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第一幕 黄泉の入口

江戸末期、貧しい魚売り少年・高橋健は弟妹の未来を賭け、千年に一度開く「常世之隙」に挑む。

黄泉と現世の狭間で、妖しい怪物「黄泉軍」が跋扈する死地。

そこで出会ったのは、逃亡武士・熊谷剛蔵と、高橋を狙う藤原成の一行だった。

命を懸けた奪い合いの中で、高橋は初めて人を殺す。

血に染まった魚刀を握りしめ、彼は決意する――神代草を手に入れ、陰陽師として弟妹を守ると。

```

高橋健、魚刀を握る手に汗。額もびっしょりだ。


周囲は全て灰色。木も草も、神代の植物が黄泉の気に侵され、色を失っている。十万年もの間、この姿のままだ。


時間が止まったかのような風景。幽玄の白霧が立ち込める。


この場所は「常世之隙」。黄泉と現世の狭間と言われる。


伝説によれば、十万年前、伊邪那美と須佐之男がここで決戦を繰り広げ、共に滅んだ。それ以来、この地は神代の遺跡となった。


十万年の間、ここの霧はほとんどが不気味な血紅色だった。その血霧は全てを呑み込むと言われ、人も鬼も神も、容易には近づけなかった。


だが、千年に一度だけ、この絶殺の陣が網を開く。血霧が白霧に変わるとき、普通の人間だけが中に入ることが許される。


妖や魔、他の衆生は一歩も入れない。入れば、この詭異な霧が黒い水に変えてしまうらしい。どんなに強い修験者でも、この霧の侵蝕には抗えない。誰にも理由は分からない。


ここは神々の最後の葬送の地。当然、神々が携えていたものも、共にここに葬られている。どれだけの修行者がこれを狙ったか。


同時に、ここには「神代草」という名の霊薬が生える。修行者たちが至宝と崇める傷薬だ。


千年に一度「常世之隙」が開く時が来ると、修行者たちが蠢き出す。だが修行者自身は入れない。そこで凡人を唆して中に入らせ、探させる。


誰であれ、神代の遺物や「神代草」を見つけられれば、無条件で仙門に入れる。


だが、ここにはもう一つ、怪物がいる。神々の陵を守る怪物と言われ、血を好み、人を草刈りの如く殺す。


だから、行き場を失った者か、命知らずでなければ、誰がここに冒険しに来るだろう? 仙になるにも、命があってこそだ。


高橋健は行き場を失った者ではなかった。命知らずでもなかった。十七歳、年は若いが、もう子供ではない。この土地では、この年で嫁をもらって子供を作るのが普通だ。


彼には弟と妹がいる。父母は既に亡く、三人で暮らしている。


弟の幸は十五歳、伊勢神宮の神官に見込まれている。だが正式な推薦が必要だ。


妹の美咲は十三歳、体が弱く、神代草でなければ治らない病を患っている。


そのため、高橋健はここに来た。弟の未来と、妹の命のために。


(あと少し……神代草さえ見つければ)


魚刀を握りしめ、息を潜める。周囲の霧の中に、何かが動いている。


彼にはわかる。生まれつきの「浄眼」で、穢れを見通せる。


霧の中の影……人間ではない。黄泉軍だ。


「逃げろ! 高橋め、逃げられると思うなよ!」


三人の少年が、長刀を手に、灰色の山肌を駆け上がってくる。


先頭は藤原成。地元の藤原氏の傍流、武士の息子だ。後ろには佐藤魁と佐藤梧、成の腰巾着だ。


高橋健は振り返らず、走り続ける。足元で「カシャカシャ」と音がする。炭化した草が粉になる音だ。


「聞こえてるだろ、止まれって!」


藤原成の声が追いかける。


高橋健はようやく振り返り、叫んだ。


「狂ってるのか、藤原! ここがどこだか分かってるか?」


止まるわけにはいかない。止まれば命を落とす。


走り続ける。背後からは罵声が飛んでくる。


周囲の霧の中から、ちらほらと他の冒険者たちが顔を出す。追いかけっこする四人を見て、一瞬目を丸くする。


(若造がこんな危ないところで……)


誰もがそう思った。


「こいつ……犬かよ、本当によく走る」


佐藤梧が息を切らして言う。


「そうだよ、兄さん。もう限界だ」


佐藤魁も藤原成に呼びかける。


藤原成本人も走れなくなった。石に手をかけ、大口で息をする。佐藤兄弟も傍らで止まる。


高橋健もへとへとだ。後ろの者が追ってこないのを見て、やはり石に手をかけ、振り返って腰を下ろす。


息を切らしながら、三人を指さして首を振る。


「藤原……本当に狂ってるのか? 喧嘩するにも場所を選べよ」


藤原成は長刀で石を「カンカン」と叩く。


「お前が悪いんだよ。豆腐屋の娘に惚れたとかで、こっちを見下してるだろ? 魚売りの分際で、仙になろうって? 俺の頭の上に乗っかろうって?」


彼の父親は長豊城の城代の配下の保長の一人、有名な藤原保長だ。管轄区域には高橋の家も含まれる。


子供の頃から高橋健とそりが合わず、よく高橋にやられていた。だがそれは子供の喧嘩だから、父親が権力を笠に着るわけにもいかない。近所の噂話で溺れ死ぬ。


今回、高橋健が「常世之隙」に冒険に来ると知って、飛び上がった。家にコネがあっても高橋に勝てないのに、もし高橋が仙人になったらどうなる?


絶対に高橋に頭を踏まれたくない。そこで二人の腰巾着を引き連れて来て、毒手を加えようとした。


高橋健は三人の手にした明るい長刀を見て、息を切らしながら聞く。


「本当に俺を殺す気か?」


三人は互いにニヤリとする。藤原成は周りを見回し、陰気な口調で言う。


「ここは街中じゃない。人が死んでも普通だ。誰がやったか、誰も知らないよ」


高橋健は驚いた。小さい頃から喧嘩はしてきたが、相手を殺すところまで行ったことはない。法があるからだ。


「マジで頭おかしいんじゃないか? ここまで追いかけてきて、俺が仙になるのを恐れてるって?」


言いたいことは簡単だ。お前らだってここに冒険に来る勇気があるなら、自分で宝物を見つけて仙人に渡せば自分が仙になれる。俺が仙になるのを恐れる必要があるか?


「はあ!」


藤原成は嗤う。周りを見て、どうやら悔しそうだ。


彼は天狗になっていたわけではない。仙人の側に侍女として送り込まれた姉が、何か内幕の情報を得て、厳しく警告したのだ。なぜかは教えてくれなかった。


彼の家は、仙人の側に侍女として姉がいるからこそ、父親が保長の地位を得られた。


「おとなしくしろよ。早く家に帰れ」


高橋健は手を振り、魚刀を持って立ち上がり、振り返って去ろうとする。


藤原成一瞬呆然とする。すぐに怒りが爆発する。子供扱いされた。


「待て!」


「追いつけるなら追ってみろ。ここがどれだけ危ないか、お前らも知ってるだろ。死にたくなければな」


高橋健は一言残し、自分の道を進む。相手にする気もない。


藤原成は周りを見て、どうやらやっと気づいた。すでにかなり深く入り込んでいる。これ以上進むと本当に危ない。


彼らはもともと高橋健を尾行してここに入り、奇襲を仕掛けるつもりだった。だがこの鬼の場所は草が炭化していて、歩くたびに「カシャカシャ」音がする。近づく前に高橋に気づかれてしまい、気づけばここまで来てしまった。


「いいよ、逃げろ、高橋。逃げられるなら逃げてみろ。逃げたって、逃げられるのはお前だけだ。お前の家にはまだ二人の小さいのがいる。後で奴らを始末すればいい」


藤原成はそれ以上中には入らない。だが、チンピラのように、無頼の脅しをかます。


その言葉で、高橋健の足が止まる。ゆっくりと振り返る。


相手の言う通りだ。もし自分が本当に帰れなかったら、こいつらが必ず家の弟と妹をいじめる。


脅しが効いたのを見て、佐藤魁は猥褻な笑みを浮かべて藤原成に油を注ぐ。


「あの妹ちゃん、美人の卵だよ。肌も水みたいにすべすべで、剥いたら……」


「黙れ!」


言葉がどんどん下品になり、それにふさわしくない動作までついてくる。高橋健は怒りが爆発する。魚刀を三人に向けて突きつけ、歯を食いしばって言う。


「死にたいのか!」


藤原成はからかうように高橋健に手招きする。


「逃げるなよ、来い! ここで待ってる。俺は死にに来たんだ。来いよ、俺を殺してみろ!」


高橋健は怒りをこらえ、無表情で三人を見つめる。突っ込んで命を張るようなことはしない。唇をぴったりと結んでいる。


普段なら、小さい頃から魚を捌いて力もあるから、一人で三人を相手にしたこともある。だが今は三人とも刀を持っている。自分は刀を通さない体ではない。一突きされたら冗談じゃない。この畜生どものために命を落とす価値はない。


彼が反応しないのを見て、三人はすぐに野次を飛ばし始める。倒彩を送り、高橋健を臆病者だと罵り、何様のつもりだと脅す。


だが高橋健の目は三人の後ろから次々に到着する他の冒険者たちに向けられる。その中で、長刀を持つ虬髯の大男がいる。虎の背に熊の腰、鷹の目に狼の顧み、一股の凶気を漂わせている。どう見ても善玉ではない。


高橋健の口元がほころぶ。冷たい笑みだ。


あの人たちが近づいてくるのを待ち、彼は突然魚刀を振り上げて大喝する。


「神代草を出せ!」


藤原成三人は呆然とする。高橋が頭がおかしくなったかと思う。だがすぐに違うことに気づく。


左右から来た人々が急に止まり、一斉に怪しい目で三人を見つめている。その奇妙な視線に、三人は背筋が寒くなる。


三人が皆若造で、年も若いのを見て、誰かが足を動かし始める。三人に近づいてくる。真偽はともかく、まずは確認しようというわけだ。


「違う、違うよ! 神代草なんて持ってない! こいつと因縁をつけに来たんだ、神代草を採りに来たんじゃない!」


藤原成は慌てて説明する。


だがそんな言葉、誰が信じるだろう? 命を落とすかもしれない場所に因縁をつけに来るなんて、冗談じゃない。ガキどもがみんなバカだと思ってるのか?


この説明はかえって余計なこと、黒を塗りたくるようなもので、ますます三人がやましいことを隠していると疑わせる。


「出せ!」


高橋健が再び大喝し、魚刀を持って直接三人に向かって突進する。


彼はこれまで魚しか殺したことがない。人を殺したことは一度もない。だが今日は、この三人を殺すと決めた。


なぜなら藤原成が思い出させてくれたからだ。もしこの三人を逃がしたら、自分が今回帰れなかった場合、弟と妹が危険にさらされる。この野郎どもは今や人を殺す勇気さえある。何をしないと言える?


今日こそ、この後患を断ち切る。


三人は慌てふためく。引き返して逃げようとするが、すぐに他の人々が面白がって飛び出し、行く手を阻む。


大変だ。高橋健が刀を提げて追いかけるだけでなく、七、八人の男たちが一緒に追いかけ、包囲する。


元の道に逃げられない三人は、横に突進する。一方で「神代草なんて持ってない」と叫びながら、慌てふためいて逃げる。


高橋健は冷たい顔をして、刀を提げて執拗に追う。一団が追いかける。


しばらくすると、一団は安全なルートから外れていることに気づかない。


皆、来る前に外の古城で無料配布の地図を受け取っている。地図には安全ルートが示されている。「常世之隙」が過去に開くたびに、人命をかけてまとめられた経験だ。


結局、藤原成三人は七、八人の青年男性たちに立ちふさがれる。


「何するんだ!」


藤原成は恐怖で言葉もろくに出ない。刀を乱暴に振り回し、相手が近づくのを防ぐ。


あの虬髯の大漢は明らかに訓練を受けている。素早く藤原成に接近し、斬りつけられる刀を体をかわして避け、藤原成の手首を掴む。グイッと捻られ、藤原成は「イタタ」と声を上げ、手から刀が「カラン」と落ちる。


佐藤兄弟も緊張でいっぱいだ。短刀を手に、数人が近づかないように脅す。普段は高橋健のような同年輩やもっと若い者をいじめるのは得意だが、これらの青年男性たちに会うと、大人に会ったような感じがして、つい臆病になる。


虬髯の壮漢は藤原成がどう説明しようと構わず、もう藤原成の体をくまなく探り始める。結局、神代草なんてどこにもない。


彼は佐藤兄弟を見て、また高橋健のほうを見る。藤原成を突き飛ばし、佐藤兄弟を探そうとするが、その時高橋健が突進してきて、魚刀を一振りする。


「ブスッ」


よろよろと来る藤原成の胸に魚刀が突き刺さる。


藤原成は目を見開く。信じられないという表情で高橋健を見つめる。虬髯の大漢もびっくりする。佐藤兄弟だけでなく、他の人々も呆然とする。


「ブスッ! ブスッ!」


決意を固めた高橋健は凶悪な顔をして、抜き刺しを繰り返し、藤原成の体にさらに二刀突き刺す。最後に手を振り上げ、藤原成の首に一刀浴びせる。


血が高橋健の全身に飛び散る。藤原成は両手で首を押さえ、痙攣しながら倒れる。目には隠しきれない恐怖がある。


高橋健は構わず、歯をむき出しにし、心の中では怖いが、それでも血のついた刀を提げて再び佐藤兄弟に向かって突進する。


二人の兄弟は驚いてたまらない。すぐに捨て身になる。長刀を振り回し、狂ったように包囲を突破しようとする。


突進してくる高橋健は油断を突き、一刀を佐藤魁の背中の腰に突き刺す。抜き刺し、さらに何度か突き刺し、佐藤魁を血の海に倒れさせる。


こんな凶暴な様子に、他の人々は皆呆然とする。この少年がこんなに凶暴だとは思わなかった。


皆が一瞬放心している隙に、狂ったように長刀を振り回して必死に逃げる佐藤梧が包囲を突破して逃げ出す。


一団は呆然と高橋健が再び刀を提げて佐藤梧を追いかけるのを見つめる。


「いいやつだ、なかなか凶暴だな、この若造!」


虬髯の大漢が「ヘヘ」と二度笑う。一団も急いで追いかける。


高橋健は走りながら、心の中で考える。


(これで……美咲は安全か)


いや、まだ足りない。佐藤梧が逃げた。あいつも始末しなければ。


魚刀の柄が軋む。血の匂いが鼻をつく。


彼は初めて人を殺した。手が震えている。でも、止められない。


弟と妹のためなら、鬼にもなれる。


常世の霧が深まる。遠くから、黄泉軍のうめき声が聞こえてくる。


第二幕は、まだ始まったばかりだ。


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