引き篭り師弟と、師弟交換11―恋天使ハンマーと痛む心臓
「ラスししょー?」
何やら思案顔になってしまったラスターさん。声をかけても視線が迷子のラスターさんの前で軽く、そしてやがてブンブンと激しく手を振っても突っ込みはない。
ラスターさんが瞬きしたのは、そろそろ竜巻が起きそうな勢いになった頃だった。おかげで私の手がもげずにすんだ。それに、子猫たちが起きていたら、お尻ふりふりされながら飛びつかれていただろう。
「やっ、その。アニムちゃんに見惚れている訳じゃなくってねっ!」
「大丈夫です。そこは微塵にも、勘違いしてないですから」
こちらこそ『やっ』ですよ。勘違いする理由が皆無だ。
きっぱりと否定したのに、何故かラスターさんは不満顔だ。ノリが悪かっただろうか。
「すみませんです」
「へっ?」
「私、ノリ悪かったですね。ここは、見惚れてください、と裏手突っ込み、入れるべきでしたか。もしくは、ルシオラさんみたく、軽いこと言うなー! ってデコピンするですか」
実際にはしないが、ラスターさんの額の前に指を丸くして突き出す。と、勢い余って親指の先がすこし触れてしまった。
私が謝るより先に、珍しくラスターさんが身を引いた。「不意打ちに触れられると照れるわ」なんて付け加えながら。
「いやね。聞いてるこっちが照れるというか、ね。ウィータが羨ましいっていうか。むしろ羨ましいのを通り越して、アニムちゃんと出会えたウィータを祝福してあげたいっていうか。恋に恋してるって感じで、微笑ましいというか。恋すると、人って綺麗になるわよねっていうかって、色々考えちゃって」
ラスターさんはすくりと立ち上がり、屈伸運動を始めた。
なんてこった。私の惚気話で体が固まっちゃたせいだったとは。なんと、申し訳ない。
ただ……胸に刺さった一言。
恋に恋してる。
それはつまり、私って師匠を好きな自分に酔っているような印象を受けたという意味だろうか。
いや。単純に、人生経験豊富なご長寿ラスターさんからしたら初々しくて微笑ましいという意味かもしれない。
「私、浮かれてるだけ、思えるから……だから、ししょー、はっきり言わないのかな。自分の傍に残れって、言ってくれないの、かな」
好きよりも愛しているよりも、その言葉が欲しい。
私の想いの強さに反して、雷が落ちる音にかき消される位の呟き。だったはずなのに、ラスターさんは眉を潜めてしまった。
「アニムちゃん……」
「ごめんなさいです、ラスターさん。今のは、忘れてくださいです。恋愛初心者、小娘の、うわごとです。ただの、わがままです」
「アニムちゃんの想い、そんな風に思わないわよ。誰も。そう、あなた自身も、そんな風に思わないで」
ラスターさんの声はすごく優しくて。ほろ苦い想いと香ってくる甘い香りに、ぎゅっと胸が締め付けられる。
私は――私は、師匠がここに残って欲しいって告げてくれたら、きっと頷いてしまうと思う。
だからこそ、さっきの呟きを後悔した。師匠に大事な判断を押し付けるみたいな考え、間違っている。
自分の頬を叩く。途端、鼻先にあった甘ったるい香りが消えた。
南の森で子猫たちが離れるのを泣いてくれたから、調子に乗ってしまっているのかな。こんな大切なこと、人に判断をゆだねるなんて駄目なことくらい、頭では理解しているはずなのに。
ずきんと、曖昧な頭痛が襲ってくる。あぁ、いつもの頭痛だ。
「うなっ!! うなな!」
と、膝上のフィーネとフィーニスが、ばちっと瞳を開けた!
可愛いのは可愛い! しかしながら、結構な迫力!! 大きなおめめなだけに、閉じてー開いてーのギャップは凄まじい!!
「びっびっくり!! 瞳孔も、ざっ猫目! になって、どーしたの?」
ばくばくと鳴る心臓をおさえる。驚いているのはラスターさんも同じようで、面白いポーズで固まっているじゃないか。
そんな私たちをスルーして、子猫たちは不思議な色を浮かべるムーンストーンに似た瞳をきらきら輝かせている。
「うにゃ!! クッキー、焼けたのぞ! 今、窯からださなくて、いつだすのぞ!!」
「今でしゅ! 今だすのでしゅよ!! クッキーしゃんに、くりーむちーず、挟むのでしゅ!」
なっなんかもの凄い情熱が子猫たちに宿っているようだ。
私の膝から飛び上がって羽を広げている子猫たち。くるんと一回転したかと思うと、ぷりっけつを向けて隣の部屋に飛んでいってしまった。
「ちょっ、子猫ちゃんたちが窯の扉に触れたら、毛が焼けるわよー!! あたしのアニムちゃんへの愛情のような炎でー!」
二人を追いかけようとラスターさんも椅子を鳴らした。鳴らしたんだけど……。気がついたら、ラスターさんは床に突っ伏していたよ。
それはそれは、とっても愉快なポーズ。漫画みたいなお見事な卍ポーズだ。
「ルシオラ……!」
「ふぇ? ルシオラさん?」
私は一人置いてけぼりのようだ。
中腰のまま、倒れているラスターさんの足元を見ると、そこには確かに真っ赤な顔をして拳骨を震わせているルシオラさんがいた。
「あんた、師匠っていうか、義兄を足蹴にするのはやめなさいと、あれほど。ぐほっ」
握っているのは拳だけど、攻撃は足だったのか! 脳の錯覚、じゃなくて!
うちではこういう拳の姉弟妹喧嘩はなかったから、どうしていいのか正直わらかない。雪夜と華菜が小さい頃は、口が達者な華菜に、つい一個上の雪夜の手が出てしまうことがあった。けど、そういう時は華菜がギャン泣きして、雪夜も後悔して、結局お互い泣きながら仲直りという感じだった。
「ばーか。今のわたしの師匠はウィータ様なの。ってか、このあほ義兄!! ちょっとはわたしのこと考えていると思ったら、すぐアニムアニムって!!」
風を切る速さでルシオラさんがラスターさんの背中に足底を押し付けた。ルシオラさんはすっきり体型だし、さほど重くはないと思う。がっ、ぐぇっとラスターさんのうめき声が上がったので、うまいところに圧し掛かったのだろう。
私は仲裁に入ることを早々に諦め、ルシオラさんの清々しいほどに豪快な照れ隠しとやきもちに、にやにやすることにした。
当人であるラスターさんも同じ心境だったらしい。顔がきらっきらに輝いているよ。
「ルシオラ、やきもち妬いてるのね! 可愛いっ! 大きくなっても、昔と妬き方が変わらないんだから! って、目潰しは駄目よ、目は!」
「まじで引きずり出す」
「待てまて! さすがにグロいのはやめなさい! それより、あんたウィータと地下にこもってたはずでしょ! 魔法生成終わるにしては、早すぎるわよ?!」
おぉ。納得の一言だ。言われてみれば、まだお昼をちょっと過ぎたところだ。師匠とルシオラさんが地下に降りた時間を考えると、お昼にはまだ早いように感じられる。
って、あれ?
「ルシオラさん、もしかして朝食早かったです? ごめんなさい。ししょーとルシオラさん、地下に降りて、そんな経ってない思って、お昼の準備、まだなんです。あっ、でもクッキー焼けたところで――」
肝心なルシオラさんの希望を聞いていなかった。足を踏み出して――私はやっかいな部分に気が付いてしまった!
ルシオラさんは師匠と一緒に地下に降りた。師匠に魔法生成を手伝ってもらうという待望の目的をもって。そのルシオラさんが、お腹が空いたという理由だけで、一人で上がってくるとは考え難い。
わかるのだ、わかってしまうのだ。このタイプの人が本気になったら寝食忘れて没頭することは。だって、師匠がそうだもの。
「あの、ルシオラさん? 一応、お聞きするです。どこ辺りから、聞いて、いらっしゃいました?」
「んー。ラス兄が、わたしの寝ぼけどうのこうの、ほざいてたところからかな? 大体、ラス兄は気が付いていたくせに、わざとらしい」
人の気配はルシオラさんでしたか! 私、すごい! 感覚が鋭くなってる!
いやはや、現実逃避してる場合じゃないよ、自分。ラスターさんが気付いていたってことは、あのルシオラさんに殴られるっていう台詞もしかして――!
「おまけに、念のため、もうひとつ。ししょーは、地下ですよね? お願いです、地下だって、断言してください」
両手を握って、思わず涙目でルシオラさんに詰め寄ってしまう。
わかっていても最後まで可能性は捨てたくない。師匠が近くにいて、私のうざい位の語りを直接聞いていたなんて現実は受け入れられるはずがないよ!
「お願いですよ! ししょーは、いないって断言して、くださいです!」
念押しも虚しく、目の前のルシオラさんの表情がすべてを語っていた。ルシオラさんの目に同情はない。疑問しか宿っていない。
頭の片隅で、ちーんと鳴るのが聞こえた気がした。
「断言する必要性がいまいち理解できないよ。もちろん、ウィータ様も一緒」
あっはい、そうですよね。一緒ですよね。師匠もご一緒ですよね。
お祈りポーズのまま動けない。恋人一日目でドン引きされるとか辛すぎる。が、あの突っ込み体質の師匠が姿を現さないということは、つまり、そーいうことだろう。泣く以外、どうしろと。
「子猫たちの魔力が乱れて結界揺らしてたから、様子を伺いにきたんだよね。魔法映像でも良かったんだけど、昨日ひと悶着あったばっかりだったらしいし、加えてちょうど摘みに行きたい花ができたから、上がってきた訳」
ルシオラさん、丁寧なご説明ありがとうございます。でも、私は引き続き完全白目だ。
でも、ほら。いい方向に考えよう。突っ込み体質の師匠が姿を現さないということは、逆にもう声が届かなかった玄関先にいるからなのかもしれない。
「あにみゅー! はやくあけてなのぞー! 花クッキー、枯れちゃうのじゃー!」
「わぁっ。美味しそうな匂いじゃん」
「ルシオラ、あんた開けてあげなさいよ」
よっぽどお腹がすいていたのか。ルシオラさんは上機嫌にスキップで消えていった。
って、違うか。ラスターさんの言葉が、すっごく嬉しかったんだろう。ラスターさんも直接言えない、照れ屋さんな一面もあるんだなぁ。新発見。
「さて。お昼の準備、しますか!」
「その前に、アニムちゃんは現実を受け止めないとね」
「おほほ。何をおっしゃるですが、ラスししょー」
ぎぎぎっと錆びたロボットのような音を立てて、振り向く。寒いはずなのに、すごく汗を掻いているよ。
目が合ったラスターさんがあまりにも真剣な顔で頷いたものだから、私も一応口を開いた。応えなんて望んでいない。むしろ沈黙を望むなんて中二病っぽい願いでいっぱいだ。
「あのー、ししょー、万が一にも、壁のそちら側に、いらっしゃいません、よね。やっぱりですか、いませんね! よしっ!」
「アニムちゃん、かわいそうな子みたいだわ」
ラスターさんの同情たっぷりな声が、やけに遠くに聞こえた。ホーラさんみたいなこと言わないで!
やけくそ気味に顔をあげて血の気が引いていった。
「うっせぇ」
お決まり文句と共に入り口に師匠の腕だけが現れたではないか。長い幅のある袖が、ゆらゆら揺れている。
蜃気楼みたいですねー幻かぁーそっかー水晶の森の魔力なんだろうなぁ。師匠と離れてるのが寂しいなんて乙女チックな思考を察してくださっただろうなぁ。でも、魔力さん、どうぞお気遣いなく。さっと、消えてくださいな。
「さーて! まずは、クッキーのつまみ食いから――」
「あほアニムが。さっさと、オレのとこに、きやがれ。腹くくって」
声なき叫びが、結界中に響き渡ったことだろう。びっくりした時のフィーネたちみたく、全身が逆立っているに違いないよ。誰か助けて!!
奥の窯部屋から聞こえるはしゃぎ声に、混ぜて欲しい。うん、そうだ。あっちに混ざろう。
「行ってきなさい! アニムちゃん!」
切実な願いをよそに、残酷に背中をおされた。たたらを踏んだ足はオープンな入り口へと進んでしまう。とっとと、無慈悲に足は勝手に前に進む。
それでも、なんとか腰をひねって抗議の声をあげる。
「らっラスターさん! って、あれ?」
一瞬、自分の状況も忘れて、目の前のラスターさんの表情に息を飲んだ。ラスターさん、どうしてあんなに泣き笑いを張り付けているのだろう。
大きな腕に受け止められて、姿勢を整えなおす。一歩踏み出そうとして、やんわりと引き留められた。やんわりとだけど、私には最大限の引力だ。
でも、今はラスターさんの様子が気になる。
「ごめんなさいね、アニムちゃん」
「えっ?」
「そして、後は任せてっ! 愛のやり取りを邪魔して、恋天使のハンマーで潰されたくないのよ、ルシオラが独り立ちするまでは死ねないわ!」
そっと目元をふくラスターさん。
って、なんじゃそらー!! 泣きそうだったのは同情ですか!? そんでもって、人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて的なことわざですか?! 恋天使って、いるんですか、そんなエンジェル様?! むしろ、今の私を助けて欲しいですよ! 邪魔なんてとんでもない!
「ってことで、二人で仲良くね!」
「いやいや! 恋天使ハンマーって、物騒だけど、この状況も、なかなかですよ!」
残念ながら、ラスターさんは鼻歌交じりに踵を返しちゃうし、私は勢いよく体を引っ張られてしまうしと、散々な結果となった。
反転する体。
そのまま、見知った黒い魔法衣に思いっきり鼻先をぶつけた。結構な痛さだったけど、今は反論よりも心配が勝る。
「あっ! あの、ししょー、あれは、そのっ! いつも、あんなの考えてるなくて、ですね! 嘘ってわけじゃ、まったくないんですけど! 嘘ってことに、しておきましょう!」
当の本人にドン引きされてたら、本気で泣ける。っていうか、もう既に涙目だよ!
けれど、壁にもたれている師匠を見上げたら……いい訳全部、吹き飛んでいった。
「嘘、なのか?」
「違う、ですけど。えっ。あっと、ししょー、全部聞いてたですよね? なのに、その顔って」
きょとんと瞬いた一瞬後、
「いやじゃ、なかった?」
自分が満面の笑みになっていくのがわかった。
だって、目の前の人は夕焼けよりも綺麗な色に染まったいた。両腕を私の腰にまわしているから、いつもみたいに口を覆ってもいない。顔を逸らされてもいない。
初めて見る師匠を目に焼き付けたくて、まじまじと見つめてしまう。
「うっせぇ。ラスターに向かって、べらべらしゃべるなんて勿体ねぇことしてんじゃねぇよ」
もっと師匠を眺めていたかったのに。ぎゅっと、抱き込まれてしまった。師匠の体に押し付けられて、ちょっと息苦しくなる抱擁。
あぁ。好きだ。ちぐはくな声色と表情、それに言葉と行動。
私、この人が本当に大好き過ぎて心臓が爆発してしまうんじゃないだろうか。
「今の私、口だけじゃなくって、心音も煩いよ?」
抱きこまれた胸につけた耳。そこからは、私のもの以上に激しい鼓動が流れてくる。ばくばくと跳ねる心臓。私のものとシンクロしそうで、それでいて微妙にずれている。それが嬉しくてしょうがない。
師匠の表情や空気をどう表現したいいのかもどかしい。反面、私だけの瞳にだけ焼き付けておきたい。体が熱くて。嬉しい温度で。
「ほんとにうっせぇな。どんだけ遠慮なくぶつかってくるんだよ」
言葉に反して、自分に体を押し付けるように抱きしめる腕。いや、むしろ乱暴な力加減だ。正直、胸が潰れて痛い。呼吸も苦しい。
苦しいはずなのに零れていく私の笑い声に、師匠が眉を顰める表情が簡単に思い浮かぶ。
「惚れた弱み、なめるないです。鈍感なししょーには、ちょうどいいですよ」
ふんと鼻息荒く笑ってやる。
強まった腕の力と耳元に触れてきた唇。くすぐったさに身を捩るけれど、両腕は殊更強く閉じ込めてくる。
「だれが鈍いんだよ。そのままソックリ突き返してやる」
「ししょー、失礼! なら、私はもっと、大好きをぶつけてやるんだから! 言っておくですけど、こっちには、フィーニスとフィーネっていう、心強い味方が――」
抗議の言葉を共に彼の胸に両腕を突っぱねて、私は言葉を失った。
「ずるいことするな、お前。オレがお前たちに勝てると思ってるのかよ」
見たことがない師匠の笑顔が、目の前にあった。あまりに屈託ないもので、見惚れるしかない。
言葉を失って、ボロボロと涙が零れた。嬉しいのに、涙が止まらない。どうしてだろう。自分でも泣いている理由はわからない。
泣かせた本人は焦って必死に両手で涙を拭ってくれている。
「まぁ、なんだ。アニム、いいか。さっきのオレは、忘れろ。さっきってのは、今しがたのと、抱き寄せたのと両方だ」
無茶を言う。
私は彼の両手を掴んで、さらにべそっとなってしまう。両手を塞がれてしまった彼は、残された手段として唇を目元に寄せてくる。ずるい。本当にずるい。余計に涙が落ちる。
「私、記憶力は、悪くないほうですよ。たぶん、一生、覚えてる。ううん。覚えていさせて?」
壁の向こう側で、フィーニスとフィーネがはしゃいでいるのが聞こえる。ラスターさんとルシオラさんが言い合っているのも。
なのに、どうしてか。私と師匠、二人だけの世界みたいに感じてしまう。これが恋に恋してるってことなんだろうか。
「ぬかせ。口を塞いで、心臓は抱き潰すぞ」
瞼を閉じることで、言葉とは裏腹な様子で遠慮がちに迫ってきた唇を迎える。
そっと触れた唇。口を開いてもっとと強請ると、師匠は体ごと引き上げて埋めてきた。頭ごと持ち上げられて満たされる。
はふっと息が漏れて、師匠は気まずげに体を離した。理由は明白だ。脅しを行動に移したからだろう。あはっ。なんて愛しいんだろう。
「大歓迎だよ?」
彼が纏った闇を追い払うよう、明るめに出た声。幸せと不安が同居する毎日にも慣れてきてしまっているのは、良いのか悪いのか。
再び瞼を閉じると、師匠の掌が何度も頭を撫でてくれた。あぁ。この体温と感触に思考を奪われる。
「へらず口め」
「じゃあ、私の惚気も、忘れてください、ですよ」
「抜けたところが良いなんて斜め上の告白、忘れられるかよ」
理不尽じゃありませんか、お師匠様。私はいつだって素直なだけですよ。斜め上って――確かに、男の人って可愛いとか言われるの嫌がるって、千紗から聞いた覚えがある。もしかして、傷つけちゃったかな。
ここは私が一歩引いておこう。
「じゃあ、これからは、そーいうとこが好きだって、出すのは、隠しておくよ。好きは、やめられないもの」
「ったく。アニムにはかなわねぇよ」
「ししょー?」
溜め息交じりの呟きが、やや上から聞こえてきた。緩んだ力を寂しく思いながら、顔をあげると、師匠は天井を仰いでいた。腕は腰の後ろにまわったままなので、結構な密着具合だけど。
もう二・三度呼びかけてようやく、苦笑を浮かべた師匠が私を瞳に映してくれた。と同時。お団子をとめていた髪飾りを、とられてしまった。なぜ!
「ぶわっ! ししょー! まだお菓子作り、終わってないのに!」
「ほーれ。ぐしゃぐしゃー」
ばさっと落ちてきた髪は、それなりの長さがある。加えて、お団子にしていたのでふわっふわになっているのだ。しかも、だ。四方八方に飛んだ髪を、師匠の指が掻き乱してくる。余計にもじゃもじゃですよ。
師匠の手首を掴んで抵抗を試みるが……師匠があまりにも無邪気な笑顔を浮かべていて。可愛すぎる二百六十歳に喉がぎゅっとなる。
「っおし!」
「もー、おし、ないよ。子どもじゃ、ないんだから」
「女の髪をほどくのが、子どもの仕業なのか? 百歩譲って子どもでも、オレのそういうところも、好きなんだろ?」
ぐっ。今度はしたり顔ですよ。
だれだ。昔の師匠が無表情仮面なんておっしゃったのは。目まぐるしいほど、豊かに変化してるじゃないか。
ぶすっとむくれつつ、睨みあげてみる。けれど、事実なので素直にひとつ頷き返す。すぐさま右手が頬を撫でてきた。確かめるように肌を滑る親指の腹に、泣きたくなる。
「ありがと、な」
じんわりと心に染み渡った言葉。広がっていく幸せは、師匠の姿を蕩けさせる。お礼を口にしてくれた。オレもとか、好きだとかではないけれど、言葉以上に師匠の声が彼の気持ちを語ってくれている。
気付けば、師匠の首に腕をまわしていた。
「どーいたしまして! たまになら、お披露目する、ですよ!」
「そーしてくれ。連日は、心臓に悪過ぎる」
「お年寄り、心臓負担かかるは、危険! 弟子は、黙るです、離れるですよ!」
あっ。師匠の頬が引きつってしまった。半目をさらに薄くしちゃっている。
体が熱くて爆発しそうなので、そろそろ腕の中から抜け出したかったゆえの、ボケだったのだけれど……。
逆に、師匠と壁に挟まれる結果となってしまったとさ。




