献身的/科学教師【ヤミプラス】
付き合い始めは、不安ばかりだった。
決して勉強が得意ではない私は根っからの文系で、化学が大の苦手だった。そんな物わかりが悪い私にいつも親身になって教えてくれる先生のことをいつの間にか好きになって居て。
そして勇気を出して告白をした。先生だから当然断られて、避けられて、今までのことが全部壊れるんじゃないかって、不安だった。だけど先生は私をまっすぐに見てくれた。届かない恋をした哀れな生徒ではなく、愛しいものを見る目線で。
先生もずっと好きだったんだ、私のことが。だけど我慢していた。それが私の言葉で崩壊してしまったんだと、彼は笑った。
今日は付き合って五か月の記念日。それなのに委員会が長引いてしまった。それに加え、荷物を運ばされる始末。すっかり遅くなってしまった。今日の放課後、一緒に帰ろうって約束をしていたのにすっかり待たせてしまった。
誰もいない静かな廊下を急いで歩く。職員玄関に顔をのぞかせても、彼の姿は無かった。
どこに行ったんだろう。
荷物を運ぶついでに職員室は除いてきたが、そこにも彼はいなかった。どこに行ったんだろうか。首を回して辺りを見渡すと生徒用の下駄箱に向かう廊下の角に、白衣を片手に持った見慣れた人影があった。
「先生! ごめんなさい!」
足音をできるだけ出さないようにして駆け寄ると、彼の眉間には深い皺を刻んでいた。だがすぐにヘラリと、いつもの少しだけ頼りない笑顔を見せる。
「……そんなに待っていないから、大丈夫ですよ」
そして私が動くと彼も少し後ろをついてきた。私は並んで歩きたかったけど、まだ校舎に人が残っているかもしれない。だから潜むように関係を続けるしかない。
わかっているけど。でも寂しい。早く卒業して、普通の恋人みたいにしたい。
「どこか行きたいところ、あります?」
下駄箱について私が靴を掴んで振り返ると、相変わらず不安そうな顔をした先生が問いかけてきた。こうやって私のことを気遣ってくれる先生はいつも不安そうな顔をしている。
私と付き合っていること、後悔しているのかな。
時々、私も不安になる。先生と生徒、釣り合っているかどうかなんて考えなくてもわかる。この距離は愛だけじゃ埋められない。私に申し訳なくてこうやって優しくしてくれているのだと思う。
その優しさが苦しい。
「んー別にないですよ。大丈夫です」
「……そんなこと言わないでください。駅前に新しいカフェできませんでした? そこに連れて行ってあげますよ」
少し後ろから縋るような声がついて来る。
どうしてこんな声、出すんだろう。そんなことしてほしくない。自然でいて欲しい。こんな、私を憐れむような声。
私は哀れなんかじゃない。先生が好きで、この関係を覚悟していたんだ。だから、気を使わないでほしい。恋人だから優しくしているんだ。私だから優しくしてくれているわけじゃない。
迷った末に、玄関に靴をおろしながら少しだけ笑った。
「そこなら海田先輩とこの間行きましたよ」
海田先輩は私に優しくしてくれている先輩で先生の生徒の一人だ。
肩を掴まれた。やんわりと、最初は強かった力もすぐに弱まりためらうようにゆるんで離れていく。
「海田、と? なっんで……」
声が震えている。先生のあからさまな動揺に思わず振り返ってしまった。眉が下がり瞳が揺れて。泣きそうな顔。
それを隠すように口元を覆った手も、力を失って白衣に添えられる。
「牟田口さんは、やっぱり近いほうが良い、んですか?」
言葉に詰まっているのに頑張って笑顔を作ろうとしている。こんな彼を見たくない。目を逸らしそうになったけどそれ以上に、彼の言っていることが嬉しかった。
嫉妬、という奴だろうか。
「そうですよね……。今日だって全然話せなかった、し」
目線を泳がせながら彼は言い切った。
そして私の手を壊れ物を扱うように握り、雑に靴を履いて車に向かう。
久しぶりに大胆な彼。いつもは私を気遣って何もしてこない。それに、見つかったらまずいし。怒っているわけじゃない。私が先輩と一緒に出掛けたことに対して戸惑っているんだ。
気の弱い彼にはやはり言わないほうがよかったかもしれない。こんな彼を見れて、好きだって言ってくれているようで嬉しいけど。
思わず頬が緩んでしまう。
「牟田口さん、じゃあどこに行きますか? どこでも良いんですよ。本当に、どこでも連れて行ってあげますから」
いつもの助席に私をエスコートしてから運転席に座る先生。私の顔色を覗う。
こんな不安そうな顔をされると意地悪をしたくなる。また海田先輩とどこかに出かけてやろうかな。そうしたらこの人はかなり落ち込んで焦るだろう。
私と同じだったんだ。私は先生と釣り合うか心配で、知らない間に距離が開くんじゃないかって心配で。
先生もそうなんだ。多分、私以上に。私の周りにはたくさんの男がいるから。
私がほかの男から何かを得るたびこの人はそれ以上のものを私に与えようとする。
「何もないですよ」
「じゃ、あ、じゃあ欲しいものはありますか? なんでも買ってあげます」
ほら。もう私に何かを与えようとしている。
考えるふりをしてから私は首を振った。そうすると彼の表情に影が差す。
これで分かった。寂しいのは私だけじゃなかったんだ。
「先生、早く帰りましょう?」
「大丈夫ですか? 私がやりますよ」
それから、先生が明らかにおかしくなった。
暇さえあれば私のほうを見ているし、私が困っているとすぐに助けてくれる。監視しているような、見守るような、そんな視線を向けてくる。最近はずっとそうなので息苦しさを覚えていた。
だから委員会の仕事で本を運んでいるときに、先生が手伝ってくれると言ってくれたのだが私は首を振った。
「そんなこと言わないでください。やらせてください。お願いします。私が、私がやりますから」
先生が私の手から本を取った。
確かに重いし大変だけどここまで頼るわけにはいかない。先生をこき使うつもりはない。
それなのに先生は、私が大変そうなことを全部引き受けようとする。こんなんじゃあ、ずっと隠してきたのにばれてしまうかもしれない。私たちの関係がばれたら大変だなんてことは先生ならわかるはずなのに。
「待ってください! 本当に大丈夫ですから!」
慌てて先生の手の本に手を伸ばすと先生が身をよじって拒否をした。
今廊下には誰もいないから大丈夫かもしれない。でももしものことを考えると、先生としゃべるのは避けたかった。
「今私がやらなかったら牟田口さんは誰かに頼るんでしょう!? そんなの、そんなの耐えられないです! なら全部私がやります!」
先生の大きな声なんてめったに聞かない。私は思わず肩を震わせて手を引っ込めてしまった。私の反応に先生は眉をもっと下げた。
「ごめんなさい……怒鳴るつもりは無かったんです。……嫌いになりました……?」
怯えた瞳を作ったのは私じゃない、先生だ。私に嫌われるのが怖いのか。私は先生のことを嫌いになることは無い。でも関係は切れてしまうだろう。ばれてしまったら、いつか。
「……なってないです。ありがとうございます。けど先生に手伝ってもらうほどでもないですよ」
やんわりと、でも彼の好意を裏切らないように断る。先生は迷ったみたいだった。でも結局離さなかった。
「これくらいは、しないと」
ぼそりと呟いてから先生は笑った。私の表情を覗うような、繊細な笑顔だった。
それが脳みそにこびりついて離れなかった。
「え、先生?」
朝起きて学校に行こうと思って玄関を開けたら先生が立っていた。いつものスーツ姿で私に不安げな笑顔を向けて、彼は鍵を見せてきた。
「送りますよ」
「え、でも」
私の反論に彼は泣きそうな顔になった。
そんな甘えるような顔をされるとダメだ。断りにくい。
拒否の言葉をのどに戻して私は先生について行った。
「あれ、この香り」
助席に座ると私の買おうとしていた香水の匂いがした。柑橘系のしつこくない上品なにおい。
私の反応を楽しそうに先生が見ている。
「牟田口さん、欲しがってましたよね?」
そう言って先生は小さな箱を私に手渡してくれた。躊躇いながらも開くと、この間何気なく先生に行った香水が入っていた。
思わず先生を見ると、彼は愛おしそうに私を見ていた。
私のために買ってくれたんだ。
「そんな、先生、いらないですよ」
申し訳なくて箱の蓋を閉じて先生に渡そうとする。
先生の顔が歪んだ。箱を受け取ろうとしない。それどころか、全ての動きを止める。
申し訳ない。こんな、買わせてしまうなんて。まるでねだったみたいじゃないか。
「せんせ、い? いらない、です」
もう一度言って彼の胸辺りに箱を差し出す。
彼の唇が震えて、腕が微妙に痙攣しながら箱に指を触れた。ぼろりと、彼の瞳から涙が零れ落ちる。
「いらないって……もう誰かに貰ってたんですか?」
指が触れているだけだから、私が話したらこの箱は落ちてしまう。二人の間で香水の箱は行き場をなくしていた。
素直に受け取ってしまえばそれで終わりかもしれないけど。でも、申し訳ないから。
「受け取ってください。受け取ってくださいよ。受け取ってくれないと、私……」
先生が泣いているのは初めて見た。私が学校であった話をすると泣きそうな顔をする。それは何度も見てきた。でも本当に涙を流したのは初めてで。私が泣かせたなのだと理解するまで時間がかかった。
私を見つめたまま先生は泣き続けている。大声を上げるわけでもなく、ただ涙を流すだけ。
「嬉しい、ですよ。でも申し訳ないんです」
なだめる方法を考える時間も無かった。だから思ったことを口にする。
先生の涙は止まらない。
先生は私を気にかけすぎなんだと思う。最近どんどんひどくなる過保護。私が海田先輩のことをしてからなんとなくおかしくなった。何かストッパーが壊れたように。
「私のことはあんまり気にしないでください。ちょっと距離を置きませんか?」
ずっと思っていた。先生と生徒が付き合っているなんて知れたら大変なことになる。だからずっと隠してきたのに、先生が私のことを構うから危険だ。先生ならいつか分かってくれると思っていた。言葉にしなくても大丈夫だと。いつか満足して、私も先生が好きだってことを信じてくれると思っていたのに。いつまでもこうやって私のことを気にかける。良くない傾向だ。
「……なにが」
先生の涙が止まった。
先生ならわかってくれる。その考えはすぐに壊される。先生の体全身に震えが広がる。信じられなかった。
私は思わず箱を自分のほうに寄せてしまう。それに気付いたのに、彼は笑わなかった。
「何が足りないんですか? もっと優しくします。もっとあなたの願いをかなえますから。もっと、牟田口さんにつくしますからっ、だから、そんなこと……」
「先生? どういう、ことですか?」
先生はシートベルトを外して身を乗り出してくる。いつもの様に私に優しく触れてくる。だが、前よりももっと優しくなった。もはや触れているのかわからないほど。
彼の不安が私にしっかりと伝わってくる。彼の言いたいことは大体わかる。でも聞かずにはいられなかった。
「私が必要じゃないと、牟田口さんは私を捨てるでしょ? もっと使えるようになる……だから……だからっ」
見捨てないで。
彼の唇はそう動いた。でも声は届かなかった。
私は彼の髪をそっとなでてあげた。泣きじゃくる、弱虫な彼の髪は冷たかった。
私がいないと、この人はダメなんだ。私が認めないと、この人はダメなんだ。
私は香水の箱を大事に抱えた。この人は私に尽くしてくれるんだろう。
「……はい。わかりました」
それなら好きにするといい。
満足するまで私を愛せばいい。
そして自分を削ればいい。