桃紅の約束 〜壱
張り詰めた空気の中
領主が其の重たい口を開く
「ふん、母の愛?兄妹の絆?
下らん下らん
愛だの絆だのは戯言だ
哀れだな才蔵」
領主がつ凍り付くような冷たい眼差しで才蔵を見る
「貴様は愛されてなどいない
誰からもな
貴様の武芸、心眼にこそ価値があっただけの話
其れらがなければ貴様に価値などない」
領主の視線が才蔵から桃へ向けられる
其れは、舐め回すような嫌らしい視線
「桃…
お前はかぐやの生き写し
お前こそが本物」
領主はゆっくりと桃達に近寄る
身体が大きくなっている?
そして、この臭い…
領主から立ちのぼった腐った血と焼け焦げた肉のような異臭
どこかで…
鬼ヶ島、だ
あの島で嗅いだ、鬼の臭いがする
桃が思考を巡らせている間、領主は再び才蔵を睨みつけていた
「葛葉が死んだのも、かぐやが逃げたのも全て才蔵
貴様の所為かもしれんな…」
不気味に笑みを浮かべる領主
「そして、わしがこんな姿になったのも、な」
其れは、此れまでの甲高い声ではなく、地鳴りのするような声だった
いや、高い声と低い声が入り混じった耳心地の悪いもの
途端、瘴気がにじむように広がった
大地が軋み、城そのものが悲鳴のような唸り声を上げる
久しぶりに見た領主の姿は、もはや人ではなかった
…鬼
身体は赤く腫れあがり、目が血走っている
大きな口から覗く鋭い歯
桃が幼い頃、城で見た領主の姿とはかけ離れた姿
鬼の力を追い求めて、鬼の血、肉を食らい続けた其の哀れな末路か
「だが、いい
これから始まるのは、贖罪などというぬるい話ではない
光など不要
力だ、圧倒的で絶対的な力
才蔵、貴様は此処で、散れ」
其の言葉にいち早く反応したのは桃だった
眩い程の青白い光を纏った桃が、領主に向き直った
「ねぇ、才蔵は貴方の子だよ
どうして、そんな悲しいことを…」
最愛の娘、かぐやを失った翁と媼
才蔵に愛を伝えられずに逝った葛葉
彼等の想いを代弁するように言った桃
領主は顔色一つ変えない
「…やはりお前はかぐやではない
ならば、二人とも此処でわしの礎となるがいい!」
其の一声が場の空気を凍りつかせる
領主は背負っていた金棒をゆっくりと前に出した
「桃、鬼退治--俺達のやり方で、な」
才蔵が領主を睨みつけながら言う
「不殺だよ
私達ならあの人を止められる…」
桃は雷切を強く握り締めた
最後の戦いが今、始まろうとしていた
…玄信は、雨に打たれながら肩で息をしていた
はぁ、はぁ
やはり只者ではないな、具教よ…
袴のあちこちは鋭く切れ、肩や腕に多数の傷を負った玄信
殆どがかすり傷で、出血は軽い
対する具教は殆ど無傷だった
動の玄信に、静の具教
其れは二人が習ってきた剣術そのものだった
「何度でも」
縮地…
瞬く間に距離を詰めて相手の間合いに飛び込む玄信の得意技
並の相手であれば其の動きに反応すら出来ない
「二天流、渦潮」
玄信が具教にぶつかる直前で体勢を捻り、回転しながら二刀で具教に切りかかる
「ふん」
キィィィン
童子切安綱を下から振り上げることで防御した具教
続けて玄信は、金時の脇差を具教の首筋目掛けて振り下ろした
左手の籠手を突き出して再び防御する具教
今度は其のまま玄信の首目掛けて、左手を伸ばしていく
「ぐっ!」
玄信の首根っこを左手で掴んだ具教
痛みと呼吸の苦しさで玄信が悶絶する
其の瞬間、具教の腹部に痛みが走る
玄信が力を振り絞って放った膝蹴り
具教は堪らず、玄信の首から手を離す
「はぁはぁ、馬鹿力だな」
玄信が首をさすりながら具教を睨みつける
「…卜伝流…」
具教が静かに目を閉じ、両手で把持した刀を一度上に上げて再び前で構え直した
童子切安綱から、禍々しいくすんだ紫の光がほどばしる
「…?」
玄信は、具教の動きに集中しながら構えた
具教の足が、一歩沈む
大地を伝って、玄信へと向かった殺気
具教が静かに口を動かす
「奥義、一之太刀」
-雨はいつの間にか止んでいた
心の扉を閉めれば、いつも静かな世界が広がっていた
『負けるな玄信、相手が如何に強かろうと』
父の声が聴こえた気がした
近いか遠いか、其れは分からない
ただ、何だか心地が良い
暖かい…
いや、熱いんだ
腹が、焼けるように
「うっ!!」
玄信はそう言って血を吐き出した
止まっていた思考が、其の遅れを取り戻すように高速で回転し始める
「一体何が…」
玄信は混乱したように呟いた
一之太刀…
奴は確かにそう呟いた
具教は、どこだ?
「此処だ
此の技を受けて死ななかったのは、お前が始めてだ」
玄信は、声のした方へ振り返った
具教が刀を正中に構えている
其の刀に玄信の血が、鮮やかに輝いていた
そうか…
奴の奥義を受けて、腹が
「一之太刀…まさか、塚原卜伝が直伝したという奥義か…」
二刀の玄信はほぼ無意識の状態で、左手の脇差で童子切安綱の一撃に合わせていた
簡単に聴こえるが、其れは並の剣士に到底出来ぬ神業
此れまでの経験、努力が玄信の命を護った
と言えど、具教の凄まじい勢いで左手が弾き飛ばされて自らの腹部を強打し、童子切安綱の刀身先端が、玄信の横腹を捉えていた
おいおい、あんなの何度も受けられねぇだろ
左手の小指、骨が折れていやがる
玄信は息を整えながら現状を冷静に分析した
具教が放った技
あれは脅威だ
戦いが長引けば不利になる
「楽しいぞ、玄信!」
具教が其の巨体を揺らしながら再び玄信に向かってくる
玄信は左手の感触を確かめながら、二刀で具教の一撃を受ける
二人の刃が交わった直後、再び其処には静寂が訪れる
切っ先がぶつかり合ったまま、どちらも動かない
玄信の眼だけが、獣のように具教の動きを探っていた
「此れだけの剣豪は他にいないぃ
才蔵に語った”武蔵”の名
玄信、貴様を倒して、我が名乗ろう
そして、我は至高の頂に達するのだ」
玄信の脳裏には、父一刀斎が失望する姿
時に玄信を鼓舞してきた亡き父
今は其の存在がまるで亡霊のように纏わりついて離れない
「生憎だがよぉ具教
俺もあんたを倒さなきゃならんのだわ
じゃなきゃ、一生夢で怒鳴られちまう
…武蔵の名も、あんたにやれんよ」
そう言って距離を取った玄信
具教は口角を上げて、ふふと笑った
「ならば超えてみろ、玄信
此の一之太刀、二度の失敗はないぞ」
「同じ手は二度も通じんのよ
さぁ、こいよ」
苦痛に顔を歪めながら強がった玄信
思ったよりも腹の刀傷が深い
袴がみるみるうちに赤く染まっていく
再び目を閉じた具教
玄信もまた、父との思い出を振り返っていた
『護る剣
何故、奥義が護りの技なのですか』
『玄信、剣は殺すではなく活かすもの
護る剣が出来てこそ武士として一人前
殺すだけなら、半人前でも充分だ』
…貴方は誰よりも強かった
それなのに何故、母を
道場を、そして自分自身を護れなかった
だからこそ俺は、貴方を超えなきゃならない




