地獄 〜参
「小太郎、石遁の準備。私の火遁を合図に村老の元へ走って。何が有っても後ろを振り返らない。いいね」
楓の言葉に小太郎は静かに頷いて、地面の石のうち角の尖ったものを拾い始める
石遁と呼べば格好良いが、実際は石を相手の目に投げて逃げるだけ
しかし、侮れない
尖った石が目に入れば、一時的にでも視力を奪えることもある
楓が袋から取り出したのは小型の火打石と火口、それに焙烙玉と呼ばれる小さな手榴弾のようなもの
火事や爆発等を起こして逃げる
それが火遁という術
忍びとて人間
漫画や映画の様に自由に火を出せたり吹いたり出来る訳はない
実際の歴史では、現代に伝わっている忍者像と大きな開きがある
魔法使いではなく手品師が近い
先述の通り、遁術とは逃げるための技
人外の武を持つ相手と真っ向勝負しても意味がない
遁術を使うと決断した楓の判断は、またしても正しかった
楓が火打石を打ち付け、種火を火口に移し火を点ける
赤鬼は異変に気付き、楓の方へ駆け出した
「くらえぇぇぇぇ〜!」
火を焙烙玉の導火線に点け、赤鬼の目元へと投げる楓
同時に叫ぶ
「小太郎っ!!!石遁っっっっ!!!」
小太郎は両手に持った石を赤鬼の目元へと思い切り投げる
五歳にして物投げの名手と呼ばれた小太郎
震えていてもその石は赤鬼の目元に直撃した
ドカァァァァァァン!!!!
同時に炸裂した焙烙玉
煙幕が立ち昇る
煙が多く出る様に作ってあった
作戦は成功
小太郎に走れと促す楓
人間であれば、当たりどころによって殺傷能力を持つ焙烙玉
しかし、赤鬼を殺せる程の威力があるかどうかはわからない
それでも良い
楓は先に走らせた小太郎の背を追うために振り返る
グイっ
後ろにつんのめりそうになる楓
状況が理解できない
思考がフル回転する
肩に掛けた袋が引っ張られている?
誰に?
楓は咄嗟に腰に差した苦無を取り出し、肩にかかっていた袋の紐を切った
身体の自由を得た楓は一歩前に出るとともに、瞬時に振り返りながら低い体勢をとって目の前で苦無を構える
戦闘体勢
楓は袋を引いた相手、赤鬼を真っ直ぐ睨みつける
赤鬼は楓が持っていた袋を地面に落とす
ドサドサっ
「遁術失敗か。そして私の小道具も捨てられて使えない。これは不味いね。」
楓はそう呟いた後、赤鬼を睨みつけながら叫んだ
「小太郎ぉぉっっっっ!!何立ち止まってんの!!早く行きなさい!!
あんたがそこで止まってたら、私も道助も何の為に戦うかわからないじゃない!。だ...から早く...行きなさいっ!!!」
泣こうなんて思ってなかった
泣いている場合じゃなかった
なのに溢れてくる泪
これじゃあ敵が見えない
幸い赤鬼は楓の袋に興味を持っている
楓が振り向かずそう叫んだのは、敵から視線を外せなかったことと小太郎が足を止めていると思ったから
案の定、小太郎は立ち止まっていた
悪戯好き、やんちゃな五歳の男の子である小太郎
人一倍甘えん坊でもあった
友達には言えないが、夜は楓の手を握っていないと眠ることが出来なかった
目覚める時も、楓の姿がないと泣いていた
この状況では目と鼻の先の村老の所までも走りきれない
赤鬼はゆっくりと楓に目を向け始めた
楓は続けた
「小太郎。あんたを愛してる。私、小太郎のお母さんで良かった。
もし、私があんたの後を追えなくて、道助も行けなかったとしても、あんたは私達が愛して愛して、一生懸命育てた息子。
うっ..う。胸を張って、父ちゃんみたいに、逞しく生きろっ!う。だから小太郎ぉっ!!!!
走って。....ね。お願い。。。生きて。。小太郎、走れぇぇぇぇぇ!!!」
小太郎は歯を食い縛った
血が滲むほど両手の拳を強く握り、楓に背を向けた
目線は村老の家、その眼には決意が込められていた
小太郎は五歳にして、必死の決断を迫られ、正しい道を選んだ
自分の弱さ無力さを痛感しながら
「おっかぁ、おっとぉ。ごめんよぉ。弱くてごめんよぉ。おいらも。うっ、おいらも大好き。愛してるよぉ!!!」
声にならない声を出し、懸命に走りだした
本当に良い子。母さんは本っ当に幸せでした。もう少し、ううん。ずっっとあんた達と暮らしたかった。
楓は笑いながら泣いた
そして、赤鬼の元に向かって行った
この時、道助は二十九歳、楓は十九歳
鬼と戦う道を選び、妻と子を逃がした道助
十四歳で母になり、十九歳で息子の為に敵わぬ相手に向かって行った楓
当時は十四歳から十八歳で成人とされていた
其れにしても若い
現代で言えば楓はまだ未成年
どう考えても埋まらない、埋められない実力の差
死ぬ、恐らく間違いなく
それを覚悟した道助、楓の二人
死ねない、大切な人の為に
だけど、大切な人の為なら死ねる
子を持つ為、家族を築く為、若くして様々な事を我慢してきた二人
大切な人を守りたい
覚悟は固い
その姿は美しく、そして立派だった
決して記録に残らぬ歴史の一頁
しかし、絶対に忘れられぬ記憶の一欠片
二人の勇姿は、小太郎の目に焼き付けられただろう
小太郎は走った
村老の家はもう手の届く距離
楓と戦闘していたものとは別の鬼が小太郎に気付き、小太郎目掛けて突進を始める
その図体から想像出来ないほど、鬼の動きは速い
「父ちゃん、かぁちゃぁぁーんっっっっ!!!」
小太郎は叫びながら、力の限り走った
途端、村老の玄関戸が激しく開く
「小太郎ぉぉぉぉ!!入れぇぇぇ!」
中から姿を現した初老の男
少し小柄だが、筋骨隆々で顔に刻まれた無数の皺がこれま での辛苦の人生を物語っている様に見える
長い直毛の白髪を後ろで結い、茶色の忍装束に身を包んだ村老と呼ばれる男が叫んだ
小太郎が村老の家へと飛び込むと同時に閉められる戸
ドガァアァァン!
直後に聞こえた大きな音
鬼が戸に体当たりしたのだろう
村老の玄関戸の内側は鉄が張り巡らされ、補強されていた
「下へ行け」
村老は、泪とと鼻水混じりの小太郎に言った
命令口調でなければ言うことを聞きそうになかったからいつもよりも強く言った
小太郎は未だ放心状態のようだった
外の両親の様子が気になって仕方がない
しかし、自分が出て行ったところで足手まといになる
其れでは両親が生命をかけた意味がない
其れくらいは幼い小太郎でもわかっていた
村老に言われるがまま、玄関戸の井戸の様な物に目を移す
「ここ?」
小太郎が言うのも無理はない
其れはただの井戸の様に見える
と言うより井戸そのもの
「仕掛け井戸じゃ、案ずるな。入ればわかる」
村老に促されて中へと入って行く小太郎
狭いのは入口だけ、中は広い部屋になっていた
三十畳はあるだろうか
ゴォーーーン
あの不快極まりない音は、幾らか静かに聞こえる
「小太郎!」
暗くて良く見えなかった
蝋燭の灯りに照らされて漸くわかった
其処には何十人もの人
先ほど小太郎を呼んだのは、良く遊ぶ近所の子
飛び切り明るくて楽しい奴
でもその顔は暗かった
その理由は直ぐにわかった
「子供ばっかりだ」
小太郎が言った通り
その場所にいたのは殆どが子供
後は子供達の母親が数人程度
「俺っちの目の前で、父ちゃんも母ちゃんも死んだ。俺っちを守ってさ。ううっ。うぇーん」
先ほど小太郎に声をかけた友達が堰を切った様に泣き出した
其れを見て、周りの子供達も親の名前を何度も叫びながら泣き始めた
小太郎も泣きそうだった
でも、見ていない、道助と楓の死体を
だからまだ死んだと決めつけてない
強ぇもん。おいらの父ちゃん母ちゃん。絶対、大丈夫
小太郎は小さく、本当に小さくそう呟いた
どれ位時間が経ったのだろうか
わからない
小太郎が村老の家に着いてから、何十人もの子供と女性が逃げ込んできた
中には怪我をしている者もいた
小太郎と仲の良い友達もいた
しかし、再会は喜べない