A Day in the Life
プロローグ 〜 一日の終わりに
死体を見たのは初めてだった。
駅前の歩道橋の下は、回転する赤や黄色の照明で華やかだった。濡れた路面に横たわるその物体は黒っぽかった。近くに大型のトラックが止まっていた。前方が破損した白い乗用車が、事故現場の所少し離れたところの路上に置かれていた。すでに警察の車と救急車が到着しており、トラックの運転手と思われる若い男が、腕を組んで難しそうな顔をして、警官と話をしていた。
「ゆっくり走っていました。後ろから飛び込んできたんです。本当です。何かを巻き込んだ感じがして、急停車したら、今度はあの白い車が追突してきたんです。」
俺にはどうすることもできなかった。きっとその少年は白い車に追われていたのだ。男はそう主張していた。
白い車に追われた武中は持ち前の俊足で、先を走っていたトラックと路肩の間隙に飛び込み、逃げ切ったと思ったところで、回転する巨大なタイヤに巻き込まれた。
ゆっくり巻き込まれた武中の死は、遠目にも派手なものだった。赤い液体が路面を流れていた。赤い水を満たした袋を大きく破いたような光景だった。
白い乗用車の近くでは、楽器店の店主とレジの若い女が二人の警官に支えられていた。あるいは捕獲されていたというべきかもしれない。女はショックを受けているのか、足下がふらふらしていた。もう一人の警官が白い乗用車の中で麻薬を発見したと言って、二人を問い詰めていた。二人が店に戻ったのは、そのためだったのだと理解した。やがて二人はパトカーに乗せられ、去って行った。
武中の死体もまた、救急車に運び込まれた。掛けられた布の下から腕が見えていた。大方の血液を失って青白くなった皮膚から、血の滲んだ滴が垂れていた。その皮膚は青の時代のピカソが描いた青年の裸体を思わせた。車に入る瞬間、左手の人差し指が歩道から見ている僕を指した。
救急車が去った後、突然ざわめきに気がついた。たくさんの人たちが集まっていた。その瞬間を見たという中年の男が、周りに説明していた。男は武中の最後の躍動を目にした。白い乗用車を振り切り、まるで競争でゴールインした勝者のように、タイヤに飛び込んで行った。その男の興奮した口調は、不快ではなかった。武中がなぜ死ななければならなかったのか、僕には分からないが、あの時あの場所で、僕は武中の魂が慰められているのを感じていた。
それからしばらく、僕はそこに佇んでいた。人々は程なく離れていった。老年の清掃員が二人、一人がホースで水を流しながら、もう一人がデッキ・ブラシで武中の体液を網の目になった排水口に導いていた。一瞬、網の上に内臓のようなものが見えたが、清掃員がブラシで素早く排水口の中に押し込んだ。
最後の電車が駅に着くまで、僕は動かなかった。そうして暗渠を流れていく武中の血液を想った。駅のシャッターが閉まる頃、僕は線路脇の道を家の方へ歩き出した。いつの間にか晴れて、空にシリウスが見えた。
少年の手記
僕は貧乏なギタリストです。それに年齢もまだ14歳で、これ一本で生活していくわけにはいきません。そうじゃありませんか?
学校は退屈です。特に最近は高校受験のことや何やで、周りの友達まで退屈な人間になってしまいました。みんな魚のような目をして、夕暮れの街を右に左に塾を目指して流れていきます。そしてそんな連中の群が、今日も僕の眼の前を通り過ぎていくのです。僕は耐えられなくなって、校門を出ると、風に向かってあてもなく歩き始めました。
校門からずっと続いている並木道を吹き抜けてきた風が、僕の足下に留まって小さく渦を巻いては、また飛んでいきます。そんなふうにして出会った風の数が増えるにつれ、道の両脇に堆積している変色した葉っぱの山は、だんだん小さくなっていくのでした。
そうするうちに、突然視界が開けて賑やかな通りに出ました。夕暮れの埃に満ちた孤独な喧噪が僕を包み込んでいきます。僕は大海原の上空をたった一羽で漂っている白い鳥を思い、僕自身をその姿に重ねました。
夕日が煉瓦色に染め上げた街角で、僕は足を止めました。そこには僕の街でただ一つの楽器店があるのです。ショウウインドウは丹念に磨かれていて、太陽の柔らかな光線を眩しいほどに反射していました。でも僕が立ち止まったのは、ガラスの美しさでもなければ、夕日の輝きのせいでもないのです。それは、このそれほど大きくはない街の楽器店には不釣り合いのギターが、ショウウウインドウの向こうに、しっかりと飾られていたからなのでした。
レスポール56年型ゴールドトップ。僕は本屋でギター雑誌を立ち読みしたので良く知っているのですが、ギブソン社がギタリストのレスポールを迎えて製作し、52年から生産を始めたエレクトリック・ギターを「レスポール」と呼んでいます。当時から名器と詠われた60年までのレスポールは、オールド・レスポールと言われ、現在でもマニアに追いかけられているのですが、そのオールド・レスポールが今僕の目の前にガラス一枚を隔ててあるのです。
時間が止まり、周囲の空間が暗闇の中に掻き消されていきます。レスポールの丸みのある曲線が、たおやかなサンバーストの膨らみが、僕の視界の全てでした。このゴールド・トップを持てば、きっと僕もジェフ・ベックやクラプトン並の演奏ができるに違いありません。僕は貧乏ですけど、ギターの腕には自信があるのです。ただ家が狭いのと、経済的な理由から、エレキ・ギターを持つことができないだけなんです。僕の持っているギターといったら、中学に入学して、さっそく入部したギター・クラブの先輩に譲って貰ったモーリスのボロボロフォークだけですけど、音楽の時間に先生が独演会をやらせてくれるほどだと言ったら、僕の腕前を認めて貰えるでしょうか?
もちろん、僕にギターをくれた先輩、武中さんにはかないません。武中さんの家は医者で金持ちだから何台もギターがあるのですが(武中さんが中学三年の時点で、フェンダーのムスタングオールドモデル63年、64年型、ジャズマスター62年型、それにフォークだって3本、クラッシクも2本)、彼はその全てを華麗に弾きこなせるのです。それにしても武中さんはどうしてるのでしょう。中学時代、彼はまじめで、スポーツ万能で、明るく、ハンサムでしたから、良く女の子に追いかけられていました。その武中さんに僕はクラブの後輩として可愛がられていたのです。そして彼の家に招待され(そのことをクラスの隣に座っていた女の子に話したとき、彼女は大きなため息をついたものでした)、ムスタングを弾かせて貰ったことだってあるのです。でも彼が高校に入ってからは一度も会ったことがありません。彼の家の前まで行ったこともしばしばですが、その豪奢な邸宅の門は堅く閉ざされたままなのでした。それはあたかも別の世界の扉のように僕を拒絶しているのでした。
ポンと肩を叩かれたので振り返ると、そこに武中さんが立っていました。僕は作り笑いをせずにはいられませんでした。
「久しぶりだな」
そう言う武中さんは中学時代の彼ではありませんでした。紙はパーマをかけ茶色に染め、学生服の第二ボタンまで開いて、中からは紫のシャツが覗いていました。もちろん、相変わらず整った顔立ちとスラリとした姿は、埃だらけの街角で際だってはいましたが・・・。
「レスポール、か」
武中さんはふっとため息をつくように言うと、僕の注意をプライスカードの方へ促しました。あまりの美しさに値段など見てはいなかったのです。
¥1600000
今度は僕がため息をつく番でした。せめて0が二つ消えていたら、僕は学校をサボタージュしてでも金を作るはずなのに。
夕暮れが迫っていました。ショウウインドウにも灯りがともりました。
「入ろう」
突然武中さんがそう言って、古風な木の扉を押して中に入っていきました。僕も慌てて後を追います。
こうした小さな楽器店の例に漏れず、この店はレコードも置いています。そのためでしょうか、店は割と混んでいました。ですから店に入った時、僕たちに注意を向ける者は誰もいませんでした。みんな真剣な表情でレコードケースに向かっています。僕も武中さんから離れて「ロック」と立て札のしてあるケースの方へ行き、ヤードバーズやツェッペリンやクリームなどのレコードを見始めました。 店内は木目のくっきりした褐色の木材が使われ、ウェスタン風の造りになっています。扉の横には大きな窓ガラスがあって、そこから夕陽が差し込んでいました。扉を挟んで窓ガラスと反対側に、ショウウインドウの裏扉があり、その前のレジには体の締まった可愛らしい女の子が座っていました。見たところ女の従業員は彼女だけのようです。レジの斜め後ろにある六畳ほどの空間には机が三つあり、そのうちの一つに陣取った頭の禿げた赤ら顔のおやじがパイプを忙しなくふかしていました。
ヤードバーズというグループについて教えてくれたのは武中さんでした。詰め襟まできっちり締めて、清潔な髪をした彼の熱心な話しぶりが甦ってきました。エリック・クラプトンもジミー・ペイジもジェフ・ベックもみんなこのグループの出身なのです。
「俺なあ、行く高校間違えたみたいだ」
いつの間にか側に来ていた武中さんがポツリと呟きました。こんな言葉を聞くと、僕は何だか自分が責められているような気がするのでした。というのも彼がA高校に行ったのは、僕も幾分関係しているからです。
武中さんが受験したのは、名門と言われる高校ばかりで、そしてそのことごとくに合格したのですが、どこに入学するかを僕に相談したのです。もとより、僕なんかより武中さんの方が、どの高校が自分に向いているかは良く知っているはずでしたが、結局僕たちはダーツでその高校を決めたのでした。標的をA高、B高、C高と三つに分けて、交互に七回づつ黄色い羽のダーツを投げたのです。結果は、A高7、B高4、C高3で、A高の7の内5は僕の投じたダーツでした。
武中さんの目が充血しているように見えたので、僕は思わず目をそらして、クリームの銀色のジャケットを意味もなく見つめていました。何が武中さんをこうしたのだろう。外見は派手になっていましたが、中学時代彼の特性だった明るさはどこかに消えていたのです。
武中さんは隣の方でジャケットをぱらぱらと指で弾いていましたが、目は真っ直ぐ正面を向いていました。僕はそれだけを横目で盗み見ると、またクリームのジャケットに目を落としました。銀色のジャケットの上で、天井の電球の光がアメーバのように揺らめいています。僕は気詰まりを感じて、無性に家に帰りたくなりました。
「ちょっとションベンにつきあえや」
武中さんは僕の肩を小突いて、そう言いました。彼の口からこうした汚らしい言葉を聞くのは不快でもあり、また新鮮でもありました。
トイレは店の奥にあり、店内と同じ内装に纏められた清潔な所でした。
「レスポール、欲しくないか?」
武中さんのこの質問はあまりに唐突でしたので、暫く何も言えませんでした。それからどぎまぎしながら、
「そりゃ、欲しいですけど・・・」
と言ったものの、次にどう切り出して良いのか解らないのでした。一体この人は何をするつもりなのだろう、いくら金持ちの息子だからと言って百六十万のギターを買ってくれるということはないはずだ。
「欲しいなら手に入れよう」
宣言するように武中さんは言いました。
「でもどうやって?」
「戴くまでさ。盗むんだよ」
盗む!
まるで考えたこともないような言葉でした。
盗ム! ドロボウスル!
「嫌かい、レスポール、欲しくないのかい?」
ここで拒否することができたはずでした。いや、拒否すべきだったのです。でもそのとき僕の脳裏には、あのゴールドトップの輝きが甦ってきたのでした。そしてそのゴールドトップでベックやクラプトン並の演奏をしている僕自身がくっきりと浮かび上がって来ました。頭の奥の方で音楽がかすかに動き始めました。そしてそれは次第に大きくなって行ったのです。その曲はベックのブルーウインドでした。同時に別の所からは、リッチー・ブラックモアのハイウェイスターの早弾きが、また一方ではペイジのハートブレイカーが、怒濤のように押し寄せて来ました。
僕の頭は完全に混乱してしまったのです。気が付くと、僕は武中さんと一緒に女性用のトイレの箱の中にいるのでした。
武中さんは、こうしたことには計画が必要だ、計画さえうまくできれば失敗することはない、と繰り返し言ってから、その計画について語り始めました。
「八時が閉店だから、それまであと二時間ある。八時半になると従業員はみんな帰って、ここのおやじだけが残る。おやじは金庫や戸締まりを確かめて、九時過ぎには帰宅する。それから戴けばバッチリよ。それまでこのトイレに隠れていよう。なあに、トイレの見回りまではやりゃあしないよ」
僕はなるほどと思いましたが、なぜ武中さんがこんなに店のことに詳しいのか不思議でした。ひょっとしたら武中さんは最初からレスポールを盗むつもりでこの店にやって来たのかもしれません。そうだとしたら僕は一体何なのでしょう。武中さんにいいように共犯者に仕立てられているのではないでしょうか。
こうした疑念が顔に出たらしく、武中さんはちょっと笑って言いました。
「心配すんなよ。俺はレスポールぐらい持ってらあ。あのゴールド・トップはおまえのだよ」
僕は内心を見透かされたような気がして真っ赤になりましたが、やはり、どうしてこの店のことに詳しいのか訊かずにはいられませんでした。武中さんはあからさまに嫌な顔をして、
「知ってるだけさ。俺はここのお得意だもの。ここのおやじとだって顔見知りだぜ」
と吐き捨てるように言うと、内ポケットから赤い箱に入ったラークを取り出して火を着けました。
「吸うか」
ラークはビートルズの愛飲していた煙草です。でも僕は、煙草を吸うのは初めてでした。フィルターを口にあてがうと、武中さんがライターの火を運んでくれました。でも火は一向に着きません。
「ばかだな。吸わなきゃだめじゃないか」
そう言われて慌てて息を吸うと、切り口が火を吸い込んで赤く輝き、それとほとんど同時に僕は咽せていました。
「静かにしろ、人が来たらまずい」
武中さんが息を殺して言うのが、遠くの方から聞こえます。僕は白い便器の透明な水の中に倒れていく自分を見たような気がしました。
一瞬の後、気が付くと、僕は倒れてはいませんでした。目の縁が熱くなったのを感じていましたから、きっと涙でもこぼしたのでしょう。白い便器の中央で、僕が口を付けた煙草が水をいっぱいに吸い込んで茶色っぽく変色し始めていました。
それから閉店までの時間は、今までの人生の中で一番長い時間でした。何をしたのか、はっきり覚えていません。おそらく何もせず落書きのしてあるトイレの壁にもたれかかっていただけだと思います。いずれにしても、閉店を告げる「夕焼け子やけ」の音楽が流れる頃には、僕が便器に落とした煙草は紙がほぐれて褐色の葉が見え隠れしていました。そしてその周囲の水も茶色っぽく濁っているのでした。
音楽が終わると、店は戸締まりも終わったらしく、従業員(武中さんの話では四人だということでした)の、終わった、終わったと言う声が聞こえてきました。何だか客がいたときよりも賑やかになったみたいです。
足音が近付いてきて、トイレのドアが開きました。僕たちは思わず体を固くしました。男でした。鼻歌を歌いながら、二つ取り付けられている男子小用の便器に向かって小便をしている音が聞こえたからです。僕は笑いたくなりましたが、武中さんが怖い顔をしてそれを制しました。男は出ていく際にトイレの蛍光灯を消していきました。たぶんここのオヤジだと、武中さんが小声で囁きました。
店のがたがたは暫く続きました。でもこの時間はさして退屈でも、怖くもありませんでした。あるいは度胸がついてきたのかも知れません。
店の人たちがオヤジに挨拶をして一人一人帰っていきます。最後の一人が(それは女の声でした)ちょっと長いこと話しましたが、あとの人はみんなオヤジに対して冷淡でした。
今、店にいるのはオヤジと僕と武中さんの三人でした。時間が僕の頭の中で擦れるような音を立てて軋りながら流れていきます。オヤジがお茶でも飲んでいるのか、何かを啜るような音が遠くから聞こえて来ました。
突然、僕は小用をしたくなりました。たぶん緊張していたせいでしょう。武中さんにそう言うと、武中さんは怖い顔をして(いえ、たぶん彼はさっきからずっと怖い顔をしていたようです。眉の間には皺が寄り唇はかさかさに乾いていました)、
「バカ野郎! 今音を立ててみろ、計画は一発でおじゃんだぞ!」
と声のない、それでいて威嚇的な口調で言いました。とにかく、オヤジが帰るまで小便は我慢しなくてはなりません。
しかし待ちに待った九時が来ても、オヤジは腰を上げようともしませんでした。 「一体何してやがんだ」
武中さんが怒ったように言いました。さすがの彼も、いい加減焦って来たのかも知れません。
その時、静寂を破って電話のベルが鳴り響きました。オヤジが受話器を取り、分かったすぐ行く、と言うのがはっきりと聞こえ、僕は思わず顔を綻ばせました。やっとこれで小便ができるのです。
オヤジが出て行くまで(それを僕たちは灯りが消えるのと、ドアの閉まる音で確かめたのですが)、ものの二分とかかりませんでした。僕たちはそれから女子用トイレのドアを開いて、外(といってもまだトイレの中ではあるのですが)に出ました。思わず伸びをせずにはいられませんでした。トイレの中の空気でも、今まで居た所よりは格段に爽やかでした。
「早くしろよ。俺は先に行っているからな」
武中さんはそう言って出て行きました。僕はゆっくりと時間をかけて小用を済ませました。暗がりの中に湯気が立ち昇るのが分かりました。
僕が店に出て行くと、武中さんはすでにショウウインドウの鍵に取り組んでいました。
「畜生、鍵の番号を変えやがった」
鍵は円筒形の四桁の数字を合わせるやつでした。
「こないだまで0843だったのに」
僕はあれと思いました。武中さんはどうして鍵の番号まで知っているのでしょう。オヤジと顔見知りだと言っていましたが、どれくらいの知り合いなのでしょうか。僕は訊きたい気持ちを抑えました。どうせまた怒鳴られるからです。
僕は手持ち無沙汰でしたから、街灯の光で以外と明るい店内をぶらついていました。
「何をしている、俺がこんなに頑張っているのに!」
武中さんは鍵にしがみついたまま怒鳴りました。その声はこの静かな薄闇の中で場違いに響きました。結局のところ、それが彼の八つ当たりに過ぎないことは分かり切っていましたので、僕は黙って数時間前と同じようにレコードケースの法へ足を向けました。そこはビリージョエルのコーナーで、新作の「ニューヨーク52番街」がたくさん並んでいました。
待ってたぜ!ビリー。音溝からニューヨークが、そしてビリーの鼓動が伝わる。「ストレンジャー」から1年。逞しさを増して凄い新作が生れた!
僕はその一枚を手に取ると、前作の「ストレンジャー」を捜しました。どうせ盗みをするのなら、欲しいレコードも貰っていこうと考えたのです。「ストレンジャー」は1枚しかありませんでした。その時、ふと「ストレンジャー」のレコード番号が眼に入ったのです。
25AP-843
僕は思いついて、武中さんに訊いてみました。
「武中さん、こないだって、いつのことです?」
「そんなこと訊いてどうするんだ、この馬鹿!3ヶ月前だよ!」
3ヶ月前には、まだビリーの新作は出ていないはずです。今度は「ニューヨーク52番街」のレコード番号を見ると、
25AP-1152
となっていました。それで、
「武中さん、1152に合わせてください」
と言うと、武中さんが手を止めて僕の方を見ました。僕がビリーの二枚のレコードを振りながら、レコード番号ですよ、と言うと、彼はちょっと頷いて、再び鍵に向かいました。カチンと音がして、武中さんが振り返りました。
「あいたぜ」
僕は武中さんの側へ駆け寄りました。照れ笑いをしながら、
「以外と単純なものだな」
と武中さんが小さく言いました。
「さあ、おまえのレスポールだ」
そう言って武中さんはショウウインドウの裏扉を開きました。彼としてはこの言葉に威厳を込めたつもりなのでしょうが、僕には何だか嘘っぽく聞こえました。僕がじっとしていると、武中さんが、
「どうした、レスポールだぞ」
と続けました。その声は一転して優しい響きを持っていましたが、僕は黙っていました。
確かにレスポールはその金色の躯を夜目にも眩しいほどに輝かせていました。でもそれは、夕暮れの風景の中で僕を引きつけたレスポールではないような気がしたのです。
その時でした。夜の舗道を響かせて、足音が近付いて来たのです。武中さんは大急ぎでショウウインドウの裏扉を閉めると、レコードケースの裏側に隠れるように指示しました。そしてすぐに自分も僕の隠れた所にやって来ました。
足音が次第にはっきりしてきます。ずいぶん急いでいるということがはっきり分かる、駆け足の足音でした。足音は店の前で止まり、続いてガチャガチャという鍵の音がして、誰かが入って来ました。
「オヤジだ」
と武中さんが口を動かしました。
店内はすぐに明るくなり、光は僕たちの隠れている所も照らし出しましたが、オヤジの所からは死角になっていて見えないはずでした。オヤジは店の奥の机の引出を掻き回していましたが、しばらくすると、あった、あった、と独り言を繰り返して、また出て行く様子でした。僕たちは顔を見合わせてホッと笑い合いました。実はさっきから心臓の鼓動がずいぶん激しくなっていたのです。
でもその時、
「あったあ?」
という間延びした女の声がして、誰か入って来ました。武中さんが店の女だという素振りを見せました。するとこの二人は何か特別な関係があるのでしょうか。性的なことに関して僕はあまり詳しくありませんが、ごく自然に湧いてきた空想で、体が熱くなるのを感じました。
「あったとも、大丈夫だ」
「良かった、それがなきゃ始まんないもんね。さ、行こ」
とても上司と部下の会話ではありません。でも二人の会話には、ねとつくような親密さも感じられないのでした。
再び電気が消え、ドアの開く音がしました。女が、
「あいつ、待ちかねてるわよ」
と言うのが聞こえました。
その時でした。僕は思わず咳をしてしまったのです。
「誰だ!そこにいるのは誰だ!」
オヤジの太い声が響きました。僕は全身が凍りつき、唇がわなわなと震えるのがはっきり分かりました。そして思わずレコードケースの裏側にしがみついたのです。
ポンと肩を叩くものがありました。僕はうつむいて震えていました。
「じゃ、あばよ」
武中さんの声でした。僕は彼が側にいたことなど忘れてしまっていたのです。でもその声は武中さんの声でした。優しく力強い、中学の頃とちっとも変わらない武中さんの声だったのです。僕が顔を向けた時には、もう武中さんの姿はありませんでした。続いて、ガシャーンというガラスの割れる音がして、待て!というオヤジの声がそれに続きました。足音が遠ざかって行き、まるでそれに取って代わるように、ガラスの破片の余韻が店に響きました。
レコード・ケースから頭を突きだしてみると、女の姿も消え、レジ横のおおガラスの真ん中がばっくりと開いていて、そこから夜気が入ってきていました。半開きになったドアが、ぎいぎいと軋んだ音をたてます。ふと人の来る気配がしました。僕は急いでドアの所に駆け寄ると、外に飛び出しました。夜ともなればほとんど人の通らないこの街でも、今の物音を聞きつけて来る人がいないとも限りません。でも武中さんが捕まったら、いやきっと捕まったに違いありません、そうしたら僕のことを話すでしょうか? いえ、いえ、彼は僕の名前を告げたりはしない。そんな人じゃないんです。それに、彼から誘ったんだ。僕は盗みなんかしたくはなかった。
僕はトイレに落とした煙草のことを思い出しました。煙草の吸い口に着いた唾液から血液型が分かるという話を聞いたことがあります。もし武中さんが僕の名前を出さずに単独犯行だと言い張っても、あの煙草を見つけられたら、彼はA型で僕はAB型ですから、そこから共犯だということが分かるのではないでしょうか。そうなれば彼も僕の名前を出さずにはいられないに違いありません。
僕は貧乏ですけど、学校の成績もいいし、ずっとクラス委員をしています。ギターも弾けます。先生の信頼も厚いんです。でも捕まってしまったら、こうしたことは全て過去のものとなり、何の意味もなくなってしまう。
どうしたらいいのでしょうか。
淡い霧がかかっていました。いつの間にか僕の肩は濡れぼそっています。僕は半べそをかきながら、夜の家路を急いでいました。遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきます。やっぱり彼は捕まったのです。そして明日は、僕が逮捕される日なのです。
エピローグ
翌朝、僕は母の淹れてくれたコーヒーを飲みながら新聞を開きました。驚いたことに武中さんの事故について、もう記事が出ていました。しかしそれは武中さんがバスに轢かれて死んだという、とても簡単なものでした。僕はその周りの僕に無関係な記事を一瞥すると、スポーツ欄を開いてゆっくり読み始めました。コーヒーの良い香りがしました。