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美月は眠っている雪花を見つめていた。
彼女は今、自室のベッドで眠っている。美月と浅黄とで運んだのだ。
眠っている彼女は、とても穏やかな顔をしている。おそらくそんなに辛い状態ではないのだろう、と思えた。
部屋に運び込むとほぼ同時に真鶴が医者を連れてやってきた。眠ったままの彼女を診察して、原因は魔力と体力の一時的な枯渇で、十分な休息をとれば回復するとのことだった。
それが起こった原因は、不明。
それでも、ほっとしたところで、未だ心配そうに雪花を見守っている浅黄を付き添いに残し、美月と真鶴は場所を移動した。用事があると言ってとっとと帰った医者を見送って、美月の自室へ入る。別に極秘案件ではないが、中途半端な情報を子供たちに聞かせる気にはなれないということらしい。
「実はね、このほかに四件ほど同じようなことが起きているの」
インスタントのコーヒーを入れて出すと、一口飲んだ真鶴はそう切り出した。
「初耳だわ」
少しばかりきつい口調で言えば、真鶴は、最初が今日の午前中のことだったから、と言った。
それでも真鶴とはその後で一度会っている。子供たちを守る立場の者としては譲れない問題だ。
「最初の……犠牲者は、吹雪先生。ふらふらで帰ってきて、学園内で倒れ、そのまま寝てしまって、起きたのが私が帰る少し前のこと。だから私が事件を知ったのは帰ってから。……悪いとは思うけど、この件に関しては仕方ない」
真鶴が肩を竦めて語ったことは、確かに彼女の言う通りかもしれない。
吹雪先生は高等部で人間界学を教えている教員で、常に貧血気味なのだ。いつもの貧血と判断しても仕方ないということだろう。
「そのほかは、街で暮らす人たち。……とにかく、いきなり壁が現れて先に進めなくなった、らしい」
壁、と美月は言葉を繰り返した。
「透明な壁というか、何か行く手を阻むものがあったらしい。吹雪先生が言うには、なんらかの魔力で造られたものに感じられたのと、ほかの人たちは普通に歩いて通り抜けて行っていたから、調査しておくべきだと考えたそう。……その結果、魔力と体力を吸い取られてフラフラになった、と」
話を頭の中で反芻して、美月は首を傾げた。
「吹雪先生は、別にその『壁』を壊そうと思ったわけではなかったんでしょう?」
「吹雪先生はそう言ってる」
真鶴の表情を見るに、彼女も美月と同じ疑問を抱いているようだ。
「……だから、吸い取られた、って言ったわけね。……厄介だな」
呟くと、真鶴も頷いた。
魔法で壁を作ることは別に難しいことではない。しかし、その壁になんらかの機能を持たせることはとても難しい。……それをやってのけた魔法使いがいるということだ。
「人間界に、っていうのが困ったところで」
「魔法界では起こってないの?」
真鶴は頷く。
「雪花のケースを入れて五件、全部人間界。偶然かもしれないけど、偶然じゃないのなら……何が目的なんだ?」
かなりの魔力のある魔法使いが、魔法使いの魔力と体力を吸い取る『壁』を人間界に作っている。こんなことをしておいて目的が無いということはまずありえない。――それだけではない。
「吹雪先生以外は、大丈夫だったの? 雪花は倒れてしまったけど」
『壁』は、人間には見えない。気にせず通りぬけることもできる。そんな中、立ち止まり、倒れる者が何人も現れたら、不審がられるのではないか。
「あとの三人も倒れたんだけど、たまたま一人じゃなかったから、大事にはならなかったみたい。今、魔法界の警察も動き出してる。あ、中に雪花のご両親がいてね、今は四人から話を聞いてるから、それが終わったら来るって」
雪花の両親の職業は美月も覚えていたので特に驚きはしない。が、自分の娘を放置して――という顔をしたのに気付いたのだろう。真鶴は苦笑した。
「元々雪花自身がそうして欲しいと言ってたらしいよ。こんな時だから娘さんを先に、と言ったら、苦笑して断られた。娘に叱られます、って。でもできるだけ早く向かいます、って言ってた」
「……困った親子だ」
「そうだね」
そんな言葉を交わして二人は会話を終わらせた。
雪花の部屋に戻ったのは二時間ほど経った頃だった。夕食の用意やらなにやら、中断させていたことを済ませた後のことだったが、彼女はまだ目を覚ましていなかった。
浅黄と交代して、ベッド脇の椅子に腰かける。チラリと眠ったままの雪花の顔を見たあとで部屋を見回せば、一人部屋の中は実に彼女らしくさっぱりと片付いている。今寮に入っている生徒たちで部屋を酷い状態にするような少女はいないが、雪花は特に部屋をきれいに保っているほうだ。その部屋に、場違いに置かれている黒のつば広のとんがり帽子。それを被って嬉しそうに笑っていたのは今日の午後のことだ。それから数時間後に現われた謎の『壁』。
雪花は責任感の強い少女だ。どんな思いで『壁』に向かったのか。
それを考えると犯人をボコボコにしたくなる。
だが、問題はそこではない。と、美月は頭を振った。
美月は、考えていた。
浅黄が飛び込んできて、歩いて五分程の場所に倒れている雪花を見つけて運んで。
もちろん、それをしたのは美月だ。
浅黄と一緒に倒れている場所まで走って、声をかけても揺すっても目を覚まさない雪花をおぶって歩いて、歩きながら浅黄に学園に連絡をするように指示を出して、部屋まで運んで寝かせて。
もし、美月が魔法が使えたとしても、できたことは、瞬間移動して浅黄の側へ行き、瞬間移動して浅黄を寮まで運んだくらいのことだ。瞬間移動なんて誰もが使える魔法ではないのだから、悔やむ部分ではないし、魔法が使えたとしても雪花が倒れるのを防ぐことはできなかっただろう。
学園から駆け付けた真鶴はそう言って美月を慰めた。だが、曖昧に頷きながら美月が思っていたのは別のことだった。
確かに、魔法があったら、とは思う。自由に使えるようになった頃の便利さは未だに覚えていて、ふとした瞬間に不便さを感じはする。けれど。
――なんで平気なんだろう。
魔法が使えなくなった時、不安や焦りに襲われた。体の一部を失ったような気持ちになった。けれど今日は、そんな気持ちを覚えなかったのだ。もしかすると、過去一番魔法が必要な時だったかもしれないのに。
考えていても仕方がない、そんなふうに思った時、ふと、雪花のまつ毛が揺れた。
「雪花」
手を握り、声をかけると、まぶたがゆっくりと開かれ、美月を見つめた。
「美月、ちゃん…?」
「うん、大丈夫? 体はどこか辛くない?」
問いかける美月に雪花は考え込むように押し黙り、小さく首を横に振った。
「大丈夫。でも、今は魔法が使えないっぽい」
「うん」
よかった、伝えると、雪花は困ったように微笑んだ。
美月は、雪花がどれくらいの時間寝ていたか、どういった状態だったかとか、倒れたことを両親に報告したこと、ただ寝ているのなら見舞いには来ないと連絡があったことを伝えた。
話を聞いた雪花は苦笑しながら了承の返事をした。
「それで申し訳ないんだけど、私にも状況を教えて欲しいの」
浅黄からは既に聞いてある。帰り道を普通に歩いていたら急に進めなくなり、問題だと感じた雪花が少し調べてから戻って報告しようと言い出した。が、結局雪花は倒れ、浅黄が慌てて遠回りして美月を呼びに走ったということらしい。
「……あの時…」
雪花は何かを探すように視線を彷徨わせる。
「急に見えない壁にぶつかったように感じたの」
そこで雪花は、ぬりかべみたい、と笑う。
「そのまま両手を広げたり伸ばしたりしてもそれは変わらなくて、ちょっとした壁のマイムができそうな感じで」
雪花は何故だかちゃんと調べないといけない、と思ったらしい。そのまま左右に移動しながら範囲を探すが、車道にはみ出してしまう。が、車道は車が普通に通っていた。それでさらに変だと感じて、どれほどの範囲に『壁』が出来ているのか探るために、視ていっていたら、体に力が入らなくなって、意識が遠くなった、と。
「範囲は、高さが二メートルくらい。幅はもう少しあったような気がする。奥行も」
「そっか。ありがとう」
礼を言い、立ち上がる。この現象の調査官は雪花が目が覚めてからやってくるという話だ。雪花の命に別状はないこと、目覚めるのにそこそこ時間がかかることをちゃんと理解しているということなのだろう。
「美月ちゃんも、調べるの?」
美月は心配しなくていいよ、と笑って見せる。
「ちゃんと調べるのは雪花のお父さんとお母さんの仕事だし、学園の調査官も動くから、私はここの皆にどう説明したり注意を促すかを考えるだけ」
「よかった…。美月ちゃんは危険だから遠くから見てるだけでいいからね」
雪花に限らずほとんどの寮の子たちは、美月が魔法を使えないことを知っている。知ってるから、心配してくれているのだと気づいて、意識せずに右手を伸ばして髪を撫でた。
「ありがとう。じゃあ、もう少し寝てなさい」
そう言うと雪花は小さく頷いてまぶたをとじた。
翌日、美月は、銀杏並木を見上げていた。ついため息がこぼれる。
通り横に置いてあるベンチに座って、先ほど買った缶のおしるこのプルタブを開ける。寒くなると自動販売機に並ぶこれとコーンポタージュは、見つけるとつい買ってしまうものだ。そっと口をつけると優しい甘味が口の中に広がった。
真鶴に聞いた四例を見て回ったのだが、まったく手がかりがつかめなかったのだ。
一つは、この公園近くの通りでのことで、吹雪先生が倒れた場所だ。……つまり、ある程度状況判断ができて、魔法についても熟知していた人間が体験したのだ。勘違いということはまずありえない。
残りは、図書館近くの道、商店街、普通の住宅街の中の道ということだったが、何も特別な様子の無い普通の道だった。
そう、雪花が倒れてしまった時と同じように。
――ということは。
可能性としては、
・誰かが一時的にピンポイントで通れないようにした。
・何かの状況で、通れないようになった。
・誰かが、何かの状況を起こして、通れないようにした。
の三つが考えられる。
一つ目だとすれば、ターゲットは魔法使いなのだろう。特定の個人ではなく、魔法使い全体。三人の顔ぶれを見ても接点はない。仮に浅黄がターゲットだったとしても同じことで、共通項がまるでない。とはいえ、見ていて一時的になんらかの障壁を作り、様子を見て解除したと考えれば、今は存在しないことも理解できる。
二つめだとすれば、なんらかの条件が重なった時に、魔法使いが通れないようになったのだろう。いわゆる結界的なものが発生したと考えれば、現象そのものは説明できる。ただ、現在その現象が起きていないので、原因の追究は難しい。
三つ目とすればやはりターゲットは魔法使いで、なんらかの仕掛けで通れないようにしたのだろう。一つ目は陰で見ながら行ったと考えられることに対し、こちらは罠に近い。
このうちのどれかなのか、いくつかが重なっているのか。
少なくとも見てきたどちらももう魔法の痕跡はない。
やっぱりド素人がどうにかできる問題ではなかったか、と美月は思う。
単に自分が関わっただけのものなら、真鶴に聞かされても自ら足を運んだりはしなかった。
美月自身が足を運んだのは、雪花が倒れたからだ。このままじゃ他の魔法使いたちが困ることになると、なんとか調べようとしてくれたからだ。
「はあー」
思い切り息を吐き出して、両腕を上げて伸びをする。
帰ろう。
どっちにしろ、すぐに解決できるような問題だとは思っていなかったことだ。
美月は気持ちを切り替え、晩御飯とオヤツの献立を思浮かべた。
カボチャスープ、カボチャの煮物、パンプキンパイ……
次から次へと浮かぶカボチャ料理に思わず苦笑が漏れる。
ハローウィンが近いせいか、街中いたるところにオレンジのカボチャがおいてあったので、その影響だろう。
ベンチから立ち上がり、自販機横のゴミ箱に空き缶を入れる。美月の頭の中には今晩の献立のことでいっぱいになっていた。
それは、スーパーで買い物をしたあとのことだった。
カボチャを一つとその他もろもろは、結構大きな袋になってしまい、重くて嵩張って歩くのがなかなか大変だ。だが、彼女は店頭に並んでいるカボチャを横目に見ながら、少しばかりの後悔には気づかないふりをしていた。
本当は、この先の花屋で何か可愛い花でも買って帰ろうと思っていた。雪花の気持ちが少しでもまぎれるように。けれど、こんな重い荷物にさらに追加するのはちょっと難しい。
せっかくここまで来たが、そこの角で曲がってしまおう、と思った瞬間、何かにぶつかったのだ。
「あ、ごめんなさ…」
謝罪の言葉の途中で、美月はそこに何もないことに気付いた。
だが、前へは進めない。
これか、と気付いた。
雪花と、あと四人が体験した『現象』だ、と思った。
美月は一歩下がって影響の出ている範囲を見分する。
突然止まって何もない中空を睨むようにしている女を、通りすがりの人々は不審げな視線を向けながら去っていく。
――影響を受けているのは私だけ…
目をこらせば、だいたいの範囲は見えた。その中心は……、と思ったところで、目の前に見知った人物が立ち止まった。
「美月」
「臣」
訝しげな表情で自分を見下ろす男は、何気ないしぐさで買い物袋を手から奪った。
「何やってんの?」
臣が、『壁』の問題を知らないはずはない。だから美月は、一歩横に動いて『壁』を確認しようとした。
「ちょっと待って」
「美月? もしかして」
美月の動きを阻もうとする動きは、少し遅かった。
パチンと何かがはじけるような感覚がして、急に足に力が入らなくなる。
「おい」
倒れずに済んだのは、臣が支えてくれたからだ。
「だから」
少し怒ったような声が耳に届いた。
「……ごめん、どっかで休みたい…」
貧血のような感覚には覚えがあった。
――あの、時を止めた時。
意識が遠くなりそうになるのを気力で押しとどめようとする。
その時になって思い出した。雪花も、調べようとして、魔力と体力を吸い取られたのだ、ということを。
「跳ぶぞ」という、臣の少し怒ったような声を聞きながら、美月の意識はブラックアウトした。




