第5話
雪月さんと偶然電車内で出会ってから数日が経ち、再びVIP限定日がやってきた。
俺はいつも通り、高校から一直線で喫茶店に向かい、ドアベルを鳴らして入店する。
「あっ! いらっしゃいませ、笹葉くん♪」
いつも通りに眩しい笑みの雪月さんが出迎えてくれて、学校の疲れが吹き飛んだ。
「今日もいつもの頼む!」
「うん、ご注文承りました。ちょっと待っててね」
いつもの席に座り、相変わらず美しい毛並みのマリンさんに熱い視線を送る。
嗚呼、その白銀の毛並みに顔を埋めてスーハ―したい……。
「お待たせしまし――って、笹葉くん何見てるの?」
「ん? ああ、いや、ちょっと思うところがあってな」
「何か悩み事? 私で良ければなんでも手伝うよ!」
ウインナーコーヒーを運んできてくれた雪月さんが、食い気味にそう言ってきた。
「実は……前々から思ってたんだ。世には〝猫吸い〟なるものがあるだろ?」
「うん。猫の体に顔を埋めて呼吸するものだね。それがどうかしたの?」
「――猫吸いをマリンさんでしたいんだ!!」
「へー。…………へぇっ!?!?」
一瞬の間を挟んで、雪月さんは激辛料理でも食べたように顔を真っ赤にする。
かと思ったら、次は蒸気機関車のように頭のてっぺんから蒸気を放出させていた。
「そっ、そそそそ、それ本気で言ってる!?」
「えっ。でもこういうのって普段からしてるんじゃないのか?」
「そんなことするわけな――……あ。ササバニウムの件のことかぁ~~……っ!!」
「?」
猫飼育者は猫吸いを一度は経験していると友人から聞いたが、またガセ情報でも伝えられたのだろうか?
「まぁ、イーブンじゃないよね。笹葉くんから定期購読ならぬ定期購吸するための服を毎週貸してもらうことになってるんだし……」
彼女が言っているのはおそらく、俺の服などを一週間に一回貸し出すもののことだろう。
電車でばったり会った際、「ジャージの匂いが薄れてきたから新しいのが欲しい!」とせがまれたのだ。
マリンさんがそんなにも気に入っていただけたなら俺も大歓迎だ。
なので、喫茶店に来る時は匂いが付いた服を渡し、貸していた服を回収するということになった。
「でも、マリンさんが嫌がるならやめた方がいいよな。無理言ってごめん!」
「っ……! い、いやじゃ、ない……よ?」
「本当か? 無理そうだったら遠慮なく断ってくれても……」
「大・丈・夫! 逆にお願いしたいくらいだし! ねっ!?」
「お、おう? そこまで言うなら甘えちゃおうかな……」
互いの鼻が当たりそうなほど顔を近づけてそう宣言してくる雪月さん。
超高速で彼女の目がぐるぐる回っており、逆回転しているように見えるストロボ効果まで発生している。
すーはーと深呼吸をしている雪月さんを横目に、本当に大丈夫なんだろうかと心配になった。
そして、終いにはぺちんと自分の頬を叩いて俺に向き合う。
「――よしっ! 笹葉くんっ!!」
「は、はい!」
「…………んっ」
「……ん?」
雪月さんが両手を広げて、何かを期待しているような視線を向けてきていた。
「その……流石にお腹に顔を埋められるのは恥ずかしいから、抱き合う感じでお願いね……?」
「んッ!?」
……待て、待て待て待て。なんで雪月さんを吸うことになってるんだ!?
なぜそんなことを……はっ。「マリンを吸うのは至難の業……。私で練習しなさい」ということか?
雪月さんはなんて優しい人なんだ。心の器の大きさが琵琶湖くらいある気がする。
しかし、ちょっと待ってほしい。
(頭を撫でるならまだしも、美少女を抱きしめるというのは思春期男児には中々ハードルが……――いや、待てよ。前の電車では抱き着かれてたんだし、ハードルは低くなってるような気も?)
顔に上ってきていた熱が段々と引いてゆく感覚がした。
誠意という名の、私利私欲のない思いで俺に向き合ってくれているんだ。俺も誠意を以って接そう!
(いきなりはびっくりしたけど、これで合法的に笹葉くんの匂い吸えるし、抱き着くこともできちゃう! ふ、ふへへへへへへ~~♡♡)
何やら雪月さんから変な笑い声が漏れている気がしたが、多分聞き間違いだろう。
俺は両手を広げる雪月さんに近づく。
ハードルは下がったとはいえ、心臓は高鳴っている。
「それじゃあ遠慮なく……」
「う、うん。笹葉くん……きて♡」
エッチな雰囲気を感じるが、雪月さんがそんな下心を持っているとは思えない。
俺も邪心は追い出し、彼女に近づいて背中に腕を回して抱きしめた。
ドクドクと直で心臓の鼓動が聞こえる気がするし、伝わっている。
そして、鼻先には彼女の首筋がある状況だ。
(猫吸いの練習なんだから、匂いを嗅いだ方がいいんだよな……? えっ、いいのかなァ!?)
ぐるぐると思考を巡らせていると、俺の首筋にふぅっと生暖かい吐息がかかった。
刹那、雪月さんは俺の肩に頭を預ける。そして――
「すーー……♡♡」
俺の匂いを嗅ぎ始めた。
なるほど、こうやってやればいいとお手本をやってくれたわけだ。勉強になるなぁ。
(ふふふ……ふへへへへへ♡ 合法的に笹葉くんと抱き合ってる! 合法的にササバニウムを吸えてる!! 幸せ過ぎてもう……もう……! えへへへへへ~~♡♡)
なんか息が荒い気がするが、これもコツなのだろう。
さて、羞恥心はもちろんあるが、これもマリンさんと仲良くなり、堪能するための第一歩だ。
猫マスターに俺はなるッ! やるぞ!
「――すんっ」
「ひゃんっ!」
「え! ご、ごめん!!」
彼女から漏れ出た艶のある声に驚き、思わず距離を取って謝る。
熟したリンゴのように真っ赤な顔をしている雪月さんは、口ごもりながら答えた。
「えっと、びっくりしちゃってごめんね? でも……その、いやじゃないかったから……♡」
「そ、そっか……。えーっと、やめた方がいいの――」
「続けるよ、笹葉くん」
「……うす」
気迫にノーと答えられず、俺は首を縦に振る。
再び彼女の首筋に近づき、匂いを嗅ぎ始めた。そこからは柔軟剤の香りや、香水のような華やかな香りが鼻腔を擽る。
香りと熱で、自分の脳みそがドロドロに溶けていきそうだった。
(にしても、熱烈なハグをしながら互いの匂いを嗅ぎあ合うという今の状況……。雪月さん目当てで店に来る客が見たら爆発四散ものだよな。
まあVIP限定日で通常客は来ないし、俺以外のVIPは夜にしか来ないから死人が出ることはないか)
そう思い、俺は雪月さんと抱き合いながら彼女の匂いを吸い続ける。
その後、辞め時がわからなくなって小一時間この状態が続くのであった。




