桃紅の約束 〜肆
人の手の温もり
たった数秒
唯、手が触れているだけ
なのに、心までふんわり優しくなる
不思議なものだ
「私も同じ気持ちだ」
「お、おうよ
…行くぜ、おるぁぁぁぁ!」
ぎこちない笑みを返した鶴姫
梅喧は恥ずかしそうに返事をして、大群の下へ向かって行った
…城の地下
真っ暗闇の中、勝俊らの急ぐ荒い息遣いだけが、響き渡る
「こんなに広かったんだ…」
勝俊が感嘆の声を漏らす
まるで其処はもう一つの大広間
所々に灯された松明が無ければ、此の暗闇の中、まともに歩くことすら出来ない
だがわかる
足音、呼吸音の反射が遠くから聴こえる
其れだけで、此処が相当の広さであると
ガシャン、カシャン―
ギィィィィ…
時々聴こえてくる不気味な音
其れは、最奥から聴こえる
今迄に聴き覚えのない音
耳障りとまでは言えないが
然し、不快な音
鉄と鉄が擦れ合う硬質な音に加え、獣のような唸り声…
心臓の鼓動が高鳴る
嫌な予感しかしない…
「皆、気を抜くな」
勝俊が元門下生達にそう声を掛けた瞬間だった
「…たのは、お前か?」
何故今迄気付かなかったんだろう
漸く暗闇に慣れてきた瞳が、違和感を捉えて離さない
同時に、脳が其の違和感を咀嚼できずにいた
勝俊らの目前、数十歩先の位置
其処にいたのは、先程領主から黒鬼を解放しろと言われた数人の武士
其の武士らの先頭に立つ、殺意を全開にした女武士
…そして
其の後方の大きな檻
中にいるのは
人型の、”何か”…
「なんだ、ありゃ…」
異形のもの
黒鬼…
全身が焼けただれたように黒い皮膚で覆われ、成人男性の三倍はあろうかという巨体
皮膚の至る所に見える刀傷
流れたのは赤い血なのだろうか
所々に赤い液だれに斑点
頭部に二つ、鋭い角が見える
寝ているのか、両の眼は閉じられている
いや、暗くてよく見えない
今迄に見たことのないくらい太く立派な鎖に、其の両手足が繋がれていた
時折、黒鬼が体勢を変えようとして鎖を鳴らす
其れは何とも言えぬ不快な音
寝ている、それとも…
ギィィィィ
唯静かに、野太い唸り声を上げる
其の姿に、勝俊達は目を奪われていた
「おい!
先生を殺したのはお前かって聞いてんだろうがぁぁぁ!!」
ガキィィィン
集団の先頭に立っていた女武士が、いつの間にか抜いた刀で勝俊に斬りかかっていた
無意識の内に勝俊も抜刀し、鍔ぜり合いになる
女武士の踏み込みは静かだった
まるで頬を撫でる風のように音を立てない
それでいて速く、其の斬撃は凄まじい威力を持っていた
黒鬼に目を奪われ過ぎた
いや、女だから油断したか…
戦場で油断するは命取り
勝俊は自らの行いを悔いた
此奴、出来る…
其れにしても、なんつー力だ
女武士の年齢は桃より幾らか上に見えるが、桃と同じくらいの背丈で中肉
後ろにいる武士よりも腕が立つようには見えない
然し、後ろの武士達は女武士の指示を待っている
女武士は明らかに上位
「貴様らも戦えぇぇぇ!
此処が正念場、死地だ!!!!」
女の掛け声で武士達が一斉に抜刀する
其の勢いに反射するように、元門下生達も構えをとった
松明の頼りない明かりは、女武士の表情を簡単に読み取らせてくれなかった
勝俊は思考を巡らせていた
「あんたが、綾…
先生とは具教様のことかい?」
「先生殺しに名乗る名などないわ!
貴様も城の武士だろう
裏切り者が!」
綾…
女武士の名
先程領主が、名を出した女
綾は鋭く刀を反して、何度も斬り付けてくる
踏み込みの一足はあまりにも静かで、剣の威力との違和感が、勝俊の剣を鈍らせていた
何故こんなに静かで速くて強い…
勝俊は玄信と具教が死闘を繰り広げた後に城に来ていた
瀕死の玄信から、金時の脇差を預かったが、具教の生死を確認しなかった
また、厳密に言えば、玄信が金時の脇差を自身の胸に置いていたのを勝俊が持って来ただけで、玄信から直接預かったわけではなかった
やや慌て者の勝俊が、勝手にそう判断しただけだった
此の女が強いのは、先生…具教様の教えなのか
「具教様の生死は知らん
抑も、おらが斬ったわけでもねぇ」
勝俊の弁明を聞く耳は、綾になかった
「卜伝流…」
綾が勝俊から少し距離を取った
屈んだように頭を下げる
綾の刀に、風が集まる
「…三之太刀」
綾がそう言うと、勝俊は風を感じた
其れは突風と呼べる程の速さの、優しい風だった
「つっ!」
目に見えぬ程の速さで勝俊目掛けて鋭い突きを放っていた綾
其れは勝俊の首元を掠めた
血が流れる
反応が少しでも遅ければ、喉元を貫かれ即死になっていただろう
「かっつぁん!!」
元門下生達が勝俊を心配する
然し彼らも武士と戦っている
容易に助けには行けない
「おらは大丈夫だ!
皆は自分の心配をしてくれ
全員やっつけて、黒鬼の解放を阻止するんだ
あんなものが、放たれてしまったら…」
武士達と戦う元門下生達を鼓舞し反した勝俊
風で松明が揺れて、綾の悔しそうな表情が垣間見える
「次は外さない」
「卜伝流か…
相手が悪いっすね
だなら、おらも本気出さんと死ぬっす」
勝俊は右腰に下げた金時の脇差を左手で素早く抜き、二刀となって両手を静かに下ろした
脇差が僅かに金色の光を放ち、勝俊を優しく包み込む
「玄信流二天構え…
実践は初めてだども、やるしかないっすね」
静かに呼吸を繰り返す勝俊
うん、大丈夫、落ち着いてる
師範の二天流は、此の目に焼き付いてる
二刀流、其れは防御に重きを置く剣術
人を殺した数が功績になる戦国時代では、其の存在価値は高くなかった
其れでいて難しい
両手で一本の刀を持つところ、片手に一本ずつ持つのだから
然し勝俊は、殺すより護る、活かす剣に魅力、未来を感じていた
だからこそ、ひっそりと練習を重ねてきた
「金時殿の脇差…?何故お前が持っている?」
綾が再び勝俊を睨みつける
其の瞳孔は真っすぐに勝俊に向けられた
まるで彼女の剣術を物語っているように静かで鋭かった
「師範から受け継いだ
藤原道場の藤原玄信、おらの師範だ
具教様との死闘で、瀕死だども」
ピクリと眉を動かし、再び険しい顔を見せた綾
…先生との死闘で瀕死
玄信…先生がずっと戦いたがっていた男
其の男に、先生が殺されたのか
いや、まさか、あり得ない
先生は、無敵なんだから…




