第十九話『かくて英雄譚の幕は』
天井が遠い。
どのような状況に陥れば、そんな感想を抱く人間が現れるのだろうか。
大抵の場合、建物の中というのは、非現実的な天上の高さにはなっていない。一フロアの天蓋の高さをひたすら突き詰めるよりも、その分複数の階層を作った方が効率的だからだ。
加えて、旧時代の建造物ならまだしも、文明レベルが著しく低下した今の世界に於いて、高層建築物を作成するのは大変な苦労を要する。
つまり、この世界――人間が支配する世界に於いて、天蓋が異常に高い建物というのは、早々存在しないのだ。
――それは、探せば見つけることができる、という意味でもある。
この建物を初めて訪れた者は、まず外観の異様なまでの荘厳さに圧倒されるであろう。贅の限りを尽くした白亜の巨塔。太陽光を反射して煌く、銀色の装飾。無数の聖堂が寄り集まって形成された、複合神殿、とでもいうべきモノ。
極めつけはその中心だ。ひと際高い塔の天井は空いていて、中を覗き込めば、太陽と見まがうほどに明るい、聖なる光――『聖火』を拝むことができる。
その聖火塔と同等か。あるいは、それよりもさらに高いか――そんな聖堂が、一つ、ある。
その中に入ったものは、ずらりと並んだ信徒用の長椅子に圧倒されると同時に、中央に据えられた、初代ファザー・スピターマの代より一度も途絶えたことの無いとされる、塔のそれとはまた別の聖火に圧倒され――
果てが見えぬほど高い、天井に、その目を見開くことになるのだ。
高く。
ただひたすらに、高く。
祈りの声が集約するように、特殊な構造を以て建築された、その聖堂は、『聖霊堂』。
それを有する建物は、ただ一つ。
この場所は――俗に、『教会』の総本山と呼ばれていた。
その聖霊堂に、二つの人影があった。
片方は老人だ。枯れ枝のような、皺くちゃな細い手で、極めて古い聖典を支えている。異常と言っていいほどに細い指が、一定の時間ごとに頁をめくる。背はまがり、髪は抜け、伸びるがままの白い髭を蓄えた、白い法衣の老法術師。小さなその姿は、まるで朽ち果て死んだ、樹木のよう。
されどその眼光は、いまだ死んではいない――
彼こそは特級法術師第七位、『言の葉の継承者』ハレルヤザグナル・キュリオスハート。
世界で唯一の、『精神干渉系法術』を操る法術師――諍いを司る、邪悪の先導者。
「……敗れましたな」
ハレルヤザグナルが口を開く。その内から出る声は、少しでも気を逸らせば、聞き逃してしまいそうなほどか細く――されど、確かに意思の籠ったものだった。どれだけ老いさらばえても、この人物は最強の法術師の一人なのだ、と、直感させる声。
「どうやら、私もまだまだの様です……マグナス・ハーキュリーの、『絶対悪』への恐怖を操り、かの者を悪性存在殲滅のための道具に仕立て上げる腹積もりでしたが――いやはや、まさかあのような結末になるとは……」
心底残念そうに唸るハレルヤザグナル。
その様子に、くつくつと笑い声を漏らすのが、もう一人の人物だ。
「そうだね……でも、いい収穫もあった」
白い。
ただただ、白い人物。
長い髪は白。細められた、怪しげな目も白。纏う、異様に豪勢な法衣も白。肌の色も、白。透き通った声は、聴く者の精神を真っ白に塗りつぶしていくかのような、異常なカリスマ性を含んでいた。
中性的なその外見。ただ一つ、口の中だけが、赤い。赤い舌を見せながら、その人物は笑った。
「ようやく見つけた、善と悪の狭間にある子――まさか、あんなところに居るとはね……くくくっ、イスラーフィールにはしてやられたよ……だってそうだろう? まさか、『法術の使えない人間』として仕立て上げることで、ボクの目を逃れさせようだなんて」
時間稼ぎのつもりかな、と、白い法術師はまた笑う。嗤う。哂う――
「世界の意思を託され、この世界そのものを裁定する『断罪者』――その役割を担うのは、法術も魔術も超越した、真の呪術師のみ。ボクにその力を利用させないつもりだったのか」
白い法術師は、どこか遠くを見るような目つきをする。にたり、と歪められた赤い口が、その存在を、極めていびつなものに見せた。
「ああ、だが――彼は覚醒するだろう。これから先、加速度的に善と悪の融和は進む。やがてその力が、完全に解き放たれる時が来る」
そして、白い法術師は。
全ての法術師を束ねる、教会の長は。
「楽しみだよ、シュウ・フェリドゥーン……当代の『天則の救世主』」
――三代目『ファザー・スピターマ』は、うっとりと、告げるのだった。
「君の力を利用するのはボクだ。全ては――我が天則の成就のために」
***
マグナスが目を覚ました時、すでに空は濃紺色に染まっていた。樹海の中――都市の灯りなど、感じるべくもない暗闇の中では、天に輝く星々を、くっきりと視認することができた。
満天、とまでは行かないが、少なくともマグナスが、普段見ることは無いような空。
赤い星。青い星。大きい星、小さい星――不規則に明滅する、天上の住人たちを、マグナスはひどく落ち着いた心で眺めた。
――いつ振りだろうか、これほどの星空を見上げるのは。
特級法術師になってから、ずっと大地ばかりを見てきた気がする。あるいは、真正面を。
振り返ることは無かった。立ち止まることも無かった。唯々、己の手で、無数の悪性存在を殺してきた。
後悔は無い。それはきっと、マグナスが自分で選んだ道。全人類の救済が、決して成し遂げられないという事実に絶望し、ならばより多くを救わんと、善性存在を選んだ自分。
その、叶わなかった夢を――あの少年は。シュウ・フェリドゥーンは、成し遂げようと言った。
本当に可能なのだろうか。分からない。あくまでも人間に過ぎないマグナスには、できなかったことだ。恐らくは、あの魔族の娘にもできまい。
されど――あの少年は。善と悪の狭間に立ち、その境界を超越した者ならば、或いは。
――考えても、仕方のない事か。
今のマグナスが、そのことに関してできることは、何もない。マグナスは敗れた。善性存在だけの世界を作るための覇道を、ただひたすらに突き進んだ鋼の英雄譚は、終わりを告げた。不思議と悔しさは無い。きっとこれが、正しい道なのだ――心のどこかで、そう思っていたからだろう。
故に、妙に清々しい気持ちで、あの星空を眺めることができるのだ。
そういえば、思い出した。最後に星空を眺めたのは、育成学園を卒業する時だ。人類の滅びを回避するため、全ての悪を駆逐すると、そう誓った日の事だ。
あの時――『彼女』は、マグナスを止めようとしてくれたのに。
結局、こんなとことまで来てしまった。
もしかしたら、シュウ・フェリドゥーンの様に、善も悪も生かす――そんな道を、見つけられたかもしれないのに。
「……ふっ……引き返せるはずもない、か……」
自嘲気味に笑う。
――と、そこで、人の気配が近づいていることに気づいた。
ざり、と、砂を踏む音。誰かが、自分の頭上に立っている。
顔を動かさずとも、マグナスにはその人物が誰なのか、分かっていた。
「……イスラーフィールか」
「ばーか」
開口一番、彼女は自分を罵った。どこか、泣きそうな声だった。
イスラーフィールがしゃがむ。自分の顔を覗き込んだ、黒い瞳が目に映る、
「今更気づいても遅いんですよ。もっと早く引き返せた、なんて」
「そうだな。だがあの頃の私には、これ以外の道はなかった」
マグナスは諦めたように、そう呟いた。そんな、鋼の英雄の褐色の頬を、イスラーフィールの細い指が撫でる。
「そんなはずないじゃないですか。だって私がそうなんですし?」
「お前は特別だよ、イスラーフィール。私には、無理な話だ」
ことり、と首を傾げて、にやりと笑ったイスラーフィール。その姿に、マグナスは苦笑する。されどイスラーフィールは笑い返した。正確には鼻で笑った。少し、あっけにとられる。
「それこそ馬鹿な話ですよ、先輩。だって貴方、無敵なんでしょ? これまでずっと、それを証明してきたんじゃないですか」
ああ、そういえば、そうだった。
イスラーフィールと出会ったのは、法術師育成学園の学生時代。マグナスが一学年上で、イスラーフィールが後輩だった。
法術の使えない落ちこぼれの生徒同士、パーティを組んで行動していた。
二人には、固い絆があった。丁度、当代における、シュウとマイヤがそうであるように。
難題は、いくつもあった。弱い二人では、乗り越えられない戦いもあった。その度にマグナスは、イスラーフィールを鼓舞してきたのだ。俺は無敵だ、だから何も心配はいらない、と。
されど――マグナスは、なれなかった。シュウの様に、不可能だと知っていても、目の前の希望に手を伸ばすような人間には、なれなかった。悪性存在を存続させれば、『絶対悪』の顕現によって人類は滅亡する――善悪両者ともの救済は不可能、という現実に、押しつぶされた。
イスラーフィールは、その道はあると信じて、世界の意思から『顕現型スラオシャ』を手に入れた。
マグナスは、信じていなかった天則を妄信することで、絶大な戦闘力を持つ『ウルスラグナ』を手に入れた。
何が無敵だ。
何がそれを証明してきた、だ。
最初から――マグナスの心は、世界に敗北していたというのに。
「――そうだというのなら」
内心を吐露したマグナスに、イスラーフィールの冷静な声が届く。
「どうして、フェリドゥーンに自分の名前を……法名ではなく、本名を教えたんです? 先輩」
「……ッ」
「あれは……貴方なりの反逆の狼煙だったはずです。一度は屈した夢を、あの少年に重ねて――貴方は、夢を託そうとしたのでしょう?」
イスラーフィールが告げたのは、マグナス自身も気が付かなかった、無意識下での行動なのだった。
アルケイデス・ミュケーナイは、マグナス・ハーキュリーの本名だ。中央大陸の南西部、海岸付近の街『アッヒヤワ』で生まれ育ち、育成学園で生活をしていたころの名。『大いなる英雄』という名前は、法術師として、教会の剣として戦っているうちに、ファザー・スピターマが……正確には、第七位の特級法術師である老人が授けた名前だった。
その名を告げなかったのは、魔族の匂いがしたあの少年を、警戒させるわけには行くまいという考えもあった。されどそれならば、別の偽名を名乗ることだってできたはずだ。マグナスは裏切者の暗殺任務も請け負う。それ故に、複数の名前を持っていた。
にもかかわらず、自分の原初の名を――本当の名前を教えたのは。
イスラーフィールの言う通り、きっと、どこか――あの少年に、期待していたのだろう。
「もう一度やり直せばいいんです。だって無敵の英雄は、一度負けたぐらいじゃ止まらないんでしょう? 諦めが悪いですものね、先輩は」
彼女は笑う。優しい笑顔だ。昔はよく見た。男性のような口調で喋るイスラーフィールが、この時だけは少女らしさを見せるので、当時のマグナスにとっては心臓に悪かったのを覚えている。
あの頃の自分はそうだった。不可能に見えることでも、成し遂げるために戦った。何度くじけても、立ち上がった。自分は無敵だ、という意思を、よすがにして。
それが折れたからこそ、きっと諦めてしまったのだ。目指すことができたかもしれない世界を。
今、その折れた柱を、立て直すべき時が来ている。
マグナスにしては珍しい、弱気な声が漏れ出た。
「……イスラーフィール。私に……俺に、できるだろうか。善と悪が共存する未来を、もう一度目指せるだろうか」
「できますよ。やった奴がいるんですから、きっと」
その弱音を、今や法術師育成学園の長にある、かつての相棒は、力強くかき消した。
その昔、マグナスが折れかけたときはいつも、そうしてくれたように。
不安はなくなっていた。歩いてきた道を外れることへの恐れは、無かった。
「……では、俺ももうしばし、立ち上がってみるか――あの少年の助けになれればいいのだが」
「心強い限りだ、と言っておきます。ああ、それと――」
数瞬の間をおいて、ガブリエラ・イスラーフィールは、ぷくり、と頬を膨らませて告げる。
「その気があるなら、また昔みたいに『リエ』って呼んでください。愛称で呼び合ってる後輩共の恋愛が成就してイライラしてるんですよ、こっちは」
こっちは貴方を、十年以上も待ってたのに、と。
その態度が、それこそ十年前――まだ二人が、育成学園の生徒だった時のものと、良く似ていて。
マグナスは――アルケイデス・ミュケーナイは。
久しぶりに、声を上げて笑ってしまった。
***
かくて英雄譚の幕は下りる。スラエオータナの一度きりの奇跡は終わりを告げ、鋼の英雄の狂気は潰えた。
かくて英雄譚の幕は上がる。やがて――天則に記された、救世主の物語が。
行きつく先は、全人類の救済か、或いは全人類の滅亡か。はたまた、誰も知らぬ新たな境地か――
世界さえもがその結末を知り得ない。
何故ならば、その扉は――開かれたばかりなのだから。
本日もお読みいただきありがとうございます。20時ごろ、最終話となるエピローグを更新する予定です。そちらも合わせてお読みいただけると幸いです。
二時間後にまたお会いできたら嬉しいです!




