目覚めれば異世界1
「――!」
叫ぶようでいて力強い男性の声に、はっと意識が戻る。
と、同時に、肺がつぶれそうな感覚に喉が悲鳴をあげている。
「ひっあっ!」
そうだ、気絶なんてしている場合じゃなかった!
「はっ、あっ」
空から落ちる感覚。それだけでも非現実的なのに。肌を切る風の中、かろうじて開ける瞼の隙間一面に映るのは化け物!
ドラゴンのような、蛇のような。とにかく、ファンタジー世界だけの生き物。それが、私目がけて落ちてくる。ドラゴンの大きくて金色の目から落ちてくる大粒の滴が、いくつも体にぶつかって落ちていく。喉から流れてくるしょっぱさにむせたくても、呼吸がままならない。
「だれっ、か」
化け物の背に広がる空に指先を伸ばす。黒く大きな影の向こうにあるのは、見たことがない澄んだ水晶のような薄くて綺麗な空。
不思議と全部がスローモーションに見えている。
「私、は――!」
数十分前まで家族と山で桜散策を楽しんでいた中、突如として襲ってきたファンタジーみたいなモンスター。その不思議な存在が、今は目の前で尖った口から涎を垂らし、コウモリみたいな翼は耳に痛い音を鳴らして羽ばたいている。
怖い、すごく怖い。
「たすけ、て!」
視界がひどくぼやけて、顔にぶつかる滴のせいで意識もあやふやになっていく。
「どうか、助けて!」
叫んだ瞬間、私と化け物、その先までが虹色に包まれた。奇妙な光景が私たちを包み込んでいく。ほんと、なにこれ! ファンタジーゲームの魔法陣、というか魔法みたいじゃないか!
光に飲み込まれていく中、私の頬に二つの灯が落ちてきた。テニスボールほどの光は、私から離れては近づき、引き離されてはまた寄ってくる。
「いっいやっ‼」
叫んだ直後、背中に焼けるような熱を感じ、私は完全に意識を失った。
◆ ◇ ◆ ◇
「いやっ!」
自分の叫びで目が覚めた。心臓が張り裂けそうなくらい、動悸が激しい。めまいを覚え、目を閉じて……頬に暖かくて柔らかいものが乗っていることに気が付いた。しかも、両頬に。
そっと瞼をあげると、ぴこっと視界に入り込んできたのは、猫の耳、だろうか。
「うにゃ」
甘い鳴き声がして、おもちみたいな感触が何度も頬に擦りつけられる。ミルクやハチミツみたいな香りがして、肩の力が抜けていく。
「っくしゅ!」
心地よさと同時に、鼻先をくすぐられ、思わず大きなくしゃみが飛び出た。その音に驚いたのか。両頬に乗っかっていた存在が、「うなっ!」という愛らしい声をともない、姿を消した。
ひっくり返った存在を確かめようと起こした体はあまりにも重くて、やはり、視界が揺れた。
数週間前、サークルのみんなで遊園地に行った際、先輩がコーヒーカップをぐるんぐるんと回した時の感覚だ。
「うわっ」
込み上げてきた吐き気に、顔を覆ったまま突っ伏す。
「っていうか、いやってなんだろう」
ぼんやりと残る印象から、幼い弟と妹が喧嘩をして取っ組み合いを始めるのを止めでもしていたのだろうか。いや、それなら「やめなさい」か。
ベッドに入るまでのことが、まったく思い出せない。
「よっこいしょ。いっいたたっ! 全身筋肉痛みたいじゃん!」
倒れてしまっただるくて節々が痛む体を、再び半身だけでも起こす。が、すぐに後ろにふらつき倒れてしまった。背中の感触からすると、かなりもふもふなクッションか枕が背に置かれているのかな。
くらくらする視界に映りこんできたのは、ふたつの毛玉だった。背中のもふもふもかなり気持ちがいいけど、足元のふわふわも気になる。私の足元あたりで短い手足をばたつかせているのが見えた。
「むにゅあー」
よたよたとシーツを踏んで近づいてくる存在に、ぱっと視界が明るくなる。
さっきのぬくもりの正体は、この子たちだったのか!
紺色と薄い桃色がかった白のふわふわ毛をまとった子猫たち。スコティッシュのようでマンチカンのようで。とにかく愛らしい子猫たちに手が伸びる。
「生まれてから一ヶ月もたってないよね! 可愛い!」
逃げるかと思っていた子猫たちは予想に違い、自分の短い手を私に向けてきた。随分と人懐っこい。しかも、すっぽりとおさまった掌に甘噛みしてくる。掌サイズ! 小さな牙で嚙んでくるのが心地よい。
紺色っぽい黒猫は片耳がぴんと立っている。一方、左手にいる真っ白な子猫は両耳がぺたんと垂れている。
「ちっちゃくてふわふわで可愛いなぁ。うちのミケがもっとちっちゃかった頃を思い出すよ」
呟いて、はっと冷静になった。子猫を持ち上げていた両手が落ちる。その拍子に、子猫たちがころんと転がったが、気にしていられない。
視線を落とした先にある服は、どうみても紅葉狩りスタイルじゃない。パジャマっていうか、ワンピース?
汗が吹き出し、肌を確認する。あらわになった肌に、傷はない。それでも、どっどと心臓が跳ね続ける。
「私は、今」
どこにいるのか。
ふかふかのベッドの上、私は生まれて初めて自分の体が震えているのを自覚している。
ここはどこなんだ。確か私は宙に落ちて――でも病院のベッドとは違う。大きな窓の外は、真っ白な世界。雪が降り続いている。雪の向こう側にあるのは木みたいだけど……光っている?
「やっやだ」
本能的に思った。ここは、『違う』って。家具も窓の外も空気も、なにもかもが私の知っている場所とは違う。
全身に氷水を浴びたみたいに、ぞっとする。
「だっだれ、か……」
震えて掠れた声を絞り出す。どんなに頑張っても、言葉じゃない音しか出ない。
寒い寒い。怖い怖い。ここはどこ。ベッドから立ち上がろうとしても、足に力が入らない。震える拳で太ももを叩いたが、まったく感覚がない。
「いっいや――」
喉から叫び声が上がった瞬間、古めかしい扉が音を立てた。ゆっくりと開いていく木の扉に比例して息が呼吸がままらなくなっていく。どこかに隠れなきゃと思うのに、体が全く動かない。激しく息が吐かれて、手の先が痺れていく。
と、ぺろりと指の先に触れた、なまあったかい感触に「ひやっ」と声があがってしまった。恐る恐る下を見ると、子猫たちが一生懸命という様子に私の指を舐めていた。
「もしかして、はげましてくれているの?」
「うな!」
即答という調子で返され、面食らってしまう。こちらの動揺を知らずに、今度は手の甲をふみふみしてくる子猫二匹にあっけにとられてしまう。この子達、まさか、私の言葉を理解している?
いや、まさかと頭を振り、改めて扉に視線を向ける。
「えっ……?」
息と一緒に上がりそうになった叫びを飲み込む。
だって、私の目の前に姿を現したのは……金髪よりも薄い髪色を無造作に肩に流した男性と桜色の髪の長い髪の男性だったから。二人とも相当なイケメンだが、顔立ちよりも、その色素の薄さに目を奪われてしまった。
二人は扉を半分開けたままの状態でなにか言いあっていて、私が起き上がっているのには気が付いていないようだ。
「絵画から抜け出たみたい。っていうか、いやいや。アニメか漫画の世界? むしろ、着ている服がコスプレ?」
あり得ない色素を見て一気に冷静になった脳がフル回転だ。
「コスプレじゃ、ない。ここで浮いているのは……私?」
よくよく見なくても、この部屋は異常だ。
この木の燃える香りと木が爆ぜる音は私の記憶にあるものと同じだけど、家具や窓の外に薄っすらと見える風景に違和感がある。
深呼吸を繰り返し、ゆっくりと視線を動かす。
「まるで、ミニチュアの世界か、タイムスリップしたみたいな部屋だよ」
建築士の父が、海外の田舎に土地を買った叔父のために設計したアンティーク調建築そのものだ。ヴィクトリア様式とかジョージ王朝様式とか……詳しいことは忘れたけど、完成祝いに家族で訪れた際に、あまりのこだわりようにあっけにとられたから、よく覚えている。
「飾りじゃない暖炉」
私がいるベッドから離れた場所にある真っ白の大きな大理石の暖炉には、スモーク・カーテンが垂らされている。これは割と近代の仕様だ。はっと周囲を見渡すと、背の低いサイドボードであるシフォニアやオークガラスショーケースがある。なのに、ベッドに天幕はなく私が知るベッドの仕様とほとんど同じ。出窓三面と横二面の仕様がアンバランスだ。
「年代ごちゃまぜ屋敷って感じ」
お父さんの書斎で得た、なけなしの建築知識を総動員して感じた違和感に呆然となってしまう。
っていうか、冬だってここまでの大雪って北海道だってありえる? そもそも、暖炉ってお金持ちの別荘なのか。
「いやいや、ないでしょ」
思いのほか大きく落ちた独り言。ちょうど、タイミングが悪かったのだろう。外の雪も、暖炉の薪も、彼らの声もやんだ間に、落ちてしまったのが私の息だった。
目があった金髪をした男性は、私を見て固まっているように思えた。私もだけど。
金髪の男性を押しのけて、私の肩を掴んだのは桜色の髪をした男性だった。恐ろしいほど端正な顔をしかめて、私の目を覗き込んでくる。
「※※※▼▲◆」
薄い桜色の王子様みたいな男性が、必死な形相で詰め寄ってくる。
目の前でまくしたてられても、まったく理解できない。言葉自体が。なにこれ。
「あっ、あの。言葉が、わからなくて」
あまりの剣幕に泣きたくなるのを堪えて口を開いてみるものの、男性の勢いは緩まない。しまいには両腕に爪を立てられた。すごい力で、掴まれた。
「いっいたい!」
怖さと悲しさから、上がった声。
まったく言葉が理解できず、目が湿っていく。それでも、美形が私に問い詰めている気配だけはわかる。時折、私の茶色に染めた髪を指さしては、怒って私を睨む。
「あっあの。ごめんなさい。私、わからなくて」
怖くて、理解できない自分が情けなくて、顔が沈む。
きつくシーツを握る手に子猫たちが柔らかい頬を寄せてくれた。ふにふにとぶつかる肌に、涙が溢れてきた。優しい触れ方と恐ろしい視線のギャップに、頭がどうにかなりそう。
堪えきれず、熱い滴が頬を伝っていく。我慢しようと思うのに、嗚咽さえ漏れる。口をふさいだ手に、宙に浮いた子猫たちがすりっと頬を寄せてきた。優しくて、無垢で……そう感じた時には、感情の堰が切られていた。
「ふっ、あ。うっ、あぁ」
もう嗚咽しか出てこない。
わからない、わからない。とにかく、全部がわからない。なんで私がこんなところにいるの。
それは怒りにも似た感情だった。
「あぁ、あぁ」
泣きじゃくる私の頭に乗った手は、とても冷たかった。触れられた瞬間、息を飲むほどに。
振り払う勢いで頭を上げた先にいたのは金髪の――透明に近い水色の瞳だった。見たことがない色に心臓が激しく跳ねる。澄んで ――澄み切った空みたいな色だと思った。
重なった視線に吸い込まれてしまった。
「▼○⛆?」
すごく真面目な表情で問いかけられたから。いつしか恐怖も忘れて、なんとか理解できない状況を伝えたいと思った。わかる。この人は私を怒ってもいないし、責めてもいない。ただ、真剣になにかを聞いている。
数秒、うんうんと頭を抱えた結果。子猫たちを腕に抱き、ふにふにと彼の真っ白な頬を踏んでもらった。子猫たちの手で。
長い金髪とアイスブルーの瞳は、まんまる満月だ。
「えっと、貴方の、言葉、わからない」
発音まで片言で笑える。ので、今度は必死に、耳を押えぶんぶんと頭を振り、指ではてなをかき、最後に腰を曲げて、シーツに突っ伏して額を擦りつけた。ちらりと横目で見上げた薄い金髪の男性は、眉間に皺を寄せた。
怖い、怖い。全身が震えて止まらない。本能がまるで自分が異物だと訴えかけてくる。自覚した途端、皮膚が裂けるような痛みに襲われる。
自分の腕を強く掴む手に触れたのは、羽みたいな柔らかさだった。
ベッドのふちに腰掛けたまま、顔をあげた先にあったのは――かちこちに固まった頬に必死にすり寄ってくれる甘い香り二つと――。
「○●▼◆」
小さく微笑んで、自分の頭を指先でつつく薄金髪の男性によって。きょとんとした顔をあげていた。可愛い仕草にちょっと落ち着けた。
表情が薄くて怖く見えた男性はよくよく見れば、私と同じくらいか、ちょっと上の年。綺麗な顔立ちに似合わず、笑うとどこか少年っぽさも残っている。
まだ涙が零れる中、それでも彼の指先を見つめる。ぼろぼろと頬から零れる私の涙に戸惑っているように見えた男性は、自分の胸元に掌をあて、大きく息を吸った。促される視線で、私もと言われているのがわかった。
「うな、にゃ」
まるで人間の赤ちゃんみたいな子猫たちも、自分のちっさな胸に手を当てて首を傾げた。子猫たちは、抑えた胸よりも、ぽっこりお腹が目立っている。
「うん、わたしもね」
あまりの可愛さに私も真似ていた。そうして、ようやく金髪の男性をじっと見ることができた。彼の髪は、金髪というよりは――高校からの友人である千沙が、美術の授業の際に見せてくれた色サンプルの中で特にお気に入りだと見せてくれた、『レモンシフォン』という色みたい。金よりも優し気な色合いに、私も好きだと思った覚えがある。
「綺麗な髪色ですね」
声をかけた私に、レモンシフォンの髪の男性は掌を見せてきた。やっぱり、会話は通じていないようだ。
いい加減諦めて、もう流れのまま、彼の手を見つめる。長女だし、年の離れた弟妹がいるので、割と諦めというかふんぎりをつけるのは早い方だ。
「童顔に似合わず手が大きいなぁ」
それが正直な感想だった。とはいえ、見せられた手に触れるのは躊躇してしまう。どうしたものかと悩んでいるうちに、子猫たちが彼の手に飛びついた。そして、腕を一気に駆け上がり、男性の頬をしきりに舐め始めた。よっぽどこの男性が好きなんだろうなってわかる甘え方だ。
「なんか、可愛いかも」
ちょっと困った様子で、でも喜んでいるのがわかるレモンシフォンの男性。ついさっきまでは近寄りがたい雰囲気を纏っていたイケメンが子猫たちに振り回されているのがおかしくて、声を立てて笑ってしまった。
笑い続ける私に、薄桜色の髪の美形が再び詰め寄ってきた。やはり言葉の意味は分からないが、引き続き、よくない感情をぶつけられているのはわかった。
「●※▲ω」
「〇§¨、ΔΕΣ」
「Φ」
ため息まじりに呟いたレモンシフォンの男性が私に向き直る。
逃れる間もなく、頭に手を置かれた。頭は心臓と同等な程、急所だと思う。見知らぬ場所で、知らない人間にそこに触れられたというならば、それは死をも覚悟すべきことだと冷静に思った。
さよなら、人生。大学生の身で、なおかつ恋も知らずに散るとか、悲しすぎる。と腹をくくりつつ、触れた指があまりにも柔らかくて、心臓が跳ねたのは内緒さ。私、緊張感なさすぎ。
「Σ§ΔΨζ」
力を抜いた私をよそに、レオンシフォンの男性から祈りみたいな言葉が紡がれていく。理解できない言語なのに、今は怖くない。高過ぎず、低すぎない音が耳に心地よい。声を出し続けつつ、レモンシフォンの男性は不思議な色の粒子を纏った右手を自分の額にもっていった。そして、今度は私の額を指した。
「貴方の手を、私の額に当てるってこと?」
自分の額をさしつつ首を傾げて尋ねると、レモンシフォンの男性は小さく頷いた。
正直、得体のしれない術みたいなものをかけられるのは拒否反応しか生まれない。けれど、目の前の男性はちゃんと手順を教えてくれているみたいだ。術をかける前に。
「えっと、了解です」
ベッドのふちに掛け直し、立っている男性に額を差し出す。ただし、魔法みたいなものを浴びる勇気はないので、ぎゅっと瞼を閉じて。
目を閉じている私はよほど面白い顔をしていたのだろう。男性が小さく噴き出したのが聞こえた。
そして、瞼越しに見える薄い光と、不思議な音に身を委ねることしばらく。
『よし、これでどうだ?』
確かな日本語が聞こえ、
『うえ⁈』
奇声と共に立ち上がっていた。




