第十六話『翼持つ者』
腕が痛い。足が痛い。頭から流れる血が、視界を塞ぐ。
戦闘開始から一時間――すでにマイヤは満身創痍であった。並の人間ならば、死んでいても可笑しくはない――それだけの攻撃を、何度も、回避し受け止め受け流す。極限の戦いを彼女が生き延びていることが、最早奇跡とさえ言えた。
「――『光輝女神の眼差し』!」
マイヤの号令に呼応して、彼女の背から広がる光の翼が輝き出す。それはやがて無数の光の剣を形成すると、一直線に突進し出した。狙うは木々の向こうに居るはずの、当代最強の法術師。
刃たちがどれほどの効果を齎したのか確認することも無く、マイヤは次の奥義を使う。
「『光輝女神の怒り』……!」
今度は一本の光の巨剣だ。どこまでも刀身の距離を伸ばし、対象を焼き尽くすまで止まらない。破壊の光――マイヤの法術と同じ性質を持つ聖霊、光輝女神アールマティの御業を模したその一撃は、これまで何体もの大型悪性存在を灰燼に帰してきた。
――しかし。
爆裂。周囲の木々が吹き飛ぶ。大地はめくれ上がり、落ち葉が舞い上がる。
「くっ……」
マイヤは前方の巨木が粉々に吹き飛ばされた際の爆風から、顔を護るようにして後退した。
砂塵の向こうから、ざりっ、ざりっ、と、確かな足音。徐々に色を濃くする人影は、身の丈180センチに迫る長身。
その右腕が振るわれる。握られた白銀の大剣が、砂埃を真っ二つに切り裂いた。
現れたるは、マグナス・ハーキュリー……全ての法術師の頂点に立つ、最強の特級法術師。
マグナスは冷徹な青い目でマイヤを睨むと、ふん、と鼻を鳴らした。
「この程度か……いや、学徒の身でこれほどとは、と、ここは褒めねばなるまいな」
その体には傷一つついていない。彼の肉体を覆う白い光――法術、『武装型ウルスラグナ』の力が、マイヤのあらゆる攻撃を弾き、消し去り、無効化してしまう。法術によって生み出した光の剣たちは、マグナスの肉体に近づくと、まるで紐の解けるように消滅してしまうのだ。
法術は、法術師に対しては効きにくい――一般常識として知られていることではあるが、法術師と戦うことなどありえないだろう、と、忘れかけていた事実だ。その常識の意味を、今身をもって痛感している。
あまりにも遠い。マイヤの力の大半を担う法術が一切効かない、という現実が、マグナスという男をはるか彼方の存在にしている。
しかも法術だけではない。
マグナスには、物理攻撃も殆ど効果がないのだ。
マイヤは『武装型アールマティ』の力の一端――武器に光を宿して、光輝の刃へと作り変える能力を最大限に発揮するために、常に何種類かの刀剣を持ち歩いている。今だって、数本のダガーに、二本のロングソードを備えていた。
その全ては、悉く弾かれ、砕かれ、欠片となって踏みにじられた。
マグナスの全身を覆うのは、純白のバリアだけではない。
その腕が握る大剣と同じ、武骨な白銀の鎧が、腕と胴、そして足の、それぞれ一部を覆っているのだ。
隙間を攻撃しようものなら、すぐさま形を変える変幻自在の鎧――
『武装型ウルスラグナ』の奥義の一つ、『刮目せよ、隔絶するは獅子竜の鱗』。
噂には聞いていたが、まさかこの目で見て、威力を体感することになるとは思わなかった。
その鎧は物理攻撃のほぼ一切を無効化する。
シュウを連れて逃亡する際に効果を発揮した『光輝女神の威光』も、あの鎧の前では意味をなさなかった。
絶対的な防御力。
これまで数多の悪性存在を虐殺してきた正義の悪魔。その力の一端。
――そう。一端でしかないのだ。
「――『ヒュドラズ・マージ』」
「――ッ!!!」
マグナスが一言呟くのを聞いた瞬間、マイヤは弾かれた様に飛翔を始めた。可能な限りの距離を取る。
あの場所にとどまっていてはいけない。否――実際には、こうやって逃げていることすら意味は無い。なぜならば。
「我が正義に光をくべよ――『人馬の魔道、苦悶に溺れよ九頭竜の牙』」
マグナスが、左腕を前に出しつつ、大剣を持った右腕を引き絞るように構える。大きく開いた両足で地面を踏みしめ、腰も捻らせて取った構えは、全力の刺突攻撃の予備動作。
マイヤとマグナス、彼我の距離は十メートルほどだ。刀身の長さを鑑みても、決して届きはしない距離だが――
「……っ……間に合わない……ッ!」
マイヤは、知っている。
すでに一度、あの技を受けた。
マグナスの奥義名発声に呼応して、白銀の刃に光が集う。まるで蛇の様にのたうつそれは、ある種防壁にぶつかり暴れまわる、激流か何かにも見えて――
「――打ち砕け!」
マグナスの上半身が動く。猛然と突き出された右腕。同時に、光の濁流が解放される。
――遠距離刺突攻撃、とでも呼称すればいいのか。
マイヤの光の剣と同じ様に、刀身が発する法術の輝きが、威力を以て延長線上の全てを破壊しているのだ。
恐ろしい勢いでマイヤに迫るその一撃。彼女とて黙って受けるわけには行かない。翼を全力で駆動させ、射線から逃れようとする。
しかし、できない。光線の直径は然程太くはない。けれども――動くのだ。自在に。光が。
マイヤの光の剣は、一度放たれれば一直線に加速するしかない。
マグナスの魔剣は、射撃された後に、うねる様に得物を追尾する。
それだけではない。
「噛み砕け!」
マグナスが叫ぶ。同時に、純白の激流は、幾筋にも分裂した。その数、九――西方大陸の民間伝承に登場する、毒の牙を持つ蛇竜の首と、同じ数。
そのすべてが追尾機能を持つ。マイヤは光と光の間を縫うようにその攻撃を避けるが、まるで生きているかのように光線は彼女を追って奔る。
右をすり抜ける光を避けて左に飛ぶ。その背後に迫る光を予測し上昇、追ってくる光線を回避するため鋭角に高度を下げる。それを待っていたと言わんがばかりに正面へと回り込んだ蛇竜の光を、ぎりぎりまで引き付けてからさらに速度を上げることで回避。
同時に鬱蒼と茂る樹海の木々も避けて飛ばなければならない。加えてマグナスから離れすぎることも、法術師育成学園に近づくことも許されない。
マイヤにかかる『縛り』は多い。当然だ。彼女は、マグナス・ハーキュリーの『足止め』をしているのだから。
疲労が積もっていくのが分かる。恐らく、そろそろあの攻撃を避けきれない。次に撃ち落されたら、立ち上がるまでに少し――いや、かなりの時間がかかるのが、自分でも容易に予想できた。
何せ自分の体のことを最も良く分かっているのは、多くの場合において自分自身だ。マグナスとの近距離戦、遠距離法術戦、そのどちらにおいても圧倒的な戦闘力で叩き伏せられてきたマイヤの体は既にズタボロだった。恐らく、足や腕、肋骨の骨には罅が入っているか、もしくは折れている。唾液に血の味が混ざっている気がするのは、きっと気のせいではあるまい。
背後の大樹が、轟音を立てる。振動。恐らく、崩れたのだ。マグナスの剣から放たれた、光の一撃を受けたことで。
それが何度も続く。マイヤの背後で、樹海の木々が滅びていく。マイヤも、直撃を受ければ同じ末路をたどるだろう。あの光には、腐食の力がある。巨木が崩れ落ちるのは、何もその幹に穴が開いたからというただそれだけの理由ではない。その穴を中心として、幹全体が腐り落ちているのだ。
それが人体に当たったら、どうなるのかなど最早分かり切っている。マイヤが数分前に同じ攻撃を受けたときは、攻撃されたのは翼だった。それ故に、すぐに光の翼を消すことで対処できたが、今度もそれが可能だとは限らない。
逃げることはできない。必ずいつか、その時は来る。
それでも進む。例え、どれだけの絶望が待っていても。その絶望を先延ばしにするだけでしかない、行動だとしても。
護るのだ。あの場所を。育成学園を。アリアが、シュウがいる、あの場所を。
――先輩。
心の中で、呟く。大好きな人の顔を、脳裏に浮かべる。それだけで、まだ飛べる。まだ速くなれる。
その飛行は、凡そ五分ばかり続いたか。
いつしか光線は一本だけになっていた。そしてそれは、急速に加速をすると――いや。マイヤが減速しているのだ。積もり積もった疲労が、彼女の動きを鈍くする。
腐食の光線は、マイヤの翼を貫いた。
「くっ……」
光の六翼が、みるみるうちに輝きを失っていく。マイヤは翼を消去すると、受け身を取って地面に転がった。
――直後、すぐ横に威圧感。反射的にその場を動けたのはもはや奇跡の領域だった。ドガァ、という鈍い音と共に、大地が割れた。白銀の衝撃波が、周囲の木々をさらになぎ倒す。
降ってきたのだ。上空から、マグナスが。彼に飛行系の奥義は無い。つまり――走行、および跳躍。それだけで、マイヤの全速力の飛行に追随してきたのである。シュウとアリアを逃がすことができたことが信じられないような現実。寧ろあれはこの男の思う通りだったのではないか、とさえ思える。
「ふん」
「ぁっ……うぁっ……!」
マグナスが右腕を振るう。構えられた白銀の剣が、マイヤを打つ。展開した光の盾が、攻撃の種別を斬撃から打撃へと変えることで、何とか致命傷を防いでくれたが――今ので、確実に肋骨の何本かは折れた。地面に激突したマイヤは、焼けるような痛みでそれを悟った。
「がふっ、ごほっ、ごほっ……」
咳き込む度に鮮血が吐き出される。体中が痛い。立ち上がる事すら、ままならない。
「終わりだな」
マグナスが白銀の剣を大上段に構える。高々と掲げられた刃に、夕焼け空の赤い光が写りこむ。その姿、まるで血に染まっているかの様。
死刑を執行する断頭台の刃が如く、その剣が振り下ろされた。
「……まだ、です……ッ!」
だがマイヤは、背中に再び光を展開すると、全速力で避ける。彼の剣は今、振り下ろされつつある。いかなる剛力とはいえ、すぐには体勢を変えることは出来まい。左側に避ければ――
――直後に、再びの衝撃。反射的に盾を出現させたのが、完全に正解だった。
マグナスは、いつの間にか――左手にも、右手のそれと全く同じ大剣を握っていた。
「な……」
「無駄だ。私の『ウルスラグナ』は十二の特殊技能と十の奥義を備える。お前ごときでは届かぬよ、愚かな娘」
オルトロス・マージ……マグナスが、直前にそう呟いたのを、マイヤは聞いていた。
マグナスの法術には、奥義の他にも特殊な形態が十二も存在するというのか。それ以前に、一つの法術が十も奥義を兼ね備える等と、聞いたことがない――!
マイヤですら奥義の数は三……眼差し、怒り、威光の三つだ。そしてスキルは翼や盾などの光の装備を展開する『女神に祈りを』と、物理的装備を光の装備へと変換する『女神の光を』の二つ。
あまりにも、強大。
あまりにも、絶大。
届かない――絶対に。
暗い絶望が、マイヤの心を苛んでいく。
――それでも。
「まだ……まだです……!」
彼女は折れない。
彼女は、斃れない。
「ほう」
マグナスが興味深そうに、二本の剣を構える。
「その精神力は、驚嘆に値するな」
直後、その姿が掻き消えた。
「――だが、私には及ばぬ。私の正義には、到底」
すぐ背後から声。首筋を狙った斬撃。圧倒的な殺意を持った一撃だった。
それでもマイヤは躱した。その攻撃を、致命傷とはしなかった。
――代償として、大切な、青い、長い髪は、肩口あたりでバッサリと切られてしまったが。
「……っ」
じわり、と涙が浮かぶのを、感じる。
――ああ、ごめんなさい、先輩。
――あなたのために伸ばした髪だったのに。
――せっかく褒めてくれた髪だったのに。
ミディアムカットになるのは半年ぶりだ。だからと言って、状況が好転するわけでも、何もない。
むしろ――心の支えを、一つ、喪っただけ。
「死ね」
「ぅぐっ……っ!」
マグナスの脚が、マイヤの腹を打つ。吹き飛んだ先で巨木に激突した彼女は、血を吐きながらせき込んだ。
「ここまでよく粘ったものだ。貴様は称賛に値する存在だ、裏切者の少女よ」
視界が霞む。マグナスの足音だけが聞こえる。意識が、朦朧とし始める。
「その意思に敬意を表し――私の、最大の奥義で処刑してやる。『アトラス・マージ』」
がちゃり、と、マグナスが剣を構える音がした。周囲の大気が、重くなる。空間が、歪む。
――重力だ。
重力が、歪んでいる。マグナスの白銀の大剣を中心として、重力が集っているのだ。
「我が正義に光をくべよ――『覇道鉄槌、鋼の神の英雄譚』」
ゴォォオオッ!!!!
空気が、悲鳴を上げる音がした。
周囲の空間を巻き込みながら、マグナスの最大の斬撃が放たれる。
マイヤは、揺れる視界の中でそれを捉えた。
体が動かない。全身が痛い。動け、動けとどれだけ命令しても、全く動いてくれないのだ。
マグナスと戦った時のシュウも、こんな風に思ったのだろうか。
「……先輩……シュウ、せんぱい……」
マイヤは、愛しい彼の名前を、呟いた。
結局、最後まで名前を呼ぶことは、できなかったな――と、今更ながらに後悔する。出会ったばかりの頃はフェリドゥーン先輩、と呼んでいたから。直接ファーストネームを呼ぶような機会は無かった。
それだけが、唯一の、心残り。
マイヤは、そっと、眼を閉じた。
最後の瞬間まで、彼の事を、考えていたかった。
―――数秒が経っても。
己の意識が途絶えていないことに、マイヤは驚く。
あの勢いだ。マグナスの剣技は、一瞬で自分の体まで到達し、それを肉片へと変えただろうに。
それでも、マイヤは生きている。
――どう、して……?
そこまで考えて、ふと、自分の体が、地面についていないことに気づいた。
抱き上げられている。誰かに。
ぬくもりを感じる。誰かの。
優しい感触。落ち着く匂い。
知っている。知っている。何もかも。何もかも知っている――
だってそれは。
この七か月と少しの間、ずっとずっと想い続けてきた人のものだから。
そして目を開けたマイヤは、その掠れる視界に。
見慣れない黒を背負った、見慣れた金色を、捉えた。
「あ、あ、ああ……」
一瞬で視界がクリアになる。
同時に、自分の口から、信じられないくらいか細い声が漏れるのが分かった。
そこに詰まっているのは、一言では表せない、無数の感情。
そんな。どうして。学園で防備を固めていて、と言ったのに。
悲しい。これでは、私の頑張りは、何だったのか。
嬉しい。これなら、全力を尽くしたかいがあった。
両方が、まぜこぜになった、感情。
それは、たった一つの言葉に集約して、マイヤの口から溢れ出た。
「……先輩……っ!」
「――待たせたな、マイ」
シュウ・フェリドゥーンが、そこに居た。
いつもの優しい笑顔を浮かべて。マイヤを抱きかかえて飛んでいた。今ここで気にするべきではないのかもしれないが、憧れた横抱き――俗にいう『お姫様抱っこ』の体勢になっていることに、マイヤの心臓は急激に鼓動を早くする。
シュウの背中には、初めて見る漆黒の翼。マイヤのそれと良く似た、三対六枚の光の翼――いや、この場合は、『闇の翼』、と表現するべきなのか。
――翼持つ者。
そんな言葉が、脳裏に浮かぶ。
「遅れて、すまなかった」
シュウは、くしゃり、と顔を歪めて、謝った。
「俺のせいで、こんなに傷ついて……本当にすまない」
シュウは、マイヤの、両断された髪の切り口を、何度も何度も、優しい手つきで撫でた。ボロボロになったマイヤを、優しく抱き締めてくれた。
涙が溢れてくる。今すぐ彼を抱きしめ返して、大声で泣きたかった。先輩、シュウ先輩、と、叫びたかった。
「……どうしてですか」
けれど、ああ。マイヤは素直になるのが苦手なのだ。これまで何回も、恥ずかしくて彼に厳しい言葉を投げつけてしまったように。
「どうして来たんですか……! 私、先輩に、生きて幸せになって、って言ったのに……!」
ここに来たら、死んでしまうかもしれないのに、と。
シュウはその叫びに、どうしてだろうな、と苦笑した。
「好きな女の子を助けるのが、俺の幸せだったから、だろうか?」
「……え」
続けて紡がれた言葉に、マイヤの思考は停止する。
──え……?
──好きな、女の子?
──誰が? 誰が、誰の?
──私が? 私が、先輩の?
急速に顔が熱くなる。シュウの顔を見ていられなくて、マイヤは俯いてしまった。
「馬鹿な……」
マイヤを抱きかかえて滞空するシュウの姿に、マグナス・ハーキュリーが呻き声を上げるのが聞こえた。
マイヤは弾かれた様に地上を見る。
そこには、銀剣を振り下ろした体制のまま、眼を見開いて戦慄くマグナスの姿があった。
「その翼……魔術だと!? まさか、あり得ん! 人間が、魔族の術を使うなどと――」
突如、マグナスは言葉を切る。
そして、納得がいった、と言わんがばかりに、剣を構え直しながら再度口火を切った。
「……そうか……少年、貴様が……貴様が、善と悪の間に立つ者か……」
「ギンヌンガガップとやらが何かは知りませんが――これは魔術ではないですよ。俺は魔術も、法術も使えない」
シュウの口から放たれたのは、強い意思のこもった声。
それは一方的に嬲られる、犠牲者の声ではない。
「俺は――呪術師ですから」
そう言い切ったシュウの姿は。
マイヤには、物語に出てくるような、救世主に見えた。
本日もお読みいただきありがとうございます。いよいよ本作もクライマックス、『結』編へと突入します。結編は本話と、明日投稿予定の17話、そして明後日投稿の18話の三話構成でお送りする予定です。
残り少ない時間ですが、今しばらくお付き合いいただけると幸いです。
また明日の更新で、お会いできればと思います。