水守
山間の小さな集落、汚れ谷には「水守」という言葉があった。この谷を流れる沢の水はかつて人々の命を潤したが、突然の災いを経て誰も水を汲まなくなった。その後、沢は“穢れた水”を流し始めたとされ、谷は捨てられた。
大学で民俗を学ぶ大輝は、卒業論文のためこの谷を訪れた。目的は「水守の儀式調査」。村の古老から「水守は年に一度、沢の水を封じ、谷の清浄を保つ役目」と聞いていたが、今やその祭事も途絶えていた。
初日は沢のほとりにキャンプし、水を味見した。鉄錆のような生臭さに吐き気がしたが、好奇心からさらに深く沢へ足を踏み入れる。濁りと匂いが増し、足元にはぬるりとした感触があった。いや、ぬるう・り、…生命を意識するような動きだった。
夜、テントを揺らすような”水音”とともに、夢を見た。沢の中から白布に包まれた顔が現れ、「助けて」と囁く。目は濁り、唇からは泡が漂う。彼女が水の中へ引き込まれる夢だった。
翌朝、沢を訪れると、例のぬるりが足首まで這い寄ってきた。慌てて逃げ出すも、水は大輝の足跡を消し、岩の隙間に這い込むように逆流した。
村を回ると、かつて水を守った家の名跡だけが残り、水を汲まなくなってから人が住まなくなったという。大輝は“儀式の再現”を決意し、夜、沢脇に古い祠跡を見つけた。木の札が掛かり、「水守」と書かれていた。
恐る恐る水を祈りの言葉とともに汲み取り、沢に注ぐ。すると、水面がふわりと揺れ、ぬるりが引き戻されていく。音は止み、水の匂いは薄れていった。
そのとき、背後から冷たい声が聞こえた。
「ありがとう…水守さま…」
振り返っても誰もいない。沢の奥からは澄んだ水が光を反射し、生命が宿るように見えた。大輝は決して谷を去らなかった――次の世代への“水守”として。