地獄 〜弐
ゴォーン
ゴォーン
ゴォーーーーーーン
小太郎は両親に起こされた
頭がぼーっとする
しかし、何かがいつもと違う
外はまだ暗く、朝じゃない
起こされたことなんか今まで一度もなかった
次第にはっきりしていく意識
今まで見たことない父親の真剣な顔
今まで感じたことない母親の焦る顔
ゴォーン
遠くで聞こえる音
何だろう、この音
ゴォーーン
次第に大きくなっていく
胸騒ぎがする
両親が慌てる姿
只事じゃない
ゴォーーーン
音はどんどん近づいてくる
酷く耳障りな金属を叩く様な音
「ど、どうしたら良いのっ。な、何なの」
母親の叫び声
「とりあえず、村老の所へっ。其処に濠がある。
お前と小太郎をっ!?」
バッターーーーーン
父親の言葉を遮るけたたましい音
玄関戸が開いた
風?まさか、違う
昨日の風は穏やかだった
小太郎の頭はフル回転する
しかし、五歳の脳
状況を把握できるはずがない
「きゃ、きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
また母が叫ぶ
玄関から伸びる赤い何か
真っ赤だ
そして次の瞬間
その正体がわかる
「鬼だぁぁぁぁぁっ!
逃げろぉぉぉっ!」
父の言葉と同時に完全に姿を現した全身が真っ赤の人型の"それ"
赤鬼
「でっでけぇ。。。」
小太郎が言うのも無理はない
赤鬼の身体は大柄な父よりも二回り近く大きい
手には棍棒( こんぼう)の様なもの
所々血が付いてる
恐い、怖い恐い怖い
赤鬼は小太郎の家族を睨み付ける
恐い怖い恐い怖い恐い怖い恐い怖い
小太郎は震えて泣きながら立ち尽くす
「。。ぇ!いっっけぇ!小太郎!窓から逃げろぉ!」
ゴォーーーーーーん
父親の声と被さる音
音は直ぐ傍から聞こえた
小太郎は恐怖で動けない
完全に脚が固まっている
赤鬼がゆっくりと近付く
「畜生、小太郎!我慢しろぉぉぉぉぉーーーお!!!」
バリィィィン!!
父はそう叫んで窓を殴りつけて割り、毛布にくるまったままの小太郎を思い切り窓の外に投げた
いつだって頼りになる村老の家は目の前
其処に逃げろと願った父
「小太郎!お前だけは殺させねぇ。畜生、装備がねぇぇ!
こんなんじゃ忍失格だ。
楓ぇぇ。こいつは俺が時間を稼ぐっ!!!
お前は小太郎とお腹の子を守ってくれぇぇ!。
畜生。幸せな家族だったのによぉぉぉ!」
父は小太郎の布団の下の隠し戸に仕舞っていた苦無を取り出し、赤鬼に向かっていった
小太郎の母、楓は落ち着きを取り戻していた
「道助も小太郎もこの子も死なせない。あんたぁぁ!これをっ!!」
そう言って楓は夫である道助に刀を投げ渡した
楓の判断は早かった
道助に鬼の気が引かれた瞬間、棚に向かい、一番下に仕舞っていた刀を出し、道助に投げたのだ
忍者刀
楓が道助に投げた刀が其れ
「俺は刀が得意じゃねぇ。手甲鉤は流石にねぇかぁぁぁあ」
道助は刀を受け取り、鬼へ向かって行く
鞘は抜かない
刀と称されるも忍者刀の用途は日本刀とは違う
斬るではなく突く
棚には忍者刀の他、道助が得意としていた手甲鉤もあった
しかし相手は道助を遥かに上回る巨体
其れに武器は棍棒
鉤ではその攻撃を受け止められない
致命傷も与えられない
相性が悪過ぎたのだ
道助の得意とする手甲鉤ではなく忍者刀を投げた楓の判断は正しかい
愛する者を死なせない
その想いが感覚を研ぎ澄ます
「其れは私の刀。道助、私はいつだってあんたと一緒。此処はあんたに任せるよ。お願い、必ず戻ってきて!!!!」
楓は忍者刀を出した棚から二本の苦無と袋を取り出し、泣き叫びながら窓から外へ出る
道助はその姿を見て満足そうに笑う
「ガハハ。楓ぇぇぇぇぇ!やっぱりオメェと結婚して良かった。この状況で最適な判断だぁぁぁぁ!
糞愛してる!鬼ぃぃぃぃ!!俺の命に代えても家族は守るぞぉぉぉ!!
楓ぇぇぇ、小太郎ぉぉぉぉ!オメェらの父ちゃんやれて幸せだったぁぁぁぁ!!」
笑いながら泣く道助
赤鬼の懐へ飛び込んでいった
その声は、楓と小太郎の耳にも届いていた
楓は止まらぬ泪を拭うことはせず、小太郎に耳打ちをした
「小太郎。今日は多分、人生の中で最悪の日。父ちゃんはお前や母ちゃんを守る為に死ぬ。
母ちゃんもお前を守る為なら死ねる。いい?母ちゃんが死ねばお腹の子も死ぬ。
けど、お前は生きられる。生きて。小太郎!!!生きろぉ!!」
楓には見えていた
見慣れた村を練り歩く無数の赤鬼の姿を
それは不自然で不愉快な光景
ゴォーーーーーン
音は止まない
一際大きな赤鬼が村の入り口で鐘を鳴らしていた
其れは死の宣告の様だった
楓は小太郎を強く抱きしめた
「さぁっ。行くよ!!!」
「なんでだよぉぉ!父ちゃんが死んじまうよ!母ちゃんだって戦えるじゃんか!!
おいらだって鬼の子をやっつけたんだぞ!父ちゃんが、やられちま。。う、、うう、う~」
小太郎は癇癪を起こして泣いた
楓はハッとした
そうか、あの時の。戌の村で殺されたあの鬼の子の家族が復讐しに来たの?
思考が巡る、どうしてこんな事態になったのか
しかし、楓には納得している暇も、考えている時間もなかった
少し離れた場所で赤鬼と格闘していた若者が、赤鬼に首をもがれて息絶えた
あの子は、この間結婚したばかり。。。ここは地獄なの
道助は大丈夫だろうか
その赤鬼に誰かが向かって行った
若者の妻となったばかりの若い女だ
泣き叫びながら、素手で向かっていく
「無茶だっ!危な・・・・い」
楓が言い切る直前だった
グチャっ
赤鬼の棍棒によって、女の頭が吹き飛ばされた
まるで豆腐を潰すように、いとも簡単に女の生命が消し飛んでいった
至る所で赤鬼に殺されて行く村の人々
悲鳴、これが断末魔の叫びか
人が赤い鬼に飲み込まれていく
血の臭い
死体の独特な臭いが鼻をつく
正に死屍累々
力の差は歴然だった
鼠と熊が戦っているかの如く
人が次々に殺されていく
頭のない死体
腕や脚が有り得ない方向に曲がっている死体
嗚咽、頭痛、激しい動悸
夢なら早く醒めてほしいと切望する
楓は頭を強く叩いた
「しっかりしろ私!!!道助は誰の為に死ぬんだっ!!!」
楓はそう心で叫んだ
そして、泣き喚いている小太郎の頬を思い切り引っ叩く
母はいつでも優しかった
叩かれたことなんて一度もないのに
小太郎は泣き止み、母を見た
「小太郎っ!あんたは私と道助の希望!死なせたら道助に会わせる顔がない。
母ちゃんからの最初で最期の任務っ!生きて村老の濠に逃げ切れ!!」
楓も死を覚悟していたのかもしれない
寂しがり屋で聞かん坊だった五歳の小太郎が、首を縦に振った
それ程、楓の言葉は鬼気迫っていた
楓も道助も小太郎を心から愛している
自分の命などどうでも良い
生きて欲しい
そう願った末の決断
「もし駄目だったら、母ちゃんと一緒に死のう。産んであげられなくて、本当にごめん」
楓はお腹の子に向かって言う
そして、袋を肩に掛けて小太郎の手を引き、村老の家へと走る
順調に産まれれば、小太郎とは五歳離れた兄弟になるはずだった
この時代、出産前に胎児の性別を知る術はなかった
だから、性別はわからない
しかし、道助も楓も次は女の子が産まれてくれれば良いと思っていた
大きくなったら一緒に料理を作って、道助や小太郎の帰りを待つんだ
そんな将来を夢見ていた
家族四人で幸せに暮らしたい
「下の子が大きくなったら、船に乗って別の国を旅しよう。色んな世界があって楽しいぞ!ガハハ」
道助の口癖だった
楓は赤子の服を編むのが好きだった
赤を基調とした、小太郎には着せることが出来なかった女の子らしい服
道助は嫌がるかもしれない、でも家族全員でお揃いの服も良いな
楓は小太郎がお腹の子に話しかける光景も大好きだった
悪戯好きな小太郎、垣間見せる優しい兄としての顔
「きっとこの子は優しくて強い子になる」
それが楓の口癖だった
過去の楽しい思い出ばかりが蘇る
走馬燈の様に
「あれ、何でだろ。こんな時に昔のことばかり。おかしいな、泪が止まらないよ」
楓は苦無を持った手で泪を拭う
道助を残してきた自宅が気になる
後ろ髪を引かれる思い
自宅がどんどん離れていく
戻りたい、家族皆でまた暮らしたい
だけど引き返せない
通常では到底考えつくことのない異常事態
道助なら大丈夫、幾多の困難を潜り抜けて来た男
そう自分に言い聞かせる
そして、ただ走る
村老の家まではもう少し
安堵感が楓を包む
小太郎を預けたら道助の所に戻ろう
楓がそう思った直後だった
「おっかぁぁぁぁぁぁ!!」
聞いたことのない小太郎の叫び声で我に返った楓
気づかなかった
なぜ
目の前には赤鬼
村老の所まで後少し、安堵感が感覚を鈍らせた
戦場で一瞬でも気を抜けば命取りになる
わかっていたはずだった
完全なる油断
赤鬼は楓を見ている
楓は小太郎の手を離し、苦無を両手に持ち替え、強く握り締めた
「道助ごめん。あんたの応援には行けそうにない」
その赤鬼は先程結婚したばかりの若夫婦を殺した鬼のようだった
これから様々な幸せを描いていこうとしていた二人の将来を奪った敵
苦無を握る両の手に力を込める楓
「家に来た奴より少し小さいか。感覚は鈍ってる。私に倒せるかな」
楓は相手の力量を測りながら、小太郎を背後に隠した
小さいと言っても7尺(2m近く)ある巨体
筋骨隆々、極め付けは棍棒
対するは小太郎を出産してから病弱になり、家の中で殆どを過ごす様になっていた小柄な妊婦
「この子の為にも長期戦は危険。小太郎だけでも村老の元へ。
いや、皆で行こう。そして、道助を助ける。ならばやはり、遁術」
楓は赤鬼を睨みつけながら、そう呟く
遁術とは、忍術の一つ
そのうち敵から隠れたり逃げたりするために使われるもの
五遁三十法とも呼ばれ、天遁十法・地遁十法・人遁十法の計三十からなっている
申の村…
表面的には商人の村
しかし、真の姿は素破達の住む村
素破とは、真実を素破抜く者達のこと
諜報、浸透戦術、暗殺等がその者達の仕事
現代では"忍者"と称されることがある
当時、忍者と呼ばれる事は少なく、素破或いは忍びと呼ばれていた
その者らが使う術が忍術
彼ら申の村民が忍びである事は誰も知らない
当然
正体を晒すような者は忍び失格、万一、そのような者が出れば村全体が危機に瀕する
諜報、暗殺を得意とする忍びの者達を領主が放っておく訳がないからだ
だから誰も知らない
道助は手甲鉤を使い熟す戦闘系の忍び
楓は諜報活動を得意とし、遁術に長けるくノ一
その間に生まれた小太郎も将来を嘱望される存在であった
小太郎を始め、村の子供達も自分が忍びである事を教えられている
しかし、村民以外の者に他言する事はない
其れが親友であろうと恋人であろうと
忍びの教育は家族間のみで行われる
徹底した情報管理
だから領主も申の村の本当の顔を知らなかった
けれど、申の村民は領主や他の村の情勢を知っている
間者(かんじゃと読む。現代で言うスパイのこと)を入れていたから
一番恐れるべきは戌の村でも、雉の村でもない
申の村
しかし、それは相手が人間であればの話
今回は規格外の武力を持った者、鬼が相手
もはや暴力とも呼べるその圧倒的な力
既にして何十もの申の村民の命を奪っていた
ゴォーーン
不快な鐘の音はまだ鳴り響いている
人が死にゆく声も聞こえ続けている
耳を塞ぎたくなる
楓は赤鬼を睨みつけながら、苦無を腰に差し、肩に掛けた袋の中に手を入れる
「小太郎、石遁の準備。私の火遁を合図に村老の元へ走って。何が有っても後ろを振り返らない。いいね」
楓の言葉に小太郎は静かに頷いて、地面の石のうち角の尖ったものを拾い始める
石遁と呼べば格好良いが、実際は石を相手の目に投げて逃げるだけ
しかし、侮れない
尖った石が目に入れば、一時的にでも視力を奪えることもある
楓が袋から取り出したのは小型の火打石と火口、それに焙烙玉と呼ばれる小さな手榴弾のようなもの
火事や爆発等を起こして逃げる
それが火遁という術
忍びとて人間
漫画や映画の様に自由に火を出せたり吹いたり出来る訳はない
実際の歴史では、現代に伝わっている忍者像と大きな開きがある
魔法使いではなく手品師が近い
先述の通り、遁術とは逃げるための技
人外の武を持つ相手と真っ向勝負しても意味がない
遁術を使うと決断した楓の判断は、またしても正しかった
楓が火打石を打ち付け、種火を火口に移し火を点ける
赤鬼は異変に気付き、楓の方へ駆け出した