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やがて天則の救世主  作者: 八代明日華
第二章:禁忌十字に愛を
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第七話『スタック・メモリー』

「お兄様!」

「ん……ああ、エリナか。おはよう」


 澄んだ青い空がなんとなく遠い。春の朝の日差しの中、若草揺れる校庭を歩いていたシュウは、背後から声をかけられ振り向いた。マイヤの澄んだメゾソプラノよりも少し高く、アリアのどこか儚げな、されど元気なハイソプラノよりも低い声――鈴の音のような、というのだろうか。そんな声で、かつ自分を「お兄様」と呼ぶ人物は一人しかいない。

 白いシスターベールの下に隠れた金色の髪を揺らしながら、エリナ・フェリドゥーンを名乗る少女が駆けてくる。


「おはようございますっ! あら、珍しいですわね。お一人ですか?」

「ああ……この時間、マイは別の授業があるんだ。アリアも今日は一日、学園長棟の方に居るみたいだし……」

「そうですか。では、この時間は私がお兄様を独り占めできる、ということですねっ! うふふふふふふ、何をいたしましょうお兄様、私お兄様のご命令ならどんなことでも致しますわ。簡単な話し相手から実戦、料理に調べもの、果ては床の相手まで――あっ、そのっ、だ、男性とそういう目的で閨を共にした経験はございませんので、その時はやさしくして頂ければと……」

「は、ははは……」


 満面の笑みで怪しいことを口にするエリナに、思わず乾いた笑みが漏れた。恐らくこの時間が空きコマである事に冷や汗をかくことは、これまでも無かったしこれからも無いような気がする。


「エリナはどうしたんだ? マイと同じクラスだったと思うが……」

「ああ、今日習う場所は、私既に央都で履修済みですの。進行スピードが違うと申しますか、どうやら範囲がずれているようでして」


 法術師育成学園は、旧時代文明の言葉を使うなら『単位制』という形式を取っている。加えて必修授業は実はあまり多くなく、シュウやアリアが比較的普段暇にしているのはそういう理由もあった。勤勉なマイヤはぎっちりと授業をスケジュールに詰め込んでいるが、シュウに関してはそもそもとれる授業が少ないこともあって、必要最低限のものしか取っていない。その多くも、イスラーフィールの意向で特殊な採点措置を取ってもらっている実習であったり、座学であったりする。比較的暗記は得意な方だという自負があるので、単語を要求されるタイプの科目ではそれなりの成績を出すことができていた。


 育成学園ではそんなスタイルを取っているが、他の学校もまた同じような状態であるとは限らない、という話は、以前マイヤに聞いた覚えがある。最も、彼女の知人が通っていたという南方都市の学園も、似たようなカリキュラムであったらしい。授業の進行速度や範囲も、そう大きくは変わらなかったそうだ。

 そのため、習った部分ががらっと違う相手がいる、という状況は、シュウにとっては非常に新鮮だった。


「俺はここ以外の学校を知らないけど、そういうものなのか」

「そのようです。ここでは既に誰もが知っていることを私達は習っていなかったり、逆に私達がとっくの昔に終えたことを今行っていたりします」

「大変だな」

「どうでしょう? これはこれで、案外楽しんでいたりするのですよ、私も」


 ふふっ、とエリナは微笑する。次の瞬間には、眼にもとまらぬ速さでシュウに顔が触れそうな距離まで近づくと、きゅっ、と右腕を絡ませてきた。


「お、おい」

「こうして、お兄様とのひと時を味わうこともできますから!」


 エリナの満面の笑みは、どこか幼さを感じさせるほどに純真なものだった。その無垢な表情に、シュウの心臓が反射的に強く脈打つ。これでも生物学上は男というものであるせいか。本能というモノが意思に関係なく働いてしまう。

 シュウの腕に組みつくエリナが、果たして意図しているのかそうでは無いのか。彼女の性格的には前者のような気がしてならないが、服越しにもその柔らかい感触が分かる。失礼な物言いではあるが、肉感的、とは言えない体形をしているようだ——が、そこに女性特有の包み込むような温かさがないわけでは決してない。寧ろ、マイヤのそれとはまた別の方面から、まるでシュウの意識を刈り取りに来ている様にさえ思える。


「や、やめてくれ」

「いやです。どうしてやめる事が出来ましょう? 折角のお兄様との二人っきりの時間ですから。お兄様を味わいつくさない手はございませんわ」


 彼女を振り切ろうと腕を動かす。しかしエリナはしっかりと組みつき、離れない。初対面の際に自分をマイヤと取り合っていた時も思ったが、彼女は相当力が強いらしい。あの樹海での戦闘で一瞬だけ垣間見たエリナの得物は、非常に巨大な十字槌だった。法術の肉体強化があってのものなのだろうが、それでもあれを自由自在に振り回すには相当体の使い方を研究しなければなるまい。彼女自身が怪力というわけではなくとも、本来持っている以上の力を出す技術のようなものを、半ば癖の様な感覚で身に着けているのかもしれない。

 エリナが必要よりも密着感の強いスキンシップをするのも、何かそれと関係があるとも推測できる。が――


「だからと言って、そうむやみにくっつくものではない……と思う……!」


 それとこれとでは話が別だ。既に二人は構内でも余り人通りの多くない草原エリアを歩いているが、人の目が無いとは限らない。交際しているわけでもない女性と、必要以上のスキンシップは不要だと、シュウは何とかしてエリナを引きはがす理由を考える。

 しかし当のエリナは、そのシュウの発した言葉に目ざとく……この場合は耳ざとくか……反応する。意外に表情豊かな彼女は、じとっとした目でシュウの顔を見つめると、問うた。


「あの青髪には許すのに?」

「マイと君では状況、というか、俺との関係性が違うだろう……! そもそも、たとえマイでも……」


 そこまで口にして。

 ふと、その場面を想像してしまう。


 右腕を絡ませ、微笑む恋人(マイヤ)。引きはがそうとしても、離れるまいとしがみついて来る彼女の姿。青い髪が揺れ、深い海を思わせる瞳が潤む。シュウが抵抗を止めれば、嬉しそうに、向日葵を思わせる様な笑顔を浮かべ——


「……許してしまうかもしれない」

「駄目ではないですか」


 一瞬にして真顔になったエリナが、昏い声を出した。その冗談を一切感じさせない音程に我に返る。どうやら自分は、思ったよりもマイヤに対して甘いらしい。

 それはそれで当然か、と、一人妙に納得してしまうシュウ。同時に、何故自分が、マイヤからされれば抵抗しないであろう過激なスキンシップを、エリナからされるとなると苦手意識を持つのか――その理由を自覚する。


「これでも、一応マイには誠実でいたいんだ。彼女が、どう思うかにもよるが……せめて、マイが俺にそういったことを許すまでは、控えてくれると嬉しい」

 

 一夫多妻制、及び一妻多夫制というのだろうか。中央大陸ではあまり見ないというが、別にないわけではない。人口の少ない極東大陸ともなれば尚更で、シュウの暮らしていた邑の長老も、もう全員亡くなった後ではあったが、若いころは三人の妻がいたという。シュウがマグナス・ハーキュリーとの戦いにおいて、ズルワーンから授かった槍――『スラエオータナ』の名前の下となった伝説上の英雄にも、二人妻がいたと聞く。

 であるが故に、この世界において、一人の男性が所謂『ハーレム』というのを持つのは、決して禁忌ではない。けれども、シュウは出来る限り、マイヤ一人とだけ添い遂げたいと思っていた。勿論、マイヤがシュウも多くの妻を持つべきだ、と主張するなら話は別になるが……エリナと自分を取り合っていたその様子を見る限り、今のところ彼女にその気は無いように思う。


 だから、いくら妹かもしれない少女からのものとは言え、過度すぎるスキンシップを取るのは止めたかった。

 

 結局のところは、シュウの我儘でしかないのだが。昔の自分ならこんな風に、自分の欲、とでも言うべきものを持つことはそうそうなかったな、と思うと、少しは人間性(パルス的、という意味ではなく)が出てきたのかを考えてしまう。

 思い返しても、自分の意見を相手に押し通したのは、アリアと初めて出会った日のマイヤとの会話程度だ。それこそあの頃から、自分の意思というものは強くなった気がする。周囲の人との距離が近づいたから、なのだろうか。


 そんなシュウの様子に、何かを感じたのか。エリナは未練がましい表情で、ふわり、とシュウの腕を離した。


「……分かりました。お兄様たっての頼みなら、聞き入れるのもやぶさかではありませんわ」

「ありがとう。エリナが優しい子で、俺は嬉しい」

「まぁ」


 シュウの言葉に、エリナが苦笑する。

 本心からの言葉だったのだが、エリナにはどう捉えられたのか。以前のマイヤが良くしたような、呆れの混じった表情をとる彼女の姿に、言葉選びを間違えたか、と焦ってしまった。

 しかしそんなシュウの心配とは裏腹に、エリナはすぐに優しい表情に戻ってくれた。最も、若干不満げというか――少し嫉妬の混じったものではあったが。誰に対して向けられたものであるかは、言うまでもないだろう。


「お兄様は、そういうことをすぐ平然と……昔から変わりませんわね」

「そうだろうか? どうにも、昔のことは分からないからな、俺には」


 思わず、自嘲気味な笑みがこぼれる。

 シュウのそんな姿に、エリナは眉根を寄せると、問うた。


「本当に、お忘れになってしまったのですか?」

「ああ。記憶喪失、というよりは、最初から無い、といった方が自然になるくらいにはな」


 シュウには六歳前後の年齢の頃、極東大陸の山奥で目を覚ます以前の記憶が抜け落ちている。

 一般的に言われる記憶喪失というものについて調べてみた時期もあるが、そこに記されているものと比べると、どうにもシュウの記憶は『無くしている』というよりは『そもそも無い』ように思えたのだ。記憶喪失ならば、何かのきっかけ――それこそ、「生き別れた妹との再会」で、フラッシュバックの様なものが起こっても可笑しくはない。しかしシュウには、そういった現象は一切起こる様子がないのだ。


 これはシュウ自身が、エリナの言う『お兄様』と自分自身が別人であるのではないか、という疑念を募らせる理由の一つでもあるのだが――


「でしたら!」


 そんな事は知らずに……あるいは、もう気が付いているのかもしれないが。

 エリナは、良いことを思いついた――そう言いたげに両の掌を合わせると、シュウの進行方向に割り込む。


 立ち止まったシュウの両手を取ると、エリナは嬉し気に叫んだ。


「私が、私と過ごしていた頃のお兄様について、お教えします!」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」


 先程の了解とは裏腹に、ずいずいと顔を近づけてくるエリナの剣幕に押され、シュウも数歩後退する。失礼、と一言呟いてから彼女の肩を掴んで引きはがす。


「そもそも、俺が本当に君の兄だという保証はどこにもない。だから、俺の過去として、君の言葉をそのまま信用するわけにはいかないんだ」


 精一杯の申し訳なさを込めて、シュウはエリナにやんわりと告げる。こう言ってしまえば、彼女が傷つくのは分かっている。できれば、真偽のほどは関係なく、彼女の言う『お兄様』が自分なのだ、というように接して上げたい。

 けれども、もしもそれが真実では無かった時。それは、エリナ自身だけでなく、本物の『お兄様』をも、より傷つけるような事態へと発展するだろう。


「……そうですか」


 エリナも、本当の所は、理解しているはずだ。けれども、自分の想いを受け取ってもらえない、というのは、彼女にとっても辛いのだろう。シュウだって、例えばマイヤに好意を受け取って貰えなくなったのならば、酷く悲しむ自信がある。そんなことに自信をもつべきなのかどうかは知らないが。


「……すまない、何というか。俺に、少しだけでも、昔の記憶の断片が残っていれば、そこから君との関係も、辿れたかもしれないんだが……」


 けれども、それはどうしようも無い事だ。どれだけ記憶を取り戻したくても、現時点ではどうにもならないのだ。

 だから、せめて。


「……エリナ」

「はい?」

「聞かせてくれないか。君と……もしかしたら過去の俺なのかもしれない、君の『お兄様』との思い出を」


 きっと、自分にとっても、彼女にとっても。その言葉が、最適なのだろうと――そう思った。

 そもそも、興味が無いわけではないのだ。エリナの言う『お兄様』が、もしも本当に自分自身なら——その過去は、自分の過去だという事になるのだから。

 失われた記憶を取り戻したくないわけではないのだ、シュウも。


 そんな意図を込めて紡いだ言葉と、なんとかして緩めた頬が、エリナを慰めることができたのだろうか。


「……はい!」


 彼女はまた、無垢な笑顔を見せてくれた。


 二人は並んで、来た道を続けて歩き出す。本当はどこかに座って話そうか、と思ったのだが、育成学園の構内はやたらと広い。今周囲には草原や、取り壊した古い建造物の残骸が残るのみで、最寄りの校舎までたどり着くにも数分を要する。

 そのため、歩いている間に話をした方がいい、とシュウは告げる。それに頷くと、エリナは『お兄様』との思い出を語り始めてくれた。


「私達は、極東大陸の片端に生れ落ちました」


 この世界には、中央大陸を中心とし、九つの大陸が存在する。極東大陸――あるいは『北東大陸(ウォルジャルシュティ)』の名でよばれるその大陸は、他の大陸と比べれば比較的小型だ。北方大陸、あるいは東方大陸の付属物だとみて、大陸を八つしか存在しない、と定義する学者もいるという。大陸が九つある、というのは、教会の聖典に登場する伝承をトレースしたものであるため、現実とは異なる、という意見があったためだ。

 しかし現在の所、一つの大陸として世界からは認識されていた。砂漠や氷雪地帯、森林地帯といった、比較的厳しめの気候を有することで知られ、シュウが暮らしていた邑もそこに属する。


 住民は多くの場合、黒髪黒目に、すこし黄色がかった浅黒い肌を持つことが多いが――エリナは、どちらかというと北方大陸や西方大陸に見られる、金髪碧眼の容姿をしている。そしてそれは、シュウも同じだ。 


「両親は、街で小さな教会を営んでいましたの。いえ、今の『天則』を中心とする宗教ではなく、西方大陸の、旧時代文明のそれですわ。私達は、その教えを受けたので……『天則』に然程忠実かと言えば、そうでもないのかもしれません」


 エリナが西方大陸由来のシスターベールを被っているのは、きっとその影響なのだろう。額に小さな十字架の描かれたそれは、ファッションとして見るには少々本格的に過ぎたので、どういうことなのかと思っていたところであった。謎が一つ解けて、妙にすっきりした気分になるシュウ。


 そんなシュウの瞳の奥に、遠い記憶を覗き見る――エリナは、在りし日の『お兄様』について、話を続けた。


「とは言え、幼少期の私はお転婆で……両親の継いだその教えも、私にはあまり魅力的には映りませんでしたわ。けれどお兄様は違いました。お兄様は、両親を良く手伝い、善なる人にも、悪なる人にも手を差し伸べる――そんな方でした。『天則』に反しているからなのか、それとも、幼いからなのか。法術の使える方ではありませんでしたが……でも、弱い方ではなくて。小さな体でも、槍を扱うのが、上手な方でした」


 天測に拘らない善悪観念。

 法術の使えない気質。

 主武装を槍とする。

 

 戦いに強い、という点を除けば、比較的現在のシュウとも重なる特徴だ。最も、シュウの場合はあ『スラエオータナ』が槍の姿をしていたから槍を使っただけであり、普段の戦闘はどちらかというと格闘術や呪術、暗器を中心としたものが多い。製造には失敗したが、魔術を発動させるための触媒として、魔物の角から作った短剣も、単純に角のサイズの問題であった以外にも、そうした武器の方が手になじんだため、あの形にしたという経緯がある。


 記憶の中の『お兄様』との思い出を語るエリナは、とても楽しそうで。シュウも、知らず知らずのうちに口角を上げていた。


 彼女の思い出話は、そこから五分以上も続いた。幼少期の悪戯の話。『お兄様』の以外にも大人げない仕返しの話。朝のお祈りの話。高い記憶力の話。根菜が好きだった話に関しては、エリナがシュウに昼食を作ってきた日に、彼女が妙に自分の好物を把握しているなと感じたことへの回答ともなった。


 優しい笑顔で、過去を回想していくエリナ。彼女の楽し気な回顧は、やがてお転婆だった彼女の我儘と、それに対する『お兄様』の対応に移る。


「とても優しい方でした。私がどんな我儘を言っても、お兄様は幼いながらにそれに応えてくださるのです。今思えば、凄く大人びていた方でした。だって、当時のお兄様は、まだ六歳か七歳だったはずです。私とお兄様は、一歳しか齢が離れていないのに——」


 と、その時。


「……あれ?」


 それまで、優し気な光を宿していたエリナの瞳が、曇る。


「……どうしたんだ?」


 立ち止まってしまった彼女を心配して、シュウは振り向く。

 見開かれた彼女の目は、迷うように虚空を見つめ、揺れる。


「……いえ。確かに一歳差ですわ。ごめんなさいお兄様。私ともあろうものが、お兄様との思い出を混濁するだなどと……」

「いや。ずっと昔の話なんだから、記憶が入り混じるのは仕方ないことだよ。そもそも、過去の記憶がない俺が君を責められたものではないし……」

「ですが……」


 動揺するエリナの声は、悲痛さに満ちていた。誰よりも大切な人との思い出、それも本人に関わる事柄を、誰よりも『お兄様』を想っていると自負する自分自身が忘れている、という事が、彼女に多大なショックを与えているのだ。

 虚ろな目で震える彼女からは、先ほどまでの幸せそうな彼女とは、あまりにも打って変わって見えて。

 シュウまでもが、悲しくなってしまう。


 何か、何か彼女を、勇気づける方法はないか――

 そう、あたりを見渡したところで。


 シュウは、目的地のすぐ傍まで、自分たちがたどり着いていたことに気付く。

 

「なら」


 シュウは、丁度見えてきた、かつてそこに存在した校舎の残骸に足を踏み入れた。他の校舎骸は大抵の場合、十年単位で放棄されたまま、草や蔦に覆われているが、ここだけはイスラーフィールの手によって定期的に整備されている。かつて後者の廊下を成していた石の床は、すこしだけ苔むしてはいるものの、敷物を敷けば、その上で昼食でも取れそうな区画になっている。

 不思議そうな顔のエリナを手招きする。


「俺がその『お兄様』なのかは分からないけど、取りあえずの代役として、新しい思い出を、一つ増やそう」


 そうして、シュウは後ろを振り向く。釣られて、エリナも。


 背後の光景に目を奪われたか。暗く沈んでいたエリナは、驚きに目を見開いた。


「まぁ……っ!」

「凄いだろう。イスラーフィール学園長……ああ、面識はあるか?」

「いえ……お名前は勿論存じておりますが、直接対面したことは」

「そうか。その学園長が、まぁ、なんというか、こういう外装に凝る人でな」


 そこに広がっていたのは、一面の花畑だった。白、桃色、菫色……色とりどりの小さな花が咲き乱れる花畑と、その奥に霞む山。あり得ない程リアリティのあるその光景に、初めて見たときシュウも度肝を抜かれた。今まで歩いてきた、何十年も前に使わなくなった旧校舎の跡地など、どこにも見えない。

 驚くべきことに、花の、豊かで甘い香りまでもが漂ってくるではないか。しかし反面、指で触れようと花弁に手を伸ばせば、それを支えている葉や茎ごと、花は指を透過してしまう。


 そう――これは、イスラーフィールが趣味の一環で創った幻影。この校舎跡から後ろを向いた時だけ、マジックミラーか何かの様に別の光景を見せる、不思議な『情報操作』だった。


「この景色は、ここからしか見えないんだ。一体どういう式を使っているのか……俺には見当もつかないが、この高台からだけ、この花畑の景色が見える」


 実はエリナが『お兄様』の話を始めるとき、最寄りの校舎へたどり着いてから話を切り出してもらうのではなく、歩きながら話を聞くことを提案したのは、彼女をここに案内するためでもあった。


 その考えは功を奏したのか。エリナは、眼を輝かせて、視界の一面を彩る、ピンクと白、それから菫色の花々と、それらを支える草、彩るように舞う花びらを見つめていた。どこか子供めいたその表情に、ここに彼女を連れてくることができて良かった、と、シュウは強く思う。


「知っている生徒は、多分少ないと思う。普段立ち寄る人そのものが少ないからな……俺とマイと、それからアリアは、それを良いことにたまにここで昼飯を食べたり、休日にピクニック気分に浸って見たりしているが……」


 そこで一度、言葉を切る。

 シュウはエリナを確りと、その両の目で捉えた。自分と良く似た薄金色の髪と、空を思わせるあおい目。


「エリナ。俺は、君が妹なのか、まだわからない。けど……それが分かるまでは、一人の友人として、それから、『お兄様』の代わりとして――君とも接していきたいと思う。それでも、構わないだろうか?」


 問いに対する答えは、期待した通りで。


「……はいっ、勿論ですわ、お兄様」


 彼女の浮かべた、無垢な——どこか太陽の様な笑顔に、シュウも釣られて微笑んでしまうのであった。

 一か月開いての久方ぶりの更新、お読みいただきありがとうございました。四月中に投稿できればよかったのですが、時間が取れずに結局五月という事に。

 今月は六日に、もう一話投稿予定です。何といってもメインヒロイン、マイヤちゃんの誕生日という設定すからね! ちょっとはこう、盛大にね!(尚


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