第十話『マグナス』
シュウたちがアリアと出会ってから、早いもので一か月が経過した。
シュウとマイヤによるスプンタ語および法術のレクチャーは順調で、たどたどしくはあるものの、アリアは既に、スプンタ語をほぼ完ぺきな発音で喋ることが可能になりつつある。発音の正確さは、同時に法術のコントロールの上達も後押しする。初めて法術を発動させてしまった時の様に、自らを傷つけることは無くなった。
一方で――
「……今日も法術は発動できなかったな」
アリアの待つ学園長棟に向かうべく、学園の廊下を歩きながら、シュウは思わずそう独り言ちる。学園の廊下は、基本的に野外にある。彫刻の施された柱に支えられた雁木通りが、いくつも連なっている形式で、大抵の場合その中央には時計塔がある。
その一か所を通りながら彼が呟いた言葉は、進歩の少なさを意味していた。
そう――シュウは、あれから一か月たった今も、変わらず法術が使えないままなのだ。
「法力の存在は明白と言っていいだろうに……何故だ……?」
マイヤがアリアに法術を教えるところを、シュウは間近で見ていた。そのプロセスから、シュウは法力がこの世界に存在するのはほぼ間違いない、という結論を導き出していた。
法術を発動するためのプロセス。詠唱を組み上げ、術を起動させる。この流れは、シュウの得意とする呪術と全く同じものなのだ。そしてアリアが、「ちょっと、なれてる、かも」と発言したことから、恐らくは魔術ともほぼ同一。
となれば、この三者を分けるモノは何なのか、という事になる。
恐らくは――術を起動し、それを現世に顕現させるための『材質』が違うのだ。
法術は法力を。
魔術は魔力を。
そして、呪術は世界の意思そのものを。
呪術を発動するためには、触媒と呼ばれる存在が必要不可欠となる。これを体のどこかに触れさせた状態で、意思を以て詠唱を行うことで呪術は発動する。
例えば『正義の火種』なら聖火を。『光の木剣』なら木簡を。
この触媒に魔力を使えばそれは魔術に、法力を使えば法術になるのではないか、とシュウは考えていた。
しかし法力の存在は確認されていないのに、法術は起動する。シュウの仮説が正しいのであれば、法術師は無意識的に触媒として法力を用意できるのだ。
その源となっているもの。恐らくは、それこそが『天則』――
――やはり、天則に従わない限りは、法術を使う事は叶わないのか……?
シュウは少しだけ表情を歪める。
人間は絶対の正義。魔族は滅ぼすべき悪。そう断じるあの考えを、シュウはどうしても受け入れることができない。受け入れたが最後、きっと自分は、全く別の者になってしまうに違いない――そんな直感がある。
我儘なのだろう、とも思う。本当にマイヤのために戦いたいのであれば、己の意思や恐怖など捨てて、法術を使えるようになるべきなのだ。
だが――だが、シュウにはどうしても、その一歩を踏み出す覚悟は無かった。何より、天則に従わない己を、「正しい」と言ってくれた、イスラーフィールとマイヤ、そのどちらにも失礼な行いになる。そう考えたのだ。
ジレンマだな、と苦笑する。少しでも強くなれるように、今何ができるだろうか――
――そんな風に、考え事をしていたからか。
「……む」
「……っと! あ……す、すみません」
どん、と音を立てて、誰かにぶつかってしまった。反射的に誤ったシュウは、「いや、問題ない」という、深い声に顔を上げた。
そこに立っていたのは、褐色の偉丈夫だった。
シュウよりも頭一つ半ほど背の高い、大柄な男性。長い銀髪を一纏めにし、法衣ともコートともつかぬ、奇妙な改造法衣を纏っている。背には白銀の大剣をつるしていた。
褐色の肌は良く鍛え上げられており、見るからに金剛石のような頑丈さと、極めて高いしなやかさを兼ね備えた、強靭な肉体であることが分かる。あの剛剣を、この肉体が振り回すのか、と思うと、お世辞にも戦闘力が高いとは言えないシュウには、余計に恐ろしく感じられてしまう。
その青い瞳が、シュウを捉えた。
――強烈な圧迫感。
強い。純粋に、そう感じた。この男は強い。並の強さではない。マイヤと同等――いや、それ以上だ。正真正銘の化け物――
「そちらこそ、怪我はないか、少年」
「あ……い、いえ、大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
男性から声を掛けられたことで、シュウは現実に引き戻された。どっ、と、遅れて冷や汗が滝の様に背を流れる。
何者なんだ、この人物は。その疑問が尽きない。
名前を聞こう――そう思った瞬間、ふと見上げた時計塔が、アリアとの約束の時間が近いことを示していることに気づく。いけない、遅れてしまう。
「あの、本当にすみませんでした」
「ああ、気にしていない。こちらも少々慣れなくてな……全く、大きく様変わりしたものだよ、ここも」
その言葉が気になった。だが時間は無い。惜しいが、去らねばならないだろう。
知りたがりのシュウにとっては、少し辛い決断だった。
――が、救いの手を差し伸べたのは、意外にも男性の次に紡いだ言葉、そのものだった。
「そうだ、少し聞きたいことがあるのだが、良いだろうか」
「……はい、自分に答えられる様ならば」
「……学園長室は、今はどこにあるのかね?」
どうやら、行き先はほぼ同じ様である。
***
「助かった。少年も学園長棟に用があったとは」
「友人と待ち合わせをしていまして。アルケイデスさんは、学園長室にどのような用事で?」
「学園長との面会だ。旧知の間柄なのだが……少々聞きたいことがあってな。彼女なら知っているかもしれないと思い、訪ねてきたというわけだ」
芝生を刈って作られた、学園長棟までの道を、シュウは銀褐の青年と談笑しながら進んでいた。
男性は、アルケイデスと名乗った。アルケイデス・ミュケーナイ。珍しい名前だが、西方大陸や、中央大陸西南部では良く聞く発音だ。きっとその辺りの出身なのだろう、と思う。
初見の異様な威圧感とは裏腹に、アルケイデスはとっつきやすい性格の男性だった。二十代の終わりくらいか。イスラーフィールより数歳年上と見えた。話してみると、武人気質というか、どこか機械めいたものも感じるほどの側面と、面倒見の良い人間としても側面が同居している様に感じ取れる。
旧知の間柄だというので、学友か、或いは教会の関係者なのだろうか?
「私もこの学園の卒業生なのだが……様子がまるで違っていて驚いたよ」
「というと?」
「色々あるが……まず景色が違うな。門をくぐった瞬間、建物の構成が異なることに仰天した」
ははは、と苦笑いするアルケイデスに、シュウもつられて笑う。石造りの要塞ではなく、牧歌的な風景や、大理石の城の一部に見える、奇怪な建物が散見されることに驚いたのだろう。
「ああ……増築や改装も何度かあったようですし、何より学園長が勝手に情報を貼り付けてますからね……」
イスラーフィールにとって、育成学園のもともとの外見は気に入らないものだったらしい。「可愛らしくないな」などという良く分からない理由で、唐突に外装を書き換えてしまったりもする。生徒たちは時折、外見が全く違うものとなった建物に困惑することになるのだ。今年から入ってきた身であるシュウでさえ、何度か経験があるのだから、中等部から上がってきたマイヤは何度遭遇したのだろうか。
その話をすると、ふっ、とアルケイデスから表情が消えた。先程までの彼とは似つかぬ低い声で。
「……奴はそんなことに自らの法術を使っているのか」
そう、言った気がした。
「アルケイデスさん?」
「ん、ああ、すまない。驚いていただけだ」
しかし、すぐに元の、厳めしくも優し気な微笑に戻ると、何事も無かったかのように正面を向いた。
「それから、生徒たちの雰囲気も変わった」
「雰囲気、ですか」
「ああ。私が在籍していたころは、もう少し緊迫感があった。が、今は……良く言えば平和だ。悪く言えば、腑抜けている」
少し、忌々し気に。彼は、厳しい言葉を、今の法術師育成学園に投げかけた。
「……悪性存在の発生件数が、十年前よりも少ないとは聞いています。ここ最近は、また増加傾向にあるようですが」
「そうだな。私は一応、教会においてそれらの情報を見ることができる立場にいるが――明らかだ」
また、無表情。
アルケイデスは、その瞳に、言いようのない感情を乗せている様に見えた。憎しみでも、怒りでもない。マイナスの感情であるのだけは確かだと思うのだが。
この人も、きっと、天則の守護者なのだろう、と、シュウは感じた。こんな善人でも、天則に従って、恐らくは悪性存在を、魔族を、簡単に殺すのだ。
――アリアに会わせてはいけないな。
シュウはそう決意すると、少しだけ足を速める。
ふと、演習をしている法術師達が目に入ってくる。展開型の法術を打ち合う、簡単な実習。シュウにはあれさえもできないが、極めて初歩的な訓練だ。
その様子を見たアルケイデスが、ふと口を開いた。
「今の育成学園には、優秀な法術師はいるのか?」
「はい」
シュウは自信をもってそう答える。
「俺とペアを組んでくれている後輩は、とても優秀です。現役の法術師と比べてもそん色ないと思われます」
「ほう……それほどとは。ふむ……教会の剣となってくれる日が楽しみだな」
「……っ……」
その言葉を聞いて、シュウは「ああ、俺は、この男のことが好きにはなれないな」と悟った。
教会の剣。天則の守護者。ファザー・スピターマの言に従って、魔族を、悪性存在を駆逐する、『正義』の権化。善人であればあるほど、教会の剣に近くなる。きっとこの男は、教会の剣そのものだ。
シュウは、マイヤをそんな存在にはしたくなかった。近頃のマイヤは、アリアとも仲良くできている。悪性存在がすべて危険で、悪い存在ではないと、もう分かっている。出会ったばかりの頃のような、悪性存在とあらば即切り捨てるような、冷酷無情な法術師ではない。
世界にとっては『悪』であっても。
きっとそれこそが、『人類』にとっては、間違いなく『善』なのだ。
彼女は、優しい娘だ。
だから、優しいままでいてほしい。
マイヤを、優しいままの娘でいさせる。
そのために、シュウは強くならなければいけない。
「アルケイデスさん」
「ん……? 何かね」
故にシュウは、どうにも好感の持てないこの男に、一つ、問う。
「俺は、非力です。強くなるためには、どうしたらよいと思いますか」
アルケイデスは強い。彼の戦っている姿を見たわけではないが、明らかに強い。直感的に分かる。
だからこそ、強い者からは、なんでも学び取りたい――貪欲にも、シュウはそう思った。
「――意思を強く持つことだ」
だから、そのアルケイデスの回答は、彼の心に深く刻まれる。
***
「では、俺はこれで」
「ああ、助かった。恩に着る」
学園長棟内部。学園長室の目前。アリアの待つ客間へと繋がる分岐で、シュウはアルケイデスと別れた。
好感は持てない。信用は出来ない。だが――ためになる話は出来た。
シュウは、少なくともそう思っていた。
「そうだ、少年。最後に一つ、聞いてもいいか」
「……? はい」
アリアの下へと急がなくては、と、足を動かしかけたシュウに、アルケイデスがふと声をかける。
「君は――君の出身は、どこだ? 親の名前は?」
それは、不思議な問いだった。
同時に、シュウにとっては答えようのない質問でもある。
「……分かりません。幼少期は極東大陸で過ごしましたが、生まれは不明です。親も、物心ついた時にはいませんでしたので」
失礼します、と、シュウはその場を離れる。アリアとの約束の時間を、少しだけオーバーしつつあった。
足早に去ったシュウには、その後のアルケイデスの言葉を知るすべは無い。
「……シュウ・フェリドゥーン、と言ったか……あの感覚……いや、まさかな」
褐色の偉丈夫は、学園長室をノックすると、自らの名を――否。正しい名を告げた。
「マグナス・ハーキュリーだ。甲種指名手配の魔族について聞きたいことがある」
お読みいただきありがとうございます。本話より、『起承転結』の『転』に突入します。
次回更新は明日の18時以降です。またお読みいただければ幸いです。
気が付いたところ、問題点等ありましたらよろしくお願いします。