第二幕 黄泉の軍
「逃げろ!逃げるんだ!」
佐藤梧の叫び声が霧の中に響く。狂ったように走り続ける。
高橋健は血まみれの魚刀を握りしめ、執拗に追う。額の汗が血と混じり、顔全体が赤黒く染まる。
(あいつを逃がしたら……美咲が危ない)
考えだけで、握る手に力が入る。魚刀の柄が軋む音。
後ろから熊谷剛蔵ら七、八人の男たちが追ってくる。皆、面白がっている様子だ。
「いい若造だ、なかなか凶暴でござるな!」
熊谷の声が響く。だが高橋健には聞こえない。耳鳴りがしている。殺した二人の顔がちらつく。
佐藤梧が振り返る。血まみれの高橋健が鬼のように追ってくるのを見て、恐怖で瞳孔が開く。
「うわあああっ!」
意味のない悲鳴をあげ、さらに全力で走る。
その時だ。
空中で「ヒュー」という音。何かが飛んでくる。
「バサッ」
巨大な黒影が、追う者と追われる者の間に降り立つ。
降り立つ音は小さい。だが存在感が圧倒的だ。高橋健は突進していた勢いで、それにぶつかりそうになり、足を取られて転ぶ。ごろごろと数回転する。
後ろから追ってきた男たちも急停止。一斉に顔を上げ、何かを見て、ゆっくりと後退し始める。
転がりながら立ち上がる高橋健。目に飛び込んできたものに、息を呑む。
(かまきり……?)
いや、違う。確かにかまきりの形をしているが、大きすぎる。体長二丈(約六メートル)はある。全身が漆黒に輝き、四本の足には鋭い逆棘が生えている。
そして前肢。鎌だ。死の鎌を掲げた死神のようだ。森冷たさを放ち、緑の目がきらりと光る。獲物を観察している。
「黄泉軍……鎌鼬型」
誰かが呟く。地図に書かれていた怪物だ。本当にいるのかと疑っていたが、目の前にある。
高橋健の額に汗が噴き出す。足が震える。立っている位置は黄泉軍の右側。動けない。動いたら、まず襲われる。
熊谷剛蔵たちも汗をかいている。彼らは黄泉軍の正面にいる。ゆっくりと後退を続ける。
黄泉軍の二本の鎌が、突然動く。
「シュッ、シュッ」
鬼魅の如く弾かれ、戻る。誰もその動きを見られない。
熊谷の左右から、二人の男が消える。次の瞬間、黄泉軍の鎌に貫かれ、ぶら下がっている。胸を突き破られ、血がしたたり落ちる。
「ぎゃああっ!」
「助けて……!」
惨叫声。血の滴る音。黄泉軍は緑の目をきらめかせ、鎌に刺さった二人を見下ろす。
「どうせ死ぬなら……」
熊谷剛蔵が他の者に言う。声は低く、緊迫している。
「散れ!みんなバラバラに逃げろ!」
恐怖に震える五、六人の男たちが、一斉に四方へ逃げ出す。草を踏む音、叫び声、慌てふためく足音。
だが、言った本人である熊谷は動かない。その場に立ち、黄泉軍を観察している。
黄泉軍は鎌に刺さった一人の頭を「バリッ」と噛み砕く。咀嚼する音が不気味に響く。味わっているかのようだ。
そして、羽を震わせる。
「バサバサッ」
一陣の疾風が巻き起こる。砂塵が舞い上がる中、黄泉軍が浮かび上がる。口の中で「獲物」を噛みながら、逃げる者たちを追いかける。
高橋健は震える足で、ゆっくりと首を回す。黄泉軍が空を旋回し、逃げる者たちの上を東へ西へ飛び回るのを見る。
猫が鼠を弄ぶように。食いかけの獲物を味わいながら、次の獲物を物色している。
遠くから、また惨叫声が聞こえてくる。次から次へと。
(あの連中が逃げたから……こっちは見向きもされなかった)
高橋健は胸を撫で下ろす。あの怪物が注意を向けていなかったら、今日こそ命はなかった。
「命拾いしたでござるな」
熊谷剛蔵が胸を叩き、大きく息をつく。高橋健を見て、少し驚いた表情をする。
「お主、わしの計略を見破ったか?なかなか賢い若造でござる」
(実際は……足が震えて動けなかっただけだ)
高橋健は内心で呟く。だが口には出さない。武士の面目もある。
「小子、わしら安全区域から出てしまった。ここは長居無用、早く立ち去るがよい」
熊谷はそう言うと、振り返らずに走り去る。霧の中に消える。
高橋健は恐怖で震えていた感情を抑え込む。深呼吸。そして周囲を見回す。
佐藤梧の姿はない。黄泉軍が現れた混乱で、どこかへ逃げてしまった。霧が深く、探しようもない。
(あの野郎……よく逃げられたな。俺はあの怪物を見て動けなかったのに)
少し感心するが、すぐに違う考えが浮かぶ。
(いや、あいつは一心不乱に逃げてた。もしかしたら、後ろの黄泉軍に気づいてなかったのかも)
そう思うと、むしろ腹が立つ。自分があれほど恐怖していたのに。
立ち上がり、周囲を警戒しながら、安全区域へ戻る道を探す。地図を思い出す。どこまで来てしまったか。
霧が濃くなる。夕方近いのか、光が弱まっている。
足元に何かがある。見下ろすと、血まみれの布きれ。さっき殺された者のものか。
(ここにいては危険だ。早く安全区域へ)
ゆっくりと、慎重に歩き始める。耳を澄ます。遠くの惨叫声はもう聞こえない。黄泉軍はどこかへ去ったか、まだ獲物を追っているか。
一歩、また一歩。炭化した草を踏む「カシャカシャ」という音だけが響く。
突然、背後から足音がする。
「!」
振り返り、魚刀を構える。だが誰もいない。霧が動いただけか。
(神経質になりすぎだ)
自分に言い聞かせる。だが心臓の鼓動は早い。初めて人を殺した日の夜。あの時もこんなに怖かったか。
違う。あの時は怒りと決意があった。今はただ、生きたいという本能だけだ。
安全区域の目印となる岩が見える。ほっとする。あと少しだ。
その時、また足音。今度は明確に、右側から。
「誰だ!」
声を張り上げる。魚刀を構えたまま、ゆっくりとそちらへ向き直る。
霧の中から、人影が現れる。
熊谷剛蔵だ。また戻ってきた。
「小子、まだここにいたのか」
熊谷は少し驚いたように言う。彼も安全区域へ戻る途中らしい。
「一人で戻るのは危険だ。わしと一緒に行くか?」
高橋健は一瞬ためらう。この男も危険かもしれない。だが、少なくとも黄泉軍よりはましだ。
「……お願いします」
そう言って、熊谷の後について歩き始める。
二人は無言で歩く。霧が深まる。夕闇が迫っている。
「今日はここまでだ。夜に動くのは死を招く」
熊谷が言う。前方に岩場が見える。乱石が積み重なり、小さな洞穴がいくつかある。
「あそこで一夜を明かそう。交代で見張りを立てる」
高橋健は頷く。確かに夜に動き回るのは危険すぎる。今日はもう限界だ。
洞穴に入る。中は狭いが、二人がなんとか入れる大きさだ。外の乱石が隠れ蓑になる。
「まずは腹ごしらえだ。食料はあるか?」
熊谷が聞く。高橋健はうなずき、背負っていた包みを下ろす。干し肉と水筒を取り出す。
「お前、今日あんなことをして、後悔はしていないか?」
突然の質問に、高橋健は手を止める。今日あのこと。藤原成と佐藤魁を殺したことだ。
「……していません。あいつらが生きていたら、弟と妹が危なかった」
「家族か」
熊谷は干し肉を噛みながら、高橋健をじっと見る。
「家族のためにここまでするか。なかなか筋が通っている」
「お前は?」
「わしはな。城主の妾を盗んだからだ」
突然の告白に、高橋健は目を見開く。
「妾を……盗んだ?」
「ああ。それがバレて、家族全員が巻き添えを食った。それで怒って、城主をぶっ殺して逃げ出した」
熊谷は淡々と話す。まるで他人事のようだ。
「行くところがなくて、ここに来た。成仏するか、仙人になるか」
高橋健は言葉を失う。この男も、かなりの事情を抱えている。
「お前は若いのに、なんでここに?」
「弟と妹のためです。弟は伊勢神宮に、妹は神代草がなければ治らない病気で」
「ふむ。そちらの方が筋が通っているな」
熊谷は水筒を取り、一口飲む。そして高橋健に渡す。
「今夜は交代で寝よう。一人が寝ている間、もう一人が見張る。同意か?」
「はい」
「よし。まずはわしが見張る。お前は寝ろ。明日はもっと深くへ行く」
高橋健は横になる。岩の床は冷たいが、疲れが一気に襲ってくる。
目を閉じる前に、最後の考えが浮かぶ。
(佐藤梧……生きているか。もし生きていたら、必ず復讐に来る)
そしてもう一つ。
(神代草……どこにある)
外から、黄泉軍の遠吠えのような音が聞こえてくる。
夜が、深まる。
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