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あれは、週末の自由行動が許された日のことだった。その日に限って、里瑠も、椎名もいなかった。でも美月は、自由行動をするのは初めてのことではなかったし、ちょっと美味しいケーキを買って帰るだけだからと、気楽に出かけたのだ。
寮を出て、二人がリクエストしたケーキがあることを祈りながら、自分は何を食べようかと考えながら歩いていたときだった。道路の端に猫がいるのを見つけたのだ。
猫は、何をするでもなくじっと立っていた。遠くの車は近づいてきていて、渡るのなら今だよ、と美月は思いながら、けれどケーキを買った帰りには、どこかに寄れる時間はないかなとか、そんなことを考えていた。
本屋に寄って、レシピ集を見るのもいいし、焼き菓子の美味しい別のケーキ屋でクッキーか何かを買うのもいいかな。そんなことを思いながら歩いていたら、猫が飛び出したのだ。
近づいてきていた車は猫に気付いたらしくブレーキの音が響いた。気がした。
とにかく気付いた時には、時が止まっていた。
飛び出した猫は、車の真ん前、そのまま車が進めばタイヤがぶつかりそうな位置で、走っている最中を写真撮影したような状態で止まっていた。車は、もうほんの数センチで猫を轢きそうな位置で停まっていた。運転手は目を見開いて全身をこわばらせているのが遠目でも手に取るようにわかった。
ぺたん、と歩道の上に座りこんだのを、美月はどこかで自覚していた。
だが、何も出来ないまま、じっとしていることしかできなかった。
目を覚ますと、真鶴と臣が不機嫌な表情で見下ろしていた。
見慣れた自室の天井を見て、ベッドに横になっているのを確認して、美月は夢だったのかと、息をついた。それから、二人に視線を戻して、「ごめんなさい」と謝った。
「『壁』だったんだろう?」
臣は不機嫌な顔をしていた。
「ええと」
『壁』の調査が問題であったことに気付かなかったことは、さすがに気まずかった。
「臣、さっきも言ったけど」
真鶴が咎めるように言う。
「たぶん、そういう猜疑心すら消してしまうような仕掛けになってる」
「だからって」
どうやら、臣は美月のうかつさを責めようとして、真鶴は仕方のなかったことだと擁護しようとしているらしい。
「あのね、ごめんなさい。うかつだった。せっかく臣が止めてくれたんだから、それに従えばよかった」
たとえ真鶴が言ったように、猜疑心すら消してしまうような仕掛けがしてあったとしても、臣が一旦止めた時に、深呼吸して立ち止まれば良かったのだ。……あのときも。
「それでも、臣がいてくれて助かった。ありがとう」
あのまま倒れていたら、ちょっと面倒なことになっていたかもしれない。
素直に礼を言うと、臣は怒りの行き場に困ったような顔をして、ため息をついた。
「いや、いい」
「今度からもっと頼ってくれ、って言えばいいのに」
真鶴がからかうように言うと、臣はぎろりと睨んで立ち上がった。
「もう行くわ。俺のほうの報告は校長にしておく」
「うん」
手を振れば、臣はすぐに姿を消した。
「美月の分は、私のほうからすることになると思う」
臣が消えたあとの空間を一瞥すると
「美月、何か気付いたことはあった?」
真鶴は訊いてきた。おそらく、美月の件で六件目。まだまだ情報が足りない、ということなのだろう。
「……あの時、何かにぶち当たって立ち止まって、これが例の壁なのかって思って。だから一歩下がってどれくらいの範囲でどこが中心かを見極めようとして…そうしたら、目の前に臣が来た」
思い出すように、美月は語る。何が重要なのか、まったく判っていないのが現状だ。何ひとつ漏らさないつもりで、映像を頭に浮かべる
「臣は、私が手に持ってた買い物袋を持ってその場を動こうとした。私は焦ってよく確認しようとして…」
倒れた。言い終わると、真鶴は少し変な顔をした。
「真鶴?」
「あのさ、臣は、『壁』にひっかからなかったの?」
美月は一瞬何を言われたのか判らなくて、真鶴を見つめた。
「臣に聞いた時には『壁』の位置が判らなかったから不思議に思わなかったんだけど、今の話だと、『壁』は美月の正面にあったわけでしょ? で、臣はその美月に目の前に現れた」
「……うん」
そういえばそうだった、と美月は思い出す。
あの時美月は『壁』に集中していた。臣は、そういえば最初は気付いていない様子だった。
「それって、どういうことだ?」
真鶴が小さくつぶやく。『壁』が阻んだのは美月で、臣にはまったく影響を及ぼさなかった。それは判る。判るが、それがどういうことなのかが判らない。
二人して肩を竦めて苦笑をもらした。
「とりあえず報告しておく。美月はゆっくり休んで」
「うん。でも、食事の用意とかはできるから、代わりの人は要らないよ」
手配をしてたなら取り消しておいて、と言うと、真鶴は少し不満そうな顔をしてから頷いた。そして、じゃあ、と手を振って姿を消した。
笑顔を浮かべていた美月は、誰もいなくなってから、その表情を険しくした。
思い出しているのは、あの時の無力感だ。
猫は助かった。でも、止めた時間を、美月は戻せなかったのだ。
とっさにしてしまったことで、自分が何をしたのかも判らなかったというのがその理由だが、何をしても、どうしても元通り動かない時間に、焦りと恐怖を感じ、途方に暮れた。結局、何時間も何十時間も経ったと感じた頃、異変に気付いた魔法管理官により元に戻してもらえたのだが、その時の安堵した心持ちは空虚感とともに今でも思い出せる。
美月自身も未成年でまだ魔法のコントロールを学習中の身であり、意図的なものでなかったこともあり、おとがめはなかった。だが、それ以来、魔法が使えなくなってしまったのだ。
魔法を使おうと思うと、どんなに簡単なものでも、まずあの無力感を思い出す。思い出してしまうと、そこにある魔力が上手く動かせなくなる。そして、使えない。
精神的なものだろう、と診断された。
魔力そのものは枯渇せずにしっかりとあったし、他者の魔力を感じることも見ることも出来るのに、自ら使用することができない。何かをきっかけとしてまた使えるようになるだろう、ということだった。
だが、それから十年近く経つが、やはり使えないのだ。
「私に、何ができるのかな」
両の手の平を目の前に並べて、美月はため息をついた。
寝ていても悩んでいても仕方ない、と諦めて美月は起き上がった。
自分と雪花の時と違うのは、臣が適度に邪魔をしてくれたことだ。雪花ほどの魔力と体力の消耗はないので、短時間の休息で充分動けるほどに回復していた。
動けるとなれば、寮の管理人としての仕事をしなければならない。考えるのはそれからだ。
とはいえ、まだ午後三時前だからそれは楽勝だ。図らずもメニューもなんとなく決まっている。
とにかくしなければならないことを済ませて、真鶴に連絡を取らねば、と考える。
実際の情報がどこに集まっているかは知らないが、美月が知る中で一番情報を握っているのは彼女だろう。必要な情報は必ず与えられると判っていても、少しでも早く知りたいと思う。
美月は段取りを頭の中で整理しつつ、エプロンを身につけながら部屋を出てキッチンへ向かった。
買ってきていた食材は、作業台の上に置かれたままだったが、生ものはないので問題はない。中身を冷蔵庫や野菜籠に放り込みながら、一番時間のかかるものから手をつけていく。まずはカボチャだ。
カボチャは火を通して味をつけて冷ましておかねばならない。その次にパイ生地を作る。甘味の無いタルトタイプのパイ生地だ。チーズケーキにも合ったので、パンプキンパイでも試したくなったのだ。
デザートが濃い目なので、食事のメニューはあっさり目に、豚汁にカボチャと鶏もも肉の煮物、リンゴとキャベツのサラダに、焼いた塩鮭だ。
生地を休ませたりオーブンに入れたりする間の時間を使って、洗い物と野菜を刻む作業を入れていく。メニューはまったく凝ってなくても寮生は十人もいるので、量だけで大変だ。一心不乱にキャベツを切っていると、ドアが開いて足音がした。
「美月ちゃん! もう大丈夫なの?」
藤菜の言葉で、自分が倒れたことが生徒たちに知らされていることに美月は気付いた。
「うん、途中で止めてくれる人がいたからね」
言うと、藤菜は合点がいったように頷いた。どうやら当面の対処法も伝えられているようだ。
「あんまり無理しないでね」
「ありがとう。……ところで、それは」
ふと、藤菜が手に持っているものに気付いて言いかけて、言葉を止めた。黒い、とんがり帽子。
何かがひっかかった。
「これ? さっき、美月ちゃんの知り合いだっていう女の人から貰ったの。ありがとう、って言われて」
知り合い?
「すぐそこで?」
藤菜は大きく肯く。
「名前は訊いた? 誰だろう」
「え? これを見せたらすぐ判るよって、言われた、よ?」
美月の様子に不安を覚えたようで、語尾が小さくなっていく。それに安心させるように笑う。
「ちょっと見せて?」
肯く彼女に近寄り、帽子を受け取った瞬間、椎名の声が美月の中に流れこんできた。
『魔女の仮装の理由は知ってるかい?』
魔女の仮装の理由。
どういう意味だろうと考えて、目の前の少女たちのことだと気づいた。
「ねえ、なんで魔女の仮装をしようと思ったの?」
帽子を確認しながら、何気ない調子で少女に問いかける。
「ん? あ、それねー」
ぱん、と軽く手を合わせる。
「百円ショップに行った時に、ハローウィンの衣装の紹介を店内アナウンスでしてて、そこで『魔女帽子』って言ってたの」
「?」
どこかイタズラっ子のような笑みを浮かべて藤菜は話し出した。
「で、それが最初、帽子のところが、事故防止の『防止』に聞こえて」
「………!」
藤菜の言葉が明確な意味のある漢字に変換された時、美月は何が起こっていたのか理解した。
目を見開く美月に自分の言ったことの意味が伝わったと理解した藤菜は、嬉しそうに頷く。
「魔女を防止するってどういう意味だろう? 魔女も聞き違いだったのかなって思ってたら、ジャック・オ・ランタンって言葉も聞こえて、そこでようやく意味が判ったの……って話をしてて、面白いって話になって」
楽しそうに話す藤菜を見ながらゆっくりと表情を緩め、微笑みを浮かべる。
帽子には更なる仕掛けは用意されていないようで安心しながら藤菜にかぶせてやった。
「うん、似合ってる。楽しみだね」
「うん。今度の休みに買いに行こうって話してたから、ちょっと助かった」
そんな話をしながらも、藤菜はとても嬉しそうだ。
「そっか、良かったね。……でも、藤菜? いくら私の知り合いだって言ったからって、知らない人から物を貰っちゃダメでしょ?」
藤菜は恥じ入るように赤くなる。
「まあ、彼女のことだから、一緒に写ってる卒業写真とか見せたんだろうけど」
「そう、そうなの!」
「うん、でも、藤菜も今日は学校で聞いたでしょ? 謎の壁の話。そういう時には特に注意しなくちゃね」
「……はい。ごめんなさい」
「ハローウィンは、仮装以外は何か計画を立ててる? お菓子とか用意したほうがいいなら、作るよ?」
気持ちを切り替えるように言うと、藤菜は目を輝かせて両の手を組み合わせた。いわゆる、神様お願いのポーズだ。
「ガトーショコラ!」
「……そこはパンプキンパイとかパンプキンプリンとかじゃないの…?」
「それも好きだけど、ガトーショコラがいいの!」
「……まあ、了解。他の皆にもちゃんと相談して、変更があったら言ってね」
そう言うと、大きく肯いた彼女は奥へと向かった。その背を見送りながら美月は携帯電話を取り出した。椎名のことだ、おそらくそんなに猶予は無い。
番号を押してコール数回、真鶴が出た。
「いいところに。街中が大変なことになってる。あっちこっちに『壁』が発生して、ちょっとした迷路状態だ」
美月が言葉を発する前に相手が話し出した。
――やっぱり。
「なにそのため息、何か判ったの?」
「椎名」
ただ一言、共通の友人の名を告げる。真鶴が息を飲む気配が伝わってきた。
「……候補には上がってたけど」
「さっき生徒の一人が、黒いとんがり帽子を貰って帰ってきた」
「それが椎名からだって?」
「帽子を触ったら、メッセージが残ってた。『魔女の仮装の理由を知ってるかい?』って」
「?」
真鶴は無言のまま先を促した。美月は続ける。
「真鶴、黒のとんがり帽子、百円ショップでなんて売られてるか知ってる?」
「知らないわよ、そんなの見ないし」
まあそうだよね、と心の中で言いながら、美月は小さく息を吸ってから口を開いた。
「魔女帽子、って呼ばれてるんだって」
電話の向こうは黙ったままだ。まあそうだよねと再び心の中で呟いて、美月は説明をはじめた。