愁嘆場
日差しは強く、暑さは以前のままだが、空には鰯雲が広がり、田面に赤とんぼが飛び交っている。ちゃりん、ちゃり〜ん。金襴緞子と目一杯金の鈴をつけ、飾り立てたちゃぐちゃぐ馬っ子が一弥と麗奈を乗せ、田圃のあぜ道を通って行く。鼓笛隊が競うように派手なマーチを演奏しながら続く。駅頭を出たときは三十人足らずの行列も、華やかな列が珍らしく、田の手入れをしていた村人や、遊びまわる子供達が次々とついてきて、今では百人近くに膨れ上がり、長い長い大行列だ。三十分ほどでやっと伊藤家の門前に至る。突然一弥が転げ落ちるように馬から飛び降り、別棟になっている汲み取り便所に走りこむ。
「どした?一弥。ハライタかぁ?」
伊藤家の広い座敷も今日は超満員。全員用意されたご馳走を前に一弥が顔を出すのを今や遅しと待ちわびている。
「一弥のヤツ、昔から緊張すると、すぐハライタ起こしてた。今日のこんな大勢の客見て怖気づいたんのかなぁ」
「イヤなに、馬の上で麗奈にしがみつかれていたから、きっと興奮してるんじゃろ。便所で静めていると違うんか?」
わいわいがやがや、騒然としている一座の前に、紋付の羽織袴で正装した一弥の両親、一弥が顔面蒼白の面立ちで現れる。座は一瞬にして水を打ったように静まりかえる。突然父親の弥ェ門ががばっとひれ伏し、土下座して振り絞るような嗄れ声で叫ぶ。
「皆ン衆!申し訳なかとです!じ、じ、実は一弥儀、試験に落ちておりやした!私というもんが付いておりながら、なんちゅう情けねえ、申し訳のねえ、嘘バついとったか。わしこん場ァ借りて腹バ掻き切ってお詫びいたしとうごぜえます!」
苗字帯刀を許された大庄屋の弥ェ門が、村人の前で頭を下げるのは初めてのことだ。
「弥ェ門サ、オメが頭ァ下げるなんて勿体ねえ。どうか頭上げてくだっせえ!」
「おっとう!わりいのはおらだす。おらが悪イんです。切腹しなきゃならねえのは、親父じゃなくておらのほうだ」
親父と一弥は抱き合って泣いている。廻りの皆も貰い泣き。目出度いはずの祝賀会場は、通夜のようにさめざめとして泣き声に満ちる。その時たくましい赤ら顔の大男が立ち上がる。既にぐでんぐでんに酔っ払っている。
「ヤイっ!弥ェ門っ!一弥っ!とんだ愁嘆場見せてくれるじゃねえかァ!茶番だァ!おめえらは謝れば済むと思ってるんじゃろ!そうはいかねえっ!ワシの娘麗奈はどうなるんだ!散々おめンとこのバカ息子にもてあそばれてよオ!そんでもって落ちたとは何事だァ!受かったちゅうから、おらが娘の純潔をこのクソガキに捧げたんじゃァ!娘の貞操は元にもどらにゃァ!!どうしてくれるんじゃ!サ、早くハラ切れよ。直ぐにじゃ」
「この際二人を娶わせたらどうか」
「やかましいっ!誰がこげなアホ馬鹿ンとこ、でえじな娘を嫁にやれるか」
「じゃっどん、麗奈はもう一弥の手がついとる。オカサレてるんじゃ」
矛先は隠れるように縮こまっていたA山とY恵にも向けられる。
「オイっ!A山!貴様が上手く教えなかったばっかりに、江釣子の産んだ天才、一弥が試験サ、落ちてしまったんだ。それにY恵!オメなして一弥が受かるように水垢離やら祈祷やらせなかったんじゃ!オメ等のお陰で落ちたんだ。このオトシマエどうつけてくれるんだ?」
A山とY恵は已む無く立ち上がって、
「オホン。わたくしは考えられる全ての手段と、全身全霊をかけて一弥クンを支援したのであります。しかるに神に見放されたのか、不運にも彼の試験に不合格となったのであります。ここにおりますY恵さんも献身的な努力と優しさで彼を支えただけでなく、一弥が麗奈と一緒になれるよう、自ら身を引いておりました」
「A山っ!オメはもう先生なんて呼ばれる資格は無エ!クソ爺で充分だ。花巻温泉に招待だとオ!有り得ねえ!今からその汲み取り便所の掃除バせんかい!Y恵は、ばあさんを手伝って田圃の雑草取りをせい!」
一弥の祝賀会はかくして怒号が飛び交い、喧騒の坩堝と化した。麗奈は一人泣いていた。
「風の便りに一弥の受験を聞いて、毎日キロ先の神社までお百度参り、冷水をかぶり、必死に祈ってきた。でも一弥は落ちてしまった。これも神様のお導きです。一弥が悪いンでねェ」
「れ、麗奈ァ!オメだけだ。おらのこと本当に心配してくれちょるのは」
「一弥。わたしは落ちてしまった貴方のこと好きだよ。大好き!」
「麗奈ぁ!」
今や二人は誰一人憚ることもなく、ヒシと抱き合ったまま離れない。感動的な出来事を見て、一弥と麗奈の両親も涙を流している。
「エがった。エがった。雨降って地固まるちゅうのはこんなことだぁ」
A山、Y恵も泣いている。皆がつられるように泣き出す。