私は、あの人の"二番目"で構いませんでした——亡くなった初恋の君の墓を、今日も私が掃きに行くのです
「イゾルデ」
今朝も夫は、その名を寝言で呼んだ。
わたくしの名ではない。三度目の冬になるけれど、まだ一度も。
——と、そういうところから話を始めると、いかにも湿っぽくていけない。やめておく。今のわたくしは、まだ暗い寝台の中ではない。夜明け前の墓地で、かじかんだ手に箒を握っている。冷えるのは指先だけで、もう十分だ。
息を吸うと、喉の奥まで冷える。吐いた白い息が墓標の上でほどけて消えた。手袋越しでも、柄はきんと冷たい。指先はとうに、ふたつぶんほど冷えて感覚がない。
それでも、雪を払う。しゃっ、しゃっ、と。
小さな墓標だ。庭の外れ、林の切れ目に、ぽつんとひとつ。彫られた名は「イゾルデ」。享年十六。わたくしの夫、エルンスト・グラウフェルト辺境伯が幼い日に喪った、初恋の少女。
会ったことは一度もない。それでも名前だけは、毎朝呼んでいる。心の中で。——イゾルデさま、今朝もお静かですね、と。
我ながら、大した物好きだと思う。霜焼けの手で恋敵の墓参り。しかも三年目。世の令嬢が聞いたら、気の毒がる前にまず呆れるだろう。
「……奥方さま。まぁた、そんな時間から」
林のほうから、しゃがれた声がした。老庭師のグスタフだ。剪定鋏を提げて雪を踏みしめてくる。この屋敷で、辺境伯家の誰よりも古くから、この庭とこの墓を見てきた男。
「グスタフ。おはよう」
「おはようございます、じゃありませんや。その手をご覧なせえ。霜焼けが、そろそろ墓のほうを心配し始めてますぜ」
「あら。墓に心配されるなんて、光栄だわ」
「……減らず口だけは達者でいらっしゃる」
グスタフは鼻を鳴らした。けれど、わたくしの手から箒を取り上げはしない。取り上げても無駄だと、三年で学んだ顔をしている。
「これ、塗っときなせえ。膏薬。うちの婆さんの手製で、臭いですがね、効きまさ」
「まあ。臭いって、正直ね」
「正直が取り柄で」
わたくしは笑って、それを袂にしまった。ちゃんと使う。この人の膏薬は、本当によく効くのだ。
しおれかけた花を抜いて、懐で温めておいた新しい枝と替えた。冬に咲く花は少ない。それでもグスタフが、温室の隅で細々と育ててくれる。
「今日のは、白い山茶花ね」
「へえ。イゾルデお嬢さまが、生きてた頃に好きだったやつで」
「……そう」
わたくしは墓標の彫りを、指の腹でなぞった。冷たい石の、へこんだ字。会ったことのない少女の、たった一つ残された輪郭。
「どんな娘だったの。イゾルデさまは」
「よく笑う娘でしたよ。日に焼けて、身分もへったくれもなく、わしのような庭師にまで、平気で懐いてね。……坊ちゃまの後ろを、いつも駆け回ってたもんで」
「あなたも、懐かれてたのね」
「……ええ。手のかかる娘でした」
そう言って、グスタフはほんの少し、口の端を下げた。この無愛想な老人が見せる、いちばん悲しい顔だ。三年見ていれば、それくらいはわかる。
「うちの旦那さま、寝言で、イゾルデさまのお名前を呼ぶのよ」
「……はあ」
「三年、毎晩。律儀な人でしょう」
「奥方さまのお名前は」
「……さあ。呼ばれたこと、あったかしら」
わたくしはわざと、からりと言った。グスタフは何も言わず、剪定鋏で枯れ枝を一本、ぱちりと落とした。
夫は、この墓を大切にしている。月に何度か、自分でも足を運ぶ。そのときの夫の背中は、いつもより少しだけ幼く見える。十六で時が止まった少年が、そこにいる。
わたくしは、それを知っていて嫁いだ。
三年前、政略の話が来たとき、仲人はずいぶん言葉を濁した。辺境伯さまには忘れられない方がいらして、と。要は、心はよそにある夫でもいいか、という念押しだ。
わたくしは、いい、と答えた。
人の心は、家同士の取り決めで動くものではない。夫が亡き人を想うのは、夫の自由だ。わたくしにできるのは、その想いをそっとしておくことくらい。
一番は、あの人でいい。わたくしは、二番目で構いません。
そう決めて嫁いできた。強がりでなく、本気でそう決めたのだ。
ただ——ひとつだけ、白状しておく。
わたくしはまだ一度も、自分の名を、この人の声で呼ばれていない。ただ、それだけ。
……いけない。こういうことを考え出すと、箒の手が止まる。
わたくしは箒を握り直して、残りの雪を、しゃっ、と払い切った。空がようやく灰色に白み始めている。今日も、一日が回り出す。
辺境伯家の朝は、わたくしから始まる。
誰よりも早く起きて、墓の雪を払う。戻って厨房の火を確かめ、使用人たちに今日の段取りを配る。夫が執務室に入る頃には、机の上に、その日いる書類が順番どおり積んである。
北の辺境は、冬が長い。長い冬は、人の諍いを凍らせて溜め込む。雪が解ける春、それが一斉に噴き出す。だから冬のうちに、揉め事の芽をそっと摘んでおくのが領主夫人の仕事だった。
たとえば、水利。
「奥方さま。西の谷の二村が、また用水路のことで揉めておるようで」
執事のヴェルナーが、困り顔で報告に来る。
「上の村が堰を高くしたのね。下の村に水が行かなくなったのでしょう」
「……なぜ、それを」
「去年の秋、上の村が新しい水車を入れたと聞いたわ。あの水車、水位を上げないと回らないの。だから雪解けの前に、両村の村長をお茶に呼びましょう。堰の高さを、水車が回る分だけに直してもらう。下の村には、その代わり、来年の種籾を少し多めに。——それで、たぶん収まるわ」
ヴェルナーは、感心とも呆れともつかない顔で、頭を下げて出ていった。
わたくしは、かじかんだ指を暖炉の火にかざした。村の諍いというのは、火にあたっているあいだに、頭の隅で勝手にほどけていく。……われながら、貧乏性だと思う。休むのが、下手なのだ。
こういうことを、わたくしは覚えている。夫が領内の裁きや帳簿で手一杯なぶん、そういう細かなことを拾って回る。誰の家で薪が足りていないか。どの村で赤子が生まれたか。冬を越すのに、どの一家がいちばん危ういか。
先月は、門番のヨーストの家に、初めての子が生まれた。産後の肥立ちが悪いと聞いて、こっそり薪と滋養の食べ物を届けさせた。夫の名で、ではない。誰の名でもなく。そういう手柄は、名前がついていないほうがいい。もらうほうが、気を遣わずにすむ。
……そういえば、わたくしのしていることは、ぜんぶそうだ。墓も、屋敷も、村の差配も。名前のつかない手が、勝手に動いている。それで、いい。
——思えば、この墓を初めて見たのも、こんな雪の朝だった。
三年前、嫁いできた冬。右も左もわからないまま屋敷の庭を歩いていて、林の切れ目に小さな墓標を見つけた。雪に半分埋もれて、花は枯れ、誰の手も入っていなかった。
夫が大切にしている人の墓だと、すぐにわかった。それなのに墓は、寒々と放って置かれていた。夫は想ってはいても、毎朝そこへ通うほど器用な人ではなかったのだ。
わたくしは、しばらくその前に立っていた。それから屋敷に戻って箒を取り、雪を払った。理由は、自分でもよくわからなかった。ただ、好きな人がこんなにも忘れられずにいる相手を、こんなに寒いところにひとりきりで放っておくのが、忍びなかった。
その最初の朝に、グスタフと会った。
「奥方さま。……あんたさんが、掃くのかね」
「ええ。いけませんか」
「……いや」
老庭師はそれだけ言って、しばらく黙って、それから深く頭を下げた。理由は、そのときはわからなかった。あとで知る。イゾルデが逝ってから、この墓に毎朝手を入れる者は、長いこと、誰もいなかったのだ、と。
それから毎朝、わたくしはここへ来る。誰にも頼まれず、誰にも言わず。
厨房を覗くと、焼き菓子の匂いが、まだ温かいまま漂っていた。思わず、鼻が動く。
「奥方さま。焼きたてのを、ひとつどうぞ」
「……いえ。あとで。あとでね」
言いながら、しっかり一つ、袂に隠した。冷えた朝は、これがある。二番目の妻にも、役得はあるのだ。
夫と顔を合わせるのは、たいてい夕餉の席だけだ。
「……夫人。今日の会計の件、助かった」
「いえ。当然のことですわ」
「うむ」
それで、会話は終わる。夫は口が重い。悪い人ではない。むしろ誠実すぎるくらいだ。ただ、言葉が驚くほど短くて、たまに的も外れる。
「……冷える、な」
「ええ。冷えますわね」
「うむ」
二度目の「うむ」を聞きながら、わたくしは内心で数える。今日の言葉、四つ。昨日より一つ多い。上出来だ。……いや、上出来ってなんだ。
誤解のないように言っておくと、夫は、口下手なだけで、無能な人ではない。むしろ逆だ。領内の帳簿も、村々の境界の裁定も、税の割り当ても、書面を広げれば、よどみなく差配が決まる。数字を睨んで、痩せた年の蔵の底までを、寸分たがえず読む人だ。
ただ、それが人の心のことになると、途端に駄目になる。百件の帳簿は狂いなく合わせても、目の前の妻に「ありがとう」のひと言が、どうしても出てこない。そういう人なのだ。
冬の半ば、隣領から視察の客があった。夕餉の席で、その老貴族はしきりに感心していた。
「いや、見事なものだ。この雪深い土地で、村々にひとつの諍いもない。辺境伯どのは、よほど良い差配をなさる」
「……いや。使用人が、よくやってくれている」
夫は短くそう答えた。嘘ではない。ただ、その使用人に段取りを渡しているのが誰か、夫はたぶん、考えたこともない。
わたくしは、静かに林檎酒を注いだ。老貴族がふと、わたくしに顔を向けた。
「奥方は、退屈ではありませんかな。こんな辺境で」
答えようとしたわたくしより先に、夫が言った。
「夫人は、よくできた人だ。心配はいらない」
よくできた人。——三年で、何度目だろう。
わたくしは微笑んで、頭を下げた。悪気がないのは知っている。知っているから、怒ることもできない。ただ少しだけ、疲れる。その疲れを顔に出さないことも、たぶん、二番目の妻の役目のうちだった。
一度だけ、夫がふと、わたくしの手元を見たことがあった。霜焼けで赤くなった指を。
「……その手は」
わたくしは、とっさに袖の下に隠した。
「寒さのせいですわ。北の冬ですもの」
「……そうか」
夫は、それ以上、聞かなかった。聞けば、その手が毎朝どこで冷えているのか、知ってしまうから。知らないほうが、たぶん、この人には楽なのだ。だから、わたくしも言わない。
時々、侍女たちが気の毒そうな顔をする。奥方さまは、あんなに尽くしていらっしゃるのに、と。
わたくしは、そのたびに笑う。
尽くしている、というのは、少し違う。わたくしは、勝とうとしているわけではない。夫の心を亡き人から奪い返そうとして、墓を掃いているのではない。
むしろ、逆だ。好きな人が、大事な人を、ちゃんと大事に弔えるように。ただ、それだけの手仕事。
恨みたい朝が、なかったとは言わない。霜焼けの手を息で温めながら、会ったこともない少女に妬く朝だって、ちょっとくらいはある。思うだけだ。恨めるほど一番でもないくせに、と自分で自分を笑ってしまう。
だから、これでいい。これで、いいのだ。
三度目の冬の半ば、イゾルデの命日が近づいていた。
その朝、夫はいつもより長く、墓の前に立っていた。黒い外套の背中が、雪の中に、幼い少年みたいに小さく見えた。声はかけなかった。かけるべきではない気がした。
その晩も、夫は寝言であの名を呼んだ。やわらかく、切なく、ひとりの人の名を。
わたくしは、寝台の端で天井を見ていた。
——ああ。この人の一番は、三年経っても揺らがないのだな。
不思議と、悲しくはなかった。むしろ、腑に落ちた、という感じだった。
わたくしはこの三年で、屋敷のことを一通り、使用人たちに教え終えていた。誰が何を担うか。冬の揉め事をどう摘むか。帳簿の付け方も。もう、わたくしがいなくても、この家は回る。
墓だって、そうだ。掃き方くらい、誰かに教えれば済む。
……そう思った瞬間、胸の奥が、しん、と静まった。無音が、肋骨の裏側にそっと積もった。
わたくしの役目は、もう、終わったのだ。
この人を、思い出ごと、自由にしてあげよう。二番目の妻がいなくなれば、この人は誰にも遠慮なく、心ゆくまで亡き人を想える。それが、いちばんの供養だ。
春が来たら、黙って、この家を去ろう。
決めてしまうと、あとは早かった。わたくしは少しずつ、荷を片づけ始めた。嫁入りに持ってきた、数えるほどの品。実家に文を送る算段。誰にも告げず、雪が解ける頃、遠縁の療養先へ移る手筈。
荷を詰めていて、ふと手が止まった。嫁いだ日から使っている、擦り切れた手袋。三年、毎朝これで雪を払ってきた。指の先が薄くなって、霜が沁みる。
これも置いていこうか。……いや、と思い直す。これだけは、持っていく。理由は、ない。ただ、三年ぶんの霜焼けが、しみ込んでいる気がして。
翌朝、わたくしは試しに、墓掃きを若い下女に頼んでみた。
「これからは、あなたにお願いしようと思うの。花の替え方は、グスタフに聞いてね」
「え……奥方さまが、なさらなくても?」
「ええ。わたくしがいなくても、この墓は、誰かが掃くでしょう」
自分で言って、なんだか可笑しくなった。物分かりのいいことを言っている割に、次の朝、わたくしの手はちゃんと箒を提げて、墓の前に立っていたのだから。
「……あれ」
雪を払いかけて、手が止まる。
いけない。もう、手放すと決めたのに。
箒の柄が、指の芯まで冷たかった。しばらく、その冷たさを握っていた。
「奥方さま」
いつの間にか、グスタフが後ろに立っていた。何も聞かないくせに、なんでも見ている目で。片づいた荷のことも、たぶん、とうに気づいている顔をしていた。
「……その手は、まだ、ここにいたいみたいですぜ」
「……余計なこと、言わないの」
「余計なことも、言いますがね」
「さっきは、正直が取り柄だと」
「正直で、おまけに余計。上等な庭師でしょうが」
わたくしは、つい笑った。この人は、いつもこうやって、沈みかけたわたくしを、ひとつまみの軽口ですくい上げる。
最後まで雪を払って、山茶花を替えた。
これが、最後の冬になる。そう思うと、いつもの墓が、少しだけ遠く見えた。
風邪をひいたのは、その数日後だった。
三年、雪の朝に手を晒し続けた身体が、去ると決めた途端に、気を抜いたのかもしれない。熱が出て、指の霜焼けが腫れて、わたくしは朝、寝台から起き上がれなくなった。
人生で初めて、墓を掃きに行けなかった。
窓の外は、静かに雪だった。天井を見ながら、わたくしはぼんやり考えていた。今頃あの墓に、雪が積もっているだろうな、と。三年で初めて、誰にも払われない、まっさらな雪が。
——ちょうど今日は、あの人が墓に行く日だ。
昼前、わたくしはどうにも寝ていられなくて、毛布を巻いて窓辺に寄った。
庭の外れ、林の切れ目。あの墓の前に、黒い外套の背中があった。
夫だった。
箒を持って、雪を払っている。——払おうと、している。けれど、どけた雪を墓標に半分かぶせてしまう。かがんで、それを手で払う。素手で。手袋もしていない。遠目にも、その手が赤いのがわかった。
わたくしの手と、同じ色だった。
花を替えようとして、逆さに挿している。——わたくしには、それがわかる。三年、毎朝やってきたことだから、遠目でも、手つきの拙さが読めてしまう。不器用な背中が、雪の中で、何度もかがんでいた。
三年、わたくしが毎朝していたことを。あの人は今、初めて、自分の手でしていた。
窓の桟が、指の下で冷たい。それなのに、胸の奥だけが妙に熱かった。熱のせいだと、思うことにした。
昼過ぎ、グスタフが薬湯を持って部屋に来た。無愛想な顔で、けれど、いつもより少しだけ丁寧な手つきで、それを枕元に置いた。
「グスタフ。……さっき、窓から見たわ。旦那さまが、墓を」
「へえ。ご覧になりましたか」
「……下手くそね」
「まったくで。三年、奥方さまがどんな手で帰ってきたか。あの人は今日はじめて、自分の手で知りなすった」
「……あなた、旦那さまを庇わないのね」
「庇う義理はありませんや。わしはこの三年、奥方さまの手ばかり見てきたんで」
わたくしは、少し笑った。少し、泣きそうにもなった。
グスタフは、薬湯の湯気の向こうで、めずらしく長く黙った。沈黙が、雪みたいに、部屋にゆっくり降りた。
「奥方さま。……荷を、畳んでなさるね」
わたくしは、答えなかった。答えは、部屋の隅の鞄がしてくれていた。
「わし、三年、黙ってたことがあるんです。……こういうことは、他人が口を挟むもんじゃねえ。旦那さまが、自分で気づくのを待ってた。けど、奥方さまが本気で発つとなりゃ——もう、待っちゃいられません」
「……何を、決めたの」
「旦那さまに、言うてやりましたよ。二番目の墓ばかり、そんなに丁寧に掃いて。一番そばにいる人を、いっぺんでも数えたことがおありで、と」
ことり、と、薬湯の湯気が揺れた。
「それと、もう一つ。あの人が半分だけ胸に埋めて、忘れたふりをしてた言葉を——ちゃんと、思い出させてやりました。イゾルデお嬢さまが、最期に遺した言葉でね。その場には、坊ちゃまと、わしと。……けど、覚えていたのは、わしだけで」
「……言葉?」
グスタフは、立ち上がった。それ以上は、言わなかった。
「残りは、旦那さまの口から、お聞きなせえ。わしが先に言っちゃ、順番ってもんが、違いまさ」
部屋の戸が、静かに閉まる。
わたくしは、しばらく天井を見ていた。
瞼の裏に、さっきの背中が残っていた。真っ赤な手で、逆さに花を挿していた、あの背中が。
けれど、と、わたくしは思う。
気づいてくれたのは、うれしい。うれしいけれど、それで覚悟を崩すのは違う気がした。一度掃いてくれた程度で、ほら、やっぱりわたくしが要るでしょうと居座るのは。それではまるで、掃かれない雪をわざと積もらせて見せたみたいだ。そんな女には、なりたくない。
わたくしは春に去る。決めたことだ。熱が下がったら、予定どおりに。
——そう、自分に言い聞かせた。言い聞かせなければならないくらいには、心が揺れていた。
わたくしは、袂に隠したままだった、冷えて固くなった焼き菓子を、そっと握った。
最後の雪の日に、夫はわたくしの部屋の戸を叩いた。
熱はもう引きかけていた。わたくしは、荷をまとめた鞄の隣に、身を起こして座っていた。もう少しで、春が来る。もう少しで、わたくしはこの家を出る。
「……入って、いいか」
夫の声だった。いつもの、短い声。けれど、その短さの奥が、いつもと違って、震えていた。
「どうぞ」
入ってきたエルンストは、両手が真っ赤だった。手の甲に、霜焼けの腫れたあとがある。
夫は、荷をまとめた鞄を見た。それから、わたくしを見た。しばらく言葉を探して、口を開けて、また閉じた。
滑らかな言葉は、この人にはもともと無い。今はそれが、いっそう無い。
「……夫人」
「はい」
それきり、言葉は続かなかった。
代わりに夫は、両手を、そっとわたくしのほうへ差し出した。手のひらを、上に向けて。素手で雪を払い、逆さに花を挿し、何度もかがんだ、あの手を。
言葉より先に、その手が、三年ぶんのことを告げていた。わたくしと、同じ色をして。
夫の耳が赤かった。霜焼けとは、たぶん、別の理由で。
「墓は、俺が掃く」
絞り出すような声だった。
「いや。……二人で、掃く。お前が、教えてくれ。花の替え方も、雪の、どけ方も。俺は、下手だから。……三年、お前がやってたことを、俺は、何も、知らなかった」
「今朝……墓に、雪が。三年、一度も、積もらなかったのに」
夫の声が、掠れた。うまく続かないらしく、手が、宙で所在なく止まる。
「……怖く、なった。お前の、いない朝が。暖かい部屋も。片づいた机も。朝の、『冷えますわね』も。……全部、お前が、いたからだと。いま、わかった」
夫は、一歩近づいた。
「あの日……俺は、イゾルデの、枕元にいた」
夫の声が、遠くを見ていた。
「あいつは、俺の手を、握って。……もう、指に力も入らないのに。……『泣かないで』って」
わたくしは、息を止めた。
「『次に、あんたのそばに来る人を、ちゃんと見てあげて』。……子供が、精一杯選んだみたいな言葉で、そう言った」
会ったこともない少女の、最期の声が、いまこの部屋に、ひとつだけ灯った気がした。
「なのに俺は、その半分を、忘れてた。『泣かないで』の、先を。……グスタフに、言われるまで」
夫は、握った拳を見た。
「弔ってさえいれば、それでいいと思ってた。あいつが、いちばん頼んでいったことを、俺は、いちばん、放っておいた」
夫の、真っ赤な手が握りしめられた。
「——お前を、ずっと、放っておいた」
沈黙が、二人の間に積もった。わたくしは、うまく息が吸えなかった。
「行くな」
夫は、言った。
「お前は……二番目じゃ、ない」
わたくしは、俯いた。俯かないと、こぼれそうだった。
いけない。ここで泣いたら、この人がまた、うろたえる。わたくしは、なんとか声を絞り出した。
「……ずるい人ですわね、あなたは」
「……ずるい?」
「ええ。わたくし、明日にはここを出るつもりでしたのよ。全部、綺麗に片づけて。あなたに、面倒をかけないように」
わたくしは、顔を上げた。もう、隠せなかった。
「それを、こんな、最後の最後で。ひとの覚悟を、崩さないでくださいまし」
言葉が、続かなかった。夫が、ぎこちなく手を伸ばした。けれど、たしかに。真っ赤な霜焼けの手が、わたくしの同じ手を、そっと包んだ。
冷たいはずの、二つの手が。触れたところから、じんわりと、温かかった。
三年、雪ばかり払ってきたこの手が、初めて、誰かに温められていた。
「ヴィオラ」
夫が、言った。
わたくしの、名前だった。
三度目の冬に、初めて。寝言でも、亡き人の名でもなく——わたくしの名が、この人の口から、体温を持ってこぼれた。
雪。箒。名前。
……ずっと、冷たいものばかり数えてきた気がする。
「……いま、はじめて」
わたくしは、震える声で言った。
「あなたに、名前で、呼ばれました」
夫は、何も言わなかった。ただ、握った手に、力がこもる。
——イゾルデさま。
わたくしは、会ったこともない少女に、心の中で呼びかけた。あなたが最期に遺した、たったひと言。それが三年かかって、いま、この人にちゃんと届きました。あなたの大事な人は、ようやく、隣を見ましたよ。
恨まずに掃いてきた墓の主が、いちばん最後に、わたくしの背をそっと押してくれた気がした。
「一つ、聞いても?」
「……なんだ」
「イゾルデさまのお墓、明日から、本当に二人で掃くのですか。あなた、逆さに花を挿すのに」
「……直す。お前が、教えろ」
「まあ。人にものを教わる気になったのね。三年かかりましたわね」
「……減らず口は、グスタフに、似てきたな」
わたくしは、笑ってしまった。涙のこぼれた顔で、みっともなく。
それでも、たぶん明日は、この三年でいちばん温かい朝になる。
春が、少しずつ雪を溶かしていく。
わたくしと夫は、朝、二人で墓へ行く。夫の掃き方は、相変わらず下手だ。雪をどける先を間違えるし、山茶花はいまだに、逆さに挿しかける。
「そこ、逆さですわ」
「……む。こう、か」
「ええ。上出来です」
墓標の下のイゾルデは、きっと笑っているだろう。こんな下手な掃き方で、と呆れながら。それでも、大事な人の隣に誰かがいる朝を、わるくないと思ってくれていたら——それでいい。わたくしは、会ったことのない少女に、白い山茶花を一輪、手向ける。今日は、逆さではなく。
「奥方さま。旦那さま。朝から仲のよろしいことで」
剪定鋏を提げたグスタフが、通りすがりに、にやりと笑う。
「グスタフ。膏薬、もうひとつもらえるかしら。二人分いるの」
「……へえ。臭いのを、たっぷり」
庭の外れの、小さな墓へ。
雪の上に、足跡が、二人ぶん、並んで続いている。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、「夫が今も想う、亡き初恋の墓を、毎朝掃いていた二番目の妻」のお話です。
ヴィオラがしていたのは、剣でも魔法でもありません。恋敵とも呼べる人の墓の雪を払い、花を替える——ただ、それだけ。恨んでもいいはずなのに、彼女は恨みません。「恨めるほど、自分は一番ではない」と知っているからです。この、恨まないという選択が、いちばん静かに痛いところでした。
書きたかったのは、当たり前に払われていた朝の雪が、掃かれなくなって、初めて誰かの目に映る——その一瞬でした。当たり前だったから、誰も、その手のことを数えなかった。エルンストが下手くそに、手を真っ赤にして墓を掃く姿を、どうか、ヴィオラと一緒に見てあげてください。
そして大切にしたのは、亡きイゾルデを、悪者にも、消すべきものにもしなかったことです。物語の救いは、初恋を忘れることではなく、彼女が最期に遺した願いのとおりに、隣の人を見ること。亡き人を消さずに、その願いごと、今を救いたかったのです。
一番になれなくても、そこにいる人の名を、あたたかく呼べるか。あなたの隣にも、きっと、それを静かに待っている手が、あるのかもしれません。
◇◆◇ 「去りし令嬢の、その後の静けさ」シリーズ ◇◆◇
声を荒げることもなく、ただ静かにその家を去ろうとした令嬢たち。残された者が、失ってはじめて気づく——名もない献身の重さに。すれ違いと、後悔と、再会の余韻で読ませる、一話完結の短編シリーズです。
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