエオータナ』の輝きを。
世界から託された、『救世主の証』の感覚を、もう一度。
今度は、与えられた力ではなく、自分の力で。
解き放つ。法術の奥義と対を成す力。即ち、魔術の奥義を。
「『赫毒神の怒り』!!」
右の短剣。その内に秘めた魔力が、爆発する。漆黒の火炎が、まるで草木を枯らす毒の息が如く、大気を、そしてその内を奔るエリナの雷を腐食させ、消滅させていく。
「『靑毒神の渇き』!!」
左の短剣。その内に納まる魔力が、荒れ狂う。『赫毒神の怒り』によって融け堕ちた法力や大気の全てを、まるでむさぼり喰らうかのように吸収していく。吸熱反応、という現象が存在するが、それを最大に聴かせたときの様に、短剣の刃には空気や法力を失った世界が凍り憑く。
「ぐ……ぐぅ、うおぉおおお……!!!」
暴れまわる両の短剣。暴走する奥義の規模を、シュウは全力で抑えにかかる。
だが、シュウが制御を果たした傍から、奥義は規模と威力を増していく。エリナの認識改変の威力が凄まじいため、互いに拮抗している状態ではあるが――このままだと、魔術はエリナの法術を食い破り、やがては彼女自身も溶かしつくしてしまう……!
——まずい。
シュウの背筋を、冷や汗が零れ落ちる。徐々に、徐々に、制御が効かなくなってきている。このままでは、魔術が完全にシュウの手を離れる。そのときが、全ての終わりだ。エリナだけではない。シュウも、マイヤも、ロザリアも、下手をすればこの学園全体を、魔術の波動が多い尽くし、喰らい潰す。
最悪の未来が、脳裏をよぎった。
――やはり扱いきれないのか、俺では……!?
不安が、高く鎌首をもたげる。
そのとき、だった。
「我が正義に光をくべよ」
すぐそばで、透明で繊細な――けれど確かな温かさ……愛情を持った声が、聞こえた。
そっと、シュウの両手に、細い彼女の両手が、重ねられる。振り返れば、背後からマイヤが、シュウを抱きしめるような体勢で、彼の手を握っていた。
「マイ……!?」
「もう、先輩ったら……約束、したじゃないですか」
苦笑する彼女の言葉で、シュウは思い出す。
そうだ。ああ、そうだ。
一人では、背負えない罪であっても。
「……ああ」
二人でなら、背負って行ける。
約束したはずだ。シュウはマイヤを護り、マイヤはシュウを護る。二人で、一緒に戦う。同じ場所に、並び立つと。
『しゅうには、まいやがいる。こんどは、わたしもいっしょ。だから――いまのあなたなら、つかえる』
アリアから生み出された武器を、構え直す。同時に、彼女がシュウに短剣を渡した時の言葉が、リフレインした。
短剣を持つシュウの手と、その上に重ねられたマイヤの手。さらにその上に、アリアが己の手を添えている光景を、シュウは幻視した。
「——闇より出でよ、我が罪業! 苦難の道、苛む罪科、されど三毒、浄化の導なれば――!」
再度、唱える。
「——虚ろなる者に、導き在れ……!」
マイヤが、重ねるように、包むように、唱える。
短剣に掘られたブラフマナ文字が、強く、強く、法力の輝きを宿して発光した。
荒れ狂う毒炎と、世界を喰らう氷の中に、温かく優しい、金色の粒子が混ざる。それは炎と氷の暴威を鎮め、されど支配するのではなく、絡まり合い、共に歩む。
「届、けぇぇぇぇええ……ッ!!!」
左腕を、大きく振るう。
最早数メートルを超す長大な刃渡りとなった氷の刃が、凄まじい速度で疾駆した。
それは、エリナの構えた黒銀の十字架を、強く切り裂き。
真っ二つに、破壊した。
「がっ……!?」
エリナが、小さな悲鳴を上げる。雷撃が、止む。
「——いまです、ルーズヴェルトさん!!」
マイヤが叫ぶ。その言葉が届くころには、ロザリアは既に走り出していた。
これが、最初で最後の、チャンスだから。
「本当はね。ボクは、キミを許せないよ。親友を傷つけられて、相手を許せる奴なんているもんか」
眼前に迫った『エリナ』に向けて、ロザリアは大きく上半身をひねると、右こぶしを構えた。
「でも。きっとここで許さないと、きっと、リズも怒るから」
一端、沈むように上半身を動かす。直後、伸びあがる動作も利用して、コークスクリューブローが放たれた。
「——これで、チャラにしてやる……!」
炸裂。
衝撃がまき散らされる。エリナの肉体が、音をたてて彼方へと吹き飛んだ。
ほぼ同時に、毒の炎と氷の刃が、まるでひび割れたガラスが砕けるかのように、かしゃーん、という快い音を立てて消滅する。
シュウとマイヤは顔を見合わせると、吹き飛んだエリナの方へと走り出す。
着弾地点は、余程ロザリアの一撃が重かったのか、大きく地面が抉れていた。後々考えてみれば寧ろエリナが生きていることの方が驚きだが、やはり彼女も一級の法術師ということだろう。何かしら、とっさの防御を取っていたに違いない。
倒れ伏すエリナの肉体を、紅の電撃が嘗めていた。
ばち、ばちばち、と不気味な音を立てるそれの向こうで、エリナがうっすらと目を開く。
その色は、赤ではなく、碧。いつものエリナと、同じ色。
「……おにい、さま……」
エリナが、口を開く。声と、顔は、『エリナ』と同じであった。
「私は……一体、何者なのでしょう……」
不安に、揺れた声だった。
「お父様の傀儡として育てられ、お父様の意思のもと、お父様が与えた役割に従事する――そんな毎日を、私は疑問には思っていませんでした。だから、そんな自分を変えたくて、お父様をこの手で殺しました。殺したと、思っていたのです。ですが――お兄様の、そしてミュケーナイ師の言葉が正しければ、それすらも、私はお父様の思う通りの役割を演じたに、過ぎないとあれば……」
絞り出すように、一気に告げられたそれは、きっと理由だ。
彼女が、自分自身を貼り替えることの。
そして――育成学園の生徒として使ったそれが『シュウの妹』であったことの。
「私は、一体――何の価値を持って……」
右の、碧い目と。
左の、紅い目が。
同時に涙を流す。クリムゾンレッドの雷電が、その涙を拒絶し、抹消し、主に、父から刻まれた命令を続けるように、促す。
「……あるさ、価値は」
シュウは跪くと、エリナの手を握った。稲妻が、まるで生物であるかのように蠢き、シュウを弾き返そうと躍起になる。それでも、彼はエリナの手を握り続けた。
「いいや。本当は、価値があるかないかなんて、何も関係ないんだよ、エリナ」
首を振って、先の言葉を訂正する。
価値のある人間だから助けたのではない。エリナがもっと取るに足らない存在だったとしても、きっとシュウは、彼女に手を伸ばした。
何故なら――
「君は俺の、妹だ。それだけだよ」
だから、助けたかった。救いたかった。
手の届く範囲しか救えないシュウが、必死に手の伸ばそうとした。
「嗚呼——やっぱり、あなたの『妹』になって――正解、でしたわ……」
そう、霞むような声で呟くと。
エリナは、目を閉じた。赤黒い雷は消え去り、安らかな顔で。
彼女を抱き起しながら顔を上げれば、いつの間にか、彼方が夜明けの白ずみを帯び始める。
闇の内から、輝く明日が、姿を見せようとしていた。
明日の投稿分で、第二章は完結です。ここまで読んでくださった方、こんなものを相手にしてくださり本当にありがとうございます。あともう少し、お付き合いください。




