第九話『ルージュ・サイド』
「ううー、どうしよう……ローズも絶対怒ってるよね……」
黒曜の空にぽっかりと浮かんだ青白い月。それだけが唯一の灯りになるような、夜の更け。草木も眠る丑三つ時、などという言葉が極東大陸にはあるらしいが、まさにそんな風景だ。正直な話、こんな時間に外を出歩く人間の気が知れない。
リズベット・マッケンジーは、『そんな時間に外を出歩く人間』に自分が含まれることを取りあえず頭から追い出しつつ、胸元に吊るした器が照らす、小さな灯りを頼りに、夜の法術師育成学園を進んでいた。聖火の灯りは可能な限り、眼前を照らすようにする。夕暮れ時、或いは日が沈んでからすぐならば、まだ夜道を照らすランプの灯りがあったはずだ。けれども深夜を大きく回った今、それはない。
本来の門限を大幅に超過する時間だ。外泊届などは出していないため、守衛の法術師に手ひどく怒られてしまった。彼女のルームメイトであるロザリア・ルーズヴェルトも比較的怒ると怖いので、今宵は短い時間に二回も大声で怒鳴られるのかと思うと気が滅入る。
本当ならば、もう数時間近く早く帰ってくるはずだったのだ。リズベットは長期休暇の四日目となる今日、最寄りの街ではなく、少し遠い街へと遊びに出かけていた。その街に住んでいる他校の友人からの誘いがあったからだ。リズベットとその少女は、中等学校時代の友人だ。リズベットが法術師育成学園に進学してから、ここ最近は二人で遊ぶことも無かったため、久しぶりに会おう、という
一日楽しく旧交を温めた後、日も沈むか、という頃に彼女と別れ、馬車に乗って学園に帰る――そんなプランを立てていた。
しかし道中、馬車が魔物に襲われるというアクシデントが発生。敵が数匹の屍鬼だったことに加えて、幸いにもリズベットの他に、央都に向かう最中だった法術師が何人か搭乗していたため、協力してそれらを退治することができた。
が、襲われた際に馬車の車輪が故障してしまったらしく、応急処置に時間がかかったのだ。
明け方、あるいは昼間ならまだしも、日の沈んだ頃にその周辺を行き来する馬車は少ない。加えて、最寄りの商店都市と育成学園を結ぶ馬車は多いものの、リズベットの行っていた街と育成学園を結ぶ馬車は然程多くなかった。
そのことが、彼女の帰寮を大幅に遅らせた。
昔からそうなのだ。幼いころから、リズベットは運が悪い。とはいえ、致命的に、というワケではない。人の幸運レベルを五とするなら、リズべットは四だ。微妙に、変なアクシデントに巻き込まれやすいのだ。
例えば、運悪く教師に見つかって、蔵書の整理を手伝わされるとか。
例えば、一人だけ割り振られた掃除の区域がやたらと汚いとか。
例えば、一人だけ学校側の発注ミスで初日に教科書が無いとか。
そういう、大ごとではないのだが、でも気分が沈むような、そういうトラブルが良く起こる。
今回もそのうちだ。けれども、正直一番酷いかもしれない。
だって夜の校舎を一人で歩くのは、誰だって怖い。守衛の法術師が大柄な男性で、ついてきてもらうのが怖かった、というのもあるのだが、でもやっぱり来てもらえばよかったかなぁ、などと思いつつ器を掲げる。寮エリアの警備の法術師には女性もいるはずだ。運よく出会えたら付いてきてもらおう――そう決心しながら、リズベットは歩く速度を上げる。
青白い月光が照らす育成学園の道は、どこか幻想的で、しかしそれを上回る度合いで不気味だった。善性存在の守護者たちを育てる場所――そんな建前が、嘘であるかのように思えるほど。
「二度と夜の校庭は歩きたくないなぁ……」
そんなことを口に出していないと、不安で潰れてしまいそうだった。静まり返った夜の学園は、リズベットの足音と呼吸音以外には、何の音も無いのだから。
今はまだ春だが、もう少ししたらこんな夜には、様々な夏の虫たちが合唱をしていることだろう。リズベットの故郷は中央大陸の西側に位置する田舎町だ。実家で暮らしていたころは、夜になると延々と響くその声が煩わしかったものだが、今はそれが無い事が少し心細い。
育成学園の校舎は広い。青白い月明りと、淡い赤のプリズムだけを頼りに全体を見て回るには、長い時間がかかる。できる限り早く寮に帰ろう、きっとルームメイトも心配してるはず——そう思いながら、彼女は歩みを少しだけ速めた。
それが功を奏したのか。思ったよりも早く、彼女が普段過ごしている女子生徒寮の群れが見えてきた。リズベットはそのことに、安堵の息を吐く。
そのまま、若干の駆け足で寮エリアを進んでいくリズベット。やがて、彼女とルームメイトの部屋がある棟が目視できる距離まで来る。
と、その時。
彼女は、寮棟の一件の前に、人影があることに気付く。
ルームメイトのロザリア――ではない。けれど、見知った人物だった。
しかしその人物が、こんな時間に外に出歩いている、ということに、少しだけ困惑する。そもそも、『彼女』の普段澄んでいる場所はこのエリアではなく、もう少し別の場所にあったはずだから。
「こんばんは!」
声をかけぬわけには行くまいと、リズベットは不審がられないように、努めて明るく挨拶をする。一瞬びくり、と震えた『彼女』は、ゆっくりこちらを振り向くと、にこり、と控えめに笑った。
「……こんばんは」
小さな、鈴の音のような声が帰ってくる。綺麗な声だなぁ、と無意識的に感じた。『彼女』の美しい容貌と相まって、貴婦人の庭園に咲く花の様な印象を受ける。それに比べて自分は……などと一瞬悲観的な思考に囚われるが、実際自分が『彼女』やロザリアら所謂『美少女』というものとは程遠い存在だというのは日々強く実感しているので大したダメージはない。
「吃驚しました。こんな時間に、外に人がいるなんて」
「……少し、用事がありまして。貴女こそ、どうしてこんな時間に?」
「いやー、その……折角のお休みだから遠出してたんですけども、ちょっとトラブルがあって、帰ってくるのが遅れちゃって……」
たはは、と乾いた笑いを漏らす。対面の彼女も「まぁ」と驚いた声を上げる。そのわずかな動作すら洒脱でどこか神々しい。
眉根を寄せた愛らしい鎮痛の表情。
「それは大変でしたね」
「まぁ……あたし、昔から運が悪いと言いますか、変な所で変なトラブルに巻き込まれるんですよねー。だからもう慣れたような気もします」
「……そうですか」
苦笑いと共に返したリズベットの言葉に、『彼女』はどこか安心した表情を取る。そんなに心配しなくてもいいのに、と思うと同時に、優しい子なんだなぁ、とも思う。
そんなことを思っていたら、体から緊張が抜けてしまった。
「でもなんとか帰ってこれて良かったです。ふわぁぁ~……安心したら眠くなっちゃいました……」
「お疲れ様です」
「ありがとうございまふ……あなたも、遅くならないうちに戻った方がいいですよー……あたしが言えたことじゃ明らかに無いですけど……」
「ふふっ……そうですね」
少女は淡く、頬を甘い桃色に染めながら破顔する。
あ、この人、こんな顔するんだ。ちょっと可愛いかも――などと思ってしまう。同性・異性を問わずに魅了する、花弁の様な笑顔。なんだか普段は生徒たちに馴染めていないような印象があるが、これを見せたら一気に友達は増えるのではないだろうか。そんな事を思いながら、リズベットは彼女の向こうに姿を見せる、自身の部屋がある寮に向かって歩き出す。
「じゃぁお休みなさーい」
「はい」
すれ違いざま、彼女と就寝の挨拶を交わす。
「――お休みなさい。ちょっとしたトラブル、ええ、貴女のいつも通りの不運だと思ってください」
「――え?」
リズベットが最後に見たのは、月の光を反射して、白く煌く銀色と、吹きすさぶ紅蓮の光。
それから、『彼女』の真っ赤な両目だった。
***
長期休暇もあと半分となった、五の月の半ばの事。
シュウはマイヤと向かい合って、ゆっくりと朝食をとっていた。視線の先で動くマイヤの細い左手薬指に光る小さな銀色が、そう遠くない未来の同じような光景を想起させるようで、ほんの少し心拍数が上がる。
西方大陸風の朝食だ。こんがりとトーストした食パンに、マーガリンと柑橘系のジャムを乗せ、色とりどりの野菜とベーコンを主菜に、きのことオニオンのスープと一緒に頂く――故郷ではあまりなじみのない食事だが、意外にも肌に合う。マイヤが料理上手なお蔭だろう。改めてこの少女が自分の恋人であることに、一抹の驚きを感じる。良くそのような幸運を得ることができたものだ、と素直に自分に感心してしまった。
そんな平和な気分に浸りながら、丁度パンの最後のひとかけらを飲み込み終えたころ――ふと、外で生徒たちの大声が聴こえているのに気づく。
「……? 表が騒がしいな」
「何かあったのでしょうか?」
確かに普段から、ハイテンションに活動する生徒というのはいなくもない。だが今日は、それとは方向性が別の……もっと、こう、逼迫したなにかの様な―――
と、その時。来客を知らせるチャイムが鳴る。それも一回ではなく、何回も。それはそれは頻繁に。同時に、がんがんとドアを叩く音。玄関の外から聞こえるのは、エリナの声だった。
「お兄様! 青髪! 無事ですか!? 開けてくださいまし!」
あまりにも緊張に満ちた声に、ただ事ではない何かを感じる。シュウはマイヤと共に急いで玄関に出ると鍵を開けた。瞬間、ばぁん、という酷い音を立てながら、凄まじい勢いでドアが開く。そのまま転がり込むように突入してきたエリナは、勢いよくシュウに抱き着いた。「むっ……」という声と共に、マイヤの表情が暗くなる。だから過度なスキンシップはやめてくれとこの間言ったのだが……などと、シュウの背筋が冷たくなる。
「吃驚した……どうしたんだエリナ、血相を変えて」
シュウはエリナを引きはがす……ことは余りにも強固に抱き着いて来るエリナのせいで叶わないが、多少は密着感を下げるだろうと彼女を押しのけた。
顔を上げたエリナは、安堵の涙を流していた。思わずびくりとしてしまう。見たことの無い表情だ。
「あぁよかった……私、お兄様まで被害に遭われていたらと思うともう心配で心配で……事件の事を聞くなり飛んできてしまいましたわ」
「待ってください。事件? 被害? 何があったのですか?」
エリナの台詞に混じる尋常ならざる単語に、マイヤが耳ざとく反応する。
そうとも、それは、戦いがすぐそばにあってなお、日常とはあまりにもかけ離れた言葉たち。
「殺人事件です。いえ、被害者の方は一命を取り留めたので、殺人未遂と言うのかもしれませんが」
涙を拭きながらシュウから離れたエリナの告げた『事件』は、シュウとマイヤを絶句させるのには、十分すぎるほどに十分であった。
「なっ……」
「殺人未遂……? どういう事だ?」
「そのままの意味ですわ。今朝、生徒の一人が寮の敷地内で、重傷を負った姿で倒れているのが見つかりました。傷跡や現場の状況から、魔物ではなく人間か魔族に襲われたのだろう、と。私の借りている部屋とは別方向の棟の敷地内だったのですが、この家からは少しばかり近いですわ。ですから、お兄様のことが心配で……犯人がこちらまでやってきている、という可能性はゼロではありませんから」
学園の敷地内に於いて、寮棟エリアというのは最も警備の厚いエリアと言っても過言ではない。敷地が広大であるため警備の法術師が常に動けるわけではないが、数多の結界法術によって、万が一の魔物の侵入を許さない体制が整っている。アリアでさえ、最近では耐性でも持ったのかあまり気にする様子はないが、以前は立ち入ることができなかったほどなのだ。魔族が侵入できないほどの強固な結界となると、魔物では入ることは難しいだろう。
となれば、必然的に人間あるいは、最強の法術師達を葬り去った魔術を持つアリア――彼女さえも超える、最上位の魔族の犯行ということになる。
どちらもぞっとする話だ。前者であるならば、人間同士の殺傷がこの学園内で起きたという尋常ならざる状態であることを示すし、後者ならば、かつてマグナス・ハーキュリーすらも(不意打ちに近いとはいえ)一度は倒してみせたアリアを超える力を持ち、かつ人間に明確な殺意を持った魔族がこの学園に来訪したという、恐るべき事態を意識させる。
特に後者は最悪だ。マグナスを超える存在——そんなものに対処できる人間は、恐らく今、この世界にはどこにもいない。シュウは無理やり、その想像を振り払った。
「しかし……近隣の話ではないのに、よくそんなに早く知ることができたな」
エリナをリビングに通しながら、シュウは彼女の情報収集能力の高さに、素直に感心してしまう。自分自身もそれほど学園内の出来事に疎い、とは思っていなかったが、今朝はその騒ぎに気付かずにのんびりマイヤと朝食を取っていたのだ。中央大陸は野菜が美味しい。極東大陸のそれとはまた少し違った瑞々しさと甘さを兼ね備え、半ば果物のような味わいさえ――いや、今はそんなことを思っている場合ではないな、と我に返る。
そんな兄(なのかもしれない男)からの問いに、エリナは自慢げな表情で、少し薄めの胸を張る。
「ふふふ……お兄様、私の情報網をなめないでくださいな。お兄様の起床時刻、スケジュール、一日の食事の内容から排泄回数、入浴時間に就寝時刻といった生活習慣から、どういったものが好きか、今日はなにが食べたいのかといった細かいことまで、やろうと思えば何でもわかりますわ!」
「そ、それは……」
なんだろう。凄いことだな、と感心すると同時に、どこか空恐ろしいものも感じる。「ただの犯罪では無いですか」と白い目になるマイヤの姿に、今回ばかりはシュウも若干同意しかける。まぁ特技というのは人それぞれだし、悪いことに使わないのであれば――そう思っていると。
「まぁ冗談なのですが」
「冗談なのか……」
「ええ。私情報特化系の法術師ではございませんので。ある程度は勘と愛の力でどうにかなりますが」
それはつまり情報特化系の法術師なら可能だということで。
脳裏にどこぞの黒髪と黒いスーツに抜群のスタイルを包んだ学園長が、悪い顔で高笑いをしている様子がデフォルメされて写し出されたが、頭を振ってそのイメージを霧散させる。
そういえば以前、アルケイデスが「最近、気配はないのに誰かの視線を感じる事がある。逆探知や術式解除をかけても反応しないので気のせいかとも思っているのだが……駄目だな、弱体化してからどうにもこういう事が下手になった」と悩みを吐露していたが、まさかそういうわけではあるまいな、と冷や汗が流れる。再び空想上の二頭身学園長が笑い出した。
というより、勘と愛の力で似たようなことができるというのは中々すごい。女の勘、という奴なのだろうか。最も、「愛の力」という部分は何となく理解できなくもない。最近、マイヤの考えていることが、彼女の口から直接聞かなくてもぼんやりと分かるようになってきたのだ。実際の彼女の感情との乖離が怖いので、重要なことは逐一確認を取る様にしているが。
「……正直な話をいたしますと、私が起きたときには既に他の生徒達が大騒ぎしていたのです。私はまだここに来てから日が浅いので詳しくは無いですが、殆どあり得ない事態なのでしょう? 実際、央都の学園でも、構内で殺人未遂が起こったことはありませんでしたわ」
「私も初めて聞きました……一応これでも、中等部から籍を置いている身ではありますが、今に至るまでの五年間で一度もそんな事態に遭遇したことはありません」
「ふむ……」
シュウはこの学園に来てからまだ一年と少ししか時間を経ていないため、過去のことはあまり詳しくない。けれども、最低でも十二歳の時から育成学園に通っているマイヤが見たことの無い光景だというのであれば、それはきっと異常なことだ。
もしかしたら、生徒だけでは手に負えない――そんな状況である可能性さえある。
「俺達だけでは、どんな対策を取っていいかは分からないな……アルケイデス先生の意見を仰ごう。確か今は学園長棟に代理で寝泊まりなさっているんだったか」
「イスラーフィール学園長の名代として、あれほど適任な方も早々いらっしゃいませんからね……」
マイヤが苦笑する。それには強く同意できた。マグナス・ハーキュリーとして活動していた時期ならともかく、今のアルケイデスは十二分に信頼に値する。イスラーフィールによれば教師陣からの信用も篤い上、何よりイスラーフィールは認めたがらないが、彼女自身との関係も良好だ。
そういうワケで彼女は央都に出向く直前、アルケイデスを代理の学園長に指名していた。一応副学園長にあたる教員がいないわけではないが、この決定に異議は出なかったという。それだけ、「かつての特級法術師」という肩書は人々の信を得るのに強力な後ろ盾になるのだろう。
いずれはマイヤもそう言った、否が応でも付き纏う名誉、といったものを得ることになるのだろうか。少しだけ不安がある。彼女がそれに押しつぶされないだろうか、という。
もしそうなってしまうのならば——その時は、できる限りで自分がそれを支えなければならない、と、強く思う。できるかどうかは分からないが、やるしかないのだ。きっと。
そんな事を思いながら、シュウは二人の少女に向き直る。
「アリアの様子も心配だ。支度が出来たら学園長棟に向かおう」
「分かりました。食器、洗ってきますね」
「手伝わなくて大丈夫か?」
「大丈夫です、すぐ終わらせます。先輩は先に準備を済ませてきてください」
「分かった。そうだ、エリナも一緒に来るか? 多分、アリアの相手を頼むことになると思うんだが……」
「是非。私、まだアリアさんとはあまりお話できていないので、一度ゆっくりお会いしたかったのですわ」
「そうか。きっと仲良くなれるよ。では、少し待っていてくれ」
白銀の魔族の乙女と、妹なのかもしれない金色の少女の戯れる姿を想像して、逼迫した状況だというのに心が少し暖かくなるシュウ。
窓の外を見れば、雨季はまだ遠いというのに、薄暗い雲がかかり始めていた。言い知れぬ不安感を抱きながら、シュウは外出の支度を整えるためにリビングを後にした。




