第十一話『覚悟を新たに』
シュウとマイヤが医務室のドアを開けると、意外なことに室内にいたのは、白いカーテンの奥のベッドに横たわっているであろう、事件の被害に遭った生徒を除けば一人だけだった。保険医を担当している医者や法術師でもいるかと思ったのだが、普段医務室にいる女性医師の姿はない。
代わりに、褐色の男が、白いベッドの脇に備えられたパイプ椅子に腰かけている。普段から纏っている改造法衣だけでなく、戦闘時に使用する白亜の胴鎧と銀の巨剣が、既に展開していた。銀白の髪の下に除く青の瞳には、決意と警戒の色。
アルケイデス・ミュケーナイが、戦闘態勢でそこに居た。法術『武装型ウルスラグナ』を起動させたその姿は、さながら聖騎士か何かのように見える。装備的には決して重装甲ではないはずだ。しかし、今は敵ではないのにも関わらず、シュウはその姿に圧倒的な威圧感を覚える。
それはアルケイデスが、『天則』への妄信から解放され、『信仰を力に変える』という法術の特性上大きく弱体化した今となっても、この世界で最強の法術師の一人であることをありありと示していた。
シュウ達が近づくと、アルケイデスは警戒態勢を余り崩さないまま、こちら側に一瞥を寄越す。
「来たか、少年。それにフィルドゥシーも」
「アルケイデス先生、その姿は……」
「医務室警護の任に就くことになったのでな。私の法術は、戦闘開始から装備するまでのラグを突かれた場合に弱い。アリアと最初に戦闘をした際がまさにそうだった」
遠くを見る様な目をするアルケイデス。彼の脳裏に蘇っているのは、まだ彼が『マグナス・ハーキュリー』を名乗り、悪性存在殲滅の野望を抱いていた頃の出来事だろう。
央都近隣の『門』を通って、悪性存在達の暮らす『異郷』からこの世界へと渡ってきたアリア。当時のアルケイデス……即ちマグナスは、彼女を殺害するために部下たちを率いて何度も『狩り』を行った。その度にアリアは上手く逃げ出していたようだが、シュウたちと出会う少し前の戦闘でついに追い詰められ、彼女は魔術を発動した。
シュウが直接マグナスと戦闘をした時には、マグナスは身体強化の法術によってアリアの魔術を全て無効化していた。しかしそれは彼に、アリアの攻撃に対する事前知識があったからこそである。彼自身があの場で言っていたことだが、最初にアリアが法術を発動した際、マグナスはそれに対処ができずに吹き飛ばされたという。彼の部下たちは長期間戦闘続行が不可能になるレベルのダメージを受けて壊滅し、マグナス自身も探索の再開には数日の休養を要する状態だったそうだ。
マグナス/アルケイデスは一切の法術を発動せずとも、ズルワーンの力によって強化されたシュウと互角の戦闘を繰り広げるほどの圧倒的な戦闘能力を誇る。しかし今回の様に未知の存在が相手の場合、十全な戦闘を期待するのであれば、やはり最初から法術で対処した方が速い――そういう事なのだろう。
得てして法術師に付きまとう問題だ。呪術には『無詠唱』という概念が存在するが、法術にはそれが存在しないに等しい。一般的な唱句である「我が正義に光をくべよ」を始めとし、奥義名のコールやそれに紐つけられた何かしらのキーワードを口にしなければ、法術は多くの場合発動してくれない。呪術の様に物理的な触媒を必須としない法術の、数少ない弱点ともいえる。
それはマグナスやマイヤといった最上位の法術師たちですらそうだ。勿論例外はある。法術、そのスキルの中でも特に『パッシヴスキル』と呼ばれる、常に使える能力――例えばイスラーフィールの『情報閲覧』であるとか、マイヤの『女神に祈りを』はその限りではない。だが、能動的な発動を必要とするスキル、例えばマグナスの持つ十のスキルの総称たる『十の化身』は、その都度何かしらのアクションが必要となる。そして、戦況を打開しうる強力な技は、多くの場合この能動スキルや奥義に、その大半が集約しているのだ。
アルケイデスの持つ強力な法術は、殆どが起動句を必要とする。だからこそ、彼は最悪の場合に備えて、常に戦闘態勢を取ることにしたらしい。
「あの時の様な不意打ちで、万が一生徒を殺害された、とでもなってしまえば、それは悪夢以外の何者でもないからな」
アリアとの初戦で不意を突かれたのは彼なりにトラウマに近いものになっているのか。どこか自嘲気味にアルケイデスは笑う。
そういえば、自分たちはここに来た理由の一つに、アリアに関係するものを持っていたのであった――医務室前でのロザリアとの邂逅、そして今、臨戦態勢を取るアルケイデスの姿に気を取られていたが、これはこれでかなり重要な問題だ。
「アルケイデス先生。こんな状況で、これを問うのは問題かもしれませんが……アリアちゃんの様子がすこしおかしいのです。私たちが訪ねても、部屋の扉を開けてくれなくて」
「今はエリナが傍についてくれているはずですが……アルケイデス先生は俺たちよりも、ある程度魔族の体調変化に詳しいですから、何かヒントを頂けないか、と」
「ふむ」
アルケイデスは太い指を顎に沿えると、少し考え込む素振りを見せた。
人間と魔族は根本的には同じ生物だ。だが、やはり生育環境の差というのは表層的な面で強く影響するのか、両者にはいくつか外見的・体質的な違いが生ずる。
例えば、魔族には、水晶を思わせる様な角が生えている。どうやら魔力でできているらしく、一説によれば、これは魔族たちの『異郷』においては大気中に漂っている魔力が、こちらの世界では存在しないがゆえに、彼らの生命維持のために『門』を通るときに結晶化するものだという。シュウは「人間が『異郷』に赴いた場合は法力が結晶化するのだろうか」と密かに心を躍らせているのだが、それをイスラーフィールに以前話したところ「お前変なところで男のロマンを追い求めるよな」とあきれられてしまった。
例えば、魔族は法術によって、人間は魔術によって、本来より大きなダメージを受けることが多い。特に魔族を始めとした悪性存在に法術は圧倒的な特効性を誇り、人間は魔術を浴びただけでは消滅したりしない――勿論純粋な破壊力によって死に至ることは多々ある――が、魔族は運が悪ければ消滅してしまう。『教会』はこれを、曰く「善性存在が悪性存在より優れた存在であり、かつ悪性存在が滅ぼされるサダメにあるが故の現象」としている。実際の所は不明だが、魔術と法術の立ち位置が微妙に異なり、魔術は悪性存在達にとっては生命活動に近いが、法術は善性存在にとって『特殊技能』だからではないか、とシュウは考察していた。
「聡い子だからな。もしかしたら、今回の事件について、何か感じ取っているのかもしれない」
そして例えば。
「被害者の負った傷は、私とその部下が彼女から受けた魔術――それによってついたものと、良く似ていた」
悪性存在は、他の悪性存在やその行動を、本能的に察知する力があるという。これは善性存在、特に人間にはない機能だ。第六感や気配察知というものはあるが、それは誰でも持っている『当たり前の機能』というよりは、訓練や素質によるところが多い。悪性存在のいわば「同族探知」とでもいうべき力は、魔族から屍鬼に至るまで、あらゆる存在が使えるというのだから驚きだ。
「これは私見にすぎないが──」
アルケイデスが、ゆっくりと立ち上がる。ぎぃ、と、パイプ椅子が床を擦る音。どこか不安を掻き立てるその音に、シュウが眉を潜めていると、アルケイデスは奥のカーテンに手をかけた。
「お前達は恐らく、この事件の最も重大な所に関わっている。故に、見ておくべきだと判断した。それに態々私を訪ねてきた理由は、アリアの様子についての相談だけでは無いだろうからな」
そしてアルケイデスは、カーテンを開く。金具の立てる軽やかな音が、今は命の軽さを表している様。
カーテンの奥のベッドに寝かせられていたのは、マイヤやルーズヴェルトと同じ年ごろの少女だった。淡く茶色かかった黒髪を始めとして、全体的にふんわりとした印象を抱く。法術師として戦線に立っているより、農業や酪農に従事する、普通の村娘の様に見える娘だ。
そんな彼女の肌は、疎らな形で、褐色と言って良いほどに焼け付いていた。その下に除く白い肌が、彼女本来の色だろう。であれば、表層のそれこそが、彼女が受けたという傷。
リズベット・マッケンジーという名前らしい彼女は、まるで焼け焦げた彫像のようにさえ見えた。
「これは……酷いな……」
「……マッケンジーさん……」
息を呑むシュウの隣で、マイヤもまた声を震わせる。クラスメイト――それも中等部の時からの知り合いともなれば、ショックも大きいだろう。
先ほど会話を交わしたロザリアは、リズベットのルームメイトだという。だとすれば、彼女の受けた衝撃は、今シュウが受けているそれをはるかに超えた、想像を絶するものであったに違いない。
にも拘わらず、彼女はあれだけ明るく振る舞って見せた。同じことが自分の大切な人に――マイヤやアリア、エリナに起こったら、その時自分は果たして気を強く持っていられるのだろうか? それを思うと、マイヤもそうだが、身の回りの女性たちの精神の強さに感嘆の念を抱かずには居られない。自分に自信が無いからと言って、物事に取り組むのを躊躇う癖を、早急に取り払う必要がある――シュウは一人、そんなことを思う。
頭上からアルケイデスが解説する。
「『魔力焼け』、という奴だ。膨大な魔力をもつ魔族に顕れる現象で、本来は目の色などが変色する、といった形で現れる。が、それが外部からの放射で受けた傷ならばこうなる。軽い火傷と、それから自然に解毒される毒に近い状態だ。魔力自体はそのうち抜ける。そのため、外傷としては残りにくいが……本来は自分の生命維持にとっては毒になるものを一斉に浴びた状態だ。本当なら即死してもおかしくはないが――すぐに命に別状はない状態まで回復した。しかし暫くは、ショック症状で目を覚まさんだろうな」
日焼けや火傷をした人の皮膚が変色したり、爛れてしまうというのは良くある話だ。どちらかと言えば、今のリズベットの状態はそれに近いのだろう。そして内部もまた、本来人間にとっての遺物であるものを取り込んだ副作用で傷ついているに違いない。
「それほどの魔術を受けても、生き残れるとは……凄い人だな、彼女は」
「マッケンジーさんは、かなり優秀な展開型法術の使い手です。危機対応能力も高くて、魔物を相手にする戦闘でも高い成績を残しています。中型の魔物なら、一人で撃破することも可能だったはずです。普段は、おっちょこちょいと言いますか、本人曰く『運が無い』そうですが――それでも、簡単にこれほどのダメージを受けるような人ではありません」
感心するシュウに、マイヤが応える。事態を重く捉えているのだろう彼女は、深刻な表情でリズベットの体を見る。白いベッドに横たえられているせいか。シーツとの対比で、余計にリズベットが受けた魔力焼けの深刻さが良く分かった。しかしそれとは反比例であるかのように、それ以外の傷や異常は外見には見られないように思えた。
マイヤがアルケイデスに許可を取ると、リズベットの纏っている診察衣を開ける。彼女が簡単な診察を終えるまで後ろを向いたシュウとアルケイデスは、マイヤの「大丈夫ですよ」という声で立ち位置をもとに戻す。振り返ったその時、マイヤの目に映っていたのは、疑問と、それからある種の恐怖の様に思えた。
「戦闘の傷の様なものが見当たりませんね……背後、あるいは正面から、一撃で——ということでしょうか」
「私もそのように判断している。リズベット・マッケンジーは、不意打ち、あるいは本人が警戒心を抱いていない相手から、魔術による一撃で昏倒させられたのだろう、と」
「魔術による一撃……ということは、まさか魔族が? アリアすら近づくことが難しかった寮エリアに立ち入って、大怪我を負わせるような存在が、本当に……?」
「一般の人間ならそう考えるだろう。実際この問題にお前達が深くかかわっているといったのは、反魔族派の生徒達からアリアに対して疑いの目が向けられだしているからだ」
「なっ……」
アルケイデスのため息交じりの言葉に、シュウは揃って絶句する。
――予想はされていた反応だ。いくらアリアが学園に馴染み、育成学園自体が「良い魔族」の存在を認知し始めたとはいえ、いまだに魔族や悪性存在は総じて危険であり、滅ぼすべきである、という考えを持っている生徒や教師は当然いる。その意思を表立って出している者、隠している者という違いこそあれど、全校生徒の二割ほどは今もアリアに懐疑的な目を向けているはずだ。
あるいは。
普段はアリアに対して好意的でも、今回の事件で、「もしかしたら」という感情を持ってしまった生徒も、いるかもしれない。
「アリアちゃんは、そんな子ではありません! それに、彼女には進んで人を襲う理由が無い筈です」
「私もそう確信している。本来魔族というのは、本人の人間性――パルスという意味ではない――に関わらず、ある程度本能的な善性存在への憎悪によって自動的に魔術を発動させることがある。暴走、と言い換えても構わん。だが、アリアは、どうにもその兆候が一切見られんのだ」
マイヤの反論に対して、アルケイデスも渋い顔をする。かつて最前線に立って魔族と戦っていた『英雄』だからこそ、彼は今、アリアの危険性が皆無であることを確信しているのだ。
『門』からこちらに渡ってきた後、アリアには、央都に潜伏していた時期があったらしい。通常、人間と魔族の見分けは角を隠してしまえばできない。実際アリアは最初に『樹海』で出会った時点で黒いベールを被って角を隠していたし、イスラーフィールがその後彼女に与えた服も、黒のベールがついていた。
いまだマグナスと名乗っていた頃のアルケイデスは、その時にファザー・スピターマ……正確にはハレルヤザグナルの命令で、彼女を殺害するために街へ出た。もっとも、その時点で既に、彼女の”越境”から一週間ほどが経過していたようだったが――逆に言えば、その間全く来訪を感じ取らせなかったということだ。
その時のことをアルケイデスが以前話してくれたことがあるが、偶然、魔族を見分ける力に長けた教会の法術師が街中で彼女を見かけなければ、もしかしたら永遠にあの町に潜伏していたのかもしれない、とさえ言われた。
「少なくとも私は、人間の街に長期間、何の問題も起こさずに潜伏する魔族などという話を聞いたことがありません。作為的な昔話であっても、絶対に何かしらのきっかけで魔族であることが露見します」
マイヤの言葉に、シュウもいくつかの寓話を思い出す。魔族であることを隠して人間の国の王になるが、破壊衝動を抑えられずに家臣を殺し、魔族であることが露呈して倒される男の話。商人として成功を収めていたが、角がある事がバレて殺害された魔族の話。どれも教会、即ち人間側が正義であるように描かれているが、それを抜いた場合、どの物語にも共通するのは「魔族であることを気取られないように人間の中で暮らすのは極めて難しい」という事実だ。
「現実でも、悪事を働く魔族は必ず問題行動を引き起こす。それは本能による人間の襲撃であるとか、魔術の発動による魔力の漏洩など多岐に渡るが――アリアは、その全てを引き起こさなかった極めて特異な例なのだ。彼女と人間の違いが、その角以外には存在しないと言われても頷けるほどに……あるいは、彼女はそもそも、こちらの世界にいることのほうが正しい事であるかのように」
よって、と、アルケイデスは言葉を区切る。
「故にアリアが下手人である可能性は極めて低い。そもそもいくら感知能力が落ちたとはいえ、最近の私は学園長棟で寝起きしているからな……アリアが外出などすれば流石に気づく」
こちらを見据える彼の青い目は、まだ何か別の事を知っている、ということを薄っすらと予感させた。その直感は、すぐ後に正しいことが証明された。
アルケイデスの口が次に紡いだのは、シュウにとっては――そして同時に、マイヤにとっても、衝撃的なものだった。
「それにな……実は、魔力を用いた法術師の殺人、あるいは殺人未遂事件は、これが初めてではないのだ。勿論、この学園で起こったのは初めてだが――私は今朝、イスラーフィールからの定期連絡でそのことを知った。ハレルヤザグナル・キュリオスハート暗殺事件の後、数日にかけて央都、あるいは周辺の都市で、類似した事件が起こっている」
「な……!?」
「凶器、あるいは凶術は別のものだが……どれも一様に魔力を纏った攻撃によるものだったそうだ。キュリオスハート翁も、魔力を纏ったナイフによる暗殺だったと聞く」
魔力は、原則として悪性存在のみが持つ。それを武器に纏わせる、といったような行いも、同じく悪性存在でなければ難しい。シュウは以前、アリアと協力して魔術発動のための触媒として、魔物の体からナイフを作った。だがあれは魔力を含んだ武器、というか、魔力の結晶そのものの形を変えて作ったものだった。
アルケイデスによれば、キュリオスハートを殺したナイフは、そういったものではなく、この世界で一般的に手に入るナイフであったという。
「本当に魔族が下手人の可能性が否定できんのだ。そして、もしそれが現実であったのならば、相手の法術耐性は異常の領域だ。圧倒的に過ぎると言っても良い――教会の本部は、結界法術の達人であるとある特級法術師の手によって、異常なまでに強固な結界が貼られている。それを突破するだなどと言えば、最早一般の魔族などではあり得ん」
――ぞっ、と。
背筋が凍るのを感じた。同時に、足元と視界が一瞬で真っ暗になる錯覚。恐らくは俗に『絶望感』と言われるものがこれなのだ、と、シュウは直感的に悟る。
特級法術師。この世界で最強の法術師達。七人存在する彼らは、各自の得意分野においては文字通りの『最強』を誇る。『情報操作』という概念に関してイスラーフィールの右に出るものがいない様に、その特級法術師――確か二つ名は『神聖領域の拝火者』と言ったはずだ――を超える結界法術の担い手はこの世界に存在しない。
それを打ち破る、あるいは無効化するというのなら、学園の結界など造作もなく潜り抜けることができるだろう。
加えて法術も魔術も、そして呪術さえも例外ではない法則として、「相手が上位の存在であるほど効きにくくなる」という性質がある。
それは、即ち――
「アリアは素質だけならばほぼ最強の魔族に近い……そのアリアでも最初は、自分で発動させた法術や、寮エリアの結界法術でダメージを受けていた。学園の結界を超えるということは、格の面で現状の『最強』すら超える存在ということになる……」
「それに加えて、マッケンジーさんに気付かれずに攻撃を仕掛けることができる手練れともなれば――」
シュウの言葉を継いで、マイヤが呟くように声を漏らす。
そして次に彼女が絞り出した声は、普段のマイヤからは信じられないほど、掠れていた。
「もし、もしその魔族が私たちの前に現れたとき――私は、先輩を護れるのでしょうか……?」
「……っ!」
はっ、と、弾かれた様にマイヤの方を見る。
マイヤは、震えていた。医務室の窓から差し込む陽光に良く映える蒼い髪の下で、彼女の顔は、恐怖に歪んでいた。
俯くマイヤ。1トーン普段より低い震えた声で、彼女は自身の心に巣食う不安を吐露する。
「ずっと……ずっと不安なんです。いつか、いつか先輩を護れなくなるくらいの敵が現れたらどうしようって……被害に遭ったのがマッケンジーさんだと知った時から、ずっと……正直な話をすれば、中等部の時点で法術の出力を除けば、戦術的にも、実力的にも、マッケンジーさんやルーズヴェルトさんの方がずっと上手だったはずです。私は、法術の出力にものを言わせて戦うことしか、できなくて……」
マイヤの蒼い目に、透明な涙が貯まっていく。
泣き叫ぶのを必死で我慢しているかのようなその姿に、シュウは、己の勘違いを悟った。そして、その勘違いをしていた己を、深く、それはそれは深く、恥じた。
「先輩に助けられたあの日だって……! 結局いつだって、私は、最後は足手まといで……!」
マイヤの心は、強くなどない。
分かっていたはずだ。教えられたはずだ。マイヤはシュウに救われたと言った。シュウと出会わなければ、悪性存在と只々戦う毎日の中で、生きる意味を見出せなくなっていたかもしれないと彼女自身が口にしたように、本当はマイヤは、とても脆い子なのだ。
怯える心を必死で抑えて、シュウのために、シュウを護るために、愛するシュウを助けるためだけに、強くなった。立ち上がった。光の羽を、広げ続けた。そうして創り上げられたのが、今のマイヤなのだ。
反射的にシュウは、マイヤを抱きすくめていた。強く、強く、いっそ締め上げるようにマイヤを抱きしめる。そうでもしなければ、彼女がどこかに流れて行ってしまうようで。
肩に落ちる冷たい感触は、マイヤがついに泣き出してしまったことを示していた。
叫ぶ。そうではない、君は決して足手まといではないと、教えたくて。
「大丈夫……大丈夫だ! マイはこれまでずっと頑張ってくれた。今もずっと頑張ってくれている! 俺はそれに助けられているし、君が俺のためにそこまでしてくれる事が嬉しいし、それで十分だと思っている! マイは強い。俺なんかよりずっと。俺はずっと、それに助けられて――」
しかしシュウの声を遮る様に、マイヤもまた叫ぶ。その絶叫には半分、悲鳴が混じっているようにさえ思えた。
「でも……でも! 私、決めたんです……! 私、先輩を護るって……先輩が私を救ってくれたように、私が先輩を救うなら、その分だけ強くなろうって。でもそれが、これまで培ってきた力が、役に立つのか分からないんです……! 私は、アルケイデス先生――マグナス・ハーキュリーとの戦いでも、結局勝てませんでした。そのマグナスに一矢報いるほどの魔族であるアリアちゃんを超える存在に、私は、歯が立つのでしょうか? その時に、先輩を護れずに、負けてしまうのが怖い……っ!」
イスラーフィールが言っていた。
法術は信仰を糧に発動する。人間の多くは『天則』を信仰の糧として法術を発動させるが、シュウと出会ってからのマイヤは、『天則』を信じていたわけではない、と。
彼女が信じていたのは、シュウなのだ。マイヤ・フィルドゥシーは、シュウ・フェリドゥーンという存在に縋りつくことで、生きる意味を見出したのだ。
「私を救ってくれた貴方を、救えないのが怖いのです、先輩……!」
そのシュウを、喪うかもしれない。
救えないかもしれない。
マグナス・ハーキュリーとはくらべものにならない程凶悪な存在の前に、自分はシュウのために何もできないかもしれない――そんな恐怖が、彼女を蝕んでいるのだ。
今、マイヤに掛ける言葉は、何であるべきなのか。最愛の後輩のために、自分は、彼女の信じてくれる自分は、何を言えばいいのか。
一瞬だけ、シュウの中に迷いの様なものが生まれる。だがそれは直後、反射的に飛び出した言葉によって、塵も残さず霧散した。
「なら——俺も、一緒に戦おう」
「……!」
抱き締めたマイヤの体が、ぴくり、と動く。彼女の震えを抑えるように、シュウは腕に一層力を込めた。柔らかく、細い彼女の体を、折ってしまわないように細心の注意を払いながら。
肩に彼女の顎を乗せた今の体勢では、マイヤの表情を見ることはできない。でもそこに浮かぶ表情が、恐怖から安堵に変わってくれることを祈るなら、できる。
シュウはマイヤの背を、子供をあやすようにゆっくり撫でる。年頃の少女には失礼な対応かもしれないが、何となく、こうするのが正しい気がした。
「護るだけではなく、一緒に戦うなら。君だけでは俺を護れなくとも、俺自身が自分を護ることができる。そうすれば二倍だ。最も、俺は君に遠く及ばないので、その表現は変かもしれないが――」
語尾の歯切れが悪くなるのは、最早ご愛敬の部類になる気さえする。そんな自分を心の中で罵ると、マイヤがふるふると首を振った。目の前で、彼女のうなじで結んだ青い、長い髪が揺れる。
「そんな……そんなこと、無いです……先輩は、私なんかより、ずっと……」
「正直、マグナスと戦ったときのあれはずるのようなモノだからな……本当の俺は、魔物一体にさえ苦戦するような落ちこぼれだよ」
――君の様に、簡単に悪性存在を倒すような力はない。
――君の様に、命をかけた覚悟を決められる心もない。
それでも。
「それでも――護られるだけじゃないと、証明させてくれ。その、なんというか……」
今この場にイスラーフィールがいなくて良かった、と、シュウは心から安堵した。もしも学園長がここでシュウの言葉を聞いていたら、きっと大声で笑いだして、アルケイデスに向かってシュウをからかう言葉をいくつも紡ぐのだ。
でも、今彼女はいない。
だからちょっとだけ安心して――シュウは、マイヤに自分の覚悟とでも言うべきものを、告げる。
「……好きな女の子に護られっぱなしというのは、気が済まないというかだな」
しん、と、場が静まり返ったのを感じた。
どうやら言葉選びを間違えたらしい、というのは、即座に悟った。もう少し自分に合った言い方があったように思う。これは――これは――
端的に言って、シュウ・フェリドゥーンにはさっぱり似合わない!
「……ふっ……ふふっ……」
数秒の後、マイヤの肩が震え出す。今度は、先ほどまでの哀しみと悔しさとは逆の感情を込めて。シュウの肩口から頭を下ろし、口元を手で隠して笑うマイヤ。水面に煌く陽光の様に、彼女は可憐に笑い声をあげる。
気障なことを言ってしまった事への気恥しさと、マイヤが笑ってくれたことの歓びと、色々な感情がないまぜになって、シュウは耳を赤くしてそっぽを向いた。
「わ、笑わないでくれ、マイ! 似合わないのは分かってるんだ!」
「ふふっ……ごめんなさい……でも、ふふふっ……」
とうとうマイヤはお腹を押さえて笑い出してしまった。それほどまでに似合わなかったか。というか正直これまでもっと恥ずかしい言葉も口にしてきたようなきがするのだが。もしかしてピンポイントで恐ろしく不適合だったのか? そういうことなのか? 等々と———
シュウは自分自身に対して苦笑すると、なんとも煮え切らない己を律して、告げたかった言葉の続きを紡いだ。
「その、だな……俺たちは、パートナーだ。これまでそうしてきた。だから、これからもそうしていけると、俺は嬉しい。君が俺に救われた、と言ってくれるなら、俺も君に救われていることを知って欲しい。だから、片方が片方を背負うのではなく、二人で——お互いを、救い合って良ければいいと、そう思う」
「……はい……はい、先輩……!」
今度は、マイヤの方から、抱き着いてくれる。
その温かさを、手放さないように。
同時に、自分の温かさを、彼女から失わせないように。
シュウは、心のどこかで、確かな覚悟を決めた。
そんな状況を見て。
「急に甘ったるい空間になってしまったな……若いとは良いものだ……」
蚊帳の外に置かれたアルケイデスが、やれやれ、と言わんばかりに首を振る。直後に彼がした咳払いで、シュウたちは二人の世界から現実へと引き戻された。弾かれた様に体を離す。改めてマイヤの顔を正面から見ると、人前でなんという事を口にしたのだろうか俺は、と恥ずかしくなってしまう。シュウはかつてないほど自分の耳元が赤くなっているのを実感した。
その様子に、マグナスは苦笑いをした直後、その精悍な顔を引き締めた。
「水を差すようで悪いが、乗りかかった船だと思って、一つ依頼を受けて欲しい」
マイヤと一つ頷きあった後、二人はアルケイデスに対してももう一つ頷き返す。
「俺たちにできる事であれば、なんでも」
「助かる。その内容とは他でもない――この事件に関する調査だ」
がしゃり、と、アルケイデスの装備した白い鎧が鳴る。張り詰める空気。続いた言葉は予想していた内容だった。
「少年とフィルドゥシーは、明日の朝より、ルーズヴェルトと協力して此度の事件に関しての調査を行って欲しいのだ。彼女の法術は、イスラーフィールほどではないが『向いている』からな……」
「ああ、そういえば……そんな使い方があると聞いたような覚えがあります」
合点がいったと言わんがばかりにめをぱちくりとさせるマイヤの姿が愛おしい。彼女はシュウの視線に気づいたのか、にこりと一つ微笑んだ。
「見れば、先輩ならすぐにお分かりになると思いますよ。彼女の法術は、興味深いものですので」
「そうか? では――正しい表現かは分からないが――楽しみにしておこう」
実際、興味があるのも確かだ。法術の内容は千差万別――見ているだけで楽しくなってくる業もある。話を聞くに、ロザリアの法術は、本来の役割とは大きく異なる力を持つらしい。シュウの中の、若干マニアックな情報が好きな自分が疼く。
「では、頼んだ。本当なら私が自ら調査に出向ければ良いのだが――先ほども言ったが、再襲撃の事を考えるとな」
「大丈夫です。おかしな輩が寄ってこないようにするためにも、先生以外に務まらない役割だと思っていますので」
「俺たちに任せてください。きっと……手がかりを見つけてみせます」
そしてそれはきっと、不可能なことでは無い筈だ。
シュウはマイヤと目を合わせる。彼女の伸ばした手に、反射的に自分の手を繋いでいた。
きっと、二人なら、何だってできる――そう、思わせるに足りるだけの温かさが、そこにはあった。
***
「頼もしくなったな、少年」
かつて『落ちこぼれの法術師』と呼ばれた少年――シュウ・フェリドゥーンの、恋人と確り手を取り合って医務室を出た姿が、まだ目の裏に残っている。最初に出会ったときは、どことなく頼りない印象を抱いていた。何かしら大きな運命を背負った男だ、というのは、アルケイデスの第六感的なモノが囁いてはいたが、それでもあの時は、自分の本名を告げたことは一種賭けのようなものだった。
しかし今。彼は、確かにアルケイデスがあの時、己の未来を、かつての夢を託すに足りると直感した印象に相応しい、立派な青年へと成長しようとしていた。きっと彼だけではどうにもならなかっただろう。様々な出会いが、愛する人との共鳴が、それを引き起こしているのだ。
誰かと誰かを繋ぐ境界――彼に力を与えているのは、きっとそれ。
「善と悪の狭間に立つ者、か……」
アルケイデスはかつて教会で耳にしたその名を呟く。同時に思考の渦の中に姿を見せるのは、此度の事件に関係があるかもしれない、いくつかの情報。
それらを整理しているうちに――一つの、仮説が彼の中で組みあがった。
「……もし、本当に『そう』であるならば——これは、想定外に厄介な事件なのかもしれん」
小さく言葉を漏らすと、アルケイデスは『武装型ウルスラグナ』の顕現たる巨剣、それを握っていない方の手――即ち左手を掲げた。
「我が正義に光をくべよ――ステュムパリデス・マージ。『鋼の鳥よ、彼方へ飛べ。光芒の矢の届かぬ地まで』」
彼の左手に、光の鋼絃が集う。それは針金細工の様に蠢くと、一話の小さな鳥を形作った。アルケイデスはその鳥――伝言や偵察に多大な威力を発揮するデバイスたる、己の法術のひとかけらに、彼方で未だ捜査を続ける相棒に向けた言葉を込める。
「イスラーフィール。もし余裕があれば、資料を送ってくれ。内容は――『キュリオスハート孤児院』について、だ」




