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朝になった。
まだ鶏の声も聞こえぬうちに、薄い朝の光を背にして小太りの影が格子の向こうに立つ。ウガツクヌがやって来たようだ。
「勅使殿。今日にでも処刑して、親父の仇を討ってやろう思うちょったけんどな、残念なことにそげなわけにいかんようになった」
息を呑み身を固くして、タケモロスミも従者たちもウガツクヌの一語一句に耳を傾けた。
「ああ、何から何までうまくいかん!」
吐き捨てるように、ウガツクヌは言う。それはこっちの台詞だと、タケモロスミは内心思っていた。
「鑽火神事さえなかったら今すぐにでも手にかけてやあだに、神事を前に血の穢れを見るわけにもいかんけんな。ま、少しは生命が延びて儲けもんだと思え」
「やるんだったら今すぐ殺せ!」
すっかりひらき直ってしまっていた従者の一人が、叫びながら立ち上がった。ウガツクヌは鼻で笑う。
「そげなわけにはいけん言うたが。けどその神事もいつになることやら。なにしろフルネが戻らんことには神事はでけんし、そのフルネはいつ戻ってくるんだあか何の音沙汰もなあけんな。そんで戻ったら戻ったで、神事でフルネのやつの悪態を聞かんといけん。ああ、気が重いわ。これも全部おまえが」
ウガツクヌは激しい口調になり、タケモロスミを指さす。
「おまえが親父を殺しさえせんかったら、この役は国造であるおやじの役目だあたに」
もはやタケモロスミは何も言わず、黙ってウガツクヌをにらみつけていた。それをウガツクヌもにらみ返す。
「もう証拠もそろっちょうし、おまえがやったことに間違いはなあけんどな、申し開きがああなら言うてみい」
「その」
静かにタケモロスミは、口を開いた。
「神事とは?」
「鑽火神事か。憂鬱の種の神事だが。ま、黄泉へのみやげに、聞かせてやあわ。新嘗祭のための火鑽臼と火鑽杵を、出雲臣家から借りる神事よ。こちらが丹精こめて作った大餅を持ってクナトの大社まで行って、出雲臣から臼と杵を受けとうだ。その時にな、フルネは国造にさんざん悪態をつくのが慣わしになっちょう。『おまえらよそもんは、わしら出雲神族のお蔭でこの地にいられっだ』などとぬかすのが決まり文句でな。ああ、これからはわしがそれを言われんといけんとはな」
「臼と杵?」
「ああ」
面倒臭そうに、ウガツクヌは火を起こすためのその臼と杵の外観を説明する。
「神坐の森に、新嘗祭にそなえて安置しとくだ」
「神坐の森? そこにはいつも杵と臼が?」
「だから鑽火神事が終ったら、そこに安置されっだよ」
「今年はその神事は、まだなんですね」
「だからさっきから言うたが! フルネが戻らんけん、まだできんち」
「じゃあ神坐の森には、杵と臼はまだ」
「まだ、ああわけなあだが!」
ほんの少しタケモロスミの顔に光がさした。そして立ち上がった。
「お願いだ! 今すぐ神坐の森に行ってみてくれ。そしてそこに何があるか見て来てくれ!」
「何を言うか。なんでわしがそげなことせんといけんかね」
「お願いだ! 頼む!」
あまりに激しくタケモロスミが頼むので、ウガツクヌも苦笑を浮かべた。
「自分が殺されるんで、気がふれたんかいねこの男。神坐の森なら屋敷の隣だけん、見てきてもどげいうこともなあけんどな。ま、とにかく、頭冷やしとけ」
それだけ言い残して、ウガツクヌは牢小屋を出て行った。
そのまま昼過ぎまで何事もなく、静寂の時間だけが過ぎていった。
昨夜一睡もしていないことと、少しは生命が伸びたという束の間の安堵感に、従者たちの大半が居眠りをしていた。だが、タケモロスミだけは、ウガツクヌが自分の言葉どおり神坐の森に行ってくれるいことを心で祈り、その帰りを一縷の望みとともに待っていた。
「勅使殿!」
そんな時に、血相をかえてウガツクヌがころがりこんで来た。
「なんで、なんで杵と臼がああかいね。なんでそげなこと知っちょったんかいね」
やはり……と、タケモロスミは思った。
「ケサリの遺体をあの森で発見した時、広場の中央に杵と臼が置いてあったのを思い出しましてね。それであなたの話を聞いてピンときたんだ。つまり、鑽火神事は」
「そう、終ってただ。親父がすでにしちょうなあてただ。わし、この間まで因幡に行っちょったけん知らんかったが。そのわしがおらん間に神事は行われたっち、国庁の官人からも今聞いてきた。なにしろ因幡から戻ったその日におやじの事件が起こったもんで、ごたごたして聞く暇がなかったけんなあ」
「と、いうことはフルネは」
「ああ、戻っちょうだ。そげでなあたら神事はできるはずなあでな。……ん? ああッ!」
何かがウガツクヌの中ではじけたようだ。顔色がみるみる変わっていく。
「ウガツクヌ殿!」
タケモロスミは立ち上がり、格子のそばまで歩み寄った。
「フルネは、今どこに?」
「住んじょうのは、西の杵築というとこだ」
「行かせてくれ、俺を。頼む!」
本来ならまた鼻で笑ってすまされてしまったことだろう。しかし今は状況が違う。
「ええだろう。ただし、行くのは一人で、従者はおいていってもらいますけん」
「いいですとも」
「え、そんな、勅使様!」
従者の中から、不満の声があがる。
「大丈夫。必ず戻る」
従者にふりかえってそう言ったあと、タケモロスミはウガツクヌの目を見つめた。
「行かせて頂けるのですね?」
「ああ」
しぶしぶという感じで、ウガツクヌは首を縦にふった。
「しかしなあ、勅使殿。あなたへの疑いが晴れたわけではなあけんな」
そうは言うものの、語調の変化ではっきりと、ウガツクヌの心の変化もわかった。
「従者をおいていってもらうだけではなく、国造家の兵をあなたにつけますけんね。それと剣も置いてってごしない」
「いいでしょう。もっとも私の剣は紛失したままだし、今まで帯びていたのはあなたの父君のものだ。お返し致す。そのかわり、先日発見された木剣を貸しては頂けぬか」
「木剣?」
「まだ、あるでしょう?」
「そりゃあ、ああですが」
ウガツクヌは小首をかしげながらも、兵に言いつけて木剣を持ってこさせた。
牢を出る時、残される従者の何人かは泣いた。それに励ましの声をかけ、タケモロスミは馬上の人となった。
空は曇っていた。
国造家の、それも一騎当千の強者六人をつけられ、昼前に国造家のある意宇の里をあとに、タケモロスミはいったん神路の海の岸に出た。
そのまま海沿いを西に進む。北の対岸はずっと山脈が海面に姿を映し、全く水平線とは無縁な入り海だった。かすかに潮の香りがした。この入り海が汽水湖となるのは、後世のことである。
波はほとんどなく、岸辺には葦が群生していた。低くどんよりとたれこめる雲を反映してか、海面も灰色に重くよどみ、対岸の山並もおぼろである。
映えるような夕陽は、この日は見ることができなかった。
ちょうど入海が終り、かわりに一面に水田が広がるあたりで暗くなった。甲鎧を着こんだ兵の一人が、このあたりが意宇と杵築の中間であることを告げた。
その場で露営である。兵たちは手ぎわよく、簡易天幕を造りあげた。中には山の民出身の者もいて、そのあたりのことはお手のものだということだった。
だがタケモロスミは彼らと、まだ会話らしきものをするほど打ち解けてはいない。タケモロスミが馬上で彼らが徒歩ということもあったが、彼らはまた手勢とはいってもあくまで国造家の私兵であり、タケモロスミの兵ではない。それどころか、実は彼らはタケモロスミの監視役なのである。
タケモロスミが眠っている間も、彼らは交代で見張っているようだ。もちろんタケモロスミの安全ために周りを見張っているのではなく、タケモロスミ自身を見張っているのだ。
翌朝早く、タケモロスミは目覚めた。兵たちは皆起きていた。ほとんど無言で、出発の準備がなされる。
今度は水田地帯の行軍だ。どの田も稲穂がそよぎ、刈り入れを待っている。山並は遠くに退いてはいたが、それでも左右どこまでも彼らについてきていた。
空は相変わらずの曇天だった。
昼前に、行く手に横たわる大河に出くわした。斐伊川だ。三刀屋から流れてきたこの川は優に船でも上り下りできるほどの水量で、大きく西へ旋回して外海に注いでいる。その旋回地が、遠くの平野の中に認められた。
「たしかに、水が赤いな」
馬上から川面を見下ろし、タケモロスミは言った。
「砂鉄だな。これだけの量の鉄があれば、この国では一兵率でさえ鉄剣を帯びているはずだ。大倭では鉄剣など、豪族の長であってもなかなか手にできないというのにな」
「川が赤いのは、砂鉄のせいだけじゃなあで」
鉄剣を帯びている一兵率の一人が、無愛想に口を開いた。
「砂鉄をめぐって、どれだけの血が流されてきたか。そん人らの血で、今でもこの川は赤く染まっちょうだ」
タケモロスミは、対岸に目をやった。
「杵築はこの川の向かうか」
「ああ」
兵はまた、ぶっきらぼうに答える。
「渡るのには、舟がいるなあ」
「舟はいらん。川に沿って川下へ行けば、そこが杵築だ」
タケモロスミは黙って手網を引いた。馬の方向を変え、川沿いに進むためである。
ところがほんの少し行ったところで、彼らは立ち止まることになった。行く手に軍勢が待ち受けていたからだ。軍勢といってもほんの二、三百人くらいだが、それでもタケモロスミたちの六、七名に比べたら、十分多勢といえる。
中央に、甲鎧もつけずに立っている体格のよい男がいた。ウガツクヌが贅肉太りなら、こちらは筋肉質だ。ゆっくりとその男の方へ、タケモロスミは馬を進める。
「おお、来たな! お待ちしちょったで!」
大声で男は叫ぶ。兵の一人が馬側からタケモロスミを見上げ、遠くの男を目だけで示した。
「フルネだ。あれがフルネだ」
「ん?」
タケモロスミの全身の筋肉が、キュッと引き締まった。それと同時に、軍勢とともにこのような場所で、自分を待っていたとはどういうことなのかという疑惑が、頭をもたげてきた。
相手の顔がわかるまで近づいた。そして彼は、やっぱりと内心思った。
やはり宮山で自分を襲った、あの男だった。
首の勾玉といい、装いといい、間違いはない。あの正体不明の男が、フルネだったのだ。そして今、その男は自分の目の前にいる。
「いやあ、大倭の勅使殿。お待ちしちょった」
フルネは髭面の顔でニコニコしているが、その笑顔のどこかに翳りがある。
「いかにもそれがしは大倭の勅使、タケモロスミである。なにゆえ、わが来訪を存じておったのか」
わざと威をなして、馬上よりタケモロスミは叫んだ。フルネの表情は、なんら変りはしなかった。
「情報はすぐ入りますけん。勅使殿が国造殿のお手の方とごいっしょに来なるっち聞いて、こりゃお迎えにあがらんといけんと思いましてな」
額面通りには受けとれない。なにしろ一度は、自分を殺しかけた男なのだ。
ここはちょうど川が西に向ってほぼ直角に旋回する地点で、ちょっとした淵となっており、止屋の淵と呼ばれている。現代では川はこの頃のように西に旋回して日本海に注ぐのではなく、東へ流れて宍道湖へと注いでいる。ここから西が出雲市となる地点だ。
普通の声で話ができるあたりまで来て、タケモロスミは馬を止めた。それでも馬からは下りなかった。フルネは咳払いをして言った。
「さ、杵築まで御案内致しますけん」
「いや、ここでよい。ここでそなたと話がしたい」
「おや、何の話ですかいねえ。ゆっくり杵築に来なって、ともに酌み交しながらでもええですが」
「冗談じゃない!」
タケモロスミは、鼻で笑った。
「そのようなことをしたら、生命がいくつあっても足りぬ」
「また解せぬことを」
「ふん、白々しい。宮山での一件、よもや忘れたわけではあるまいな」
「はて、なんのことだあか」
「どこまでもとぼける気か!」
タケモロスミは、腰の剣を抜いた。それに応じてフルネの軍勢も、一斉に自らの剣の柄に手をかける。
ところがタケモロスミが抜いた剣は、木剣だった。それがフルネの目の前に投げつけられた。
「この木剣に、見覚えがないとは言わせぬ!」
フルネの顔がみるみる変わった。肩が小刻みに震えている。それをタケモロスミは見逃しはしなかった。
大きく咳払いをして、タケモロスミは朗々と歌を吟じた。
――やつめさす 出雲建が佩ける太刀
黒葛多纏き さ身無しにあはれ――
フルネはタケモロスミが、すべてを悟っていることを知ったようだ。目をつりあがらせ、口びるを震わせている。国造家の兵たちは何かを尋ねたそうに、タケモロスミを見上げていた。
フルネの軍勢が、一斉に剣を抜いた。フルネはそれを、後ろ手で制した。
「まあ、待て」
そしてタケモロスミを見上げて言う。
「おもっせ。聞かしてごせ。どげな筋書きだった言うんか」
「また白々しい。その木剣は、イヒイリネ殿の遺体にあった剣だ。そして先日おれが宮山でおまえに襲われた時、おれが間違えて持ってきてしまった剣、それこそが本来の国造殿の剣だった」
「それで?」
軍勢はじりじりと、剣先をこちらに向けてくる。今とびかかられたら、ひとたまりもない。義理はなくても自然、国造家の兵がタケモロスミを守るかたちとなった。
「おまえは国造殿をだまし、宮山へ誘ったろう。あの山の中に池があったよな。そこで藻を採ろうとかなんとか言っていっしょに水浴びをして、先にあがったおまえが国造殿の剣を帯びて、あとからあがってきた国造殿に斬りつけた。あわてておまえの剣で応戦しようとした国造殿だったがな、その剣はおまえがあらかじめ用意しておいたその木剣よ。太刀打ちできない国造殿を殺したおまえは、遺体を神路の海に沈めようとしたのだろう」
フルネは無気味に笑った。
「よくもまあ、それだけ思いつくものだ」
「それでおまえは同時に、ケサリにおれを襲わせた。ところがケサリが討ち損じたので、口封じにやつを殺しただろう。そんなにまでして神宝を、大倭へ渡したくないのか」
「あたりまえだ!」
フルネの一喝が、大地をも震わせた。
「神宝は、出雲人の命だ。それを差し出すいうんは、完全に服従することだが。しかも今度よこせっち言うてきた神宝は、クナトの大社の神宝だ。これだけはわけが違う。絶対に大倭には渡せん。それを国造めは職権乱用で、おまえら大倭へ渡すことを決めよったけん、許せんかった。そげな国造は絶対に許せん!」
一語一語に力がこもっていた。タケモロスミは、返す言葉が見つからなかった。
「国造は所詮、天孫族の邪馬台の隠忠菩比の末よ! 邪馬台の走狗よ! わしらの祖先が邪馬台に、どげな屈辱的な思いで国を奪われたか。血を流し、涙を飲み、一大決戦に敗れたわしらの先祖は、そして大クナトの主様は、侵略者の意のままにはならぬと御自らお命を断って……」
身体中の血が逆流したかのように、フルネの表情はすさまじかった。語気は震え、肩にものすごい力が入っているようだった。
「国を奪われた時、邪馬台の手先となあたんが、国造の祖、天の菩比だがね!」
それを聞いていた国造家の兵たちの息も、だんだん荒くなってきていた。
「その邪馬台がイワレヒコによって東に遷ってから七代目で、大倭は出雲から逃げた者が多く身を寄せた日高見の国に敗れた。日高見から大倭の大王が出た。だけんどな、その日高見出身の大王を滅ぼして大倭の大王になあたんが、おまえの仕えるミヤキイリヒコだが!」
その時、国造家の兵の一人が、とうとう剣を抜いた。
「おまえがわしらの国造様を殺ったんかッ!」
それに呼応して、国造家の兵は皆剣を抜いた。
「言っておく!」
再び怒号のような声を、フルネが発する。
「わしらの祖の大クナトの主様は、そのみ魂に大炎国魂の神さんの御神魂を戴いちょったお方でな、今でもこの杵築の大社に永遠に御鎮座しちょうなあだ。それと同じように出雲神族の恨みも、永遠に消えぬぞ!」
タケモロスミは、見開かれているフルネの目を見た。こんな炎のような目を、彼は今まで見たことがなかった。背筋がぞっとする。
掛け声とともに国造家の兵たちの方から、フルネの軍勢に斬りかかった。たちまち金属音、怒号、悲鳴が曇天に木魂する。馬がいななく。タケモロスミは、しっかりと手網を握る。
相手は多勢。しかもその相手と戦っているのは自分の配下の兵ではない。自分はといえば丸腰だ。戦いようもなければ、勝ち目もない。
国造家の兵が一人、しぶきをあげて川に落ちた。それを認めた時、フルネの軍勢の剣は完全にタケモロスミを包囲していた。
馬尻に鞭をあてる。軍勢はたじろいだ。馬という生き物の動きに、彼らは慣れていない。馬は弾みをつけ、軍勢の頭上を一気に跳躍した。そしてそのまま馬ごとタケモロスミは、川へと飛びこんだ。




